美濃源氏とは

清和天皇

平安時代前期の第56代天皇
嘉祥3年3月25日(850年5月10日) ~ 元慶4年12月4日(881年1月7日)
在位は天安2年11月7日(858年12月15日) ~貞観18年11月29日(876年12月18日)。
後世、武門の棟梁となる清和源氏の始祖。

清和源氏とは第56代清和天皇を祖とする皇胤が源(みなもと)姓を賜り成立し、 
   源 頼朝以来、武家政権の主催者の血族として栄えてきた一族。

もっとも栄えたのは第六皇子 貞純親王(さだずみしんのう)の子、
六孫王 源 経基(みなもとの つねもと)の子孫の系統である。

中級貴族であった経基の子、源 満仲(みなもと の みつなか・多田満仲)が、
藤原北家による摂関政治の確立に協力して、武門の地位を築き、
摂津国川辺郡多田庄(兵庫県川西市多田)の地に武士団を形成した。

源 満仲の子 源 頼光(長男・よりみつ)、 源 頼親(次男・よりちか)、 源 頼信(三男・よりのぶ)も、父と同様に摂関家に仕えて勢力を拡大し、
後に坂東平氏を降した頼信の系統の河内源氏が、 源 頼義( よりよし)、源 義家( よしいえ)父子の代に 東国の武士団を支配下に置いて、
畿内を基盤とする摂津源氏、大和源氏、伊勢平氏を凌駕し、武家の最大勢力となった。



美濃源氏とは、美濃国に土着し本拠とした源氏の流れを汲む一族の呼称である。
最大勢力であった河内源氏とは、源 国房( くにふさ)と源 義家( よしいえ)の抗争に始まり、 何度も衝突を繰り返した。
また、北面武士(ほくめんのぶし)として、白河院によるその創設期から院政を支えた。

◎清和源氏満政流 八島氏族

平安時代中期に清和源氏の源 満仲の次弟である源 満政( みつまさ・八島大夫満政)が、
美濃国方県郡八島(現、岐阜市北部)に住んだことに始まる。
子孫は八島氏族として美濃に勢力を持ち、「保元の乱」で源 為義を捕縛した源 重貞や、
「平治の乱」で源 義朝の身代わりとなった源 重成を輩出した。
源姓山田氏、葦敷氏、小河氏、水野氏、高田氏、足助氏の祖とされる。

◎清和源氏頼光流 山県氏族

平安時代後期に摂津源氏の源 頼綱の子 源 国直( くになお・山県三郎、美濃三郎)が、
美濃国山県郡(現、山県市)に住んだことに始まり、代々山県氏族として美濃に勢力を持った。
源姓落合氏・清水氏・福島氏・平野氏・関氏・蜂屋氏の祖とされる。

◎清和源氏頼光流 土岐氏族

土岐氏は最も著名な美濃源氏の一族である。
平安時代後期に摂津源氏の源 頼綱の弟 源 国房( くにふさ)が 美濃国厚見郡鶉郷(現、岐阜市南部)に土着したことに始まり、
源頼朝が鎌倉幕府を開くと、国房の流れを汲む土岐光衡(とき みつひら)が御家人となり、 美濃国土岐郡(現、岐阜県南東部一帯)を領有した。
その後、「承久の乱」では土岐判官代が、「正中の変」では、土岐頼兼、多治見国長、足助貞親が朝廷側に付いて幕府得宗家に背き、
鎌倉時代末期から室町時代初期には、土岐頼貞・頼遠父子が足利尊氏の室町幕府の創設に貢献し、 以降、各地に支流氏族が広がった。

頼遠の跡を継いだ土岐頼康は南朝に追われた後光厳天皇を揖斐郡小島に迎えて北朝を支え、 その後、美濃、伊勢、尾張の3ヶ国守護となり、
晩年には諸将とともに「康暦の政変」を起こして政敵の細川頼之を追放するなど、土岐氏の全盛期を築いた。
「応仁の乱」では、美濃守護家の土岐成頼が、山名氏、大内氏、一色氏らと共に西軍の主力を形成し、 終戦後は西軍の将軍であった足利義視を厚見郡川手に迎えた。

戦国時代後期には土岐頼武土岐頼芸兄弟が争う中、 長井氏や斎藤氏を乗っ取った斎藤道三の下克上を許し、美濃守護の座を失ったが、
土岐氏支流の明智光秀や、蜂屋頼隆が 織田信長に仕えて宿老となり畿内に進出した。 

本能寺の変後は、支流の土岐定政が徳川家康に仕えて大名となり、 子孫は上野沼田藩3万5千石の大名として明治維新を迎えた。
また、金森氏(高山藩主)、浅野氏(広島藩主)、仙石氏(小諸藩主)、肥田氏(尾張藩家老)、 妻木氏、石谷氏、三宅氏、多治見氏、原氏なども土岐氏の支流とされる。



このように、
源義家・義綱と争った源 国房・光国

保元・平治・治承・寿永の乱を戦った源 光保・光長・光衡

足利一族を支えた土岐 頼遠・頼康・成頼

又、金森氏、浅野氏、明智氏、石谷氏、多治見氏、蜂屋氏 など

    著名な人物も美濃源氏 なのです。



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