美濃源氏土岐氏の歴史と文化

第1節
美濃源氏土岐氏の台頭
     1.復活のとき来たれり、今時代は美濃源氏
     2.始祖四代と美濃の関わり
     3.土岐氏の発祥と中祖三代
     4.北条執権と承久の乱
第2節
南北朝時代の美濃源氏土岐一族
     1.土岐頼貞と美濃の統一
     2.バサラ大名土岐頼遠
     3.三国守護土岐頼康
     4.土岐康行の乱

第3節
室町時代の美濃源氏土岐一族
     1.幕府八頭の一家、土岐頼忠・頼益親子
     2.土岐持益より始まった家督内争
     3.応仁の乱と土岐成頼
     4.土岐氏親子の確執と斎藤道三の国取り物語

第4節
土岐氏累代の禅宗文化
     1.禅宗と土岐氏
     2.名僧と美濃
     3.東濃地区の土岐氏開基の寺院
     4.中濃地区の土岐氏開基の寺院
     5.岐阜地区の土岐氏開基の寺院
     6.西濃地区の土岐氏開基の寺院

第5節
芸能と土岐氏
     1.和歌と土岐氏
     2.連歌と土岐氏
     3.能と土岐氏
     4.鷹の絵と土岐氏

第6節
美濃源氏土岐一族の歴史を活かしたまちづくり  
     1.土岐鷹の夢
     2.美濃源氏婆娑羅(バサラ)の里で無礼講の宴
     2.美濃中世歴史回廊
                     ※平成22年4月 完


第1節 
美濃源氏土岐氏の台頭

1.復活のとき来たれり、今時代は美濃源氏

 美濃源氏土岐氏一族は清和源氏である。
清和天皇の皇孫経基王が皇籍をはなれ、臣籍降下したことに清和源氏は始まる。

 この系統には鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を創った足利尊氏、
又甲斐の武田信玄など歴史上著名な人物がたくさん現れているので、
源氏といえばすぐ清和源氏と言われるほどである。

 源経基より代々美濃守として関わりを持ち、四つの系統の源氏が入国し美濃源氏となるが、
特に経基王から四代後の国房は、厚見郡の鶉郷に土着して私領とし、
茜部荘の荘司ともなって更に所領と勢力を拡大し、荘園の入組んでいた厚見郡から美濃の東部  
土岐郡に着目し進出していき、その後、美濃源氏の系統の中で一番の勢力者となるため、
美濃源氏といえば土岐一族の名が語られるようになった。

 国房以後、光国・光信・光基は土岐郡との関係は持つものの、検非違使として京の治安維持や、
又「西面や北面の武士」として宮中警護の信任を得ている。
 鎌倉幕府の源頼朝には、土岐光衡が御家人として仕え、土岐郡の地頭として神戸館を構え、
東濃あたりから美濃一円に迄庶子が配置されてゆく。

 土岐氏の分流は120 家以上になるが、中世に分家した家系を遡ると殆どが光衡へ繋がるので、
光衡が土岐氏の祖と言える。

 その後、光行・光定も「西面や北面の武士」として活躍するので、後鳥羽上皇が引き起こした
「承久の変」でも土岐氏は宮方へ組するが、幕府重臣の千葉氏と婚姻関係のつながりも深く、
敗れても大事には到らなかった。

 鎌倉時代後期、後醍醐天皇は北条執権鎌倉幕府打倒の令旨を美濃源氏土岐一族に発し、
総領であった土岐頼貞は十男の頼兼と庶流の多治見国長に命じ、「無礼講」と称して
倒幕の下相談を行うのだが、一族の舟木頼春の返り忠により露顕し失敗に終わる(正中の変:1324)。

 楠正成が決起した「元弘の変」を経て、後醍醐天皇の「建武の新政」が始まるが、
足利尊氏の離反により再び武家政権の中、尊氏の盟友であった土岐頼貞は
室町幕府初代美濃守護となり、凡そ220年に亘る「土岐氏の時代」の基礎を開いた。

 吉野にも朝廷ができた南北朝時代が、土岐氏の権威が最高潮になった時代で、
土岐頼遠は太平記にも“頼遠ひとり高名なり”とされる勇猛ぶりで、
「婆娑羅(バサラ)大名」としても名を馳せている。

  美濃守護だけでなく、尾張・伊勢志摩の三国を支配した土岐頼康は
幕府の重臣にまで登用されるのだが、頼康死去以後は幕府の有力大名弱体化政策により
一族の分断が行われ、「土岐康行の乱」以後は桔梗を旗頭とした血族の団結に陰が射した。

 南北朝の合一がされる頃、頼忠から頼益の継承され、一族以外にも外部から重臣が登用されるに及び、 
守護代以下の勢力争いが、その後の土岐一族の命運を握る事となる。

 家督争いの末に土岐成頼は、守護代斎藤妙椿の美濃での執政の元で幕府内での地位を占め、
その力を「応仁の乱」では遺憾なく発揮し、京から避難した多くの禅僧や文化人を呼び入れた。

 守護代斎藤氏と小守護代石丸氏の勢力争いと共に、土岐政房が権力を手に入れるが、
このときの兄弟争いは以後、息子達の頼武と頼芸、そして頼純の守護継承の戦いへと引き継がれ、
斎藤道三による「国取り物語」として後世語られている。

 これら「土岐氏の時代」の人物像と、彼らが美濃に持ち込み、そして現在まで連綿として築き上げた、
武家文化について、それぞれ今一度見直してみたいと思う。



2.始祖四代と美濃の関わり

@源国房   みなもと の くにふさ
(?〜1119)正四位下・信濃守・伊豆守・土佐守・伊予守

 清和天皇の孫、経基王より4代後の国房は、大江山鬼退治で著名な源頼光の孫で
累代美濃守としてこの地に勢いを得る中、鶉郷を私領地としながらも東大寺の茜部の                             
荘司となり、更なる勢力拡大を進めながら、貴族社会末期における
「在地武士の領主の移行」となる代表的な人物である。

A源光国   みなもと の みつくに
(1063〜1147)従五位下・検非違使・出羽守

 父国房の美濃での活躍期には検非違使として在京しながらも、
茜部の荘園(現在の岐阜県庁南側地域)の私領拡大を父と共に大いに進め、
これ以後の子孫繁栄の基を築いている。

B源光信   みなもと の みつのぶ
(1093〜1156)従五位下・出羽判官・検非違使・出羽守・土岐判官

 父光国と同様に検非違使として在京、朝廷警護の活躍は「鳥羽院四天王の第一なり」
と高名で、僧兵の強訴を取り締まり、又罪人の追補などにその名を留め、
歴史上有名な「保元の乱」にも百騎を率いて戦功などが知られている。
系図上、土岐氏を誰が称したか諸説あり、国房や光信、又光基や光衡がその該当者
ではあるが、光信あたりから土岐を号したとの説もあり、その本拠地の中央部、
大富(土岐市)に館が設けられていた。

C源光基   みなもと の みつもと
(?〜1163)従五位下・蔵人・検非違使・伊豆守・伊賀守

 父光信を助け、同じく左衛門尉・検非違使として在京し活躍。
特に、武士が台頭するもとになった「保元の乱」や、その三年後の「平治の乱」にも
源義朝の旗下として活躍し高名となり、平治物語絵巻には騎馬武者姿で登場し、
その戦功により伊勢国の一部が与えられ伊賀守となった。
然し、「平治の乱」で平清盛は源義朝を追討し、
それ以後20余年は美濃源氏雌伏の期間を迎えることになる。

3.土岐氏の発祥と中祖三代

@土岐光衡   とき みつひら
(1159〜1206)従五位下・郡戸判官代・美濃守・蔵人左衛門尉

 父光基の弟光長の三男で、光基の養子となり家督を継ぎ、鎌倉幕府の御家人として活躍。
将軍源頼朝が富士の裾野で巻き狩りを行った時も、「吾妻鏡」に土岐三郎として出名している。                  
光衡は、地頭として土岐郡に土着し始めて土岐を姓とし、
神戸館(瑞浪市土岐町)を拠点にして一族は土岐郡に分派。
その後、南北朝期から室町時代にかけて岐阜県内全域に一族が配され、
凡そ120家の苗字の起立たどると、ほとんどが光衡へ繋がる。


A土岐光行   とき みつゆき
(?〜1249)従五位下・出羽守・検非違使・土岐判官

 父光衡に劣らぬ器量人といわれ、若くして後鳥羽院西面の武士となり、土岐判官と号した。
妻は、千葉氏である東胤頼の女で鎌倉幕府の有力御家人筆頭との閨閥が、
その後の土岐氏の発展に大きく寄与している。
光行は「承久の変(1221)」に後鳥羽上皇の京方として一軍を率いて参戦し大敗するが、
断罪を免がれたのは千葉氏の有力さを表している。
その後、浅野判官と号して現在の土岐市浅野に逼塞し、永松寺(土岐市浅野)付近に
整備された宝筐印塔が光行の墓と伝えられている。


B土岐光定   とき みつさだ
(?〜1281)従五位下・隠岐守・伊予守

 光行の五男で、鎌倉幕府執権北条氏から妻を娶るほどになった。
当然鎌倉とのつながりが強かったものと思われるが、記録には余り表れていない。
その後戦功あり伊予国浮穴郡地方(松山市・重信町・久万町)の地頭となり、
悪党隠岐十郎を搦めとった功績で隠岐守に任じられた。
法名は定光、号は興源寺。

4.北条執権と承久の乱
   
源頼朝が起こした鎌倉幕府も、そのうち頼家・実朝と源家は三代にして絶え、
北条義時による執権時代を迎える。

各国に守護と地頭を配した鎌倉幕府の権威が地方に十二分に行き渡ると、
後鳥羽上皇との間が不穏となった。

それは全国五百ヶ所以上の荘園所有者が上皇であったことから、
権力増大を計る北条執権の打倒を企てた。

承久三年(1221)5月、鳥羽院離宮城南寺の流鏑馬揃いに名を借りた幕府追討の挙兵が始まり、            
土岐光行は後鳥羽院西面の武士であったことから上皇方に与し奮戦している。

特に、東西両軍の決戦地となった木曽川九瀬渡合戦(各務原市)では池瀬渡を守衛したが、
左横からの東山道軍五万と正面からの東海道軍十万に対し、自陣二万弱は2日で突破され、
丁度1ヶ月後に幕府軍が入京して収束。

戦後の論功行賞で郡上に有力御家人千葉一族の東氏が入国したが、
負けた上皇方の土岐光行が極刑とならずに済んだのは、千葉東氏の母の影響下であった。

                                                   ページトップへ

第2節  
南北朝時代の美濃源氏土岐一族

1.土岐頼貞と美濃の統一

土岐頼貞   とき よりさだ
(1271〜1339)は室町幕府初代美濃守護で、光定の七男である。
北条宗頼の女を妻とし、母が北条氏であり幼少期より鎌倉にて多くの名僧と知己を得、
特に永保寺(多治見市)を開いた夢窓疎石との縁は深く、頼貞の生涯に亘っても、
又美濃国の禅宗隆盛の礎ともなった。

後醍醐天皇による鎌倉幕府北条執権打倒の綸旨に参加を決意するが
失敗に終わり(1324年、正中の変)、
その後足利尊氏と共に鎌倉を滅ぼし「建武の新政」となる。

そして南北朝期を迎え土岐家は常に足利方として奮闘し、
「土岐氏絶えなば、足利絶ゆる・御一家の次」と重んじられた。

頼貞は美濃国一円に支流を配置し、その軍団は土岐氏の家紋である桔梗にちなみ、
「桔梗一揆」として恐れられた。

「歌人・弓馬上手」とも記録に残っているので、文武両道に長けた武将だった。
仏法では、定林寺(土岐市)や竜門寺(加茂郡七宗町神淵)をも開基し、
現在頼貞の供養塔は岐阜県指定文化財として光善寺跡(瑞浪市)の累代墓所の中にある。              

土岐氏の居城は鶴ヶ城で、中世の遺構を大変良く残した山城で、
また居館の神戸館は一日市場八幡神社と伝えられている。

 【1324年の「正中の変」と「無礼講」について】
   
後醍醐天皇の密使、日野資朝や日野俊基より鎌倉幕府北条執権追討の綸旨が土岐頼貞の元に届く。       

土岐家は清和源氏であり、累代「西面や北面の武士」として朝廷警護の家柄であった。
然し、父光定も、又頼貞も執権北条氏より妻を娶っていたので、正に運命の岐路となった。

頼貞は大いに悩み、永保寺夢窓疎石に相談、ついては直接自ら動くことを避け、
十男頼兼と庶家の多治見国長を派遣した。

勿論、これほどの企みが外へ漏れてはかなわないので、無礼講と称して酒宴を行い
倒幕の下相談がおこなわれた。

9月23日は北野神社の祭礼日で、この日の雑踏にまぎれて六波羅探題を襲う手筈であった。

しかし、一族の舟木頼春の妻は攻める六波羅探題奉行斎藤利行の娘で、
父と夫のことを想う彼女の急報から、
三条堀川の土岐館と六条錦小路の高倉館が急襲され、土岐十郎頼兼と多治見国長は戦死を遂げた。

この時、頼貞に嫌疑がかかり鎌倉唐笠辻子の宿舎が調べられた。
土岐頼兼の遺骨は家臣の手により土岐の地に運ばれ、頼兼に殉じたことから、自仭洞に葬られた。

こうして、後醍醐天皇親政への第一次企ては失敗に終わるが、七年後に楠正成が赤坂城に決起、
この第二次挙兵も成功はせず、その三年後に足利尊氏や土岐頼貞の功により「建武の中興」が実現した。

明治三十八年天皇行幸のおりには、土岐頼兼と多治見国長に正四位が下された。



2.バサラ大名 土岐頼遠

土岐頼遠   とき よりとお
(?〜1342)は室町幕府第二代美濃守護であり、父頼貞の七男で、
親子共ども数々の合戦に無類の活躍をした。

特に、濃州青野ヶ原合戦では、奥州北畠顕家軍五十万騎(太平記は大げさで、十分の一程度か)
が上洛を目指すなか、誰もが尻込みするも頼遠勢わずか一千騎で猛攻し頼遠一人高名なりと称された。     

頼貞が亡くなり美濃守護を継承すると、館を土岐郡の大富から岐阜の長森へ移し、
室町幕府へ出仕することになる。

多くの武将が都へ集まり足利政権に参加するが、その力を鼓舞した振舞は「婆娑羅大名」と呼ばれ、
頼遠もその代名詞の一人として有名である。

笠懸の帰り、光巌上皇の輿と行き違う際、“院の御通り”との先触れに対して、
“犬の御通り”ならと弓矢を射掛けてしまう事件が東洞院でおきた。

幕府内で大問題となり夢窓疎石のとりなしも功を奏せず、断罪となった。

加茂郡富加町の東香寺は頼遠開基の禅宗寺院で、後醍醐天皇・足利尊氏・夢窓国師と並んで
土岐頼遠を供養する五輪塔が寺院の裏山に安置されている

 【婆娑羅大名について】

婆娑羅(バサラ)とは、古代サンスクリット語のバージャラが語源で
ダイヤモンドや金剛石を表す言葉である。

その後、仏法世界で法を表す意味となり、絶対的な力をさすようになった。

室町時代初期は幕府が鎌倉から京都へ移ったことから、己の実力だけで守護となった大名達が、         
朝廷・公家・僧侶といった既存の権威と文化に抗して、鎌倉武士の生き方を通そうとしたことから、
婆娑羅大名と言われ武家諸法度にて取り締まられることになる。
   美濃源氏土岐一族略系図 一部抜粋
    
                         ※数字は室町幕府累代美濃守護を表す
                         ※(  )は地名から発祥した名字を表す

3.三国守護 土岐頼康

土岐頼康   とき よりやす
(1318〜1387)の父頼清は頼貞の六男で、足利尊氏が九州へ落ち、
その後京へ攻め上がる時に赴任地であった伊予荏原郷より湊川へ駆けつけ戦勝、
そして上洛中に陣中にて病死、瑞巌寺(揖斐郡揖斐川町)に菩提が弔われた。

若くして父頼清の後を継いだ頼康は、叔父頼遠と共に東奔西走し幾多の戦いに参陣し、
頼遠断罪後は第三代美濃守護を継承した。

その後、46年間美濃守護として、37年間尾張守護として、2回の任命時期を合わせて                            
16年間伊勢守護として君臨、正に東海地方全域の三国守護となった。

幕府の中では、「侍所所司」として全国の武士を統率する五職三管領の要職となったが、
これも足利義詮が後光巌上皇を奉じて京を脱出し、
頼康の拠点であった揖斐郡小島への「美濃行幸」によるところが大きいようである。

土岐頼康は、1354年からは室町幕府の評定衆となり着座次第南の第二座、
1358年には南の最上座で幕閣中一,二の重職にまで上り詰めた。

そして、土岐頼康も文武に秀でており、勅撰和歌集に数多く選ばれ人柄が知れるが、
瑞巌寺では親子二人の遺徳を偲び、土岐氏毎歳忌法要が行われているし、
小島頓宮法楽連歌会も現代に復活した。

4.土岐康行の乱

土岐康行   とき やすゆき
(?〜1406)   
頼康には実子がなく、弟の土岐頼雄の長男康行と二男満貞が養子となって、
その後康行が土岐一族の総領となり、室町幕府第四代美濃守護を継承した。

頼康の時代が土岐一族の全盛期であり、頼康が没すると美濃・尾張・伊勢志摩の三国守護は                   
康行に引き継がれるが安定期を迎えた幕府政策の中、強大な守護家追い落としが行われ、
東海地方を牛耳る強大な土岐氏にも向けられた。

それは、弟満貞が兄康行の三国守護に不満を持った事が原因で、三代将軍義満に取り入り、
「土岐康行、幕府への逆意あり」との讒言から「土岐康行の乱」となった。

戦後、康行は伊勢守護だけを再び任ずることが出来たが、
この時の戦いは土岐一族庶流をも二分するほどで、
美濃守護となった頼忠や、伊勢守護に返り咲いた康行にもつかずに
足利将軍直属の奉公衆に組み入れられる者がたくさん表れている。

康行の墓は伝承ではあるが美濃加茂市伊深の龍安寺にあり、
また康行(義行ともいう)刻文の梵鐘(岐阜県指定文化財)に往時を偲ぶことができる。
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第3節 
室町時代の美濃源氏土岐一族   
1.幕府八頭の一家、土岐頼忠・頼益親子
@土岐頼忠(?〜1397)室町幕府第五代美濃守護

   とき よりただ
頼清の六男で頼貞の孫の一人であり、そして康行からは叔父にあたるが、妻は京極佐々木家の女である。

「土岐康行の乱」では幕府の追討軍の将として戦ったが、甥とはいえ康行は本家筋であり、
また相対する敵は以前に協力しあった一族であり、激しい攻撃もないまま揖斐の小島で戦いは対峙じた。

頼忠の弟である雲渓支山の将軍義満へのとりなしもあり、康行は頼忠に降伏、
美濃守護は頼忠(西池田氏)に引き継がれた。

しかし、土岐一族を二分した戦いであったため、残った一族のみで守護権力を維持することができず、
土岐一族以外の武士団を取り立てねばならず、その中から関が原に基盤を持っていた富島氏が
守護代として台頭、守護の京都在任が増すほど徐々に美濃における権力を持つようになった。

頼忠は「弓馬上手 鷹一流相伝」と言われ文武両道に長け、中でも「隠し落款蒼鷹之図」を遺し、
また名僧覚源禅師に帰依し禅宗を庇護、禅蔵寺(揖斐郡池田町)を開基し、
同寺境内墓所に頼忠・頼益親子の他、母や妻と共に安らかに眠っている。
A土岐頼益(1351〜1414)室町幕府第六代美濃守護

   とき よります
頼忠の二男で、はじめ尾張の萱津にいたが家督することになり池田二郎と号し、
頼益禅宗に帰依し鵜沼に大安寺(各務原市)を創建した。

頼忠・頼益親子の頃の守護代は富島氏で、南北朝合一以後は土岐守護家に対して
美濃目代家の斎藤氏も従臣することとなるが、ここから斎藤氏台頭に繋がっていった。

又「土岐康行の乱」から続いていた美濃国内の反池田勢力を鎮圧させたことで安泰を迎えた。
幕府での信頼も厚く、応永8年には筆頭の将として評定所衆に昇格、同10年の着座次第では
北の首座:座将軍義持、に対して南の座:首座侍所別当土岐頼益とあり、
幕府内で破格な待遇となった。

菩提寺の大安寺にも斎藤利永の供養塔と一緒に並び建っている。
2.土岐頼益から始まった家督内争
土岐持益(1406〜1474)室町幕府第七代美濃守護

   とき  もちます
頼益の嫡男で、やはり池田二郎を号し後に将軍義持より片諱(名前の一字を賜る)を受け、
左京太夫に任じられ、9歳で土岐氏の総領となった。
このため、守護代の権力が美濃一円に強化されてゆく。

特に、それまでの富島氏に対して斎藤氏が台頭し、両者並び立つ時代を過ぎた後、
富島一族の長江氏が養子となり守護代を継承するにあたって益々その争いは激化、
斎藤宗円は遂に富島・長江の両守護代家を放逐したため、それ以後は斎藤家の全盛期となっていった。

そして、晩年は土岐総領継承争いの中で持益は嫡男持兼が早世した為その子亀寿丸を推したが、
執権斎藤利永の推した土岐一族とも言われる一色家の成頼との抗争に敗れて隠棲の身となり、
18年後69歳で亡くなった。

法名は、承国寺殿常祐大助大居士で、開基した承国寺跡(各務原市鵜沼古市場)が発掘されたが、
付近の観音堂には持益関連といわれる宝筺印塔と五輪塔が鎮座している。

尚、富島氏と長江氏を放逐した斎藤宗円・利永・妙椿などの斎藤氏と、
半世紀の後に登場する長井氏を継いだ斎藤道三は別系統となり、
紛らわしいので前斎藤氏と後斎藤氏と区別して呼ばれている。

そして、これから凡そ百年に亘って行われる美濃守護土岐氏の内争は
守護代と小守護代の闘いが誘発しており、親子・兄弟・叔父甥・殿様と家臣といった
骨肉相争う時代となってゆく。
3.応仁の乱と土岐成頼
土岐成頼(1442〜1497)室町幕府第八代美濃守護

   とき  しげより
守護代斎藤利永に推されて守護になったとき土岐成頼は15歳だった。
頼康の土岐揖斐系と頼忠の土岐西池田系は反目することとなり、
また実質支配は利永亡き後の守護代斎藤妙椿となった。

斎藤氏の台頭に対し、前守護代富島・長江両氏は「応仁の乱」がおきると
成頼の属する西軍山名宗全派とならず、東軍の細川勝元派となり、土岐と斎藤の両氏は戦い、
守護派の圧倒的な強さの前に敗れ美濃からのがれ、
20年におよぶ「美濃の錯乱」は妙椿によって収拾された。

妙椿のの勢力は、この「応仁の乱」にあった美濃だけでなく、尾張・伊勢・近江・越前・飛騨までにも
影響をもち守護を凌ぐほどに強大化し、幕府内では「美濃の斎藤妙椿」といわれるほどとなった。

文明9年より、成頼と妙椿は足利義政将軍の弟である義視と子の義材を11年に渡り美濃に奉じたが、
3年後に妙椿が亡くなると、将軍義政は妙椿の弟利藤に命じ美濃斎藤氏内争を誘発させ、
妙椿の養子である利国との確執が始まった。

利国はこれに勝利し、以後磐石の体制を敷くが、その勢いは延徳4年に九代守護後継をめぐり
成頼と合戦(船田の戦)するほどで、
いよいよ守護代斎藤氏の実力が美濃守護を脅かす所まで差し迫ってきた。

成頼も禅宗に帰依し、妙椿により金宝山瑞龍寺(岐阜市寺町)や瑞林寺(美濃加茂市蜂屋)・
正法寺(岐阜市五光山)を開基したが、瑞龍寺には成頼と妙椿の墓が今でも仲良く並んで安置されている。
4.土岐氏親子の確執と斎藤道三の国取り物語
@土岐政房(1457〜1519)室町幕府第九代美濃守護

   とき  まさふさ
成頼の嫡男で、はじめ美伊法師・頼継と名のったが、足利将軍義政により片諱を受け政房と改名した。
政房は父成頼の推す四男元頼と小守護代石丸利光らの戦いを、
守護代斎藤利国と共に打ち勝ち九代守護になった。

その後、再挙をした元頼軍だったが、再び「城田寺の戦」で敗北し、父成頼は隠棲させられた。
船田・城田寺合戦と苦境を乗り越えた後、守護代利国とその子利親は亡くなり、
その後は幼い孫の斎藤利良が継ぐので、小守護代の長井利隆が補佐をした。

政房は舞の名手で、「応仁の乱」の頃京を脱出して川手城に逗留した、先の関白太政大臣
一条兼良の旅日記「藤川の記」には、能の老松や幼い美伊法師の舞が見事であったと記されている。
このように、将軍家に能を献じるほど舞上手であり、それは戦国武将にとって必須の教養であり、
社交の道具でもあった。

土岐氏の分裂原因は、祖父持益も父成頼も家督争いを起こし、そして政房までもが同様に
嫡男頼武と二男頼芸の兄弟争いに関わり、全ての関係者が隠棲させられている。

墓は岐阜市茜部神社のすぐ北側にある。
政房は永保寺(多治見市)にも境内狼藉等の禁制を発行しており、
後継を争った嫡男頼武の禁制と揃って永保寺に所蔵されている。
A土岐頼武(?〜?)室町幕府第十代美濃守護

   とき  よりたけ
政房の嫡男で、盛頼ともいう。
政房は総領後継に二男頼芸を推し小守護代長井利隆と共に成頼擁立の守護代斎藤利良と対抗、
三度美濃国内を二分する戦いになった。

従来盛頼は頼純といわれていたが、永保寺への禁制をはじめとする文書や、
朝倉氏研究により十代守護は頼武といわれている。

成頼の守護代であった斎藤利国(妙純)は娘を朝倉貞景に嫁がせ生れた嫡男が考景で、
その考景の妹が土岐頼武の室となり、出来た嫡男が土岐二郎(頼純)となる。

小守護代の長井家に取り入った斎藤道三の父は、西村勘九郎から長井新左衛門尉と成り上がり、
美濃紙の集散地である大矢田あたりを所領化し、美濃紙の流通機構で基礎をなしたと考えられる。

新左衛門尉亡き後、長井新九郎規秀が現れるが、これが40歳になった後の斎藤道三である。
守護頼武に抗し、二男の頼芸を擁立し抗争となり、頼武は妻の里である越前朝倉氏の元へ
幾度となく逃れるが、この頃すでに頼芸の守護文書が発給されている。

頼武は、最後の力を振り絞り天文4年岐阜に攻め込み、戦火は一円に広がるが、
このあたりから頼武の消息が途絶えた。
B土岐頼純(?〜1547)室町幕府第十二代美濃守護

   とき  よりずみ
父頼武と母朝倉考景の妹の間に生まれたが、母は守護代の斎藤利良と従兄弟にあたり、
利良が頼武を擁立した一番の原因と考えられる。

朝倉に寄寓していた頼武は美濃を奪還するが、その後土岐頼芸・斎藤道三勢力に対抗するために、
頼純が拠点として大桑城を築かせたのではないかと現在では考えられている。

それは、越前堀や四国堀の形態がまさに朝倉氏の拠点である一乗谷と似通っており、
越前朝倉の介入が表れている。

道三は稲葉山城を築城し、激しい攻防は繰り返されるに及んで頼純も朝倉へ一時逃れるが、
幕府・織田氏・朝倉氏の仲介もあり、頼純と頼芸・道三は講和を結んだが、
道三の娘を頼純に嫁がせることがその条件であった。

然し、翌年頼純は亡くなり南泉寺(山県市大桑)に葬られ、墓所は奥まった山際にあり、
五輪塔が祠の中に安置されている。
C土岐頼芸(1501〜1582)室町幕府第十一代・十三代美濃守護

   とき  よりのり
父政房の二男で頼武の弟。
鷹の絵を画くことに優れ、「土岐鷹」として有名である。

父政房の意により小守護代長井利隆に推されての家督相続には敗れたが、
頼武の朝倉寄寓時代には一時期守護文書を発給している。

頼武が美濃へ帰り、その子頼純が守護を継承するが、再び母の里の越前朝倉へ追われた。
頼純も美濃へ帰るが、講和条件であった斎藤道三の娘との婚姻の後、翌年頼純が亡くなると、
頼芸が待ちに待った美濃守護となった。

道三にしても同様であり、傀儡政権の守護代として権勢を誇るようになる。
これ以後、道三の横領に抵抗する土岐一族が現れてくるが、ことごとく打ち負かされ、
遂に主君頼芸までもが急襲され、大桑城から尾張の織田信秀の元へ遁れてゆく。

頼芸は美濃国諸氏と謀り道三征伐の大合戦を仕掛けるが均衡し、再び織田家を頼り和睦する。
頼芸は守護家としての体裁は保ちはするが実権は全くない状況で、
天文20年(1552)の三度目の大桑城攻めを道三からうけ、遂に美濃国主の座から離れることとなる。

頼芸はその後、尾張も朝倉にも頼ることができず、常陸国江戸崎城(稲敷市江戸崎町)の弟
治頼の元に身を寄せ、続いて江戸崎土岐氏の分流である万木城(千葉県夷隅町)にも寄寓している。

さらに、甲斐の武田氏に身を寄せるが、奇しくもこの時期に武田氏の東濃攻めが起きている。
この、織田信長の武田氏征伐の折に、頼芸は美濃へ送られ岩倉・犬山に囲われたが、
旧臣の稲葉一鉄の請いによって許され、無二の忠臣であった
山本数馬の岐礼(揖斐郡谷汲)の東春庵を居寓として迎えられた。

盲目の頼芸にとっては、何よりの安住地であったが、
本能寺の変により信長と光秀が去ったこの年の12月に82年に及ぶ波乱万丈の生涯を閉じた。
墓は僅かの間暮らした東春庵(現在は法雲寺・揖斐川町谷汲)にあり、
その位牌は江戸崎土岐氏の子孫が供えたものである。
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第4節 
土岐累代の禅宗文化
1.禅宗と土岐氏

代々土岐氏は禅宗(臨済宗)を外護の宗としたが、日本の禅の始まりは
鎌倉幕府第五代執権北条時頼により、中国から蘭渓道隆を招き建長寺を建立することに始まる。

蘭渓道隆は大覚禅師と呼ばれ、一方無学祖元(仏光国師)による
円覚寺と二大鎌倉禅宗寺として発展してゆく。

土岐氏は光衡が鎌倉幕府の御家人となって以降、
光行・光定そして頼貞が幕府と深い繋がりを持つようになり、
従来の山岳密教系寺院から鎌倉禅宗寺院を基盤とするようになった。

頼貞以降美濃には鎌倉禅宗寺の二大流派の多くの法嗣が招かれ、父祖の遺徳を偲ぶ為に
歴代の美濃守護は寺院を開基していった。

15世紀の「応仁の乱」において京都が焼け野原となり、
多くの文化人や禅僧が諸大名の庇護の元で地方へ文化芸術を移入したが、
臨済宗も鎌倉から京都へ流派もうつり、その後土岐氏は曹洞宗をも庇護した。

特に臨済宗妙心寺派寺院の多さが他県と比較にならないのは、
美濃源氏土岐一族がもたらしたものである。

又、土岐氏一族の名僧として三代頼康の弟で京都相国寺五世「雲渓支山」や、
八百津和知の土岐氏の出自である「東陽英朝」、また支流蜂屋氏の出自である「仁済宗恕」などがいる。
2.名僧と美濃
@夢窓疎石  むそうそせき

建治元年(1275)、宇多天皇九世の孫として伊勢に生まれ、9歳で初めて仏教を学び始め、
10歳で法華経を読むほどとなり神童と言われた。
18歳で受戒されて以後、永仁2年(1294)建仁寺の無穏禅師に師事し、
以後鎌倉の建長寺・円覚寺等を始め精力的に高名な禅僧に産学された。

特に鎌倉での修禅時は、一山一寧や高峰顕日の教義のもと、
鎌倉武士達も禅宗に帰依する所となり、御家人達も同様に参禅した。

室町幕府初代美濃守護となる土岐頼貞は文永8年(1271)生まれの夢窓疎石とは同世代であり、
この鎌倉からの縁により正和2年(1313)美濃の長瀬山へ入り、
土岐一族の長瀬氏の開基にて翌年には観音堂を建てた。

また土岐頼貞との贈答歌が十五首遺っているが、鎌倉・美濃・京都に及ぶ長い交際の程を表している。

頼貞  をりにふれ時にしたがふことはりを そむかぬ道やまことなるらん
夢窓  ことはりをそむくそむかぬ二道は  いづれもおなじ迷ひなりけり
頼貞  夢の世とおもふもいまの迷ひかな  もとのうつつのなしと聞くには
夢窓  夢の中にゆめとおもふも夢なれば  ゆめをまよひといふも夢なり

                          「新後拾遺集」より抜書

そして夢窓が創った水上庭園である心字池が、訪れる人々の心を、今も癒している。
A平心処斉  へいしんしょさい

禅蔵寺の開基は五代守護土岐頼忠、開山は覚源禅師、つまり平心処斉である。
覚源禅師の号は亡くなってから約10年後、後圓融天皇から追贈された。

処斉の出自は千葉氏で、一族である東氏の分流の木内氏といわれ、
現在の千葉県香取郡小見川町あたりが生誕地である。

平心という道号は嘉暦1年(1326)に来日した清拙正澄和尚(大鑑禅師)より賜った。
9歳で出家、19歳で鎌倉へ下向、壽福寺の清拙正澄和尚の教えを受ける。

33歳で大悟し、美濃へ呼ばれた50歳の頃、土岐頼重・頼高兄弟の発願にて
定光寺(愛知県瀬戸市)を開山している。

70歳にて長蔵寺(美濃市)を創建し、ここを終焉の地と定められた。

75歳の頃、西池田荘に行脚したころ池田本郷城主土岐頼忠より懇願され、
禅蔵寺が開山されることになる。

現在、肉筆で書かれた覚源禅師の行録と語録で現存しているのは、宮内庁書陵部と禅蔵寺だけである。
尚、行録の初稿は建徳1年(1370)で禅蔵寺には天保7年(1836)に写されたものが残り、
語録の初稿は不明だが、こちらも嘉永3年(1850)に写本されたものである。
B雲渓支山    うんけいしざん

三代美濃守護土岐頼康の弟で、播州長良護聖寺一世・京都安国寺住職・京都相国寺五世を勤めた後、
三代室町幕府将軍義満の帰依を受け、
「土岐康行の乱」である小島合戦後の美濃国及び康行の処置に尽力した。

明徳2年(1391)没す、絵画にも長じていた。
C東陽英朝   とうよう えいちょう

八百津町和知の土岐氏の出自、京都天竜寺玉岫・竜安寺雪江に師事し、
京都大徳寺・心寺や尾州瑞泉寺に住んだ。
土岐政房の帰依を受け、八百津町細目の大仙寺・岐阜市山県岩の定恵寺・美濃市和知の花蔵寺・
瑞浪市大川の林昌寺などを開山。

永正元年(1504)少林寺に没した、勅諡大道真源禅師。
D仁済宗恕      じんさいそうじょ

土岐氏支流蜂屋氏の出自、土岐成頼の帰依を受け瑞林寺(美濃加茂市蜂屋)を開山、
明応7年(1498)大徳寺に出世し、その後犬山瑞泉寺から瑞林寺に戻った。

法弟が多く永正16年(1519)没した、勅諡本覚霊照禅師。
E快川紹喜     かいせん しょうき

南泉寺仁岫の法弟、妙心寺に出世し崇福寺(岐阜市長良)に帰る、
永禄3年(1560)別伝宗教乱にて美濃を去り、武田信玄の帰依を受け住した恵林寺に、
学僧侶は数百と言われた。

天正10年(1582)武田勝頼敗死のとき、
信長から請われるのを拒み「滅却心頭火自涼」と火中に没した、勅諡大通智勝酷使。
       臨済宗の略法系図
          
3.東濃地区の土岐氏開基の寺院
@光善寺(瑞浪市土岐町市原)開基伝土岐光衡  開山不詳
文治5年(1189)土岐光衡が土岐氏の氏寺として創建し、室町幕府初代美濃守護土岐頼貞が
永仁元年(1293)興禅寺として再創して父光定(興源寺殿)の十三回忌を行ったと伝えられているが、
現在は廃寺。

岐阜県史跡となっている土岐頼貞の供養塔である宝筺印塔を始め、
県下でも類をみない大型の五輪塔や宝筺印塔が多数あり、土岐氏累代の供養塔と言われている。

A天徳寺(瑞浪市明世町戸狩)
文治5年(1189)土岐光衡が土岐氏の氏寺として創建と伝える。
旧本尊には観応2年(1351)に補修した刻銘があったが、火事で消失し
記録写真が今では往時を伝えるだけである。

また覚源禅師(平心処斎)が延文2年(1357)土岐頼高(土岐明智氏2代)に招かれて
市内7カ所にて供養したと禅師の年譜に記録されており、
鎌倉様式の“やぐら”が岩屋不動の屋根を覆い、現在は清来寺の管理となっている。

B開元院(瑞浪市日吉町平岩)
嘉吉3年(1443)2代頼遠の系譜となる鶴ヶ城主土岐頼元が、
曹洞宗永平寺系の月泉正印に帰依して開基、文明8年(1476)の開山画像や
文明13年(1481)に没した土岐頼元の墓がある。

また本尊の観音座像は岐阜県重要文化財となっていて、土岐の鷹絵も伝わっている。

C興徳寺(瑞浪市稲津町小里)
土岐頼貞の孫である、土岐小里能登守頼幸が菩提寺として建立、
頼幸が奉納した菅原道真公木像には延文2年(1357)の記銘があり、岐阜県重要文化財となっている。

又、大垣戸田藩に仕えた小里氏が明治になり土岐氏に改姓、
先祖が18世紀初頭に書き留めた小里城や村の様子の絵図を所蔵されていたことが
美濃源氏フォーラムの調査で判明し、現在興徳寺に寄託保存されている。

旧名称の大蔵寺は廃寺である。

D定林寺(土岐市泉町定林寺)
室町幕府初代美濃守護土岐頼貞が仏光国師(無学祖元)を勧請し仏国国師(高峰顕日)を開山として創建、
仏徳禅師語録には正和2年(1313)頼貞が父光定の三十三回忌法要をしたことが残っている。

現在は廃寺で武田氏の東濃攻めで全山焼かれたが定林寺という字名にその名を留めていて、
付近の小字名からその威光が偲ばれる。

E崇禅寺(土岐市妻木町)
土岐頼貞の孫、土岐頼重(土岐明智氏初代)が、妻木郷を受領して菩提寺として勧請。
文和3年(1354)仏徳禅師の弟子である果山正位を開山として創建、
居城の妻木城を借景とした枯山水の庭園や勅使門は風情がある。

また、付近には美濃源氏の信仰した八幡神社もあり、
城主より元和9年(1623)に馬を奉納されたことに始まる流鏑馬神事が、
毎年10月第二日曜日に執り行われている

F永保寺(多治見市上野町虎渓山)
正和2年(1313)夢窓疎石が虎渓長瀬山に入り、土岐頼貞の意を受けた土岐長瀬入道頼氏によって、
仏徳禅師開山として創建された。

その時造られた観音堂と、夢窓が亡くなってから足利尊氏により創建された開山堂は、
ともに国宝に指定されており、仏徳禅師お手植えの銀杏や、夢窓の意でできた心字池を配した庭園を含め、
すべてが鎌倉武家文化を体感させるものであり、
市民ばかりでなく多くの観光客に何度でも足を運ばせる趣がある。

G定光寺(瀬戸市定光寺)
建武3年(1336)土岐頼貞の孫であり、妻木の崇禅寺を創建した土岐明智頼重の弟である土岐頼高が、
美濃の長蔵寺や揖斐池田の禅蔵寺を開山した平心処斎(覚源禅師)に帰依して創建した。

江戸時代に入り、徳川義直がこの地へ参り終焉の場所として再創建し、以来徳川家の菩提寺となった。
4.中濃地区の土岐氏開基の寺院
@大仙寺(八百津町細目)
文亀元年(1501)第9代守護土岐政房が旧不二庵を改め、東陽英朝により改宗し、
以後斉藤氏も共に外護し、土岐氏祈願所となり聖沢門派(東陽派)の道場となった。

剣豪宮本武蔵も剣禅一致の修行のため訪れており、武蔵の座禅岩が訪れる人をもてなしている。
A善恵寺(八百津町細目)
貞応2年(1223)創建と伝えられているが、享徳元年(1452)第8代守護土岐成頼と
守護代斉藤妙椿によって中興され、文明4年(1472)勅願寺となった。

元和元年(1615)被災しながらも、その後再興された。
B正伝寺(八百津町和知)
暦応2年(1339)夢窓疎石により開山、第2代守護土岐頼遠の開基と伝わっているが、
草創期には米山寺と言われ、永正元年(1504)第9代守護土岐政房が土岐氏祈願所として中興した。
C妙楽寺(川辺町上米田)
暦応2年(1339)夢窓疎石を招じて、第2代守護の土岐頼遠が開基した。
D東香寺(富加町)
暦応2年(1339)夢窓疎石を招じて、第2代守護土岐頼遠が開基した。
寺の裏山には、後醍醐天皇と土岐頼遠と夢窓疎石の五輪塔が、
また堂前には足利尊氏を祀る宝筺印塔があり、南北朝時代を彷彿とさせてくれている。
E龍門寺(加茂郡七宗町神淵)
延慶元年(1308)室町幕府初代美濃守護土岐頼貞が勅命により、帰化僧の一山一寧を招じて開基したが、
開山の一山一寧の木像や、土岐頼貞の木座像が唯一現存しているし
山門には左甚五郎の名作が掲げられている。
F龍安寺(美濃加茂市伊深寺洞)
応安4年(1371)第4代守護土岐康行が開基と伝える。
旧寺名は永安寺で享保15年(1730)に付近の田畠より至徳元年(1384)康行記銘の梵鐘が発見され、
現在岐阜県重要文化財となっている。
G大悲院(美濃市洲原立花)
暦応2年(1339)夢窓疎石を招じて、第2代守護の土岐頼遠が開基した。
現在、鹿苑寺内に驢山観音堂がある。
H長蔵寺(美濃市上野)
延文元年(1356)第5代守護土岐頼忠が覚源禅師(平心処斎)を招じ、自領であった上野に創建した。
須弥壇と舎利塔は、国の重要文化財に指定されている。
I瑞林寺(美濃加茂市蜂屋)
文明14年(1482)第8代守護土岐成頼により、本覚霊照禅師が梧渓宗頓を勧請開山として開き、
一派の道場となった。
慶長8年(1603)に焼失し、その後中興された。

時の将軍足利義稙へ、”干し柿” を献上した事から、現在 「堂上蜂屋柿」 として珍重され、
”柿寺”と呼ばれ、本尊の弥勒菩薩座像は蜂屋大仏として遠方まで鳴り響いている。
5.岐阜地区の土岐氏開基の寺院
@正法寺(岐阜市下川手)
観応2年(1351)第3代守護土岐頼康が美濃・尾張・伊勢三国守護となり川手城を築き、
北に法灯国師の高弟大医禅師を招じて開基し、土岐氏の氏寺としたが明応4年(1495)の船田の乱で焼失し、
現在は観音堂が残るだけで廃寺となった。
A正法寺(岐阜市小野)
寛正6年(1465)第8代守護土岐成頼が妙心寺派仏日真照禅師を招じて開基、
現在は真言宗五光山正法寺と改宗されている。
B瑞龍寺(岐阜市寺町)
応仁元年(1467)守護代斉藤妙椿が第8代守護土岐成頼の意により悟渓宗頓を開山として、
天台宗の古刹厚見寺跡に勧請した。

悟渓門派の大道場にて、土岐成頼・斉藤妙椿・悟渓国師の墓が山際に並んで祀られている。

また、土岐成頼画像が岐阜市重要文化財に指定されているが、その画像に東陽英朝が讃を書き入れており、
「 岐阜鐘秀現鳳法身 」 とあり、信長登場以前 ( 15世紀後半 ) の土岐氏の時代から
すでに 「 岐阜 」 の地名が使われていた。
C定恵寺(岐阜市山県岩)
明応2年(1493)第9代守護土岐政房が東陽英朝を招じて開基した。
D成就寺(岐阜市茜部)
明応(1492)から永正(1504)年中、第9代守護土岐政房が菩提寺として開基したが、開山は不詳。
現在は廃寺となり茜部神社の北側に供養塔群があり、
土岐政房の一石五輪塔が実に質素に建てられている。
E大安寺(各務原市鵜沼)
応永2年(1395)第6代守護土岐頼益が、大応国師の法系の笑堂常訴禅師を招じて鵜沼に開基した。
現在、守護代であった斉藤利永の墓とともに、鵜沼の町を高台より見下ろしている。
F承国寺(各務原市鵜沼古市場)
享徳(1452)から康生(1455)の頃、第7代守護土岐持益が建仁寺派純仲全鋭禅師を招じて開基した。
古市場の竹藪が伝承地域となっていたが、
マンション建設に伴い緊急発掘の結果、古寺の遺構が発見された。

応仁の乱では、多くの禅僧や公家や貴族の文化人が承国寺へも難を避けるため参ったので、
京都の「洛陽」に対し美濃の「岐陽」が使われ始められた。
G南泉寺(山県市大桑)
  
永正14年(1517)第12代守護土岐頼純が悟渓宗頓の法孫である崇福寺の仁岫宗寿を招じて開基した。
この仁岫宗寿の法弟には快川紹喜など名僧が多く、寺宝には土岐頼純画像があり、
裏山には土岐頼純の五輪塔が祠の中に安置されている。
 
6.西濃地域の土岐氏開基の寺院
@瑞厳寺(揖斐川町瑞岩寺)
建武3年(1363)第3代守護土岐頼康が、
父頼清の菩提を弔うため円覚寺派大林善育禅師を招いて開基した。

文和2年、後光厳天皇の行幸の折に関白二条良基が書いた日記である「小島のすさみ」を所蔵し、
後光厳天皇勅願寺となっている。

その他、土岐頼清・頼康親子の画像を所蔵し、同親子二人の供養塔が山手にあり、
現在では毎年6月第1日曜に土岐氏毎歳忌が執り行われている
A大興寺(揖斐川町大光寺)
貞治5年(1366)頃、土岐頼康の弟である土岐頼雄が
夢窓国師の法弟竜湫周沢を招いて開基して菩提寺とし、永和元年(1375)寺領を寄進している。

岐阜県文化財指定の土岐頼雄の墓が境内に歴代住職塔とともに遺されている。
B禅蔵寺(池田町願成寺)
延文元年(1356)第5代守護土岐頼忠が建長寺派覚源禅師(平心処斎)を招いて
父頼清及び自家の菩提寺として開基し、修業道場としても威光を誇った。

土岐頼忠・頼益親子の供養塔は共に岐阜指定文化財に指定されている。
江戸期までは多くの塔頭があったが、近代には末寺がなくなったので、
現在は檀家がほとんどない寺となっている。
C法雲寺(揖斐川町谷汲)
天正10年(1582)第11・13代美濃守護土岐頼芸が没し、
旧家臣の稲葉一鉄により快川国師法弟の南化玄興を招いて回向し、
東春庵として創建したが、現在では東春山法雲寺と改称している。

現在、土岐頼芸の供養塔が門前にあるが、お墓は寺の向かいの山中にあり訪れる人も殆どいないまま
、時だけが過ぎている。
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第5節
芸能と土岐氏
1、和歌と土岐氏
土岐氏は守護として在京することが多く、室町時代220年以上にわたり京の文化を美濃へ持ち込んでいる。
鎌倉末期、初代頼貞は「歌人・弓馬上手」といわれ、
子孫には「文を廃さば、すなわち、わが家ふるわず」と伝えた。

初代頼貞、二代頼遠、三代頼康と勅撰和歌集に載るほどの名手で、
特に三代頼康は三国守護として、また幕府の侍所所司として五職三管領の要職であったので、
僧侶や公家との交際の中から一流の文化人となった。
  『勅撰和歌集の土岐頼貞の歌』 抜粋
  ○暁の  別れのきわに知られけり  またと思いぬ  人の気色は      (玉葉集巻10)
  ○哀れとて  我が目覚めとう人もがな  思う心を  いつもつくさん     (風雅集巻17)
  ○とどまらぬ  月日ばかりに任せきて  ただ兎に角に  世をわたる哉  (新千載集巻18)
  ○水鳥の  加茂の神山さえ暮れて  松の青葉も  雪降りにけり      (新拾遺集巻 6)
  ○峰に立つ  雲も別れて吉野川  嵐にまさる  花の白波          (新後拾遺集巻7)
  『勅撰和歌集の土岐頼遠の歌』 抜粋
  ○誰になお  忍ぶ山の郭公  心の奥の  事語るらん            (新千載集巻16)
  ○敷妙の  床の浦和の海士小舟  浮寝定めぬ  月や見るらん      (新拾遺集巻18)
  ○忘れては  見し夜の影ぞ忍ばるる  憂き習わしの  有明の月      (新後拾遺集巻15)
  『勅撰和歌集の土岐頼康の歌』 抜粋
  ○思いかね  宇治の川おさこととはむ  身の浮舟の  寄る辺ありやと  (新拾遺集巻12)
  ○面影は  変わらぬ中の有明に  今はた何か  つれ無かるらん     (新千載集巻16)
  ○草枕  数多旅寝を数えつも  まだ武蔵野は  末ぞ残れる        (新後拾遺集巻7)
2、連歌と土岐氏
美濃での連歌の初見は揖斐の小島で、選者二条良基の『菟玖波集』の中に、後光厳天皇の行幸の折
”美濃国をしまといふ所行宮にて連歌し侍りし”と出典するが、時の守護土岐頼康の、
「君か御幸は名こそ高けれ これもまたももしきなりし小島山」の歌が入集句となっている。

それから下ること文明4年(1472)頃には、
応仁の乱以後京都から難を避けて訪れていた専順が川手に住んだことから、
守護代斎藤妙椿が連歌を広めてゆく。
専順は古今伝授で著名な俳諧師宗祇とともに、「何路百韻」や「美濃千句」や「四季千句」
また「因幡千句」や「表佐千句」などを5年間ほどの間に興行し、
武士・貴族・禅僧・公家達が数日をかけて延々と文学の世界に親しんでいた。

このため、揖斐川町瑞巌寺では岐阜県の連歌誕生地として「小島頓宮法楽連歌会」を蘇みがえらせ、
毎月歌人たちが寄り集まり、句集を作り続けている。
3、能と土岐氏
鎌倉期執権北条高時がこよなく愛した田楽の能は、
その後室町幕府歴代将軍たちが大和猿楽座の財政保護をしたことで大きく発展し、
観阿弥や、その子世阿弥は能の理論や技術に磨きをかけ、
高度な芸術に昇華させ、戦国武士の愛顧に応えていった。

応仁の乱(1467〜)では多くの文化人が京を脱出し、土岐氏皮手城に長期にわたり逗留することとなり、
連歌、能、絵画、蹴鞠などが盛んに行われた。

この頃、美伊法師(9代美濃守護となる政房の幼少名)が見事な舞を披露したとのことで、
京風公家文化の守護家嫡男への影響が想像できるし、
この後も政房将軍家に能を献じるほど舞の名手となっている。

これは守護家ばかりではなく、家臣の武将達にも影響を及ぼし、
郡上の遠藤氏や安八の稲葉氏は能を供応に用い、久瀬の高橋氏は自ら舞を演じている。

然し、土岐氏の衰退とともに美濃の戦国武将の間に花咲いた文化も多くが消え去り、
芸術品も四散してしまったが、能面や能装束、小道具類が集落の神社にかろうじて残っており、
特に長滝白山神社の若宮家には、土岐氏時代の能面(国重要文化財)が多く奉納されている。
4.鷹の絵と土岐氏
絵画の中でも、鷹の絵を書くことに土岐氏は秀でていた。
現在では「土岐鷹」として有名詞になっている。

歴代守護の中では、尊卑分脈に5代守護土岐頼忠は「弓馬上手鷹一流相伝」と言われる程で、
ほとんど例がない「隠し落款蒼鷹の図」が第5代土岐頼忠菩提寺の禅蔵寺(揖斐郡池田町)に収蔵されている。

その他、崇福寺(岐阜市長良福光)には土岐頼高筆、
開元院(瑞浪市日吉町)には土岐頼元筆の「土岐の鷹絵図」がある。

尚、今までに鷹図の作者としては土岐頼芸、土岐富景、土岐洞文、土岐頼高、土岐頼元、
土岐直頼、土岐範頼などが見えるが、系図上たどれるのは頼芸と頼元だけで、
その他作者の解明が今後の研究課題である。

土岐頼芸は斎藤道三に美濃を追われ、弟治頼の住む常陸国江戸崎城、上総国万木城に寄寓するが、
その夷隅市郷土資料館にも土岐頼芸の鷹絵が伝わった。
                                                   
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第6節
美濃源氏土岐一族の歴史を活かしたまちづくり
1、土岐鷹の夢
美濃源氏土岐氏の最後の守護頼芸は、優れた「鷹の絵」を画くなど文化人としての秀でた面もあったが、
斎藤道三の計略を見抜けず1552年に美濃国を盗られた後、
遥か茨城の江戸崎や千葉の夷隅にまで縁者を頼って落ちていった。

30年の長きに渡った苦渋の旅も、1582年織田信長の武田氏殲滅の戦いの後、
旧臣だった稲葉一鉄に見出され甲府から犬山を経由して山県市の谷汲へ戻った。

この間は、斎藤道三や織田信長に森蘭丸、そして明智光秀などが活躍した時期であり、
ちょうど天正12年「本能寺の変」とともに、12月には土岐頼芸も歴史の檜舞台を降りたことになるのは、
不思議なめぐり合わせといえよう。

そして、司馬遼太郎氏の『国盗り物語』には斎藤道三が一代で美濃を手中におさめたと書かれているものの、
岐阜県史の編纂過程で親子二代にわたることが今では確定し、
また明智光秀にしても土岐氏一族の因果が「本能寺」に向かわせたことなど、
ましてや岐阜の「岐」の字には土岐氏と岐蘇川(木曽川)の意味がこめられた「岐」であろうことなど、
織田信長が美濃に入るよりも凡そ百年前から岐阜の地名が使われていたわけで、
「国盗り物語」越える小説「土岐鷹の夢」を、時代が求めている。
2、美濃源氏婆娑羅(バサラ)の里で、無礼講の宴
後醍醐天皇が鎌倉幕府北条執権打倒の令旨を土岐氏に下したとき、
公家の日野資朝・俊基等とともに土岐十郎頼兼と多治見国長は無礼講と称して討幕の相談をし、
その決起の日を待った。

参加した公家も僧侶も武士も風体は衣装をかまわず烏帽子着つけず、髷もせず異形なものであった。
酒宴の料理も、山海の珍味を集め、その様子は『太平記絵巻』に詳しい。

また、辞書の『広辞林』などにも掲載され、
後醍醐天らが土岐氏一族の真意を計るため「無礼講」を行ったとしている。

また、婆娑羅大名としても名高い土岐一族であり、既成概念にとらわれず、
進取の気風をもち、何事も恐れず、そして何より己の個性を大事とする生き方を現代に蘇させる、
正にそんな美濃源氏の復活のときが来たようである。

土岐氏発祥地の土岐郡は現在、瑞浪市・土岐氏・多治見市となっているが、
中世の遺構や建築物など、鎌倉武士の時代を体感させるものが多く
「美濃源氏婆娑羅(バサラ)の里」としてネットワーク化を計り、
訪れる人に「無礼講の宴」にておもてなしと、生涯学習の体験として中世史の理解を進めて参りたい。

そのため、土岐頼貞のお墓では和歌の献句を行い、
古寺のに仁王門前では”やあやあ遠からん者は…、我こそは…”と鎌倉武士の口上をし、
土岐氏の禅宗寺院では座禅にて心を磨き、
鶴ヶ城においては双生竹の矢竹に因み弓矢の体験をし、
また詰め城から普段の居館までの距離を歩測で測ったり、
土岐氏の館では「土岐鷹」のような墨絵書きと、
中世陶器の「かわらけ」を使った「無礼講」などを体験することで、
鎌倉の武士の生き方に触れることができるのではないだろうか。
3、美濃中世歴史回廊
日本の歴史上有名な事件で、中学校以上の教科書に登場する岐阜県地域として「関ヶ原」がある。
言わずと知れた「天下分け目の関ヶ原の戦い」であるが、日本人全てが子供の頃に習った歴史が、
大人になった今でも記憶の中に生き続けるわけである。

とすれば、何故に美濃の武士達は、日本中世史に輝くばかりの人物が揃っているのに、
あまり知られていないのか残念である。
つまり、土岐氏一族・斎藤道三・織田信長・森蘭丸・明智光秀・竹中半兵衛・古田織部などである。

そして戦国時代が終わると美濃は、徳川幕府の細分地政策により徹底的に分割統治をされたため、
明治維新を迎えた時には岐阜県内に80余りの大名や、天領支配となっていた。

また、土岐氏の時代は凡そ200年間続いたわけであるが、経済の分野においても現代まで連綿とした
産業の継続なくしては、岐阜県を語れないであろう。

つまり、河川交通・街道輸送・刀剣・和紙・木材・陶器・漆器・鉱石などであるが、
中世における守護大名との関係については、今後積極的に解明していかねばならない。

さて現在、「行政と市民の協働によるまちづくり」が進め始められているが、
積極的な市民参加が求められる中、そのキーワードとして「歴史と文化を生かした街づくり」があげられる。

今までの陳情方の意見収集から、「地域協議会方式」や「まちづくりセンター方式」などの
自立した地域自治が進められるようになるであろうから、今後地域の歴史文化に関心が集まる中、
岐阜県の武家文化も郷土史研究の一つの切り口と位置付け、
積極的な地域自治体の参加を促し、かつまた当然それぞれが関係し合うわけであるから、
双方向のネットワークを構築しなければならない。

このように美濃の中世史の武家文化にかかわる人物達の歴史検証が行われ、
その歴史を活かしたまちづくりが進み、岐阜県全域が中世史のテーマバークとなれば、
総合研究機関が必要となり、中部を代表する上での「国立中世歴史博物館」の創造に繋がるのではないか。

平成17年度に「国立九州博物館」が創設されたが、構想から凡そ100年、
具体的案件として20年をもって完成した。

美濃の武士たちも、公的機関と民間機関の融合的研究体制が整えば、
学校の教科書にも綺羅星の如く掲載されることになるであろう。  
                                                      (完)

       参考文献一覧
 「県史21・岐阜県の歴史」  松田之利他共著    「平成6年度土岐氏研究講座資料」  福井兼弘著
 「美濃源氏土岐氏主流累代氏全」  渡辺敏典著    「土岐氏の時代」  岐阜市歴史博物館発行
 「美濃・土岐一族」  谷口研語著    「美濃の能-白山に抱かれて」  曽我孝司著
 「美濃の土岐・斉藤氏」  横山住雄著    「万里集九著『梅花無尽蔵』の世界」  鵜沼歴史研究会編
 「夢窓国師の風景」  中村文峰著