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1: おひょう! (1)               削除
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4: 本能寺を守ったアフリカ人ヤスケ (1)     削除
5: 津軽の土岐一族 (4)
6: 日本家系図学会 (10)
7: 舟木氏族について (45)
8: 慈徳院と崇禅寺(妻木氏菩提寺) (1)
9: 美濃市光照寺 (1)
10: 龍安寺のつり鐘と土岐康行 (1)


梶川

1 :井上宗光:2007/06/30(土) 11:40:13 
私の先祖は忠臣蔵、松の廊下に出てくる梶川与惣兵衛頼照です。
色々調べると土岐縫殿助頼泰の次男で姉の嫁ぎ先に子ができなかったなどから、梶川に養子に入っております。
それらを寛政重修諸家譜などで詳しく調べていくと土岐頼なりにつながるのですが、それ以上解りません、
なにかごぞんじでしたらお教えください。
それと、近畿に土岐会などはあるのでしょうか。 


2 :源臣:2007/06/30(土) 12:31:09 
井上様
あの松の廊下の、梶川頼照(土岐頼照)が土岐頼泰の次男とは知りませんでした。
書き込みありがとうございます。
頼泰は、まさしくお調べの通り、頼芸の次男頼次の系統です。
先日書き込まれていました。土岐頼一さんとかなり近いご親戚になります。
頼芸につながれば、頼貞、光衡、光信、国房・・・頼光・満仲・経基王と、
ご存知の通りの家系です。
頼照の子頼堅が兄頼克の養子となり、藤兵衛家(旗本600石)を継ぎます。
東京・駒込の養源寺に墓地がありました。 


3 :井上宗光:2007/07/09(月) 13:23:36 
源臣様書き込みありがとうございます。
私も父から梶川の話を色々聞いておりましたので、興味があり国会図書館などでしらべていると
頼照は土岐家から養子にでていることなどがわかりびっくりしております。
父は去年他界しましたのでこのことは知りません。ちなみに梶川の墓は、東京中野と神戸の加古川にそれぞれあります。
なぜ両方にあるかもわかりません、何かごぞんじでしたらお教えください。
私は大阪に住んでいます、父は神戸市東灘区御影の出身で関西人です、
頼照は旗本でしたので江戸在中のはずですしなぜ神戸に頼照の墓があるのか謎です。 


4 :源臣:2007/07/10(火) 21:14:13 
頼照の墓は中野区の乾竜山天徳院にあることがわかりました。
近いうちに、機会がありましたら、お参りさせていただきます。
神戸の墓地は曾おじい様か、おじい様が移されたのでしょうか?
井上様のお陰で頼照が非常に身近な存在に感じられます。 


5 :おくやま:2007/09/21(金) 23:39:44 
俺の先祖も梶川与惣兵衛頼照です。
父の母の実家が梶川さんのお宅だそうです。
調べてたらたまたま見つけたので書き込みさせていただきました。 


6 :井上:2007/09/24(月) 10:17:48 
おくやま様書き込みありがとうございます。
おくやま様は関西の方ですか?私の祖母が加古川の別府にある梶川から着ております。
祖父が健在なころに神戸新聞社から取材などがあり詳しくわかったみたいです。
墓は、別府と東京の中野にあります。 又何かございましたら書き込みおねがいいたします。 


7 :浪花の桔梗丸:2007/10/12(金) 01:47:50 
私の資料は家系図と日本家系協会の土岐一族と言う出版物です
私は13代目(予定)で初代がョ泰です、二代目ョ克、三代目がョ堅が
もしかしたらョ照の子供を養子にしたかも知れないです、四代目ョ克、
五代目ョ郷、六代目ョ直、七代目ョ房と続きます、
また過去張に(俗名 梶川与惣兵ヱョ照)(続柄 土岐ョ泰次男)
(戒名 謙亭院殿閑雲古水)と書かれたものもあります。 


8 :浪花の桔梗丸:2007/10/12(金) 04:19:40 
その他嫁、養子など関係資料はあります、嫁は山岡家、大久保家、
大津家、松平家、筧家からもらってます、五代目ョ郷の子供が植村定五郎政利の養子になってます、
弓削家、朝日家、とは離縁になってます。
ついでに八代目ョ徳、九代目ョ功、十代目ョ貴、十一代目ョ信、十二代目小一郎、
十三代目(予定)ョ一、十四代目(予定)ョ勝です、谷口先生の家系図に追記して頂ければ
嬉しいです、子孫への資料になるので。
井上様 私は大阪在住です、東京駒込養源寺の墓は都合で京都八幡の円福寺霊園に新しく建て直しました
以前の墓は写真と必死で持ち帰った線香置き?水入れか分かりませんが一つだけです。
Ryuko様 東京講座行けなくてすみませんでした、また関東方面に行く時は連絡させて頂きます。 


9 :源臣:2007/10/12(金) 20:55:42 
桔梗丸様
ご想像の通り頼堅は頼照の次男です。
寛政重修諸家譜に下記の如く載っています。
頼堅 初頼之 内蔵助 縫殿助 藤兵衛
土岐彦四郎頼克が養子と
間違いなく彦四郎頼克の養子となっております。
ご存知の通りもう一人の万次郎頼克が頼堅の跡を継ぎます。
桔梗丸様13代目の読みは「よりいち」様ですか「よりかず」様ですか、
どうお読みするのでしょうか。お教えください。
養源寺へ行って墓地の跡を見て参りました。すでに数軒の新しい墓碑が並んでいました。
養源寺には他に土岐の墓碑が2軒あります。1件は仙石家に近い筋の土岐家です。
桔梗丸様の墓碑のあった近くに、新しい土岐家の墓碑があるのですが、
この土岐家はもしやご存知ではないでしょうか。 


10 :浪花の桔梗丸:2007/10/12(金) 22:00:44 
源臣様ご無沙汰しております、名前は「よりかずです」、私はまだ養源寺には行ってませんが
なくなていると聞くと寂しいです、お尋ねの件ですが鎌倉に住んでると思います
十一代目ョ信の弟ョ貴、多津夫妻の墓碑と私にとっては叔母にあたる「よしこ」さん
の墓碑と二つあります二つとも黒い墓碑で土岐桔梗の紋が入ってます
私どもの円福寺にある墓碑も同じようなものです、
私個人的には先祖代々のケンニョウ桔梗が好きなのですが・・・。 


11 :浪花の桔梗丸:2007/10/12(金) 23:42:29 
すいません間違いがありました十一代ョ信の弟はョ明でした
墓碑の側面に俗名が書いてあったと思います
鎌倉には私のまた従姉弟と叔父さんが健在だと思います。
後二代目彦四郎一水の次男ョ連(雲八)は享保5年に
長男ョ利(彦四郎松久)は享保6年に亡くなってます
三代目頼堅(藤兵衛内蔵助縫殿助)は二代目甥で
四代目ョ克(藤兵衛万次郎治太夫)は何故かョ利長男になってます
でも五代目(鐡三郎藤兵衛万次郎治太夫如水)は三代頼堅の次男になってます
この辺がややこしいです。 


12 :井上:2007/10/17(水) 20:16:12 
浪花の桔梗丸様はじめまして井上です。
梶川の墓を写した写真がありますので機会がありましたら一度ごらんください。
それから八幡の円福寺にも一度お参りさせていただきます。
話しは変わりますが、私の父の弟の奥さんは、忠臣蔵の大石内蔵助の奥さんにあたる大石りくの家系から
嫁いでおります。赤穂藩から梶川は、嫌われていると思うのですが、不思議な縁です。
又何かありましたらメールさせていただきます。 


13 :名無しの権兵衛:2008/12/27(土) 02:27:35 
仙石家は土岐氏の家臣であったことはあるが、
土岐の支流では断固ない。 


14 :秋川:2009/04/30(木) 10:00:15 
私の祖母は兵庫県加古川市別府町の梶川家の出身です。同町の墓地には梶川与惣兵衛の墓があり、
現在も祖母の弟のお宅がお世話をされています。同町には梶川家が2系列ありますが祖母の家系が本流に付き、
墓守をしておられるとの事です。別府は古来より港町なのですが、秀吉が三木の別所氏を攻撃した時、
毛利の援軍が上陸作戦を敢行し、黒田勘兵衛が阻止したと言う別府城の合戦(播磨灘物語)があった要害であり、
そのせいか江戸時代は徳川幕府の天領でした。別府町にある宝蔵寺は享保年間に焼失し、
時の将軍吉宗の寄進により再建されたと伝えられ、当時の瓦には葵の紋が残されています。
私は、旗本であった梶川与惣兵衛が寺の再建工事に関連し別府に派遣され、この地に子孫を残し、
客折したのではないかと推察しております。 


15 :井上:2009/05/13(水) 13:06:50 
秋川様
読ませていただきました。私の祖母OR祖父母は別府から来ておりますのでたぶん秋川様と親戚になるのだと思います。
私の父の実家は御影本町にありましたが、地震で壊れてしまいましたが築100年くらいはたっていたと聞いております。
私も小さい頃そちらで住んでおり離れにも別府からきた梶川のお婆さんが暮らしておりました。
父が亡くなりましたので詳しいことはわかりませんが、別府の梶川さん、滝川さんの話はよく聞かされておりました。
私も近いうちに別府のお墓にお参りさせていただきます。 


16 :秋川:2009/05/20(水) 12:05:33 
梶川与惣兵衛と加古川の関係は仮名手本忠臣蔵にて出演者の役名に本名使う事を憚り
「大石蔵之助を大星由良之助」とした様に「梶川与惣兵衛を加古川本蔵」としたことからも明らかです。
与惣兵衛が別府にやって来た経緯は、赤穂義士の討ち入りの後、江戸では義士方の評判が高まるのに反して、
松の廊下にて浅野匠守を制止した事に対する非難が高まり、
与惣兵衛は江戸には居る事が出来なくなった為と伝えられています。
宝蔵寺再建の手配の可能性もありますが、たまたま別府が天領であった為、
この地の管理を行うと言う名目でやって来たか、ただ、隠棲する為であったかもしれません。
いずれにせよ、与惣兵衛が亡くなったのは享保年間であったとの事に付き、吉宗とは何らかの関連が伺えるところです。 


津軽の土岐一族

1 名前:北転船 投稿日: 2006/03/01(水) 19:01:02 
青森県黒石市高賀野地区に、中世の城・「浅瀬石城」跡が残っています。
「浅瀬石城」は、十和田湖北西側の南八甲田山系に源を発し津軽平野で岩木川に合流する「浅瀬石川」
沿いに築城された中世の城館で、中世三戸南部氏の一族、千徳氏11代、350年余の居城だったところです。
鎌倉時代の中頃(13世紀)、千徳伊予守行重の築城と伝えられていますが、
黒石・浅瀬石・千徳氏は、「閇伊(へい)郡千徳(せんとく)(現在の岩手県宮古市)の土岐・千徳氏の出で、
初代・2代は宮古市の千徳氏菩提寺に埋葬されています。
岩手県宮古地方と青森県津軽地方はその昔、人的にも物的にもかなり繋がりが深かったようで、
「土岐姓」が青森県津軽地方に多いことと何か関係あるのかもしれません。
黒石市近郊および五所川原市金木地区には、「土岐姓」の群住地も見られます。 


2 名前:澤源 投稿日: 2006/03/03(金) 14:13:13 
北転船様
訪問有り難うございます。東北土岐氏については、この下にありますスレッド他、
現在諸処の研究と調査を始めて頂いておりますので、今後ともご指導の程宜しくお願い申し上げます。
尚、黒石市にみえる土岐Tさんは1994年の土岐氏サミット以降、関心をもち活動してみえますし、
青森土岐会の開催に向け、弘前から山形県上山へと情報収集と普及に取り組んで見えます。 


3 名前:北転船 投稿日: 2008/10/07(火) 22:33:30 
昭和28年発行の「津軽古今偉業記」に、“染工 土岐伊右衛門”の名前が記載されています。
それによれば、“土岐伊右衛門”は元禄の頃、野元道元に誘われて西京より津軽・弘前城下に来て、
津軽藩の御用染工となり武具蔵紙蔵等及び織坐又は納戸役の命を受け勤めたようです。
文化・文政中には名主をも勤め、町内第一の重立で豪富を極めたとあります。
染方も最も名人で、如何なる物をも染めると大変評判だったようです。
また、文政年中岩木川大水の時、災害を蒙った多くの人々を救済したそうです。
弘前市内には現在も、“先祖が京都から移住した染物屋さんだった”との家伝の「土岐さん」一族が住んで居られ
、貴重な仏像等が伝わっています。

“土岐伊右衛門”の子孫の“土岐繁太郎”はネプタ絵の名手でもあり、13歳の時、津軽藩主信順公の面前でネプタ絵を描き褒められ、
後に平尾魯仙門下で絵を学んでいるようです。 


4 名前:北転船 投稿日: 2009/04/27(月) 01:06:43 
青森県津軽平野の北部、五所川原市野里地区に群住されている「野里土岐一族」の先祖はどうやら、
土岐・明智系・沼田流れのようです。
沼田土岐初代藩主「土岐定義」公の次の代辺りに「土岐貞範」が別れ、「五所川原市・野里土岐一族」に続いているようですが、
どなたか「土岐貞範」についてご存知の方は居りませんでしょうか?
手元の資料を調べていますが、今のところ見当たりません。
沼田藩土岐二代「土岐頼行」公と同年代か一つ前の頃と思われますが・・・。 


日本家系図学会

1 :mino阿弥:2009/04/21(火) 17:09:50 
日本家系図学会の公式HPができました。
下記、ご案内申し上げます。

   http://ycr-kakeizu.com/gakkai/index.html 


2 :T/M:2009/04/21(火) 23:09:57 
mino阿弥様 
ご無沙汰いたしています。
さっそくHP拝見させていただきました。役員名簿に井澤さん、小佐々さんのお名前もあり、入会させていただきたく思います。
宜しくお願い申し上げます。 


3 :mino阿弥:2009/04/22(水) 08:49:34 
ありがとうございます。

ご造詣の深いT/M様に、ご入会頂ければ、心強い限りです。
ぜひ、よろしくお願い致します。
ただ、申しわけありませんが、事務局の手続きが遅れて
すべてがスローモーとなっておりますので、お含みくださいますよう。 


4 :T/M:2009/04/22(水) 23:40:43 
mino阿弥様
入会は五月中旬頃になると思います。よろしくお願い申し上げます。 


5 :mino阿弥:2009/04/23(木) 10:59:51 
承知いたしました。
お手数ですが、学会HP上に入会手続き等紹介されておりますので
ご参考にされ、お手続きのほど、よろしくお願い申し上げます。
いつの日か、お目にかかれることを楽しみにしております。 


6 :カナタ:2009/04/23(木) 23:52:22 
突然失礼します。
土岐氏の事について調べていましたら、ここにたどり着きました。

インターネットで調べられるのも限界があるなと思っていましたら、
こちらにて家系図などについてのサイトの事をお話されておりましたので、
突然ですが、書き込みをさせて頂きました。


こちらで質問などをしてもよろしいのでしょうか?
関係のないお話でしたらすみません。 


7 :mino阿弥:2009/04/24(金) 09:17:08 
このフォーラムは、土岐氏研究が主体ですから詳しい方がおられます。
ご質問されたら、いかがかと思います。
また、下記HPにも、宝賀寿男先生(日本家系図学会会長)の土岐氏についての
論文があります。
ご参考まで。
     http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihumokuji.htm 


8 :カナタ:2009/04/25(土) 16:35:51 
>mino阿弥様

ありがとうございます。

さっそくなのですが、実は小学生の頃、母から
「お母さんの先祖の親戚はあの明智光秀なんだよ」
と言われて、本当かよ?と半信半疑でいました。

私の母の旧姓が土岐でして、どうして土岐と明智がつながるのか全然知らなかったのですが、
大きくなってから明智家が土岐家の親戚?みたいな感じだという事を知りまして、
テレビでも歴史の謎を解く〜という番組が沢山放送されていて、先祖の事を調べてみたくなり、
インターネットで土岐家について書いてあるHPなどをチョコチョコ読んでました。


数年前に祖父母と母が紋付の喪服を作ったらしく、見せてもらったらもちろん桔梗の紋が入ってまして
(土岐家なので当たり前なのですが)それが「土岐桔梗」というのだという事もついこの前知りました。

その位、全くの素人でして、知っているのは祖父母から聞いてる話と、うちのお墓位でして、
その話と繋がる土岐さんがいたら、それが先祖なのかも。。。と興味本位で調べたのですが、
なかなかその土岐さんがどちらの土岐さんなのか分らずに困っていました。


ウチのばあちゃんがじいちゃんと結婚する時に、じいちゃんのばあちゃんから
「畑にひょうたんだけは作るな」
と言われたらしく、それは明智を倒したのが豊臣で、豊臣の家紋がひょうたんだから
作るなって言われたのか〜と、小学生の頃の私は思っていました。

でも何でうちが明智じゃなくて土岐なのかは分かりませんでしたけどね。笑


あと土岐の事で聞いているのは、確かじいちゃんのじいちゃんが土岐家の養子だとゆう事と、
青森に城があったという話です。

その証拠となるような何かがある訳ではないのですが、じいちゃんの話によると
お城は維持するのが大変だから(笑)そこの街に預けたかなんかして、宮崎に引っ越してに来た
という話でして、私も宮崎県出身です。(現在は東京に在住しております)

うちの土岐家のお墓も宮崎にあるのですが、その中の古いお墓には住所みたいなのが側面に彫ってあって、
どうやらそれが本籍地でお城のある住所なんだとかいう話をお墓参りに行った時に聞かされました。


本当なのか自分でもよくわからないのですが、家紋は土岐桔梗だし、
じいちゃんのばあちゃんが孫の嫁(私のばあちゃん)にあんな事を言う位だし、
本当なのかもしれない〜と一応は信じています。


でも、青森に土岐のお城があったなんて知らないし、しかも維持出来ないから預けたとか
なんか笑っちゃうような話ですし、コレがその城か〜と分かれば少しはスッキリするのですが、
土岐氏はいっぱいいて、どの人がその話に当たるのか全然分かりません。


お城の話はうちの母も聞いてたみたで、いつかそこに行ってみたいよね〜と話したりしています。
土岐氏についてお詳しい方がいらっしゃるという事ですので、もし今話した事に繋がるような
土岐さんがいたのなら、お聞きしてみたいと思って、書き込みしました。


長文な上に、きちんとした文章が書けなくてすみません。
こんな感じなのですが、私の書いた文章の意味なんかは伝わったでしょうか?

是非是非、教えて下さい。
ご紹介して頂いたHPも、早速読んでみます。 


9 :T/M:2009/04/27(月) 00:09:20 
和徳稲荷神社(青森県弘前市和徳町)に和徳城址があるといわれています。
小山内讃岐の居城で小山内氏は南部氏の配下であったが元亀2年(1571)
に津軽為信に攻められて落城、小山内讃岐の娘・市は田舎館城の千徳政武に嫁いだ
が千徳氏も津軽為信に攻められて滅亡したそうです。慶長6年(1601)、
」津軽為信は弘前の清水森で津軽一統戦の戦死者の大法要をいとなんだ時、
小山内讃岐の娘・市が祭壇の前に立ち自害した伝承があるようです。
青森県出身の小山内氏一族の末裔と思われる小山内さんの家紋は丸に隅立て四つ目紋で
佐々木一族と思われます。土岐さんとの関係は何かありませんでしょうか?

   http://homepage2.nifty.com/nanbu_hachinohe/kojo_aomori/wattoku.html    参照 


10 :青森県・土岐高田:2009/04/27(月) 00:20:02 
私は青森市に在った「青森市高田城主・土岐大和之助則基」の子孫のうちの一人です。
かなり離れた分家の出身ですが、詳しくはこちらをご覧下さい。

   http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/1805/1076770287/

また、「青森市高田城」跡の住所は、現在は青森県青森市大字高田字日野271番地の辺りです。
青森市と合併する以前の住所は、青森県東津軽郡高田村日野でした。
城の在った場所は、現在の青森空港の東側下の「高田集落」です。
現在の写真がこちらに掲載されていますので、ご覧下さい。 

    http://joukan-tamashy.web.infoseek.co.jp/joukan/aomori/takada/takada.html

「青森市高田城主・土岐大和之助則基」は三戸南部氏の武将で、津軽為信が津軽平定のため浪岡城を攻撃した時、
父・土岐大和之助則基(76歳)は「高田城」において、長男・土岐善兵衛則里は「浪岡城」において戦死しています。
次男の「土岐善太郎則忠」と三男の「土岐善四郎則古」は、時の三戸南部藩主の姪に当たる「姫」を「浪岡城」から救出し、
三戸南部氏の本拠である「青森県三戸城」に送り届けました。
その後、次男の「土岐善太郎則忠」は七戸藩(盛岡新田藩)の藩主に仕え、
その子孫は現在、青森県上北郡七戸町の高田(土岐)一族として残っております。
また、三男の「土岐善四郎則古」もその後、岩手県軽米・高家地区に住み、その子孫は八戸藩主に仕えています。

「青森市高田城主・土岐大和之助則基」の先祖はその昔、現在の山梨県から岩手県を経由し青森県に移住して来ているようです。
ご参考までに・・・。 


舟木氏族について

1 名前:森の梟 投稿日: 2006/09/13(水) 23:15:39 
舟木光経は、兵部少輔光頼の嫡子で他に光重・信光・女子・頼尭の兄妹がいます。

 兵部少輔光頼----・光経【光頼嫡子 右京亮 奉仕:北畠具教卿 居城:勢州一志郡堀内】
         ・光重【光頼次男 堀内次郎右衛門尉 天正年中属神戸具盛卿】
         ・信光【光頼三男 主馬助 雲林院合戦討死】
         ・女子【光頼娘  土岐昌頼室】
         ・頼尭【光頼末男 右馬助 継美濃国今尾遺跡 慶長年中奉仕東居家】

舟木主馬助信光以後について
・信光【光頼三男 主馬助 雲林院合戦討死】----中村掃部助頼氏【信光男 属蒲生飛騨守氏郷卿幕下於勢南与會津領二千二百石】
----・中村左門進氏正【頼氏二男 大河内谷戦之時有手柄 立曲村居住】
----中村清太夫正貞【氏正嫡子 小津村居住 慶安五壬辰(1652)三月二十日逝去 法名浄祐】
----・中村清兵衛尉正盛【正貞男 詳細不明】---- 略


舟木右京亮光経以後について
光経には、光春・光教・光時・光義・頼信・光長の子供がいます。

右京亮光経----・光春【光経嫡子 舟木左馬助】
       ・頼教【詳細不明】
       ・光教【光経三男 舟木三右衛門 住?井上 大河内乱戦死】
       ・光時【光経四男 舟木七郎四郎 継小山遺跡】
       ・光義【光経五男 舟木七郎五郎 属京極家】
       ・頼信【光経六男 今尾蔵人】
       ・光長【光経男  中村仁右衛門】

舟木三右衛門光教以後について

舟木三右衛門光教----・正教【光教次男 舟木三郎太郎 号井上 属古田大膳大夫幕下其後松平家】
----助正【正教嫡男 井上主計 於関ヶ原有軍功奉仕?将軍家改藤原姓】
          ・頼久【光教末男 舟木九右衛門尉 継堀内遺跡】 


2 名前:源臣 投稿日: 2006/09/14(木) 13:03:48 
森の梟様
詳細な船木系図を書き込みいただきありがとうございます。
藤原姓を名乗った助正以後の系図をご存知でしょうか?
藤原茂清という人物を探しています。山梨県小菅村には船木姓が100軒近く現存します。
この小菅村を開いた人物が藤原茂清(小菅城主)です。
もしかして茂清は、助正の後裔ではないかと「夢」を見ました。
また小菅の船木には3流ありまして、その始祖(中興の祖?)は孫二郎家、四郎五郎家、光家の3家です。
四郎五郎家では四郎五郎---隼人---滝二郎---喜三郎---滝二郎---喜三郎と交互に続きます。
もし関連情報がありましたら、お教えください。 


3 名前:喜三郎 投稿日: 2006/09/14(木) 14:38:58 
森の梟様、

私は、上記に掲載いただきました舟木氏族の中村仁右衛門尉光長の嫡男、
中村喜三郎光康(またの名を中村市兵衛忠知、或いは、市左衛門、三郎右衛門)
の系統の者です。
中村掃部助頼氏の子孫についての大変貴重な情報をありがとうございました。
頼氏の子孫についてはどのようにお知りになりましたか?
森の梟様ご自身が頼氏のご子孫であられとか、いずれにしましても、
どちらで資料を拝見できるでしょうか?
中村清兵衛尉正盛【正貞男 詳細不明】以降の系図も知りたく、
また、舟木氏族、や中村氏族の様々な調査をいたしたく思っております。
私も舟木氏族について調べているものですので、是非に、ご連絡をさせていただければ
と思っております。

また、上記の情報
舟木主馬助信光以後について
・信光【光頼三男 主馬助 雲林院合戦討死】----中村掃部助頼氏【信光男 属蒲生飛騨守氏郷卿幕下於勢南与會津領二千二百石】
----・中村左門進氏正【頼氏二男 大河内谷戦之時有手柄 立曲村居住】
----中村清太夫正貞【氏正嫡子 小津村居住 慶安五壬辰(1652)三月二十日逝去 法名浄祐】
----・中村清兵衛尉正盛【正貞男 詳細不明】---- 略

のうち、大河内谷戦とはいつの合戦のことでしょうか?
また、小津村とは、三重県三雲内にある小津村のことでしょうか?

お手数おかけしますが、ご存知でしたらお教え願いたく、よろしくお願いいたします。
資料についてお教え願えれば、調査いたし、私が持っている資料と合わせて考察し、
なんらかのご報告ができるかと思っております。

私の知っている情報は以下です。

舟木左馬助光春----舟木又市郎正光(舟木嫡流)----舟木又兵衛清光----略
         --中村孫次(会津舟木氏祖)
         --中村三郎右衛門猶忠----中村喜三郎光康(実父仁右衛門光長)


中村仁右衛門光長---中村喜三郎光康(従兄猶忠養子)----中村三左衛門直忠----中村大蔵(中村大蔵家祖)----略 
       --中村市左衛門家延(中村佐右衛門家祖)--中村市郎右衛門
            --中村喜三郎---------中村喜三郎-------------中村喜三郎----------中村善蔵(中村善蔵家祖)   
                                     

                                      --中村久米蔵----略     
--中村仁右衛門(甚五兵衛)---------中村仁右衛門忠寛(甚太夫)--中村仁左衛門---中村仁右衛門--略
--中村又蔵 -中村文右衛門忠国--中村三右衛門----中村又蔵(中村又蔵名跡、中村又蔵家祖)



         --堀内重光----堀内九八郎(中村次郎右衛門家祖)
               --堀内次郎八


よろしくお願いいたします。 


4 名前:喜三郎 投稿日: 2006/09/14(木) 15:18:41 
すみません、上記の系図情報を書き込もうと思ったのですが、
上手く書き込めませんでしたので、補足説明させていただきます。

中村孫次(会津舟木氏祖)と、中村三郎右衛門猶忠は舟木又市郎正光と同様、
舟木光春の子です。
中村仁右衛門光長の長男中村喜三郎光康は、舟木光春の子中村三郎右衛門猶忠の
養子となって名跡を継ぎます。
中村喜三郎光康の子は中村三左衛門直忠と中村喜三郎がおります。このうち、
中村三左衛門直忠の3人の子が中村大蔵(中村大蔵家祖)、中村市左衛門家延
(中村佐右衛門家祖)、中村市郎右衛門です。中村喜三郎の系は代々中村喜三郎
の名跡を継ぎ、後に中村善蔵を代々名乗ります。これが私の家です。

中村仁右衛門光長の次男が惣領となり、それが、中村仁右衛門(甚五兵衛)です。
その跡を、中村仁右衛門忠寛(甚太夫)--中村仁左衛門---中村仁右衛門と続き、
中村仁左衛門の兄弟中村文右衛門忠国の跡を、中村三右衛門----中村又蔵と続き、
この中村又蔵が、初代中村仁右衛門光長の三男中村又蔵の名跡を継いでおります。
また、初代中村仁右衛門光長は叔父の堀内次郎右衛門の名跡を継いでいたことも
あるため、堀内重光、堀内次郎八と二人の子供に堀内姓の名跡を継がせています。
このうち、堀内重光の子九八郎の系統は中村次郎右衛門の名跡をついでおります。

山梨の船木氏も、喜三郎の名を名乗っているようですので、なんらかの関係性が
あるのかもしれませんね。 


5 名前:源臣 投稿日: 2006/09/14(木) 17:12:46 
喜三郎様、大変失礼いたしました。
滝二郎---喜兵衛---滝二郎---喜兵衛の間違いです。
系図を写すとき、もっとも注意しなければならない間違いを犯してしまいました。
誠に申し訳ありません。今後充分注意いたします。
お詫びして訂正させて頂きます。
滝二郎---喜兵衛が3度繰り返され、その後に喜一郎---治信と続きます。
やはり喜三郎様の家系との関係が感じられます。 


6 名前:T・M 投稿日: 2006/09/29(金) 17:10:55 
 江源武艦 第1巻に 佐々木一家流々名字之分系

一 真野  同七代の嫡領経方の次男行定が元祖である。後に舟木、間宮と号し、いずれも真野の庶流である。
とあります。佐々木氏と舟木氏の関係についてはいかがでしょう? 


7 名前:T・M 投稿日: 2006/09/29(金) 17:11:33 
 江源武艦 第1巻に 佐々木一家流々名字之分系

一 真野  同七代の嫡領経方の次男行定が元祖である。後に舟木、間宮と号し、いずれも真野の庶流である。
とあります。佐々木氏と舟木氏の関係についてはいかがでしょう? 


8 名前:森の梟 投稿日: 2006/10/01(日) 13:50:31 
源臣様
山梨県小菅村の船木氏族と舟木三右衛門光教の孫の助正との関係ですが、残念ながらないと思われます。
山梨県小菅の船木氏が、小菅村に住み着いたのが源臣様の推測では1300年代とされておられるので・・・
助正は 1500年代後半〜1600年代前半に存在した人物と考えられるためです。
舟木氏族で 1300年代とすると初代頼重(讃岐国高松喜岡城建武二乙亥年築城の記録あり) 
頼春(建武三丙子年九月十七日蒙台命。此時賜錦袴。の記録あり) 頼夏(貞治五丙午年遺言の記録あり)
 頼尚(正尚後見) 正尚(貞治二癸卯年属多藝
御所幕下。の記録あり) 以上のあたりの分家と考えられるのではないでしょうか。
頼夏は江州舟木庄(滋賀県の旧高島郡安曇川町のあたり)に居を構えていたことがあるようです。
山梨県の小菅城がいつごろ存在していたのか分かればそこから、藤原茂清という人物をさがせるのではないでしょうか。
(小菅城があった時代の甲州の支配から、氏族を探れるのではないでしょうか。) 


9 名前:船木丹波守 投稿日: 2006/10/01(日) 16:54:23 
お久しぶりです。2万ヒットではお世話になりました。
船木丹波守と名を改めましたので、今後ともよろしくお願いいたします。

森の梟様
光経の五男光義が京極家に属していた事、頼夏が江州舟木庄に居を構えていた事に関して
どの様な資料を参照されたのか出典などお教えいただければと思います。

京極家には佐々木庶流舟木家があります。
佐々木流舩木氏は近江の船木荘(滋賀県八日市市船木町)を拠点として「舩木」を名乗り
佐々木四家分裂時に各家に別れ舩木氏庶流舟木氏が佐々木庶流京極氏に従い代々続きます。

古代船木氏族の功績(航跡)なのか船木と言う地名が各地にあり船木を名乗る氏族も多く
戦乱に敗れツテを頼りに各地に移り住んだ家も多く目的の氏族を探るのは大変です。
主家の六角氏が信長に滅ぼされたため蒲生氏に従った佐々木流舩木氏もいると思います。
土岐流舟木氏と佐々木流舩木氏(舟木氏)との関わりに関してとても興味がありますので
よろしくお願いいたします。 


10 名前:船木丹波守 投稿日: 2006/10/01(日) 17:01:40 
大変失礼いたしました。訂正です。
滋賀県八日市市船木町では無く滋賀県近江八幡市船木町です。
お詫びして訂正させて頂きます。 


11 名前:源臣 投稿日: 2006/10/01(日) 17:55:40 
森の梟様。
アドバイスありがとうございます。
小菅村に行く機会が今後もまだありますので、小菅城のことを調べてみます。 


12 名前:T・M 投稿日: 2006/10/10(火) 18:51:13 
舟木郷 「和名抄」によれば 平安期から名が見え、美濃本巣郡八郷の1つで、中世舟木荘の地に比定されるとあります。
舟木荘に関する記述に関して「壬生文書・後醍寺文書」の他「佐々木文書」に記録があるようです。
元高階肥後入道寂法(基実)の先祖伝来の私領。嘉応年中寂法は当荘の本家食を山城法勝寺に寄進。
領下職を7人の子供に譲り、法勝寺領として1荘をなしながらも領下職は」個別分散的に伝領され、戦国期に至った。
高階肥後入道寂法について色々調べましたが、納得のいく土岐氏 ・佐々木氏 とのかかわりを得る事が出来ませんでした。
美濃には飛騨、古橋、鞍智、などに佐々木領があり、多くの佐々木氏家臣が移住し、土岐氏の家臣になった一族もいたようです。
高階肥後入道寂法について何か御教示いただけないでしょうか? 


13 名前:森の梟 投稿日: 2006/10/19(木) 10:13:35 
喜三郎様
お返事が大変、遅くなりましてすみません。
お尋ねの「大河内谷戦とはいつの合戦のことでしょうか?」
また、「小津村とは、三重県三雲内にある小津村のことでしょうか?」の件について
調べなおしてみました。昔見た系図には 中村左門進氏正【頼氏二男 大河内谷戦之時有手柄 立曲村居住】としか書かれておらず、
他の系図等で考察するところ「大河内谷戦い」とは「大河内魔虫谷(真虫谷)の戦い」と思われます。
この戦いでは、光春の弟の三右衛門光教が戦死しています。また、
「小津村」とは三重県三雲町(現:松阪市)小津のあたりと思われます。
喜三郎様はご存知と思いますが、「仁左衛門光長」が改名した時期は北畠具教卿が逝去(天正4年)された後
 「舟木姓」から「中村姓」に改名と舟木系図に記載されています。
父 光経が戦功で賜った「中村谷」に居を構えた故「中村姓」にしたようです。

「初代中村仁右衛門光長は叔父の堀内次郎右衛門の名跡を継いでいたことも
あるため、堀内重光、堀内次郎八と二人の子供に堀内姓の名跡を継がせています。」とりますが、
舟木系図によると堀内次郎左衛門光重-----堀内次郎右衛門光□【光経二男。少名号舟木又太郎。爲光重之養子聟。】とあります。
また、別の舟木系図には「光経七男光長爲堀内次郎右衛門光重之養子。」とあります。
「堀内次郎右衛門光□」と「光長」が同一人物か否か考察する必要があるように思えます。
また、光長が光重の養子になったときまだ「舟木姓」を名のっていた可能性もあります。
光長の父の光経も「堀内光経」と記載されていることもあります。
昔の系図は、その家(家系)の都合のよい部分のみを残し 
不都合な部分や分家の部分は削除される傾向が強かったように思えます。故に同じ家系の系図でも内容が異なることも多いようです。 


14 名前:森の梟 投稿日: 2006/10/19(木) 10:31:10 
船木丹波守様
お尋ねの件について、「光経の五男光義が京極家に属していた事」、「頼夏が江州舟木庄に居を構えていた事」に関して
は「舟木系図」に記載されています。 


15 名前:喜三郎 投稿日: 2006/10/19(木) 11:12:06 
森の梟様、

ありがとうございます。
大変参考になり、感謝いたしております。 


16 名前:喜三郎 投稿日: 2006/10/19(木) 11:14:15 
森の梟様、

舟木主馬助信光以後の系図は何という書物に載っていましたか?
もし可能であれば、信光の子孫、中村清兵衛尉正盛以降の系図も
教えていただけませんでしょうか?
また、森の梟様がご覧になっているものと同じ「舟木系図」は
どこで閲覧することができますか?

お手数をかけしますが、宜しくお願いします。 


17 名前:名無しの権兵衛 投稿日: 2006/11/15(水) 19:43:30 
私のおじいさんが船木重治という名前で、生まれは山梨県だそうです。
もう亡くなっていますので詳しい事はわからないのですが、こちらの家系図の方の子孫なんでしょうか?
昔、屋敷があったとか言ってたみたいです。 


18 名前:源臣 投稿日: 2006/11/15(水) 21:23:09 
おじい様のお生まれは山梨県のどちらでしょうか?
小菅村でしたら、多少の手掛かりが見つかるかもしれません。
その他、差支えの無い範囲で、貴家のこと(系図関連)で
何かおわかりになることがあれば、お書き込みください。 


19 名前:名無しの権兵衛 投稿日: 2006/11/18(土) 00:05:49 
源臣様   おじいさんは生きてたら90歳位だと思います。4歳頃に両親が崖から落ちて亡くなったらしいです。
今、親戚が仲が悪いので、生まれた場所など聞いたりできないんです。ごめんなさい・・。
また詳しい事がわかったら、書き込ませてもらいます。ありがとうございました。 


20 名前:源臣 投稿日: 2006/11/19(日) 17:37:23 
名無し様
了解しました。どうぞお気になさらずに・・・。 


21 名前:澤源 投稿日: 2008/02/13(水) 09:13:24 
本日、祖父が小菅村出身の舩木さん(国立市在住)から、「美濃・土岐一族」の本の注文を頂きましたが残念ながら売り切れです。
ですから、4月19日(土)に行われる「平成20年度土岐会総会」の案内と、
6月21日(土)から年間5回行います『美濃源氏フォーラム東京六本木講座』の案内をしました。
尚、小菅村においては詳しい方が亡くなられ、その後に続く方がみえないので残念とのこと。 


22 名前:源臣 投稿日: 2008/02/13(水) 19:03:46 
澤源さん
国立舩木さんの言われている「小菅村において詳しい方」とは
田中祀計さんの事でしょうか?
お名前までは書かれてはいなかったでしょうねえ。
確認まで。 


23 名前:澤源 投稿日: 2008/02/13(水) 23:28:02 
国立の舩木さんの感じからすると長老的な方が亡くなられたとのことですので、
恐らく田中さんのことかもしれません。
それから、この舩木氏には桔梗紋以外にも他の家紋が三種類程あり、
それらの関連がどうなっているか、やはりご存じありませんでした。
また、武田家二十四将の中の山県氏がこの小菅村に入ってきており、
お墓の山県家はやはり桔梗紋です。
その他、武田家二十四将の中に原氏がおり房州臼井からの転入であり土岐原氏かとか、
馬場氏は瑞浪市の釜戸町に残った天猷寺の先祖にあたるだけに、
また土岐頼芸が房州から甲州に移っていますので、
総合的に武田家と土岐氏との関係を研究する必要があります。
こんなことまでも、国立の舩木さんにお話した次第です。 


24 名前:名無しの権兵衛 投稿日: 2008/02/14(木) 17:16:57 
小菅村とは、山梨県北都留郡小菅村のことでしょうか?
もしそうなら、小菅城主は武田氏の一族といわれる小菅氏だそうです。
武田勝頼の代まで何代にも渡って武田氏に仕え、江戸時代には、
家康に仕えて旗本になっています。
もしかしたら、藤原姓の人物が城を作って、後に、武田一族を養子に入
れたのか、仮冒したのかもしれません。
それにしても、舟木氏の一族との関係は分かりませんね。 


25 名前:源臣 投稿日: 2008/02/15(金) 19:09:52 
権兵衛さま
書き込みありがとうございます。
小菅城主のご当地小菅村に、船木氏は西からたどり着いた。
と小菅村の長老がお話されていました。
小菅氏と船木氏はそういう関係のようです。 


26 名前:源臣 投稿日: 2008/02/15(金) 20:10:50 
澤源様
武田氏と土岐氏の関係の研究・・・。是非に・・・。
趣旨からちょっと外れますが、源臣の曾祖父の母は武田信親の娘。
武田信親は信玄の弟信実(川久保・川窪を名乗る)の末裔です。
武田家のことも調べたいとは思うのですが、手が回りません。 


27 名前:名無しの権子 投稿日: 2008/02/16(土) 23:07:34 
私の家は小菅村の隣、丹波山の出と言われており、
江戸時代に丹波山を出て改姓しましたがその前は舟木姓でした。
舟木庄左衛門という丹波山の金山奉行だったということですが
真相は不明です。こちらの舟木氏と関係がありますか?
家紋は丸に鷹の羽。丹波山以前のことはわかっていません。 


28 名前:澤源 投稿日: 2008/02/17(日) 00:05:22 
舟木姓から変わられたとのことですが、舟と船と舩のふなきもあるようですね。
小菅は舩木のようですが、名無しの権子さまは如何でしょう? 
又、家紋の分布については詳細に書き留めて来ませんでしたので、
小菅村教育委員会に聞かれると良いと思います。 


29 名前:名無しの権子 投稿日: 2008/02/17(日) 10:56:20 
澤源様 ご教授ありがとうございます。
漢字は「舟木」となります。
家紋は丸に「違い」鷹の羽でした。庄左衛門が実在したかを
調べたいと思ったもので。小菅村の資料にあたってみるのが
良いようですね。ありがとうございます。 


30 名前:澤源 投稿日: 2008/02/18(月) 10:21:45 
名無しの権子さま、求められる資料が詳しくあるかどうか分かりませんが、
確か「小菅村史」は2000円のようだった気がします。在庫は、あるはずです。
因みに、土岐氏の調査にてチョコチョコと問い合わせがあることが話題になっているでしょうし、
このような形で小菅が掲示板等に出ていることもお知らせしましたので、
引き続きみている方も小菅にある前提で、是非多くの書き込みをして頂けたら幸いです。 


31 名前:名無しの権子 投稿日: 2008/02/18(月) 13:44:36 
澤源様、色々とありがとうございます。
「丹波山村誌」は入手しましたが、古い時代のことは
あまり出ていませんでした。小菅が舟木姓の本拠地だとしたら
小菅の資料を見てみる必要がありますね。
小菅の長老の言っていた「楠木氏の残党と一緒に」云々が
本当なら、舟木某が金山に実在していたとしてもおかしくないと思いました。 


32 名前:源臣 投稿日: 2008/02/18(月) 21:32:14 
権子さま
小菅の長老いわく
楠家は金を始め銀、銅、水銀、などの鉱物の採掘技術に長けていたそうです。
地方豪族の武力の背景には、その技術力から来る経済力がモノを言ったようです。
楠正成が戦った千早城には出城の船木砦がありました。
(その船木系が)敗戦により小菅や丹波山に逃れてきたようです。
丹波山には黒川金山があり、金や朱(硫化水銀)を産出、
正成は全国に朱の制権(産出権・採掘権)を持っていたようで、
船木氏は楠一族の幼児を伴って丹波山に来たようです。
そのうちの一人が船木某(庄左衛門?)が黒川金山の奉行だとしても、
おかしくありませんねえ。(それどころか辻褄が合います)
土地柄、丹波山へ来た楠家の末裔の方は、武田家の家臣となられたようです。
(この部分は数年前に丹波山の楠家の方を訊ねた折に得た情報です)
僕の写した土岐・船木系図には、船木庄左衛門は出てきませんが、
船木三郎左衛門や次郎左衛門等が記載されています。 


33 名前:澤源 投稿日: 2008/02/18(月) 23:16:37 
源臣さま、あんたは凄い、凄すぎます。 


34 名前:名無しの権子 投稿日: 2008/02/19(火) 13:43:31 
源臣さま
眉唾ものと思っていた我が家のご先祖様も
西から来たひとである可能性が?!
俄然面白くなってきました。土岐船木氏の傍流ぐらいでは
あるかもしれないというわけですね。 


35 名前:澤源 投稿日: 2008/02/20(水) 10:56:50 
名無しの権子さま、4月19日(土)には東京霞ヶ関ビルにて年に一度の「土岐会」の総会がありますし、
3年目を迎えた美濃源氏フォーラム東京六本木講座は6月21日(土)から年間5回の講座となりますので、
是非ご参加賜れれば幸いに存じます。
特に、東京六本木講座の初回は「全国土岐氏探訪記」の予定らしく、小菅村の話も入ると思います。 


36 名前:名無しの権子 投稿日: 2008/02/20(水) 14:59:04 
澤源さま
まだまだ知識不足故、外堀を固めてから参加させて
いただいたほうが良いかとも思いますが(笑)〜
いずれにしてもご案内ありがとうございます! 


37 名前:澤源 投稿日: 2008/02/20(水) 15:23:59 
名無しの権子さま、いえいえ私も同様にルーツが分かりませんが土岐一族でもないのに普及活動を進めています。
そして、土岐会に出て見える方でも土岐氏の系譜を美濃まで辿れるという方は極まれなことでして、
土岐氏に繋がる情報集めと親睦会が主たるものでしょうし、又美濃源氏フォーラム東京六本木講座は
当然一般の方を対象としていますが、ただし土岐さんが多いのが特徴と言えるぐらいです。
源臣さまは今でも両方に関っていただいている方ですので、ご検討をお願い申し上げます。
当然、この掲示板を見られる方々にも、どうかご関心を頂戴しながらご参加賜れれば幸甚です。 


38 名前:名無しの権兵衛 投稿日: 2008/06/26(木) 23:09:04 
:::::: 


39 名前:mino阿弥 投稿日: 2008/07/02(水) 09:37:46 
「舟木頼重」 土岐光定の子とされていますが
インターネット上では高松町にある喜岡寺の境内周辺は高松城のあった所で
あり建武ニ年(1335)築城。
高松郷と呼ばれたこの地に居住して高松氏を名乗った。生駒親正が現在の
高松城を築くまではここが高松城とよばれていたと。
舟木氏は、後醍醐天皇の命により讃岐守護となっていたとのことですが?
このあたりは、よくわかりません。
ご研究されている方がおられれば、お教え下さい。
土岐光定の後裔が伊予や讃岐に所領を得て、土岐氏が想像以上に四国に
根を張っていたのではないかとも考えられます。
土岐頼貞が美濃国初代守護となる以前は、美濃の所領以上に、土岐氏に
とっては重要な所領であったやもしれません。 


40 名前:名無しの権兵衛 投稿日: 2008/07/10(木) 12:14:25 
宮方で親政の復権に従事しようとした土岐一族の中で、
頼重は讃岐守護を拝命し、最後まで後醍醐帝に従って、
北朝の細川定禅と戦いますが、戦況の不利を悟って、
畿内に帰還します。
帰還後は、京や本貫の美濃で策動していたかもしれません。
頼重の子孫といわれる高松氏が高松城主として、
秀吉の四国征伐の時の高松頼邑の代まで続いていたようです。 


41 名前:名無しの権子 投稿日: 2009/03/01(日) 12:48:44 
ほぼ1年ぶりに書き込みさせていただきます。つい最近本家の墓石を確認したところ、
ご先祖様は舟木ではなく「舩木」だったことが判明しました(汗)。
丹波山にいた舩木の末です(文政まで丹波山在)。「小菅村史」には舩木氏の由来にかかわる記述はありませんでした。
黒川金山関連の本も当たってみましたが、資料に残されている有名な金山衆が出現した頃には
既に黒川の金脈は枯渇しはじめていたこと。金の産出量のピークは武田のごく初期である
ということがわかりました。なので現在残されている資料からご先祖様を特定するのは
難しいかも。。。いつになるかわかりませんが、丹波山の縁者まで遡り
何か新しいことが判明しましたらまた書き込みさせていただきます。
ご報告まで。 


42 名前:生無上人 投稿日: 2009/04/04(土) 21:19:14 
私の先祖は時代によって「舩木」「舟木」を使用していたようです
故に、墓石の字も「舩木」「舟木」の両方が入り混じっています
先祖のなかには、私的文書と公的文書に記載する苗字を「舩木」「舟木」で使い分けて
いた人もいます
もともと、舟木の祖の「頼重」も「舩木頼重」と書くようですし、単に今「舟木」と
書いても昔は「舩木」と書いたかもしれませんし、この逆もありうると考えられます 


43 名前:船木丹波守 投稿日: 2009/04/13(月) 23:04:52 
他家の事はわかりませんが、
祖父の家は、墓石や表札が「舩木」ですが、
公的文書などには「舩木」と記載しますが、ワープロなど機種によって
「舩木」が変換しにくい機種があるため私的には「船木」を使用しています。

文字にはそれほどこだわりが無いのだろうと思いますが今でも、
公的は「舩木」私的は「船木」略字は「舟木」と使い分けて使用しています。
昔の人もその時々によって文字を使い分けていたのだと思います。 


44 名前:T/M 投稿日: 2009/04/14(火) 11:16:25 
沙沙貴神社蔵の佐々木系図によりますと、佐々木行範より出た舟木五良時家、
舟木六良時信(江州舟木領故為?号、佐々木家旗頭、軍功多)がおり、時信より舩木太良信光、
舩木八良源三盛持法名覚念→太良時實、(承?)智号平井常念、(承?)覚、信光より(承?)舩木判官孫左エ門信景、
沢二郎信實→五郎實景、四良義信→五良頼信、太夫房定源などが出ています。間宮、高木姓も舟木一門にあります。
この系図には舩木頼重はみあたりませんが、関係があるかもしれません。
菩提寺はどこでしょう?昔は一門で姻戚を結ぶ事も多かったと思われます。
真、間宮、乾、平井、野口、高木、武佐、新村井、石橋、沢の姓の方と姻戚はありませんでしょうか? 


45 名前:生無上人 投稿日: 2009/04/14(火) 14:57:36 
佐々木行範(眞野行範)は近江の安倍氏族・佐々木氏流から起こった「舟木」であり、
舟木頼重は、美濃清和源氏土岐氏族から起こった「舟木」です。(本巣郡船木郷より
起こる)
菩提寺は、不明です。
頼重の二代あとの頼夏(足利尊氏属)は、江州舟木庄(高島郡安曇川町)が所領のようです。
また、貞治五丙午年に美濃・伊勢・伊予の子供孫供にあてた遺言書が「濃州寺」という寺に
あるようです。残念ながら、「濃州寺」がどこにあるのかは現在では分かりません。
(濃州なのか・江州なのか) 


慈徳院と崇禅寺(妻木氏菩提寺)

1 :T/M:2009/04/13(月) 12:20:32 
慈徳院は土岐氏土岐津町高山にある崇禅寺(妻木氏菩提寺・岐阜県土岐市妻木町)の末寺です。寺紋は桔梗
裏の墓地に平井家の御墓があり、家紋は(丸に桔梗が3ヶ)
この地区には、森川、佐々木、長江、小島と佐々木氏ゆかりの名があるのが不思議です.

地図      http://map.yahoo.co.jp/address?ac=21212&az=40 


美濃市光照寺

1 :T/M:2009/04/13(月) 12:02:38 
古城山(美濃市)の長良川側に光照寺があります。金森氏菩提寺清泰寺の末寺だそうで、寺紋は桔梗。
裏の墓地の多くを占める西部家はルーツは木曽方面とか。西部家のルーツを調査してみたいです。対岸には鹿苑寺があります。


    http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=35.55738778&lon=136.92046278&v=2&sc=5?148,149 
          

龍安寺のつり鐘と土岐康行

1 :T/M:2009/04/12(日) 21:34:54 
正眼寺(美濃加茂市井深 妙心寺派)にほど近くにト雲寺、龍安寺 共に現妙心寺派)があります。
ト雲寺の細川御住職のお話ではすぐ近くの田の土中から1730年に発見されたそうです。
至徳元年(1384年)9月美濃守護土岐康行が武儀郡揖深荘永安寺(当時 南禅寺派?)に寄進したものです。
(龍安寺前 案内板より)すぐ手前山手に丸に隅立四つ目紋の林家のお墓がありました。桔梗紋のお墓は見当たりませんでした。 




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