土岐氏調査・研究ノート

呑舟氏のレポート
[502]題名:土岐直氏 投稿者:mino阿弥[RES]
 
 「日本の苗字七千傑」というHPの
越智氏-伊予北条氏-久万/土居氏系図に、
大野成義=直義-(土居)直利=直氏-詮直-通繁-という不思議な系図がある。
土岐頼清の子直氏は、三代守護頼康、五代守護頼忠の兄弟にあたるが、
伊予の大野、土居直利の猶子となっていたのであろうか?
直氏、詮直ともに侍所頭人。
土岐詮直は四代守護土岐康行の娘婿であり、六代守護となる土岐頼益と戦い敗死。
土岐氏と伊予の関わりについては、不明な点が多く研究の余地があるのでは?
 

2012/03/14(水) 17:16


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[503]題名:Re: 土岐直氏 投稿者:澤源
 
 有り難きご指摘、感謝申し上げます。
mino阿弥禅師あっての美濃源氏フォーラム岐阜市長良事務局です。
今後とも御指導の程宜しくお願い申し上げます。 

2012/03/16(金) 06:35

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[515]題名:Re: 土岐直氏 投稿者:呑舟
 
 mino阿弥さん、久しぶりです。

●このHPの記述は色んな系図のつなぎ合わせです。
 よって不思議な系図となります。

 大野成義=直義ではなく、成義の子が直義です。
 大野(土居)直利=直氏でもありません。
 真偽はよく分りませんが、大野(土居)直利は
 土岐太郎源頼清三男直氏を養子に迎えると
 「大野系図」は記します。
 直利の父親の直義は武州熊谷家分家(丹治氏)
 からの養子とされ、この直義から伊豫大野家
 通字の「直」が始まります。

 大野(土岐)直氏→子、大野(土岐)詮直と
 系図上は続きますが、詮直の次が繋がりません
 ので猶子扱いなのかも知れません。
 この二人の記事は土岐系図の土岐直氏と詮直の記事と同じ
 なので、実態はよく分りませんが美濃土岐家と
 伊豫大野家は密接に関係していたのでしょう。
 少なくとも伊豫大野家は土岐家と親族関係と認識
 していたようです。
 大野繁直の時、大野家は断絶しますが、遺児の御家
 再興の願いを幕府にあった親族土岐成頼の尽力により
 成就したとされます。

 大野家は河野家の臣ではなく幕府直轄の被官として
 行動します。土岐氏や細川氏、熊谷氏らと交流が
 散見されます。現物はあまり残っていませんが
 土岐家からの書簡は土岐成頼の書簡2通、土岐政房
 書簡、が記録されます。

今、伊豫でも見直しをされつつありますが、大野家は
河野家の家来と予見をもって解釈されてきたのが
室町幕府の被官と河野家との契約関係の二重性があった
のではないかとされています。
ようやく認められつつあります。(遅い!)

大野関係文書を見るに直接、河野家と臣下の礼を
とるのは戦国期の河野家家老となる大野直昌だけですが
「予陽河野家譜」は彼の記事しか載せませんので
大野家は昔から河野家の臣であるとの先入感が生まれた
ようです。
歴史的には幕府の細川氏の命令で土佐の津野を攻めたり
河野予州家を攻めたりしています。
殆ど河野家とは敵対か一定の距離を置いています。
和睦の證として予州家河野通秋の女を室に迎えたりも
しますが、これは当時の習いで人質ですが、現代の人は
「仲が良いから嫁に貰った」と逆解釈します。
同様な例が大野直昌の母は平岡房實の女とされますが
平岡氏は前述のとうり何代にもわたり仇敵です。

現代の常識で歴史文書を読むと思わぬところで
知らず識らず、誤解釈します。

伊豫の土岐家史料は確かに過少ですが、丁寧に捜せば
出てきそうです。

ぼんやりとしてますが美濃土岐家が伊豫に拘わった
最初の地は徳城(徳川城→徳川家康とはなんの関係も
ありませんが後世の人は関係付けたがっているようです)や後、
平岡氏の菩提寺と変容する浄瑠璃寺周辺です

浄瑠璃寺は土岐氏の寄進【大徳寺文書】ですから
土岐分領の拠点と思われます。
この時河野家は殆ど関与していませんから、美濃土岐家が伊豫に分領を治めた時は
伊豫河野家とは完全に分離し、立場的にも格上であった
ことが【大徳寺文書】の流れから推察できます。
このあたりはmino阿弥さんが一番ご承知と拝察したしますが。

やはり応仁の乱でグチャグチャになった感じがします。
丁寧に紐とかないと史実と想定が現代において「事実」
と認定されかねません。

そういった意味では当時の土岐氏にまつわる人間関係のヒントを呉れる一次史料の
「藤川の記」や「見聞諸家紋」は丁寧にみるととても面白いですね。

 

2012/04/04(水) 05:12
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[516]題名:Re: 土岐直氏 投稿者:呑舟
 
 【515】の記事は延々史料も含めて書いたのですが
この「掲示板」は2000文字以上は受付ないとのことで
あちこち端折りましたのでトーンが違うかもしれませが
ご容赦願います。 

2012/04/04(水) 05:55


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[517]題名:伊豫大野氏 投稿者:mino阿弥[RES]
 
 長文のご投稿、ありがとうございます。
伊豫大野氏と美濃土岐氏の関わりについては、知る人もなく、
もともとは呑舟さんのご指摘で始めてわかったことです。

伊豫には、光定の子として頼清が居て、頼清の子供達である揖斐頼雄、土岐直氏が居たと思われます。
また、光定の子で教国は阿波三郎とあり、舟木頼重が高松氏と称して讃岐に居たようです。

国時は、隠岐太郎、胤国は隠岐三郎、蜂屋定親は隠岐孫太郎、
頼貞は隠岐孫二郎と伊豫、讃岐、阿波、隠岐に関わる名前が見られ、これもよくわかりませんが、
とにかく土岐光定以来、美濃の土岐氏は本国を離れた転勤族のようです。

美濃の土岐氏にとって伊豫は、想像以上に大切な所領であったのではないかと考えられます。
何とか、もう少しはっきりわからないものかと思いますが。

 

2012/04/04(水) 16:00


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[518]題名:美濃と伊豫の土岐氏と伊豫大野家(1) 投稿者:呑舟
 
 手許の私の個人的な「整理年表」からタイトルに関連する項目を羅列します。
明らかに間違っているものは指摘して下さい。
訂正しないと私が今後恥じをかきますので添削願います。
尚、2000文字の制限がありますから分割で見苦しいのはごご容赦願います。

【関連年表】
1315 正和4年 9月7日 宮城家本明智系図 ○土岐頼清の男頼康池田郡小島で誕生、
  母は佐々木備中崇西の女。
1324 元亨4年 6月1日 徳山本土岐家伝系図 ○土岐頼清(頼宗・頼藤)伊予国赴任の途中攝津芥川で猛暑のため病死する、
  法名善孝号瑞巌寺。
1339 暦応2年 北 2月23日 徳山本土岐家伝系図 ○土岐惣領頼貞卒 号定林寺 美濃守護。
  延元4年 北 2月 定林寺銘 ○尊氏、土岐光賢をして伯父頼定を譲状を任せ、
  美濃多芸荘内友江吉田の地頭職を領せしむ。この年、頼貞死して頼遠嗣ぐ。
 

2012/04/04(水) 17:32
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[519]題名:整理年表(2) 投稿者:呑舟
 
  康永元年 北 12月1日 徳山本土岐家伝系図 ○土岐弾正少輔頼遠 刑死さる。
  康永元年 北 12月   宮城家本明智系図 ○土岐頼清の男頼康、土岐惣領職を拝し美濃国守護職となる。
1343 康永2年 北 3月   宮城家本明智系図 ○土岐頼清の男頼康、土岐惣領職を拝し美濃国守護職となるによりて
  渥見郡長森に移り、将軍尊氏・義詮親子に仕える。
1345 貞和元年 北 1月   総合地方史大年表 ○土岐氏な内訌、南方に通じる者あり。
1345 貞和元年 北 11月   大友文書 ○幕府、守護土岐頼康に命じ仲村荘地頭の代官に抑留する年貢を納付せしむ。
1350 観応元年 北 3月   宮城家本明智系図 ○土岐頼清の男頼康、厚見郡川手城を築き之に移る。
  観応元年 北 7月   総合地方史大年表 ○土岐周斉、兵を美濃に上げる。
  観応元年 北 8月20日 日本全史 ○足利義詮・高師直が、美濃の土岐周済を討伐し帰京する。
  観応2年 北      大野家聞書 ○土居(大野)宮内少輔直氏土居城を築く、子孫代々居住同小田ノ庄町村城主。
  家中は森鶏の森 日野にあり。
  観応3年 北 3月10日 上川大野系譜 ■大野宮内少輔直氏 足利義詮の朝臣として下文あり。
 

2012/04/04(水) 17:45


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[520]題名:整理年表(3) 投稿者:呑舟
 
 観応3年 北 3月10日 大野系譜上田本 ○25代大野直氏、足利義詮の朝臣としての下文あり。

於御方致忠節者 伊豫国守護職之叓 可宛行 
之由先度被仰出矦定令到来矦■所詮 
昨日九日立江前四十九院宿己所発向京都也 
継夜於日可責上之状如件 
観応三年 三月十日  義詮 
土居宮内少輔殿 

1354 正平9年 南 1月 総合地方史大年表 ○土岐宮内少輔、御料所帷荘を押領したるにより土岐頼康に諭書を賜う。
1358 延文3年 北 3月 愛媛県誌 ○土岐直氏、伊予国司に叙任される。(大日本史389巻国郡司表)
  延文3年 北 5月4日 宮城家本明智系図 ○土岐頼清の男頼康、出家 法名号善忠 池田郡瑞巌寺に住む。 
  延文3年 北 5月 徳山本土岐家伝系図 ○土岐頼清の男頼康、尊氏没により出家する 法名号善忠 
  延文3年 北 12月11日 大徳寺文書 揖斐祐康(頼雄)荏原郷瑠璃光寺を禅宗に改め月峯に寄進する。

    揖斐祐康浄瑠璃寺寄進状案 
伊豫国荏原郷浄瑠璃寺事、當寺破壊之間 輙叵及修理興行、而改干禅院、所奉寄付附月 
峯円和尚也、且為門徒等、為令祈天下安泰、家門繁栄給、仍寄進之条如件 
  延文三年戊戌十二月十一日 
沙弥(揖斐)祐康 在判 

1360 延文5年 北 上川大野系譜 ■大野宮内少輔直氏 三千余騎を率い尾州(尾張)小川城に小川中務丞を攻め討ち取る。
  伊豫守に任じられる。
(延文5年) 予陽大野軍記巻3 ■大野直氏(勝直?)伊豫国守護のこと。附、貞治元年河野家矛盾のこと。
(貞治元年) 予陽大野軍記巻3 ■大野直氏(勝直?)伊豫国守護のこと。附、貞治元年河野家矛盾のこと。
1363 貞治2年 北 11月4日 大日本史料 幕府、土岐直氏をして、久世七郎の、
  山城善峰寺往生院領同国上久世荘石原方内法西跡を濫妨するを停め、
  下地を同寺雑掌祐円に交付せしむ【三鈷寺文書】
1364 貞治3年 北 9月20日 後醍寺文書 ○土岐直氏、「9月20日の請文」が後醍寺に残される(岐阜県史史料偏)
1369 康安2年 北 5月25日 大徳寺文書 揖斐祐康(頼雄)荏原郷瑠璃光寺領安富左衛門跡を歛影庵に寄進する。
   揖斐祐康寺領寄進状案 
伊豫国荏原郷安富左衛門三郎跡事、所奉寄進浄瑠璃寺塔頭歛影庵也 
但可除丹波左衛門二郎・安富七郎給分也、門弟相続而全所務、可被専造営之状如件 
  慶安五年五月廿五日 
沙弥(揖斐)祐康 在判 
 

2012/04/04(水) 18:00

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[521]題名:整理年表(4) 投稿者:呑舟
 
  貞治5年 北 9月24日 大日本史料 土岐直氏、大山崎神人の訴に依り、八板因幡守をして、
  尾張中野木疏住人孫七左衛門尉及び熱田宮田中住人右衛門次郎入道宇阿弥等の
  荏胡麻を売買するを糺明せしむ【離宮八幡宮文書】
1367 貞治6年 北 2月29日 上川大野系譜 ■大野宮内少輔直氏 足利義詮の朝臣として参内にお供する。
  貞治6年 北 愛媛県誌 ○土岐直氏、伊予国司に再叙任される。(大日本史389巻国郡司表)
  貞治6年 北 4月19日 大洲大野系譜 □大野詮直 今川弾正通俊より感状を得る。(宇和島・喜多両郡の合戦の軍功)

於小田土居城連日致合戦之条、悦入候 
就中連判之状被見申、殊如此沙汰公私 
難有候、當方事可得落居候間、急速陣 
可被竒候、可心安候、恐惶謹言 
  卯月十三日     頼有 
   大野十郎左衛門尉(詮直)殿 


今月七日状一九日たうらい(到来)、 
いさひ(委細)きこし(聞食)めされ候、 
抑此方事、ミきち山はた(繁多)寺の上の 
あわちかもりのふる城を御ちん(陣)に 
めされ候て、てきほうハミなミな山へおい 
こまれ候へしほとに、とうこ(道後)のほう 
のハ、のこる物なくなりて、それニつき候てハ 
うわこうり(宇和郡)のせひ出候ハ、そのとき 
ハとう時に参らせくれ候へし、まつそのへん 
の事かつせん(合戦)をととめられ候て 
うわへん(宇和辺)のせひも不存出候やう 
にれうけん候ハ、たうほうのためしるへく 
候へし、兼而又このはた寺の御ちんハ、 
一日夜 御所方はかりにてまつめされ候て 
つきの日につきのする大しやうにて、二百 
よきはせはせくわわり申されて、このちん 
めされ候てのちいさのてきちんハ、ひらきて 
山こへひき入候へし、此ほうの事ハ、いまわ 
のこる所なくしてめてたく候、なをなをその 
へんのかつせんをととめられ、うわせひの 
ふひに参候やうにれうけん候ハンか、 
御忠せつにて候へし、又今月三日 
さわまつ殿へ御つかひをたてられかし。 
それともかさねて御しよをしんせ、それより 
つき申され候ハ、返々めてたく候へし、 
かまへてかまへてとくとくつけ申され候へし 
よし被仰下也、あなかしこ 
四月十九日     俊通 奉 
  大野十郎左衛門(詮直)入道殿 
 

2012/04/04(水) 18:09


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[522]題名:整理年表(5) 投稿者:呑舟
 
1368 応安元年 北 11月24日 大日本史料 尾張守護土岐頼康、土岐直氏をして、
  同国富田荘内河崎御品田領家雑掌の同地を押妨するを停め、
  下地を相模円覚寺雑掌に交付せしむ【円覚寺文書】
1370 建徳元年 南 12月15日 日本全史 ○管領細川頼之が土岐頼康を討とうとし、頼康は美濃に帰る。
1374 応安7年 北 上川大野系譜 ■大野詮直は足利義詮公より諱詮の字を賜う。
  応安7年 北 上川大野系譜 ■大野詮直は足利義満の九州進発にお供する。
  天授元年 南 11月 大興寺文書 ○土岐祐康、大興寺に寄進する。
1375 永和元年 北 11月21日 大洲大野系譜 □大野詮直 細川右馬頭頼有より伊豫国塩引村二宮太郎の跡の安堵状を得る。

為上意所領 
伊予国塩引村 二宮太郎左衛門尉跡事 
所領置也 任先例可致沙汰状如件 
 細川右馬頭  頼有 
   永和元年十一月廿一日 
 大野十郎左衛門尉(詮直)殿 

  康暦元年 北 4月1日 大日本史料 土岐頼忠、土岐詮直、京都に入る【花営三代記】
1380 康暦2年 北 11月14日 大洲大野系譜 □大野宮内少輔直氏逝去 齢80歳 法名 信慶大居士
  康暦2年 北 11月14日 別本土岐系図 ○土岐直氏、伊予守、宮内少輔 知行尾張国 出家法名信慶 卒去。
1382 永徳2年 北 7月17日 大洲大野系譜 □大野詮直 今川弾正通俊より 神崎庄北方、余戸村、窪田村、安堵状を得る。

伊豫国神崎庄北方三分二并余戸村窪田村 
分領、為 御恩可致知行、依今度忠儀深重 
可有其抽賞旨、被仰下状如件 
 永徳二年七月十七日 
     弾正弼  通俊 
  大野十郎左衛門入道殿 
 

2012/04/05(木) 06:01
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[523]題名:整理年表(6) 投稿者:呑舟
 
  永徳2年 北 12月26日 大日本史料 善應寺僧徒等、祇園社燈油料の地を濫妨す、
  是日、幕府、土岐某をして、之を禁止せしむ【八坂神社文書】
1387 嘉慶元年 北 12月25日 宮城家本明智系図 ○土岐頼清の男頼康 瑞巌寺で逝去七十三歳、
  法名建徳寺殿善光禄太夫右典厩高厳忠公大居士。
1388 元中5年 南 5月9日 日本全史 ○尾張・土岐詮直(あきなお)が守護土岐満貞の入部を妨げようとして、
  一族同士が黒田宿で戦う。
1390 明徳元年 北 3月25日 ○尾張・幕府が美濃守護、土岐康行を滅ぼす。(土岐氏の乱)
1391 明徳2年 北 ○土岐氏の乱で没落した土岐康行は明徳の乱で戦功をあげ、伊勢国守護職を回復する。
  美濃国守護職は康行追討の戦功で土岐頼益継承
  応永4年 8月12日 徳山本土岐家伝系図 ○土岐美濃守頼世(頼忠)卒号禅蔵寺殿。
  鷲巣(土岐)康行・康政謀反の時、足利将軍より惣領職を賜る。
  応永5年 8月 鉄塔銘 ○土岐美濃守頼益等、鉄塔を南宮に造立する。
  応永6年 上川大野系譜■大野詮直 大内義弘と美濃国土岐康行を長森城を攻める。
  応永6年 11月 総合地方史大年表 ○土岐宮内少輔亜詮直、大内氏に党し長森城による。
  応永6年 冬 土岐累代記 ○土岐詮直、謀反を企て居城長森に立篭る、
  将軍の命により土岐頼益城を攻め詮直の首を刎ね、長森城は廃城となる。
  応永6年 11月 大日本史料DB 丹波山名宮田時清、美濃土岐詮直、近江京極秀満等、大内義弘に応じて兵を挙ぐ、
  山名時煕、土岐頼益、今川泰範、京極高詮等、之を伐つ、平ぐ【佐竹文書、土岐累代記】
  応永6年 12月 上川大野系譜 ■大野詮直 長森城で討死。
 

2012/04/05(木) 06:09


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[524]題名:整理年表(7) 投稿者:呑舟
 
1432 永享4年 12月 大徳寺文書 与州荏原郷内浄瑠璃寺は揖斐出羽入道祐康(土岐頼雄)が
  當門徒月峯和尚が開山した処でその後祐康菩提で剣影庵と申す塔頭を建立し寄付を受けたものである。
  去る永享二年国中錯乱により,地下代官の能待なる者が横領した。
  (大徳寺雑掌申状案副進旦那寄進状)
1436 永享8年 2月10日 大徳寺文書 土岐(揖斐)頼弘浄瑠璃時に歛影庵を安堵する。本檀那大興寺殿(揖斐頼雄)

   揖斐頼弘安堵状案 
予州荏原城瑠璃寺開山三塔歛影庵事、西方上使下向之時、無正躰成敗候 
本檀那大興寺殿(揖斐頼雄)任御寄進之旨、本寺所返付申也、仍為後證之状如件 
  永享八年二月十日 
     揖斐殿  頼弘 在判 
   寄進浄瑠璃寺 

  永享8年 4月 大徳寺文書 与州荏原郷内浄瑠璃寺は揖斐出羽入道祐康(土岐頼雄)が
  當門徒月峯和尚が開山した処でその後祐康菩提で剣影庵と申す塔頭を建立し寄付を受けたものである。
  去る永享二年国中錯乱により,地下代官の能待なる者が横領したが、2月に違乱を止めました。
  永享9年 2月12日 大徳寺文書 揖斐(土岐)道勝は伊予荏原郷浄瑠璃寺の件で塔頭の坊主を放逐し、
  檀家の手の戻したことを大徳寺に報告する。
  永享9年 4月16日 大徳寺文書 揖斐(土岐)頼■は伊予荏原郷浄瑠璃寺の件で入道の寄進に任せ知行するよう大徳寺に申し入れる。
  寛正2年 12月6日 大日本史料 幕府、土岐成頼及び京極持清をして、萬壽寺を衞り、延暦寺衆徒の來襲を防がしむ【蔭凉軒日録】
  寛正3年 4月28日 大日本史料 南禪寺、土岐成頼、籾井某の、清水寺懺法費を抑留するを幕府に訴ふ【蔭凉軒日録】
1462 寛正3年 8月3日 大野系譜上田本 ○土岐成頼の口利きで日野等四家をして通繁・繁直兄弟を土居城主として家名再興し
  礼として大平中務大丞を上洛させ料足を献上する。
1466 文正元年 4月27日 大日本史料 義政、土岐成頼の邸に莅む【蔭凉軒日録】
  文正元年 7月23日 大日本史料 義政、伊勢貞親、蔭凉軒眞蘂(季瓊、)の言を納れ、斯波義廉を退け、
  同義敏を立てんとし、諸將をして之を援けしむ、尋で、細川勝元、山名持豊、
  一色義直、土岐成頼等、義廉に黨す、義廉、兵を越前、尾張、遠江に徴す【後法興院政家記】
文正元年 11月 斉藤親基日記 ○土岐成頼 大嘗会に面付万疋等を奉る。【新撰美濃志】
応仁元年 6月8日 大日本史料DB 義政。義視に命じて、持豊を討たしむ、斯波義廉、六角高頼、土岐成頼等降を乞ふ、
  是日、東軍の将赤松政則。山名教之を一条大宮に撃ちて之を破る、 京極持清。
  朝倉孝景と戦ひて敗退す【大乗院寺社雑事記】 
応仁元年 8月 寺伝 ○斉藤妙椿、瑞龍寺を建立する。
 

2012/04/05(木) 06:24


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[525]題名:整理年表(7) 投稿者:呑舟
 
  応仁元年 9月13日 大日本史料 十六日、土岐成頼、一色義直、相国寺に陣す 
  応仁元年 10月3日 山口県史整理年表 ○東西両軍相国寺に戦う 
  応仁2年 8月 大日本史料 美濃守護土岐成頼、青蓮院領美濃荏戸上郷に課して、革手城の濠を掘らしむ【華頂要略,美濃明細記】
  応仁2年 9月 鎌倉大草子 ○斉藤妙椿は郡上を攻略する。 
  応仁2年 10月 長江系図。美濃明細記 ○妙椿居益、城主長江景秀親子を攻め殺す。
   文明2年 2月 総合地方史年表 斉藤妙椿は銭を一条兼良に送る。
  文明4年 10月 総合地方史年表 ○一条兼良の妻、東御房は美濃へ下向する。
  文明4年 11月22日 大日本史料 義政。土岐松寿丸の請により、美濃揖斐荘深坂保、尾張稲木荘内峰吉郷、
  伊予荏原郷西方久万山内青河等地頭職段銭、臨時課役等を免除す【前田家所蔵文書】
  文明4年 11月 徳山家古文書 ○将軍足利義政、揖斐荘深坂保地頭職、段銭臨時課役を免ず。
  文明4年 宝菩提院文書 ○八代将軍足利義政、土岐深坂松壽丸の所有する久万山内青河(大川か)段銭臨時課役、
  人夫伝馬等を免ず。【久万町誌・東京前田家所蔵】
1473 文明5年 5月 総合地方史年表 ○一条兼良は美濃へ下向する。 
  文明5年 6月25日 一条家譜 ○一条兼良南都において出家 法名覚恵。 
  文明5年 9月11日 大日本史料 美濃の土岐成頼、斎藤妙椿、及び近江の六角行高等、延暦寺領を押領す、
  仍て、僧徒、成頼、妙椿を呪咀し、行高を撃たんことを幕府に請ふ、是日、之を允す【東寺執行日記】 
  文明5年 9月19日 大日本史料 土岐成頼の族西郷某、幕府に出仕す【東寺執行日記】 
  文明5年 10月29日 大日本史料 土岐成頼、斎藤妙椿の猶子利国等を遣し、伊勢を侵す、国人梅津城に拠りて之を禦ぐ、
  是日、妙椿自ら攻めて之を陥る【大乗院寺社雑事記】
 

2012/04/05(木) 06:34


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[526]題名:整理年表(8) 投稿者:呑舟
 
文明6年 4月15日 山口県史整理年表 ○一色義直、船岡山の営を撤して、政弘の陣に入る 【大乗院寺社雑事記】 
文明6年 7月13日 大日本史料 東兵、火を土岐成頼第、及び妙行寺、法華堂等に縦つ、成頼、
  大内政弘の部下之を禦ぐ【大乗院寺社雑事記】 
文明6年 7月26日 大日本史料 大内政弘、土岐成頼、畠山義就等、兵を発して、北野千本の民家を火く、
  山名政豊邀撃して之を破る、北野社人難を懼れて、神輿を西大路の仮殿に遷す【親長卿記】 
文明6年 7月26日 山口県史整理年表 ○政弘、土岐成頼・畠山義就等兵を発して、北野千本の民家を焼く 【親長卿記】 
文明7年 10月28日 大日本史料DB 西党土岐成頼等、兵を近江に出し、六角高頼を援く、
  延暦寺僧徒及び多賀高忠、之と戦ひて敗走す【長興宿禰記】
文明9年 応仁記 ○諸国の大名 京を去りて国に帰る、土岐成頼も美濃に帰る。【新撰美濃志】
文明10年 7月10日 大日本史料 義政、義視と和解す、仍りて、義視及び土岐成頼、畠山義統等に内書を下す【大乗院寺社雑事記】
文明10年 9月29日 大日本史料 義政、土岐成頼、斎藤妙椿をして、織田敏定の尾張入国を援けしむ、
  是日、成頼等、請文を上る【和漢合符】
文明11年 6月3日 大日本史料 幕府、土岐成頼に命じて、義政の女某(南御所)、所領美濃国衙の年貢を沙汰せしむ【宝鏡寺文書】

文明12年 7月20日 大洲大野系譜

予州荏原久万山事、先程申候処 
御懇示給候、悦着候、弥可然様願 御合力、 
早速達 本意候様被掛御心候者本望候。 
仍従 細川右京太夫土州讃州以諸勢可有 
合力之由承候。各可申合候。併御許容 
肝要候、恐惶謹言 
(文明十二年)七月廿日  (土岐)成頼 
 大野九郎次郎(綱直)殿 


文明12年 8月28日 大洲大野系譜

當国荏原久万山事、忍取天神森於徳(川)城 
取攻口之由、乍是非無次第所々事、 
可致退治候。平岡競望之由一段申遣 
河野刑部太輔入道方以後攻事品々承遣候ハ 
可喜候、猶大平中務大丞(国雄)可申候 
恐々謹言 
(文明十二年)八月二八日  (細川)政元 
大野九郎次郎(綱直)殿 


文明12年 10月13日 大野文書

就分領荏原林久万山等事、度々申候処、 
一段無等閑之儀候之条、誠難謝存候、只今 
方々江以書状申候、此時急度被廻計略、早々 
達本意候様、預調法候者、弥可為祝着候、 
仍太刀一腰兼光進之候、委曲尚等信西堂可 
申候、恐々謹言 
(文明十二年)十月十三日 
       (土岐)成頼(花押) 
 大野九郎次郎(綱直)殿 
(封紙ウハ書) 
「大野九郎次郎殿     成頼」    
 

2012/04/05(木) 06:46


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整理年表(9) 投稿者:呑舟
 
文明13年 10月6日 大日本史料 義政、土岐成頼に美濃紙を徴す【親元日記】
明応5年 6月 徳山本土岐家伝系図 ○土岐美濃守成頼(實ハ光俊子)の次男光房 城田寺において生害。
明応6年 4月3日 徳山本土岐家伝系図 ○土岐美濃守成頼(實ハ光俊子)卒 革手正法寺。
明応6年 4月3日 内務省土岐系図 ○土岐美濃守成頼(大桑駿河守頼名ノ子)卒 号瑞竜寺 法名京安。


土岐成頼の卒去とともに伊豫大野家と美濃土岐家の記録は薄れていきます。
(呑舟) 

2012/04/05(木) 06:55



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