過去ログ

トップへ
戻る
前へ
次へ

21〜30
21: 謹賀新年 (9)
22: 坂本竜馬 (6)
23: 土岐頼芸の読み方 (3)
24: 土岐清水城の曲輪発見 (1)
25: 半田で桔梗紋のお寺を発見 (1)
26: 信長学と土岐氏の憂鬱 (4)
27: 土岐清水砦 (1)
28: 夏目漱石は信濃源氏 (7)
29: 土岐頼貞の末弟光時の後裔は (3)
30: 美濃源氏フォーラム復活 (1)


謹賀新年

1 名前:mino阿弥 投稿日: 2006/01/04(水) 11:51:49 
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い上げます。 


2 名前:澤源 投稿日: 2006/01/08(日) 10:51:10 
昨年夏に、実家の妹が亡くなりましたので、お年賀を失礼いたしました。
多くの方からも賀状を賜り恐縮しています、寒中見舞いにてご返信する予定ですが、
この場をお借りしましてご挨拶申し上げました。 


3 名前:阿弥陀 投稿日: 2006/01/30(月) 11:04:09 
 出雲尼子さんはどうしているんでしょう。
最近登場しませんね。 


4 名前:代わりに拙者が 投稿日: 2006/02/01(水) 01:18:54 
 日本文明の特色は、一言で言うと「縄文と弥生の融合」 
ということになると思いますが、その融合というものを 
最初に達成したのは、古代出雲王朝であろうかと思います。 
出雲王朝は邪馬台国よりも40年前に出現し、東西日本の 
分け目となるフォッサマグナを超えた連合政体を日本海側 
に実現しているからです。現在でも太平洋側はここを境に、 
東は縄文的西は弥生的な名残が残っています。一方日本海 
側はあまり明確でなく、山陰の出雲弁と東北弁が類似して 
いるといったことが見受けられます。

一方、古事記/日本書紀などのような日本最古の文書も
縄文と弥生の葛藤と融合がイザナミとイザナギの国産み
神産みの物語として描かれています。しかし最終的には
縄文が弥生に席巻され、イザナミは死に、出雲と伯耆の
境、比婆の山に埋葬されてしまったのです。縄文のシン
ボルとしてのイザナミは一体どうなったのかあまり手が
かりはありませんが最近の考古学には目覚ましいもの
があります。それで私などは、島根県と鳥取県の県境付
近の考古学的ニュースには目が離せないのです。 


5 名前:mino阿弥 投稿日: 2006/02/01(水) 09:03:14 
「邪馬台国とは何だろうか」(イリヒコ氏)というHPがあります。
このHPはよく研究しておられすばらしいものだと思います。
また、昨年出版されました「巨大古墳と古代王統譜」(宝賀寿男氏著青垣出版社)も難解ですが
古代史にご興味をお持ちの方にはお勧めします。 


6 名前:雲南米子 投稿日: 2006/07/29(土) 14:01:13 
奥出雲町にある船通山(鳥髪)に降臨した
スサノオは、たたら製鉄で有名な大呂の地
で八俣遠呂智を退治したと記紀では述べら
れている。
 しかし出雲風土記のほうにはヤマタノオロチ
(古志の八口)は意宇郡母里郷(島根県安来市)
で大穴持命(大国主神)が退治されたことになっ
ているらしい。この違いは興味深いのですが、
どなたかその理由を知っていたら教えてください。
 今度の社員旅行にすこしひけらかすことが
できないか色々研究しているもので。 


7 名前:名無しの権兵衛 投稿日: 2006/10/29(日) 15:53:11 
出雲王朝は2つあり、東部と西部に分かれていたことは考古学的な発掘で明らかにされています。
そのうち島根県東部の安来平野にあった意宇王は、澤田洋二郎氏の「出雲神話の謎を解く」で
現在は能義神社となっている野城大神であるとしています。
 しかし、風土記にスサノオが「安来」という地名を付けたとなっていることから、スサノオノ尊にも縁が深いですし、
安来には古事記に示されている大八洲母神イザナミの神陵もあるとのこと、なぜこんなにもこの地は
神話と関係が深いのでしょうか? 


8 名前:長春 投稿日: 2008/06/04(水) 21:34:12 
そういえば司馬遼太郎氏が「街道を行く(砂鉄の道)」を取材しているとき、
鉄の神といわれる金屋子神社(島根県安来市)を参拝したのだが、この神社の風情が中世的であることを残念がっていた。
スサノオ神話より想定される古代鉄の古さとでその手がかりを、掴みたかったのかもしれない。
地元のものが「ここは戦国時代、尼子と毛利の激戦があって古いものが多く消失した。」との説明に
少し残念そうにしていたと日立金属のかたから伺ったことがある。 
しかし、最近この地域で弥生時代の鉄器が多数発掘されその量も北九州に準ずるものだという。
その時代は実は大和は鉄器がほとんど発掘されておらず、
この地がいかに先進地域だったかをうかがわせる話で生きていれば司馬遼太郎氏もさぞ喜んだことだろうと思われます。 


9 名前:石上 投稿日: 2008/10/12(日) 18:53:24 
いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、
それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興されたとの説になっています。
 そうすると、がぜんあの有名な出雲の青銅器時代がおわり四隅突出墳丘墓が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。
当時は、西谷と安来の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと考えられるのですが
どちらなんだろうと思ったりもします。 

 
坂本竜馬

1 名前:美濃林 投稿日: 2005/01/25(火) 13:59 
光綱弟光安(妹光近妻、妹は柴田勝定妻)ー明智光春ー太郎五郎(妾腹の子)。
近江国坂本城が落城の時、土佐に逃れ坂本城に肖り坂本氏を名乗り帰農後四代目が酒造業に転じ町人郷士となる。
坂本家十代権平{質屋=画家}の弟竜馬は土佐藩=高知県で五人兄弟の末っ子。
竜馬の姉は身長180cm体重100kgで長刀などに長けるー光秀(弟信教は筒井坊成養子号筒井大和守後改順慶、弟康秀)。
光秀は生涯、側室をもたなかったと言われているが光秀の妾の子孫と伝えられる家には光秀自筆の掛け軸が現存している。
その家は明治五年の戸籍編制の時に明智氏に復帰している。その時に明智氏に復活したという証明書があるという。
系図は関東大震災の時に消失したという。

    http://forever138.hp.infoseek.co.jp/ryoma.htm    に書かれています。ご参考まで。 


2 名前:光憲 投稿日: 2005/01/25(火) 22:01:02 
ご指摘のURLに記載されている内容は、はなはだ不正確でありますが、当家
のことを書こうとしたように思えますので、若干長くなりますが、当家のことを
書かせていただきます。内容は私の祖父が生前に中部経済新聞社から1966年
に発行した「光秀行状記」に記載しているものです。
 私の曽祖父の代に、明治政府に明智への復姓願いを系図などの品を添えて提出
し、それが認められ、その記事が当時の報知新聞に掲載されて評判になったとの
ことです。祖父は報知新聞が発行されていた時期なので明治11年か12年ころと
記していますが、はっきりはしません。明治5年というのは初めて聞きました。
 復姓した理由は、明田と苗字を変えて世を忍んでいましたが、曽祖父が、このま
ま明田姓では将来愚昧な子孫が光秀の子孫であることを忘れてしまうのではないか、
と危惧したためとのことです。証拠の品としては、系図の他に、武鑑、光秀自筆の
和歌「山間の霧はさながら雲にして、波かと聞けば松風の音」、光秀が使用していた
能管があったとのことで、まだ子供だった父は部下の勤務評定である武鑑を見た
記憶があると言ってました。
 曽祖父の死後、血縁の祖父が明智家を継いだことが影響していますが、祖父も父も
光秀の子孫であることの価値が重いものだとは全く思わず(むしろ謀反人の子孫である
という負の意識があり)、系図などを真面目に見なかったようで、祖父のかすかな記憶
で、光秀の子於?丸(おづるまる)から線が延々とつながった系図だったとのことです。
残念ながら全て関東大震災で消失し、現在は何も手元に残っておりません。
 私の調べたところでは、@様々な明智系図の中に於?丸に完全に一致する名前はなく、
明田という姓を名乗ったという子供が居ることを記した系図はある、A京都白川にある
光秀首塚は江戸時代に光秀の子孫と名乗る明田理左衛門という人が粟田口に埋められて
いた光秀の遺骨を貰い受けて弔ったものである、とわかっています。@については、明智
系図なるものがいずれも不正確で信憑性が少ない、といわれていますので、むしろ
それらに記載されていない名前に信憑性を感じています。Aについては、理左衛門が能管
の名手と伝えられているそうですが、曽祖父の父で津軽藩士だった明田鉄太郎も能管の名
手だったと祖父が書いており、この二人がつながるのではないかと見ています。
 まだまだ推理の域を出ませんが、少しづつミッシングリングがつながるような調査がで
きればよいな、と思っており、定年後の私のライフワークにしようかと考えているところ
です。
 なお、「側室云々」については、光秀の正妻がある時点で先立っており、後妻を迎えた
という話もあるようですし、近江坂本と丹波亀山のそれぞれに居城を持った関係から亀山
に側室を置いた可能性もあるかと思います。明智系図でも明田などは丹波に土着(?)し
たように記載したものがあったように思います。そういえば、私が丹波地方のホテルに
宿泊したとき、明け方に眼下に見た景色は正に「山間の霧はさながら雲にして」という景色
でした。
 いずれにせよ、400年に渡る長い年月を、ひっそりと隠れて子孫としての伝承を続けて
きた、今や名前のわからない私の何代もの祖先に感謝し、また私の後代へ伝えていく責任を
感じている次第です。 


3 名前:光憲 投稿日: 2005/01/25(火) 22:06:45 
 済みません。今書いた記事に誤りがありました。
和歌は「山間の霧はさながら海にして」でした。「雲」では和歌にならない
ですね。 


4 名前:今墨俣 投稿日: 2005/01/25(火) 22:40:05 
突然、横レスですいません。「明治政府に明智への復姓願いを系図などの品を添えて提出し」とのことですが、
「復姓願い」なる制度が当時あったのですか。苗字のなかった農民は勝手に姓を決めたぐらいのことしか知りませんが、
それとも苗字のあった者はこのような手続きを踏んだという事でなのでしょうか?
私の多治見姓でちょっと気になることがあるもんですから。 


5 名前:美濃林 投稿日: 2005/01/26(水) 14:20:04 
明智光憲殿ご懇切なご教示恐縮です。
明智光秀は信長に対しては謀反かもしれませんが天皇制護持という点では多大な貢献があったのではないかと思います。
信長は一族はじめ多くの人々を殺戮した狂気の人物であり秀吉、家康などとは朝廷に対する考えも違います。
また大きな謎は徳川家康が春日局を家光の乳母としたことです。今後のご研究を期待しております。 


6 名前:石垣眞人 投稿日: 2008/09/23(火) 14:37:26 
「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。

   http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。 


土岐頼芸の読み方

1 :澤源:2008/07/16(水) 17:32:18 
月曜日に池田町の禅蔵寺にて過去帳の中に書かれてある「土岐頼芸」の読み方について振り仮名をG新聞社が取材されました。 

その中で分かったことは、禅蔵寺は室町幕府第五代美濃守護の土岐頼忠と第六代美濃守護の土岐頼益の菩提寺で、
土岐頼芸からすると四代から五代前の先祖のお寺になります。 

ついては、1650年頃に新調されて1850年頃に作り替えられるまで使われた古い方の過去帳に
「頼芸」の振り仮名があったというものです。 

詳しく調べると、時の住職が土岐氏の歴史を纏めて書いておこうと過去帳の裏書きに纏められたこと。 
そして、頼益以降の守護たちを、それは持益・政房・成頼・政頼・頼芸・頼次といった人達を、
それぞれ亡くなった日付に挟み込み供養していたこと、そしてその後も一般の方々を歴代守護の命日以降に書き継いでいることでした。 

結果、1830年前後に書かれたものと判明した次第です。 
土岐頼芸は1582年に亡くなりましたので、250年程後の供養次第となります。 

当然、土岐頼芸の墓は谷汲の岐礼にありますので、池田町とは距離的には車で約30分程離れていますから、
20`から25`ぐらいでしょうか。 

今まで、岐阜県で・日本の様々な書籍で「よりあき」「よりよし」「よりのり」「よりなり」と呼ばれたきましたので、
頼芸の出自に関わるお寺にて1800年代初頭から呼ばれてきたことをどう捉えるかとの見解でありました。 

つきましては、丁度同時期に書かれている幕府が大名旗本に提出させた
『寛政重修諸家譜』ではどの大名家から「よりなり」とされた出展を確認せねばなりません。 

また、「信長公記」では太田牛一が「よりよし」としていますので、同じくその根拠の展開が求められてきます。 

最後になりましたが、もう新聞社は刷り上がる頃でしょうが、明朝刊岐阜県版を楽しみにしてくださいませ。 
それではごきげんよう。 


さて、朝刊に出ましたので発表します。「ときよりのり」でした。 


2 :mino阿弥:2008/07/22(火) 15:45:37 
禅蔵寺の過去帳に土岐頼武の名前は、ありましたか?
ないはずですが?
近年、土岐頼武が十代守護として当然のことのように
認知されていますが基本的に見つめなおす必要があると思います。
濃州守護恵胤と能州守護(能登畠山氏)を取り違えて
堂々と発表されている方の説を、谷口先生はじめ岐阜県史なども
採用されていますが、再考すべきではないかと思います。
土岐頼芸の読み方について一石を投じられたことは、大きな功績だと
思いますが、こちらの方も土岐系図を見る上では大切なことではないか
と思います。
土岐氏研究にご興味のある方々は、どのような見解をお持ちであるのか
伺いたいと思いますが。 


3 :澤源:2008/08/21(木) 17:33:38 
祝決定、土岐頼芸の読み方 《とき よりのり》

土岐頼芸の読み方を決定したいと思います。 

前回、岐阜新聞で発表されましたが揖斐郡池田町の禅蔵寺の過去帳に、
土岐頼芸の振り仮名があったことから、《とき よりのり》を紹介しました。 

本日、「信長公記」を1600年代前半に書いた太田牛一の書付に土岐頼芸を《とき よりのり》としてあることが確認できました。 

資料根拠は、発見者が未発表ですので未だ少し時間がかかりそうですが、このことからも《とき よりのり》で確定できると思います。 

長年に亘り読み方が色々で、さぞかし頼芸公もあの世で困られた事と思いますので、晴れて《よりのり》で読んであげて下さい。 

祝決定、土岐頼芸の呼び名は《とき よりのり》 


土岐清水城の曲輪発見

1 :澤源:2008/08/18(月) 10:36:59 
7月27日の日曜日に史跡掃除をしましたが、その際清水砦にも行きました。

瑞浪市土岐町清水にある砦と言われてきましたが、頂上近くに供養塔があり、約十年振りでした。

今回の参加者には、新しく昨年から美濃源氏フォーラムに設置した中世山城部会の部会長も入ってましたので、
都合四回目にして新発見がありました。

@ 様々な曲輪を要した完全な山城である。
A 鶴ヶ城から一日市場館への山伝いの道筋であり、途中の遺構と考えるべき。

つまり、伝承の確認となったわけですが、7月5日に山城巡りと健康ウォーキング開催時に、
この清水砦の下道で“中世はこんな所に道が有るはずはないので、上の山筋を通っていたであろう”とした解説通りとなったわけです。

そう言う意味で、ややもすると現在の道筋で考えがちですから、山城巡りと健康ウォーキングの位置付けを再考せぬばなりません。 

 
半田で桔梗紋のお寺を発見

1 :澤源:2008/08/18(月) 10:34:56 
知多半島での土岐氏一族の足跡を探していたところ、桔梗紋のお寺があることを教えて貰いました。

大昌寺と言いました。

半田市史で観ると常滑の天澤院の末寺であり、次に常滑市誌を観ると常滑城主初代水野監物忠綱の開基であり、
忠綱は徳川松平に組していたとのこと。

その後、三代守隆の頃は織田に組する様になっていたが、本能寺の変では明智についたため、
変後は常滑城におられず京都嵯峨に隠棲したが、守隆の室妻は家康の従姉妹であり、二十人扶持をもらい常滑に残り、
総心尼として出家し総心寺を作り、残ったとのこと。

さてさて、天澤院の寺紋と総心寺の寺紋を調べねばなりませんが、末寺の大昌寺が何故に桔梗紋か、面白くなってきました。

明智に味方し、夫婦離別で城主は隠棲なれど、妻は家禄を貰い出家で終わり、関係寺院に明智の桔梗紋が残った!

推理小説なら、答えは出ましたね。 
 

信長学と土岐氏の憂鬱

1 :澤源:2008/07/31(木) 17:04:50 
岐阜市長の細江さんは大の信長ファンです。 

ですから、今年の秋は「信長学シンポジウム」を計画してみえます。 
その中で恐らく、「岐阜」の地名について信長命名説も一緒に論じられると思います。 

現在の、シンポジウム参加者には中国文学研究者も入っていますので、
中国の地名である「曲阜」「岐山」からの「岐阜」への引用説が、いつものように強調されるのではないかと危惧しています。 
正に、土岐一族の憂鬱です。 

誰が考えても、信長が生まれる前から、
信長が美濃に来る百年前から既に「岐陽」も「岐山」も「岐阜」も地名や山の名前として使われていたことは立証されている訳で、
当然土岐氏の時代の命名です。 

信長は斎藤道三に習い、楽市楽座を始めた訳ですし、
禅僧達が土岐氏に敬意をはらい地名を変えた「岐阜」を井ノ口から変えたわけですし、
又稲葉山城を「岐阜城」としたわけで、これ以上の信長の岐阜発想説は断固として否定しなければなりません。 

ある意味、信長は侵略した道三の政策を評価し、また土岐氏の地名の因縁を称えたということにもなるでしょう。 
ついては、『岐阜の「岐」の字は、土岐氏の「岐」を広める会』を設立し、全国区での議論にしたいと思います。 

やるぞ、NHK「その時歴史は動いた−岐阜の地名誕生す、二番煎じの信長公」オンエアを目指して。 


2 :澤源:2008/07/31(木) 17:06:53 
岐阜市長の細江さんは大の信長ファンです。 

ですから、今年の秋は「信長学シンポジウム」を計画してみえます。 
その中で恐らく、「岐阜」の地名について信長命名説も一緒に論じられると思います。 

現在の、シンポジウム参加者には中国文学研究者も入っていますので、
中国の地名である「曲阜」「岐山」からの「岐阜」への引用説が、いつものように強調されるのではないかと危惧しています。 
正に、土岐一族の憂鬱です。 

誰が考えても、信長が生まれる前から、
信長が美濃に来る百年前から既に「岐陽」も「岐山」も「岐阜」も地名や山の名前として使われていたことは立証されている訳で、
当然土岐氏の時代の命名です。 

信長は斎藤道三に習い、楽市楽座を始めた訳ですし、
禅僧達が土岐氏に敬意をはらい地名を変えた「岐阜」を井ノ口から変えたわけですし、
又稲葉山城を「岐阜城」としたわけで、これ以上の信長の岐阜発想説は断固として否定しなければなりません。 

ある意味、信長は侵略した道三の政策を評価し、また土岐氏の地名の因縁を称えたということにもなるでしょう。 
ついては、『岐阜の「岐」の字は、土岐氏の「岐」を広める会』を設立し、全国区での議論にしたいと思います。 

やるぞ、NHK「その時歴史は動いた−岐阜の地名誕生す、二番煎じの信長公」オンエアを目指して。 


3 :mino阿弥:2008/08/01(金) 17:12:17 
市長の個人的見解に基づいていますから、なんとも出来ないと思います。
土岐氏について、まったく関心がないという証左ではないかと思います。
論文を市長宛に送りつけられたら、いかがですか? 


4 :澤源:2008/08/04(月) 14:16:15 
岐阜市において、『岐阜』の「岐」の字は『土岐氏』の「岐」のシンポジウムを開催したいです。

「応仁の乱」において公家や禅僧たちが美濃の避難してきたことと、
その時代の土岐氏の繁栄から道三時代への変遷、そして信長の登場。

1400年代中盤から1500年代中盤までの凡そ百年間がどんな時代であり、
当時の禅僧達の語録に「岐陽」「岐山」「岐阜」がどのような背景で出典しているのか、
その全文を紹介しがてら、信長の「岐阜」命名統一説として結論付けたいとおもいます。 

 
土岐清水砦

1 :澤源:2008/07/31(木) 16:21:11 
7月27日の日曜日に史跡掃除をしましたが、その際清水砦にも行きました。 

瑞浪市土岐町清水にある砦と言われてきましたが、頂上近くに供養塔があり、約十年振りでした。 

今回の参加者には、新しく昨年から美濃源氏フォーラムに設置した中世山城部会の部会長も入ってましたので、
都合四回目にして新発見がありました。 

@ 様々な曲輪を要した完全な山城である。 
A 鶴ヶ城から一日市場館への山伝いの道筋であり、途中の遺構と考えるべき。 

つまり、伝承の確認となったわけですが、7月5日に山城巡りと健康ウォーキング開催時に、
この清水砦の下道で“中世はこんな所に道が有るはずはないので、上の山筋を通っていたであろう”とした解説通りとなったわけです。 

そう言う意味で、ややもすると現在の道筋で考えがちですから、山城巡りと健康ウォーキングの位置付けを再考せぬばなりません。 
 

夏目漱石は信濃源氏

1 名前:名無しの権兵衛 投稿日: 2006/03/28(火) 01:29:16 
土岐氏調査・研究ノート の中に源臣様の投稿で
「坊ちゃんは土岐一族である」という投稿がされています。

そもそも、夏目漱石は信濃源氏であり信濃国更級郡夏目郷・同伊那郡夏目郷の地頭
を勤める家系の子孫です。
その後東京の馬場町に移ったというのは有名な話ですよね。 


2 名前:源臣 投稿日: 2006/03/28(火) 19:40:20 
権兵衛さま。
ご投稿ありがとうございます。夏目家が信濃源氏であったからこそ、
漱石の清和源氏系「坊ちゃん」が生まれたと勝手に思っております。
「坊ちゃんは土岐一族である」は「我田引水」の系図調べ冗句です。
お楽しみ頂ければこの上ない幸です。 


3 名前:名無しの権兵衛 投稿日: 2006/03/30(木) 14:50:51 
>>2

夏目漱石が信濃源氏の子孫であることを知っていらしたのであれば
問題ありませぬ。 


4 名前:澤源 投稿日: 2006/03/31(金) 17:07:03 
しかし、どうしても状況からいくと、「坊ちゃん」は土岐一族ということになるでしょうね。
もちろん夏目漱石が何故、土岐一族に対する知識を持ち合わせていたかが、面白いとこなのですが。
名門土岐氏に対する思いを聞いてみたいナァ。 


5 名前:源臣 投稿日: 2006/03/31(金) 21:50:36 
漱石は土岐一族に対する知識を持っていた訳では有りません。
清和源氏の知識を持っていただけでしょう。 


6 名前:名無しの権兵衛 投稿日: 2006/04/01(土) 23:05:31 
なぜ漱石が清和源氏の知識を持っていたかというと
漱石が清和源氏だから。 


7 名前:石垣眞人 投稿日: 2008/07/28(月) 14:48:04 
「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。

   http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。 


土岐頼貞の末弟光時の後裔は

1 :大シマ:2008/07/20(日) 22:23:26 
先日の「本郷城と土岐氏廟所めぐり」に参加させていただきありが
とうございました。
多数の古墳群も驚きでしたが、当日禅蔵寺に貼りだされていた土岐
系図にもちょっと驚きました。
頼貞の末弟は光時ですが、光時の箇所に「(養子)七宗地頭」と
注記されています。
尊卑分脈にこの光時が出てこない理由が養子であったのかもしれま
せん。
また、続群書類従・土岐系図によれば、この光時の後が、表作光清
ー大島光吉・・・となっており、文明の頃に大島弾正忠が関市上之
保の代官であったとか、美濃出身の旗本・大島氏の采地が関市や
川辺にありましたが、これらの土地が七宗の周辺に位置するのは
偶然ではないような気もします。
また、旗本・大島氏は「光」を通字としていますので、この大島氏
は寛政譜では新田庶流と書かれていますがそれは修正すべきで、
土岐一族ではないでしょうか。 


2 :大シマ:2008/07/22(火) 17:41:43 
補足です。

寛政譜の大島氏の項で先祖の名前がはっきりしているのは、
大島光宗(義和が呈譜に光時に作る。)ー光義(初光吉)・・・
であり、続群書類従・土岐系図の内容を知ってか知らずか、
ちゃんと先祖と同名の光時、光吉の名前を使っているのは興味深いことです。
また、元禄4年から7年まで駿河大手組に属していた大島雲四郎は、出自は
寛政譜の記述と同じく新田庶流であるとの認識であったようですが、名字の
地は美濃国安八郡大島村(大垣市大島町)としていたようです。 


3 :澤源:2008/07/24(木) 18:04:00 
大島さま

先日の西濃豪族探歩に奥様とご一緒に参加して頂きありがとうございました。
小生も、家内に参加を促すことが珠にはありますが、講座とかウォーキングとか史跡めぐりではむつかしいようですので、
今回のご同行を羨ましくみておりました。

さて、当日東京への講座参加もあり11時ぐらいに失礼しましたが、
その後の展開にて大島さんがここまで関心を持って頂けたのは何よりでした。

大変、土岐大島氏については一番の研究者ですので、どうか更なるご指導をお願い申し上げます。 

 
美濃源氏フォーラム復活

1 :澤源:2008/06/18(水) 22:21:21 
5月1日からホームページが工事中でご迷惑をお掛け致しましたが、
やっと一部使えるようになりました。
完全復帰までには、まだ暫く時間が掛かりますが宜しくお願い申し上げます。 
     


トップへ
戻る
前へ
次へ