美濃源氏フォーラム30周年記念事業

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」記念事業
『土岐源氏明智光秀歴史講座』


 講師  谷口研語氏 元法政大学兼任講師
 会場1  瑞浪市総合文化センター3F講堂
 募集  150名(瑞浪)
 会場2  (株)ケミック 岐阜市長良橋バス停前
 募集  80名(岐阜)
 会費

 8000円【年会費3千円・受講料5千円】
(土岐氏研究講座&武家文化歴史回廊講座12名分の講義録を含む)
 特典  正会員は瑞浪市・岐阜市共に聴講出来ます。
 付加


 毎回、
 瑞浪市は『美濃源氏土岐氏研究講座』
 岐阜市は『武家文化歴史回廊講座』各1名講師の講演あり。
 申込  美濃源氏フォーラム事務局本部 井澤康樹
 電話  090-5108-8374(ショートメール可)
 E-mail  minogenji-tokiichizoku@docomo.ne.jp

平成31年4月13日(土) 瑞浪市/4月14日(日)岐阜市
■第1回 「明智光秀は美濃土岐氏の一族」
鎌倉時代以来、美濃には源氏の一流の土岐氏という武士団が発展し、室町時代から戦国時代にかけて、土岐氏の歴代当主が室町幕府の美濃守護という役目を努めます。その間、土岐氏では多くの分家を出しました。その分家の一つに土岐明智氏があり、光秀は土岐明智氏の出身だとされています。

平成31年6月15日(土) 瑞浪市/6月16日(日)岐阜市
■第2回 「織田信長・足利義昭の上洛と光秀」
斎藤道三・義龍父子の争いに巻き込まれて美濃から越前へと逃れた光秀は、越前で雌伏していた時、足利義昭の重臣だった細川藤孝に出会い、藤孝に勧めて織田信長との上洛交渉に当たったとされています。ただし、この話は江戸時代の書物が伝えるもので、実際のところはよくわかりません。通説の真偽を検討してみましょう。

平成31年8月3日(土)瑞浪市/8月4日(日)岐阜市
■第3回 「信長か義昭か―光秀の選択」
足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、数か月後には光秀を重要な役目に抜擢します。一方、光秀は新将軍となった足利義昭の直臣でもありました。さらに、義昭・信長の上洛の当初、京都や奈良の人々は光秀を見て「細川藤孝殿の従者のようだ」と思いました。光秀は様々な「顔」を持って歴史の表舞台に登場したのです。

平成31年10月5日(土)瑞浪市/10月6日(日)岐阜市
■第4回 「光秀、近江滋賀郡を拝領する」
朝倉・浅井両氏との戦いの中で、信長は光秀の功績を高く評価し、比叡山延暦寺を焼き討ちした直後、比叡山の東麓にあたる近江志賀郡を光秀に与えます。新参の光秀には破格の待遇でした。郡持ち大名となった光秀は、ただちに坂本城の築城を開始する一方、将軍義昭との主従関係を解消しました。

平成31年12月7日(土)瑞浪市/12月8日(日)岐阜市
■第5回 「将軍義昭の追放」
織田信長と足利義昭は上洛のわずか1年後には仲違いし、2人の関係は徐々に抜き差しならない険悪なものとなっていきました。両者の武力衝突が開始されると、光秀は信長の有力部将の1人として義昭方の勢力と戦います。天正1年(1573)7月、信長は将軍義昭を追放し、ここに室町幕府は実質的に滅亡しました。

平成32年2月15日(土)瑞浪市/2月16日(日)岐阜市
■第6回 「将軍追放後の織田政権」
将軍義昭を追放した信長は、畿内を直接支配することになり、みずからの旗を掲げて天下統一の事業を開始しました。それとともに光秀の立場も変化します。光秀は京都代官を解任される一方、細川藤孝・荒木村重を率いて山陰方面へ進撃する、という新たな任務を与えられました。しかし、信長の前には大坂本願寺が立ちはだかっていました。

平成32年4月(瑞浪市)/4月(岐阜市)
■第7回 「大坂本願寺攻めと丹波平定戦」
織田信長と大坂本願寺との戦いは足かけ11年に及び、光秀の丹波平定の戦いも足かけ5年に及びます。この間には荒木村重の謀叛という、予期せぬ事件も起き、光秀にとって苦しい戦いの連続でした。この回はそうした光秀の戦いの日々、つまり「戦歴」をまとめて見ることにします。

平成32年6月(瑞浪市)/6月(岐阜市)
■第8回 光秀の与力大名たち
足利義昭が将軍として京都にいた時期、畿内の大名たちは形式上は将軍義昭の支配下にありました。義昭の追放後、信長はそうした旧幕府系の畿内大名たちを「畿内衆」と呼んで一括し、光秀をそのリーダーとします。細川藤孝・荒木村重・筒井順慶の3人です。彼ら畿内衆と光秀との結束はどのような形をとっていたのでしょう。

平成32年8月(瑞浪市)/8月(岐阜市)
■第9回 「織田政権の確立と光秀の立場」
大坂本願寺を屈伏させた信長は、細川藤孝・忠興父子に丹後を、筒井順慶に大和を与え、丹波は正式に光秀の分国とされました。以後、光秀は大規模な合戦に参加することなく、京都馬揃え、安土城での徳川家康饗応などを担当します。この間には細川父子の招きで丹後の天橋立に遊ぶという、穏やかな憩いの時を過ごしたこともありました。

平成32年10月(瑞浪市)/10月(岐阜市)
■第10回 「本能寺の変」
天正10年(1582)6月2日未明、光秀の軍勢は信長の宿所だった京都本能寺を奇襲して信長を自刃させ、ついで信長の嫡男信忠が籠った二条御所を襲撃して信忠をも殺します。史上名高い「本能寺の変」です。光秀のクーデターはわずか数時間で成功しました。なぜ、光秀は恩人であるはずの信長を討ったのでしょうか。

平成32年12月(瑞浪市)/12月(岐阜市)
■第11回 「山崎合戦の敗戦・坂本落城」
本能寺の変からわずか12日後、光秀は山崎の合戦に敗死し、坂本城も落城、明智一族は滅亡します。あまりにも短命の「天下人」でした。果たして光秀に「天下人」へのビジョンはあったのでしょうか。山崎合戦と坂本城落城の状況を中心に、光秀自身と周辺の人々の「滅亡に至る12日間」を追ってみましょう。

平成33年2月(瑞浪市)/2月(岐阜市)
■第12回(最終回)「光秀の人物像をどう描くか」
ここまで11回にわたって光秀の生涯を見てきました。その結果、受講者の皆さんは光秀をどのような人物と評価されたでしょうか。NHkの大河ドラマも幕を下ろしました。大河ドラマに描かれた光秀の人物像と、皆さんが描く光秀の人物像とは、違ったものになったでしょうか、それとも同じようなものになったでしょうか。