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11〜20
11: 稲葉氏と御座野 (27)
12: 千葉県銚子の戸木氏調査隊 (14)
13: 土岐光信の弟・源全について (1)
14: 2009新作!高品質の追求、品質保証 (1)   削除
15: 腐った司法制度を改革しましょう。 (3)    削除
16: 土岐氏の時代に「岐陽」 (4)
17: 潮で・・・シャツが・・・ (1)        削除
18: 須佐から安来へスサノオライン (6)
19: 新日本家系図学会・再建 (1)
20: 光秀の美濃の親類 (1)


稲葉氏と御座野

1 :T/M:2008/09/29(月) 22:37:45 
 「古樹紀之房間」の「美濃の稲葉氏の系譜」にあります、
「稲葉氏代々居住し、応仁二年稲葉石鹿入道、御座野村遠見山に要害を構えて移住した」についてですが、
御座野とは地元の伝承では「帝が休息された場所」でこの名がついたそうです。
この地は岐阜県加茂郡川辺町上川辺御座野のことのようです。下麻生に向かって左手に遠見山城跡があるそうです。
御座野には金昌寺がありますが、御住職のお話では江戸中期徳島県からこの地に代官として赴任した
武市氏が富加町の妙心寺派のお寺から御住職をお招きし開山されたそうです。
武市氏の家紋は稲葉、河野氏と同じ家紋でしたので、その理由を御住職にお伺いしたところ、
何らかの関係はあるとのことです。もう少し41号を北に進みますと臨川寺があります。
川辺はほとんど妙心寺派のお寺ですが、臨川寺は八百津 稲葉方通ゆかりの大仙寺の末寺とのことです。
どちらの墓地も拝見させていただきましたが、武市氏以外稲葉氏の痕跡を見出すことはできませんでした。
臨川寺には竹腰姓のお墓がありました。上麻生地区には佐々木ゆかりの土屋氏が多く住んでおられるようです。
対岸の比久見地区の妙楽寺は夢窓国師の庵があり、多治見市にあります虎渓山の御住職が天竜寺住待に成られた時、
ご挨拶に見えたそうです。 


2 :mino阿弥:2008/10/01(水) 16:12:57 
「美濃国諸旧記」の稲葉系図にも下記の通り記されています。
「通以子 通富 稲葉伊豫守法名?塵 加茂郡御座野村遠見山の城に住す」

推測ですが、豊島氏と土岐、斎藤氏との攻防があり、その折かどうか
わかりませんが、瑞巌寺が焼亡し僧侶が何人も亡くなった時があったと
記憶しています。
そんなこともあり、稲葉氏が川辺に移ったのではないかと思います。
なぜ、川辺町かは、わかりません。

「美濃国諸家系譜」には、林光(通)祐が兼山住人稲葉飛騨守通資の婿養子
となったとも、また兼山を攻め取り、藤原氏流稲葉氏を追い落としたとも
書かれています。
斎藤利永の勢威が高くなるにつれ、稲葉山近く(菩提寺も有り)に居たと
思われる稲葉氏は、美濃加茂に退転していったようです。
「美濃国諸家系譜」に記述がある林通祐は、おそらく稲葉氏の家督を
冒したのではないかと想像されます。
林、稲葉通祐の養子となった河野通高の子が通宗(母は林通祐女)であり
通宗の子が通以(元塵)とされています。
稲葉備中守通以(元塵)は「一条兼良公ならびに濱豊後守康慶に随身し・・
応仁ニ年四月より加茂郡御座野之里遠見山に於いて要害を構え之に住・」と
真偽のほどはわかりませんが「美濃国諸家系譜」には書かれています。

各務原市の郷土史家U氏の刊行本にも、御座野に稲葉城(砦?)があったとの
記述があり事実ではないかと思います。

また、おそらく武市氏は河野氏庶流ではないかと思います。
富加町には、U氏の談では、古くから河野氏在住ということですから
一度調査してみたいと思っていますが、時間的に余裕がありません。

松山市在住の方が、定年後にHPを開き、「天徳寺資料」を紹介しておられます。
関山慧玄が中興開山だそうで、稲葉、加藤氏のつながりもあるようです。
伊予に妙心寺開山関山慧玄の足跡があるとは、知りませんでした。

臨済宗遠山派の峰翁祖一、大蟲宗岑、月菴宗光が、恵那の岩村から
はるばる伊予に行って、それぞれに寺を開山しており、どのような
所以があってのことか不思議です。
調べていますが、なかなかわかりません。
何かおわかりでしたら、お教え頂きたいと思います。 


3 :mino阿弥:2008/10/02(木) 09:28:31 
「美濃国諸家系譜」(東大史料編纂所蔵)によれば
加賀から脇屋義助とともに根尾谷に落居した山岸一族(山岸・林・富樫・小林・井上・森本)の
林七郎左衛門通兼(大野郡清水城主・1295〜1367)ー林(稲葉)通祐ー(河野)通高ー
通宗(母は林通祐女)ー通以(稲葉石鹿入道元塵)ー通富(母は斎藤利永女)加茂郡ー
ー通則(母は舟木伊賀守頼佐女)ー稲葉一鉄(母は一色左京大夫義遠女1588卒)

母は国枝氏ではなく一鉄の姉とされる深芳野の母も一色左京大夫義遠女とされています。
斎藤義龍の母深芳野の母の出自が一色氏であったとすれば、斎藤義龍が一色氏を称したと
いう理由も氷解します。
この「美濃国諸家系譜」の系図は、他には見られないものですが
「稲葉系図」が、あまりに紛乱していますから、「美濃国諸家系譜」の系図も
切り捨てるのではなく一考に値するものではないかと思います。
あくまでも、系図上のことで証明することは困難ですが通説に一石を投じる
ものではないかと思います。 


4 :T/M:2008/10/02(木) 16:28:47 
富加町の河野(かわの)家は20軒弱あり、ほとんど羽生地区にお住まいです。
家紋は笹竜胆、菩提寺は近くの光宗寺(西本願寺派)とのことです。 


5 :mino阿弥:2008/10/03(金) 09:39:07 
ありがとうございます。

家紋が笹竜胆とは、驚きましたが何らかの経緯があると思います。
宗旨については、河野十八門徒との関わりがあるかどうか調べてみないと
よくわからないと思います。
富加町の河野家に、何らかの伝承が残っており、詳しい方がおられれば
お話を伺ってみたいものです。

明日10月4日は、信長祭りがあり若宮町通りの歩行者天国に終日おります。
人権啓発活動の一環で、11:00から30分、12:40から30分ほど
沖縄の踊りも予定しています。
小さなマスコット人形も配布しますから、子供さん達にも毎年喜んで
もらっています。
岐阜中央クリニックの前にテントがありますので、ご都合がよろしければ
お立ち寄りくださいますよう。 


6 :T/M:2008/10/03(金) 21:53:06 
mino阿弥 様 
ありがとうございます。 明日は都合がつかなく お邪魔で来ません。申訳ありません。
又お誘いください。
3年程前、加治田山城址へ登った時、金昌寺ゆかりの竜福寺の墓地を調査したことがあります。
近々 光宗寺(西本願寺派)と、再度 竜福寺(妙心寺派)へ行ってみたいと思います。 


7 :T/M:2008/10/05(日) 23:07:50 
岐阜市歴史博物館の斉藤徳元展(平成19年11月2−12月2日)に展示されていました
斉藤元忠書状(慶長3年2月)は元忠が富加龍(竜)福寺あてた書状です。書状についてコメントがあり、
富加町加治田町周辺は本能寺の変で戦死した斉藤新五郎利治の所領(まだ未調査)があり、
それが斉藤元忠、徳元に引き継がれたと解説してあります。 


8 :mino阿弥:2008/10/06(月) 09:15:39 
いろいろとお教え頂き、ありがとうございます。
富加町は、日本最古の戸籍の地として有名であり古代から発展していたのでは
ないかと思います。
東香寺には、土岐頼遠の供養塔もあり、以前から気にはしていましたが
どのような所以があるのかわかりません。
宝賀先生のHPにある斎藤系図なども精査したいと思っていますが、とても
余裕がありません。
11月には、宝賀先生とお会いします。
もし、上京のご機会がおありであればご紹介させて頂きます。
また、富加町は、美濃源氏フォーラムでもあまり研究されていないと思います。
今後とも、ぜひご研究の成果をお教え頂きますようお願い申し上げます。 


9 :mino阿弥:2008/10/06(月) 09:52:14 
「道後公園湯築城跡」というHPの中の石野館長のブログに
「河野氏と禅宗の関係」という記事があります。
そのコメントに、私と石野館長とのやり取りが書かれていますので
ご一読頂ければ、幸甚に存じます。 


10 :T/M:2008/10/07(火) 12:21:25 
mino阿弥 様 
「河野氏と禅宗の関係」を拝見させてていただきました。
よく「談話室ゆづき」に訪れますので、河野氏と稲葉氏関連の記事を拝見させていただいています。
宝賀先生のHPにある斎藤系図も勉強させていいただきたく思います。
よろしくお願い申し上げます。 


11 :T/M:2008/10/09(木) 23:50:55 

1)下麻生城址(町指定史跡)
飛騨川を一望できる断がい上にあった山城で、遠謀は白川、八百津、兼山方面におよび、飛騨街道の要塞
を占めていた。別名「遠見山」と呼ばれていたこの城は、3つの山からなり、
本丸、二の丸、旗揚場などが構築されていたと推定される。山頂には枯れることのない城井戸が現存している。
城主は、稲葉一族の彦六(良通 一鉄)ともいわれ、戦国時代に築城してこの地方を支配していた。
しかし、金山(兼山)城主森長可によって攻められ落城した。その後、井戸七郎兵衛が城を守って、
白河方面の中継地としていたが、再び戦乱が起こり、城主は落ち延びて廃城となった。
井戸七郎兵衛は、稲葉氏の家臣とも言われ、撤退のさい森長可によって船中で謀殺されたとの伝承がある。
(川辺町教育委員会よりお送りいただいた資料より)

2)米田城 飛騨川の東岸福島地区の愛宕山(米田富士)山頂に肥田玄蕃の米田城が構築されていたという。(濃陽志略)
本能寺の変の天正10年(1582)7月、金山城主(旧可児郡兼山町)森長可の攻囲にあった。
城兵はよく防戦したが大軍を動員出来る森軍に比ではなく、玄蕃は加治田城(加茂郡富加町)に逃れ去った。
その後両軍の断続的な合戦が続いた。肥田氏は次第に衰退し子孫は尾張藩に仕えるようになった。
比久見には肥田氏の菩提寺である竜洞寺も建立されている。
森氏は米田城を手中にすると下麻生城(遠見山城)に家臣の井戸治兵衛を置き、
当地方を統治させた。(角川日本地名辞典 岐阜県版より)
1)2)の井戸氏についてはよく調べてみます。
戸氏は8代佐々木経方5男家行(愛智氏)からも出ています。
地元(城入り口付近)の方のお話では彦六は彦九郎ではとのことでした。 


12 :T/M:2008/10/09(木) 23:54:54 
遠謀は遠望 、戸氏は井戸氏の誤りです。お詫びし訂正させていただきます。 


13 :mino阿弥:2008/10/10(金) 11:23:33 
ありがとうございます。

ご記述から考えますと、川辺の稲葉城は想像以上に規模が大きかったのではないかと推測されます。
土岐頼貞は可児郡金山在城との記述も見られ、兼山という地が中世重要な地であったのではないか
と思われます。
兼山の周囲の山城なり砦の遺構は、土岐氏の出城であった可能性もあります。
稲葉氏の名前が見られますのは「舟田の乱」以降のようで、稲葉氏についてはなかなかわかりません。
このほか、美並村上田(郡上郡下田村)にも稲葉城跡があります。(北辰寺城跡・下田城跡)
美濃国諸旧記などにも書かれていますが、稲葉備中守通則に由来するのか、または、それ以前の
林七郎左衛門通兼も関わっているように書かれていますが、よくわかりません。
伊予河野氏と土岐氏の関わりについては大徳寺文書からも揖斐頼雄と河野通堯との関わりがあった
であろうことは確実であると考えられます。
土岐氏が伊予に渡海するためには海賊衆の力も必要であったでしょうし、河野氏の所領の中に土岐氏の
伊予における所領があったわけですから。
また河野氏も宿敵細川氏と敵対していた土岐頼康を頼るということは自然であったのではないかと思います。
ただ、伊予側においても稲葉氏について書かれた確実な史料は見当たりません。
稲葉、一柳氏は河野氏に仮冒したという説が通説のようになっていますが、当時の政治状況などから
考慮すれば、土岐氏と河野氏は想像以上にお互いを知る仲であったのではないかと思われます。
河野氏は、土岐氏が美濃で勢威を振るう以前から源平合戦で源氏を勝利に導いた功により
頼朝から平家に替わって水運の利を与えられたのではないかと思います。
石野弥栄氏の論文に見られる河野墨俣氏など、「無主・無縁」の地とも云うべき河川地帯などの
利権を得て、美濃において一定の地位や勢力を持っていたのではないかと推測されます。 


14 :T/M:2008/10/10(金) 23:46:08 
(北辰寺城跡・下田城跡)
北辰寺は寺紋に千葉氏ゆかりの月星を抱く曹洞宗大本山永平寺の末寺です。
以前裏の墓地を拝見させていただきました。永源寺開祖の佐々木氏頼が開いた天徳寺(関市天徳町)
→北辰寺→林広院(郡上市美並町白山)→ 楊柳寺(郡上市八幡町五町)・悟竹院(同柳町)と広がりを見せています。
しかしこの地より北へはなぜか広がりを見せていません。
天徳寺は佐々木定綱7男伊佐氏を祖とする京極家臣伊佐氏(庶流は伊佐治姓を名乗られています)の菩提寺です。 


15 :mino阿弥:2008/10/11(土) 10:09:12 
ご造詣の深さに驚いております。

比叡山の山王神道の教義の中に北斗七星の信仰があり、千葉氏や北陸の藤原氏
(鎮守府将軍藤原利仁は、北斗七星の化身という伝説)の月星紋は、それに由来するもの
ではないかと推測しております。
永源寺開山の月心慶円は定林寺住ともされ川手正法寺二世信仲自敬とともに入明しています。
月心慶円は、鎌倉建長寺五十八世住持にもなった高僧で、この佐々木氏の縁で永源寺開山と
なったやもしれません。
伊予の天徳寺について前述しましたが、実は、河野教通の子河野通宣の戒名は
天徳寺殿天臨宗感大禅定門です。
瑞浪にも天徳寺があったようで、何らかの関わりがあるのではないかと
思いますが、何の史料も見当たらずつながりません。

土岐氏には、佐々木氏から嫁いできていますから、佐々木氏が居たとしても
当然のように思われます。

明日は、恵那市岩村の大円寺跡など歴史探訪してこようかと予定しています。
開山の峰翁祖一は、関の大通寺で示寂されています。
(関の大通寺は同名の寺がありますが、峰翁の没した大通寺は現在無住で
お堂のみとなっているようです) 


16 :T/M:2008/10/11(土) 15:31:20 
寂室と月心慶円
永源寺の開山は寂室かと思います。「寂室」と「月心慶円」の師「月翁元規」は約翁徳倹に共に参じた仲で、
「寂室」は「月心慶円」と親交があったようです。
平成17年8月27日から10月2日に栗東歴史民俗博物館で開催されました
「 六角氏と永源寺」展において、月心慶円筆「永源寺開山祭文」と『永源寺開山13回忌法語」が展示されていました。
私も最後の頃行きました。 


17 :T/M:2008/10/11(土) 22:57:06 
mino阿弥様
まだまだ勉強中の身です。今後も御指導よろしくお願い申し上げます。 


18 :mino阿弥:2008/10/14(火) 09:58:00 
永源寺開山は寂室元光でした。
ご指摘の通りであり、私の記憶違いで申しわけありませんでした。

岩村の大円寺跡は、専門的な調査は、なされておりませんでした。
大円寺跡を特定する確実な発掘品もなく、中世の遺構は見られるものの
はたしてこの地が大円寺跡であるかどうか確定できないと思います。

元町長Y氏宅も訪問させて頂きましたが、裏山には、中世どころか
古代の巨石文明の痕跡のような巨石群があり、驚きました。

また、「美濃源氏フォーラム」などの機会にでもお声をおかけ頂ければ
いろいろと楽しいお話ができると思います。 


19 :T/M:2008/11/04(火) 22:41:35 
上之保温泉ほほえみの湯(関市上之保)に程近い所に大洞城(一柳城址)があります。
 「天文年間(1532〜55)の頃に、宇佐見左衛門尉が築いたのが始まりとされるが定かではない。
織田信長の美濃侵攻後、郡上八幡城の遠藤慶隆の南下に備えて一柳直末が修築した。
天正16年(1588)、豊臣秀吉は遠藤慶隆を減封。替わりに曽根城主稲葉貞通を入封させ、
武儀郡の北部も領地に編入した。貞通は遠藤氏に対する防御として郡上八幡城の改修と共に、
大洞などの6支城に一族を配置した。特に大洞城は加茂郡から八幡に至る重要な位置にあるため重視され、
嫡子典通を城主とした。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いにおいて遠藤氏は東軍に属し、郡上八幡城や大洞城を攻めた。
その後、稲葉氏は豊後に臼杵城主として転封され、郡上八幡城に再び遠藤氏が入城するが、
領地は郡上郡内に限られたため大洞城は廃城となった。
http://www.geocities.jp/pappakun12/aruku/minokoku/obora/oboramemo.htm」 とされています。
まだ登ったことはありませんが、家から知り合いの御座野への近道として覚えた山道の途中にあります。
ここ(富之保)が90件ほどある土屋一族の集落であることに気がついたのはここ数年のことです。
寺紋に桔梗をいだく祇園山 興禅寺( 瑞穂市十九条)には寛延2年(1749)に代官として着任し
この地方の洪水を防ぐために精力的に治水事業をすすめて大恩人となった川崎平右衛門の墓碑がありますが、
裏手の墓地には同じ丸に隅立四つ目紋の土屋一族のお墓があり、この寺を守るように住んでおられます。 


20 :mino阿弥:2008/11/05(水) 12:27:55 
いつも貴重な情報をありがとうこざいます。
土屋一族も、どのような所以があって美濃に在住されたのか
興味深いところです。
土岐頼貞辺りに遡るのではないかと想像されます。

新・日本家系図学会も来年から再出発するようです。
新会員の募集要項も、まだわかりませんが
よろしければご参加して頂ければと思います。 


21 :T/M:2008/11/05(水) 15:40:02 
mino阿弥様 
お誘いありがとうございます。
一柳氏と本願寺について
本願寺派岐阜別院は1570年?1590年頃、本願寺11代顕如上人が美濃国に巡教の折に、美濃国厚見郡西野(現岐阜市西野町)の土豪、
一柳直高(一柳直末、一柳直盛の父)が信徒となって帰依する。
一柳直高の没後、その墳墓のそばに一寺が建立されたことが始まりと伝えられています。
別院の脇に船橋願誓寺と上宮寺があります。別院の塔頭であったと思われます。
船橋願誓寺は元は羽島市船橋にあったのですが、信長の時代には西野町に来ていたようです。
「鷺森旧事記」には天正8年(1580)
「美濃国岐阜ノ城下船橋願誓寺(岐阜市西野町3丁目)ヘ立寄頼給ヒシカバ、願誓寺大ニ驚キ所コソ多キニ、
信長ノ城下へ来給フ事、夏ノ虫ノ飛テ火ニ入ルカコトシ。近頃卒爾ノ至ナリトテ、
其夜郡上郡飛騨国国境八代八右衛門ト申願誓寺門徒ノ所へ深ク忍ハセ奉り」の一文が記載されています。
教如上人は、安養寺の手引きにより、美並村苅安の乗性寺(郡上市美並町刈安 東家・遠藤家の菩提寺)に入り、
その後、奥明方の西気良村(現在、郡上市明宝西気良)で3年間隠匿したとされています。
船橋願誓寺、安養寺は共に佐々木系のお寺と思います。上宮寺は未調査です。
稲葉氏と姻戚を持つ林氏が仮に佐々木氏につながるとすれば、どの系図とつながるのか土岐氏系図と照らし合わせながら考察中です。
長江氏菩提寺妙応寺(垂井町今須)と最勝寺跡(福井大野田野 旧三条西家領)の墓地に丸に隅立て四つ目結のお墓(各一基)があります。
顕如の母は宇多源氏・庭田重直の娘、
妻は三条公頼の三女の如春尼(最初細川春元養女 結婚時 六角定頼の養女 実姉は武田信玄の正室)であり、
信長包囲網と重ねて考えると興味深いものが有ります。 


22 :mino阿弥:2008/11/06(木) 16:57:24 
一柳氏についても実際どのような関わりがあって美濃に来て河野氏庶流と
して伝えるのか本当のところわかりません。
「美濃国諸家系譜」には、「長江」も見られますが、山岸氏などと
どの程度の関わりがあったのか、わかりません。
上宮寺は、諸所に同名の寺がありますが長森の上宮寺は、一色氏で稲葉、
林との関わりもあったようです。この寺の敷地が館跡のようですが
こちらも、よくわかりません。
一色という地名も見られますが伝承などは、T/M様がなされているような
現地を訪問するという検証が必要であると思います。
しかし、郷土史などには、首を傾げざるを得ない系図が掲載されており
もう少し確度の高い史料に基づいて作成される必要があると思います。
わからないことばかりで恐縮ですが。 


23 :T/M:2008/11/12(水) 17:33:27 

「船橋願誓寺」は東西本願寺に分かれる前110程の末寺があり、分かれる時、39寺が東本願寺派になったそうです。
岐阜本願寺別院は船橋願誓寺が土地を提供したそうです。
ご存知と思いますが、上宮寺は聖徳太子ゆかりの寺で宗派を問わず、全国にあります。
西野町上宮寺は三河3ヶ寺の1つの分かれで、岡崎→美濃加茂・蜂屋 経由で西野町に落ち着いたそうです。
前色の上宮寺はお東ですが、西野町上宮寺との関係はまだ不明です。 


24 :T/M:2009/04/09(木) 17:10:29 
先日4月5日(日)にようやくNo6(10/3 2008)で述べました
光宗寺(西本願寺派)と河野さんがお住まいの上羽生地区へ行きました。
偶然、昨日の岐阜新聞朝刊に光宗寺「辻」御住職のご母堂の遺作展に関する記事が掲載されていました。
このお寺の開祖は500年程前で、現在加茂野の明応寺とのかかわりは特にないとのことでした。
河野さんの御墓はた光宗寺周辺には見当たらず、もう一度戻り、河野さん宅近くの神社の裏にある小さな墓地に行き、
河野家の家紋が丸に笹竜胆、堀部家が丸に梅鉢、亀井家が丸に隅立て四つ目、坂井家、高垣家などがあるのがわかりました。
この墓地地区の墓地か、神社の右にある妙心寺派のそれか、光宗寺のそれかはまたの機会に。 


25 :T/M:2009/04/10(金) 12:29:08 
この羽生もとは半布里といい、墓地は地区の墓地とのことです。墓地の東に鳳林禅寺(妙心寺派)があり、
堀部御住職のお話では開祖は350年前、竜福寺(富加町)の末寺だそうです。 


26 :削除。


27 :名無しの権兵衛:2009/04/12(日) 20:43:07 
富加町竜福寺の右手に墓地が開けています。源氏車・佐藤家、井形・井戸家、
丸に違い鷹の羽・丸に釘抜き・丸に笹竜胆・山田家、堀部家・丸に梅鉢・丸に釘抜き、
天池家・丸に扇。安藤家・下がり藤、丹羽家・丸に梅鉢、嶺川家・丸に笹竜胆紋、
河合家・丸に亀甲花菱など多くのお墓が存在しています。 


千葉県銚子の戸木氏調査隊

1 名前:沢源 投稿日: 2004/02/26(木) 22:48 
来る3月7日(日)銚子に伝わる土岐氏を解明するために、調査隊を組むことになりました。
隊員は、沢源ほか総源さんにホームページ管理者RYUKOさんとTOKI・KIMIKOさん、そして
なにより直系の鈴木さんと岡田さんに、女医の高澤さんの8人となりましたが、お問合せのあられる方は
掲示板にてよろしくお願い致します。
9時に蘇我駅改札口前に集合し、RYUKOさんの乗用車にて一路銚子へ。
戸木氏の菩提寺やら、関連の寺、そして当地の土岐氏や戸木さんにも聞き取りが出来たらと思います。
江戸崎土岐氏や龍ヶ崎土岐氏が滅んだ後、ましてや万木土岐氏にしても
銚子辺りへ逃げた一族があったとしても当然ですので、
土岐を名乗れず戸木氏としていた可能性もありますので、どのような展開となるか
先祖供養になるでしょうから、鈴木さんと岡田さんの成果に期待がもたれます。
帰路は夕刻となるでしょうから、千葉市ぐらいにて土岐氏にちなむ「無礼講」にて
舌鼓と相成るかもしれません。 


2 名前:沢源 投稿日: 2004/03/06(土) 08:54 
銚子の土岐一族調査は、予定通り3月7日(日)9時蘇我駅集合です。
鈴木さん岡田さん姉妹は、前日(3/6)菩提寺にて法要を急遽されることとなり
蘇我駅集合者は、山口先生高澤先生土岐臣先生で、柏組は、7時30分に出発です。
わざわざ岐阜からの調査行で、先祖の地からの訪問が喜ばれる事を期待しています。
尚、直接銚子駅へ向われる方は11時頃現地にてご連絡下さい(090-3590-4401澤源) 


3 名前:沢源 投稿日: 2004/03/09(火) 20:28 
3月7日に予定通り戸木氏の調査に銚子へ行きましたが
その報告が、土岐一氏庶流のコーナーに載せましたので
観覧して下さい。 


4 名前:HP管理者 投稿日: 2004/03/10(水) 07:08 
銚子土岐氏探検隊の報告は「美濃源氏土岐氏」→「土岐庶流と各地の史跡」の最後に掲載しました。

   http://www.geocities.jp/minogenji_tokiuji/toki.shiseki.html 


5 名前:源臣 投稿日: 2004/03/11(木) 21:27 
銚子土岐氏探検隊に参加させていただき、ありがとうございました。
すっかりお世話になりました。「二人フォーラム」の鈴木さん、岡田さん姉妹の
一族への思い入れの強さ、研究熱心さに、マンネリ化した己の最近の態度を深く、
深く反省させられました。また一からやり直すぞ!それにしても楽しすぎる一日を、
ありがとうございました。 


6 名前:Ryuko 投稿日: 2004/03/12(金) 10:20 
源臣さんの「一からやり直すぞ」の意気込み、まさに「二人フォーラム」のパワーをもらった感じですね。
私も二人の熱い思いに、ますます美濃源氏のHPを見やすいもの、情報が集まりやすいページにしなくてはとやる気を頂きました。
源臣さんのコーナーを立ち上げますので、まとめてくださいね。
8日は、埼玉・坂戸の永源寺(土岐島田氏)に行きました。東金と深い関係がありました。9日は徳林寺(島田氏)、兄弟寺です。
どちらも立派なお寺でした。山崎住職さまに親切にしていただきました。
沢源さん、お疲れさまでした。 


7 名前:源臣 投稿日: 2004/03/12(金) 19:33 
永源寺では桔梗紋が沢源さんとRyukoさんをやさしく迎えてくれたことでしょう。
さて9日の「徳林寺」は初めて聞きます。どこにあるお寺ですか?
土岐島田との関係は?よろしかったらお教えください。
私事ですが明日は丹沢へ行ってきます。「山」デビューです。8時間も歩けるか?
ちょっと心配です。すいません関係ないことを書き込んで・・・。 


8 名前:沢源 投稿日: 2004/03/12(金) 22:45 
永源寺は、土岐満貞以降の島田氏を祖とする、島田重次開基の寺院です。
古記録に、「美濃源氏土岐の支流島田満貞といふもの三州嶋田に来たり嶋田伊予守と称す」とあるそうで、
現在の愛知県南設楽郡鳳来町愛郷付近の地で、豊川支流嶋田川の上流域に嶋田の地名が残ります。
土岐嶋田満貞が美濃守護で実兄の土岐康行と不和になり、今川了俊に属し遠江に居所を移す。
この満貞の子、満名は伊勢守護土岐持頼に従い伊勢に居所を移し、満名の子である満清は持頼に殉じて自害。
以後、当時の美濃守護土岐持益により土岐島田氏の名跡が従兄の定忠に移り、
定忠の子定俊の時三河国矢作庄の所領を得て、以後矢作を本拠とする。
江戸幕府徳川直参旗本であった嶋田利秀・重次親子も、この先祖の恩賞の地である矢作で生まれている。
これは、永源寺の山崎禅明氏がまとめられた「嶋田重次の累歴と業績」を参考にしました。 


9 名前:Ryuko 投稿日: 2004/03/13(土) 22:06 
源臣さん、丹沢はいかがでしたか?「徳林寺」は狭山市入間川町にあり、永源寺の禅明氏の弟恵明氏が住職で、禅明氏に紹介されました。
今日は青梅の吉川英治記念館と川合玉堂美術館に行ってきました。もう、かたくりの花が咲いていました。
今週は2度も圏央道を走りました。坂戸の少し北に都幾川村というのがありますが、気になります。
源臣さん、新緑のハイキングの折に探索していただけませんか? 


10 名前:源臣 投稿日: 2004/03/15(月) 11:30 
島田家の墓地の隣にある万治高尾(月桂円心大姉)の墓碑はご覧になりましたか。
伝説の域を脱しませんが、仙台藩主伊達綱宗公と旗本島田重三郎(権三郎利直か)
の名妓高尾をめぐる恋の三角関係の話(伽羅先代萩)一族土岐島田の権三郎利直に宛てた
高尾の恋文の一説
「我が恋は、月にむら雲、花に風、思うに別れ、思はぬにそう」
土岐一族にはこんな粋なお人も居たようです。

徳林寺は一族とは直接には拘わりは無いのですね。ありがとうございます。
都幾川村は僕も前から気にかかっていた場所です。機会があったら行ってきます。
丹沢塔の岳は 「春霞山頂のどか鹿4頭」 てな感じでした。 


11 名前:戸木 誠 投稿日: 2007/11/04(日) 23:04:59 
 銚子の戸木から出て三代目川崎市ー現在札幌市に住む戸木です。
銚子を訪ねて戸川の戸木氏の菩提寺の興福寺にも行きこの墓石で戸木が土岐氏から分かれた事を確認致しましたが
この墓石を新しくされた戸木さんは娘さんで結婚されて戸川を離れたと住職にお聞き致しました。
戸川に住む戸木さんはお一人おばあさんがおられたようですが私が訪ねた少し前に亡くなられていて
とても残念な事に戸木家の話を聞く事が出来ませんでした。その後和歌山県御坊市にも行ってみたのですが
そちらの旧御坊村周辺にも戸木は一軒もないようでした。
 なぜ土岐から戸木と変えたのか大変興味があります。どなたか伝え聞いた話でもわかればお聞きしたいのですが? 


12 名前:信金 投稿日: 2009/01/08(木) 10:23:16 
戸木さんっていう方なら銚子信金のある支店の窓口にいますよ 


13 名前:信金 投稿日: 2009/03/05(木) 15:33:03 
12回目のレス以降、誰も書いていないのですが、このテーマを最初に作った方、きちんと続けましょう。 


14 名前:mino阿弥 投稿日: 2009/04/01(水) 10:16:06 
ご意見は、ごもっともだと思います。
このHPは、管理者不在で破綻しています。
近い将来、再建されることを希望していますが。 


土岐光信の弟・源全について

1 :光資:2009/03/12(木) 05:31:27 
『尊卑分脈』の記述によると源光国の末子に源全という僧になった
人物がおり、彼は兄である光保の養子になったと書かれています。
また多田禅師と称していたようで摂津の多田荘で僧になっていたとも
考えられるのですが、『尊卑分脈』には彼の子孫が少なくとも
南北朝時代あたりまでは記載されており、代々位階も有しています。
以前から気になっているのですが、源全やこの系統について
どなたかご存知の方いらっしゃいますでしょうか?
どのような情報でも結構ですので宜しかったらお教えください。 
 

土岐氏の時代に「岐陽」

1 :澤源:2008/08/07(木) 10:18:20 
土岐氏の時代に何故「岐陽」「岐山」「岐阜」が使われ始めたか? 
昨日、中国文学研究者の方と懇談をしました。 
当然、信長が選んだだけで既に「岐陽」「岐山」「岐阜」の地名は存在していた事を前提としてなのですが。 
学長曰わく、臨済宗妙心寺派の開祖関山慧玄に由来するのではとの事。 
慧玄は信州で生まれた後、美濃に入り加茂の正眼寺辺りから京に上がり勅命により臨済宗妙心寺派の開祖となったことが
「岐山」の意義相で、土岐氏の「岐」だとか、岐蘇川の「岐」が元の可能性は絶対ない、とのお考えでした。 

さて、私は考えるのですが源氏が土岐郡に因み土岐を名乗り、美濃守護となり美濃を全て支配し、
美濃全域に親戚一党を細かく配置し、分派した地名を全て名字とした訳です。 
ですから、逆に言えば発祥した「土岐」の地から拠点を移している場所の地名が、美濃を統治している場所の地名を、
新たに土岐に関する地名を宣言する必要があった、という私見と今後の論争としたいと思います。 
皆様も、「洛陽」から発生したと思われる「岐陽」についてのご意見をお聞かせ下さい。 


2 :澤源:2008/08/07(木) 10:19:02 
室町時代の禅僧東陽英朝は土岐氏の出です。 

この東陽英朝を研究してみえる山県市伊佐美の徳林寺住職である、岩村宗康氏に次年度の歴史講座の講師をお願いできました。 
氏は、五山文学の研究者ですが、特に東陽英朝に強い関心を以前から持ってみえたのですが、
今回は「岐阜」の地名の発祥について、東陽英朝の語録である「少林無孔笛」の中で、
「岐阜」「岐山」「岐陽」の三文字が全て使用されていることを分析し、その背景を研究発表して頂く事に決定しました。 
東陽英朝は、岐阜市金華山南側の瑞竜寺に遺されている土岐成頼の画像に賛を書いていて、
その中でも「岐阜鐘秀現佛身乎鳳質」という文字を書いています。 
これは、15世紀後半の物で織田信長が美濃に入る前に、既に使われていたことを現しており、
今後は何故「岐阜」の地名が土岐氏の時代に使われていたのか、それが何処まで遡るのかが、課題となってきました。 
万里集九の梅花無尽蔵にも15世紀中頃のものですが、岐阜が登場しています。 
その中で、東陽英朝も1502年が没年ですので、その研究発表です。 

3 :呑舟:2008/08/10(日) 08:18:37 
久しぶりです。 がんばってますね。

岐阜は遠く中国まで字を探しに行って、戦国のくそ忙しい時期に信長が学者に命じて付けさせたとは思えません。
そのような解釈をするのは、後の世に、平時になって、薀蓄を調べ始めて、
信長の権威を高める意図をもって解釈しているものと思われます。
だいたい、地名の由来は後から理屈が付いていく例が「地誌」なんかは多い。

私は単純に考えています。
観応元年(1350)3月土岐頼康は革手城に移住しますが、革手城は北側の正法寺等の七堂伽藍を含めて
革手府と呼ばれていました。
革手府はいつのまにか領主「土岐」の名をとり「土岐の府」に変わり、成頼の時代には
つまって「岐の府」となっていませんか?
これがすなわち後の「岐府」=「岐阜」となったと思います。
阜の字は府ではまづいので別からもってきたのかもしれませんが、元来の意味は同じでしょう。

たしか斉藤妙椿の時代には「岐の府」という表現は使われていたかと思いますが。
西の京、周防山口大内氏に対抗して、「岐の府」を東の京としようとしていたと思われます。

丁寧に捜せば古文書にあると思いますが。 


4 :名無しの権兵衛:2008/12/05(金) 14:01:51 
東陽英朝の記録=江戸時代の本です。

万里集九の梅花無尽蔵=幕末の本です。

東陽英朝、万里集九いずれも、同時代の公家や武家の日記にその名前はありません。

幕府や藩の公文書にもその名前はありません。

織田や徳川の記録にもそのような記載はなく。

岐阜改名の由来は、信長公記のみです。

岐阜の使用例でその1単語のみ記載し、岐阜の名前の使用の由来を語っていないのが
偽書の証拠です、尾張藩の植民地だった岐阜人のいやしい郷土愛が信長否定論になっています。 


須佐から安来へスサノオライン

1 名前:愛宕 投稿日: 2006/10/22(日) 15:48:51 
 スサノオラインについて語ろう。 


2 名前:名無しの権兵衛 投稿日: 2006/11/11(土) 00:24:25 
 それじゃ安来から。安来市広瀬町の富田八幡神社の
中に、須賀社とあるがこれはいかに。 


3 名前:名無しの権兵衛 投稿日: 2006/11/19(日) 19:19:56 
古事記にある以下の説話。
大國主命が思案していると、海中に光が現われ、
「我は幸魂の神」と告げ、国土経営を助けた。
その決意をしたのが当地であり、山頂に(大國主命の)幸魂神を
山麓に大己貴を祀った。 


4 名前:T・M 投稿日: 2006/12/01(金) 10:53:08 
愛宕様 
 インターネットで検索すると、瀧音能之氏の「「出雲」からたどる古代日本の謎」で初めて須佐郷と 
安来郷を一直線に結ぶいわゆるスサノオラインが提唱された。
と書かれています。美濃源氏 土岐氏との関わりを知りたいのですが、御教示よろしくお願いいたします。 


5 名前:名無しの権兵衛 投稿日: 2007/07/23(月) 13:31:17 
 スサノオラインより山奥側でたたら製鉄が
盛んなのだが関係するのですか? 


6 名前:大和島根 投稿日: 2008/11/01(土) 23:02:10 
いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、 
それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興 
されたとの説になっています。 
 そうすると、がぜんあの有名な山陰の青銅器時代がおわり日本海沿岸で四隅突出墳丘墓 
が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と 
安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと 
考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。 
 西谷は出雲大社に近く、安来は古事記に記されたイザナミの神陵があるので神話との関係にも興味がわいてきます。 


新日本家系図学会・再建

1 :mino阿弥:2008/10/22(水) 11:41:32 
日本家系図学会が丹羽基二会長逝去後、いろいろとあり
今年解散ということになったそうです。

宝賀寿男氏(古代氏族系譜集成等の著者・嘉悦大教授・弁護士)が
会長として再建されることとなりました。
東大史料編纂所の方も副会長として協力されるようです。

「美濃源氏フォーラム」代表井澤康樹氏は、発起人として協力されます。
皆様にも、ぜひご参加頂きますようご案内申し上げます。 
  

光秀の美濃の親類

1 :光憲:2008/10/13(月) 10:43:25 
『兼見卿記』元亀三年十二月十一日条に「光秀の美濃の親類が山
王社の敷地に新しい城を築いて以来、不快に悩んでいるので祈祷
してほしいと言って来た」と書かれています。この親類が誰かわ
かれば光秀の出自をたどる手がかりとなりそうです。元亀三年以
前に城を築いた土岐一族の情報がありませんでしょうか。 


              


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