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31〜40
31: もぅ今日で人生終わった!! (1)      削除
32: 東京高裁のHPに掲載されたレイプ事件 (1) 削除
33: 六月十五日 (1)
34: 今年の行事は? (2)
35: 「神功皇后と天日矛の伝承」 (2)
36: 土岐英史ジャズイン美濃源氏フォーラムBy無礼講BrekeOut (6)
37: 土岐頼康の南北朝融和政策 (4)
38: 土岐高井氏の足跡発見 (6)
39: 正法寺 (4)
40: 土岐植村氏 (11)


六月十五日

1 :mino阿弥:2008/05/01(木) 17:51:08 
「宗禅寺禅の旅」ご一行様、何もできませんが大歓迎です。
お帰りの途中にある方広寺(浜松市引佐町)も立ち寄られたら
如何かと思います。建長寺が明治に勧請した半僧坊大権現が
ありますが。ではお待ちしております。 


今年の行事は?

1 :とおりすがり:2008/04/23(水) 07:58:54 
今年の年間予定はどうなっているのでしょうか。
このサイトの行事予定もそろそろ今年のものに更新してほしいです。 


2 :澤源:2008/04/23(水) 13:43:46 
有難うございます。只今、事務局のホームページ管理体系が変更されることになり、その対応に追われています。
まもなく、ご呈示できると思いますが、差し支えなければメールの添付にて概要書をお送りしますが、いかがでしょうか。
つきましては、同様に平成20年度計画表をご希望の方は、事務局までメールにてお申し付け下さいませ。 


「神功皇后と天日矛の伝承」

1 :mino阿弥:2008/04/22(火) 11:37:54 
このほど、宝賀寿男氏が「神功皇后と天日矛の伝承」(法令出版)を
出版されました。 


2 :澤源:2008/04/23(水) 01:21:52 
宝賀先生の博識で美濃源氏の歴史についても精通してみえますので、益々のご研究に頭が下がります。 


土岐英史ジャズイン美濃源氏フォーラムBy無礼講BrekeOut

1 :澤源:2008/03/18(火) 09:45:04 
昨日、小生の誕生日でしたが折りしも著名なサックス奏者土岐英史さんのステージが名古屋のライブハウス「スターアイズ」であり、
午後7時から11時まで楽しんできました。四捨五入すると60歳となりますが、
55歳のゾロ目となりましたので今年はゴーゴーで巻き返したいと思っています。
ついては、昨年3月4日にTHE BREKEOUT土岐英史クルージングを瑞浪市で行ないましたが、
約550名が魅惑のフュージョンに酔いしれましたので、是非ジャズイン瑞浪byTHE BREKEOUT無礼講を行ないたく相談をしたところです。

土岐一族のアーティストとして、以前から世界的なピアニスト深沢亮子氏と落語の巨匠桂三枝師匠にご出演頂いておりますが、
国際的哀愁のアルトサックスプレーヤーの土岐英史氏にと、土岐氏の芸術文化の真骨頂であります。
今夏に、土岐英史氏のTHE GREKEOUT無礼講が期待されます。

因みに、新装して美濃源氏フォーラムの事務局が入った「ホワイトスクエア」にはピアノが現在ありませんので、
なんとかして入れ込まなくては・・・・・。汗・・汗。 


2 :三宅川:2008/03/20(木) 19:06:58 
皆様、初めまして
「談話室ゆづき」に出させて頂いたことがありましたが、こちらでは初めてです。
どうぞ、宜しくお願い致します。

澤源様、お誕生日おめでとうございます。
合わせて、新年度のフォーラムの発展も祈念致します。

追伸:大通寺の寺紋の件、確認中ですので暫くお待ちください。 


3 :澤源:2008/03/29(土) 01:54:04 
いよいよ土岐英史氏から連絡があり、9月20日(土)にジャズインTHE BREKEOUT無礼講が決定しました。
土岐英史Asax 生田幸子p 新玉哲郎b 倉田大輔ds のクァルテットが土岐氏発祥地に参集して頂けます。
1324年9月19日に後醍醐天皇の綸旨を受けた鎌倉幕府北条執権を倒す先陣の土岐頼兼と多治見国長達は、
一族の舟木頼春の返り忠により六波羅探題の奇襲を受け、天下に号令をかける夢は儚く終えました。
そして過ぎるところ684年を経て、再び無礼講が土岐の地で行われ、新しい世を創る企てが始まります。
申し訳ないことに、この日は東京六本木講座と重なることに成りましたがご容赦願います。 


4 :澤源:2008/03/29(土) 10:03:59 
美濃源氏THE BREKE OUT 無礼講にお願いしたベ−シストは荒玉哲郎さんであり、
新玉三千代の新玉ではありませんから訂正しお詫び申し上げます。 


5 :澤源:2008/04/12(土) 10:51:21 
「土岐英史THE BREKE OUT−無礼講」の出演者に、最後にもう一人テナーサックスの大物『小濱安浩』が決定しました。
これで、たいへん素晴らしいジャズナイトとなるでしょうから、後もう一工夫を考えようと思います。
元々『無礼講』とは、北条執権鎌倉幕府を倒すために公家や僧侶や武士達が謀議を計った宴席であり、
高僧の勉強会の名を借りての礼講の後に、身分の上下を問わず風体も自由気ままに飲食をし、
互いの気心を掴もうとしたのが始まりと、広辞苑などに紹介されています。
また、山海の珍味を取り揃え、貴種な飲み物に舌鼓を打つのも、
一重の単衣を身にまとった十七〜八の見目麗しい女人もいたことにより、
とても倒幕の下相談と気付かれることのないものでありました。

伝統と改革と、オリジナリティーとフリースタイルと、形式とアットランダムと、
今の世の既成概念を吹き払う「土岐英史 THE BREKE OUT 無礼講」にご期待下さい。

美濃源氏土岐一族 − 無礼講 − 婆娑羅大名 − 
土岐英史AS・小濱安浩TS・生田さち子P・荒玉哲郎B・倉田大輔D

「無礼講 婆娑羅の宴や 自由心」 


6 :澤源:2008/04/23(水) 01:20:10 
 「無礼講 婆娑羅の宴や フリーダム」に変更します。 

 
土岐頼康の南北朝融和政策

1 :mino阿弥:2008/03/28(金) 11:32:18 
川手の正法寺の開山嫩桂正栄(大医禅師)は、無本覚心(法燈国師)の
法嗣である。
「厚見郷土史」「濃飛両国通史」によれば
嫩桂の二世信仲自敬(別号一心)
信仲は延文年中に大覚寺派の月心慶円(定林寺入住)と入明し帰朝後
鎌倉の寿福寺に入住、正法寺二世住持となり後に興国寺に移る
紀州興国寺(法燈国師開山)は臨済宗法燈派の本山である。
月心慶円は、のちに建長寺五十八世住持となる。
また、にわかに信じ難いことであるが信仲の法嗣として
梅隠祐常(後村上天皇の皇子惟成親王)が在籍していると記述されている。
後村上天皇は、後醍醐天皇の皇子であり、美濃椿洞に了義寺を開山
した無文元選禅師も後醍醐天皇の皇子である。
「祐常」は、惟成親王の法名である可能性が高い。(東大史料編纂所史料)

了義寺には、無文元選のもとに、当時二千人ほどが結集していたと
いう伝承があり、南朝勢力が拠っていた可能性がある。
それ以前、嫩桂正栄は、美濃の大桑に二十年も庵居していたとある。
大桑は南朝・昭慶門院領である。昭慶門院は、無文元選の母とされる方
でもあるが、年齢を考慮すれば、後醍醐天皇の皇子世良親王が
昭慶門院の養子となっており、その誤伝かとも考えられる。
しかし、いずれにしても南朝ゆかりの地であると言える。
吉田東伍著「大日本地名辞書」によれば、稲葉氏の発祥した
揖斐川町清水は「伊予河野党の人々の流寓しておれる地」と
書かれている。
「流寓」とは、「さすらって他国に住む」という意味がある。
敗残の人々が住んで居たようにも考えられ、この中から
越智姓を称する稲葉氏が出てきたものと思われる。

土岐頼康の周囲には、南朝に関わる人々が多く存在しており
土岐頼康自身が、南北朝融和政策を採っていたのではないかと
考えられる。
「康行の乱」は、足利尊氏以来の幕府功臣であった土岐頼康には
手が出せず、頼康没後に、妙心寺同様、南朝よりの政策を
苦々しく思っていた足利義満により、企てられたものではないか
とも想像される。

土岐頼康が、南北朝融和政策を採っていたのではないかと
いうことを考慮し、中世の美濃の歴史を見直す必要がある。 


2 :mino阿弥:2008/03/28(金) 11:40:08 
無本覚心の法嗣ではないが、印可を受けた人として、一遍上人がいた。
無本覚心のもとで、嫩桂正栄と一遍上人は、面識があったのではないか? 


3 :mino阿弥:2008/03/28(金) 17:10:36 
正法寺は、「船田の乱」では、焼失しなかったようで、永禄七年または
十年の九月頃、織田信長の兵火により焼亡したようです。 


4 :澤源:2008/03/29(土) 01:40:06 
まだまだ湯築城の皆さんのような議論が出来なくてすみません。
是非、文化財フォーラム愛媛のホームページに入られ、
掲示板での土岐氏と河野氏の関係を調査してみえる人達の熱意を御覧下さい。 


土岐高井氏の足跡発見

1 :澤源:2008/03/20(木) 21:10:28 
三河の三宅川様より、土岐高井氏における研究をご教授賜りました。
南北朝期以後、また「土岐氏の乱」以後に美濃を追われ、そして近隣地区の懸崖な山中の山城に居たという、
中川根町の徳山城のように土岐一族が恐らくいたことでしょう。
土岐高井氏についても同様で、新たな情報をお待ち申し上げます。
因みにも大通寺を開基したとのことですので、寺紋が桔梗かどうか関心があります。 


2 :三宅川:2008/03/20(木) 21:11:37 
皆様、初めまして
「談話室ゆづき」に出させて頂いたことがありましたが、こちらでは初めてです。
どうぞ、宜しくお願い致します。

澤源様、お誕生日おめでとうございます。
合わせて、新年度のフォーラムの発展も祈念致します。

追伸:大通寺の寺紋の件、確認中ですので暫くお待ちください 


3 :三宅川:2008/03/21(金) 00:33:28 
スレッド立ち上げて頂いたので、概略だけ書き添えさせて頂きます。

三河国八名郡石巻村(現豊橋市石巻町)に、石巻山多米県立公園に指定されている、標高358mの弓張山脈の石巻山があります。
山腹から山頂付近にかけて石灰岩が露出し、岩の櫓のようになっています。
そこには、高井主膳正という人物が南北朝時代の延元年中に城を築きました。
しかし、南朝興国五年、北朝康永三年(1344)北朝方足利勢に攻められ落城し、高井氏はこの地で自害したと伝えられています。
現在、中腹には旅館街(衰退し1軒のみ)と石巻山上神社があります。

また、高井主膳正の居館跡が、石巻山から北西に2km離れた地にあります。
この場所は一級河川豊川の左岸段丘端に位置し、東海道の脇往還であった「姫街道」と、
奥三河から吉田(豊橋)に至る街道の接点にあたる場所です。
城跡一帯現在は開墾されて畑となっていますが、丘陵北端に土塁の一部が「塚」と呼ばれて残り、
東側と西側丘陵端に堀の痕跡をみることができます。
城域も約250m角あり、広大な城であったことがうかがえます。
この辺りは、明治11年まで高井村と呼ばれていました。

高井氏について、地区の伝承として「高井氏は本名を土岐三河権守国行という」のがあります。
さらに、「落城の際、高井氏の家臣が主膳正の子と共に峠を越え、遠州に落ち延びていった」というのもあります。
現に、隣接する静岡県引佐町横尾には、先祖は美濃出身という高井さんのお宅が数軒あります。
また、「南朝史学会」という過去に存在した研究会が、次の事柄を発表しています。
「長慶天皇が応安年中に、忠臣児島高徳と共に三河を訪れ、高井城に隣接する場所に玉川御所及び和田(嵯峨)城を築き、
隠れ城とした」とあります。

この他、三河地方には、土岐氏裔といわれる菅沼氏(替紋が桔梗)、長篠氏、土井(大井)氏等が南北朝時代以降、
活躍しましたが、折をみて順時紹介させて頂こうと思います。 


4 :澤源:2008/03/21(金) 09:36:31 
三宅川さま、ご親切に開設頂きましたので多くの方が喜ばれるでしょう。
ついては、「美濃源氏三河調査隊」を有志で作りお邪魔致したく存じますので、
その節はご指導の程宜しくお願い申し上げます。
特に、土岐氏や河野氏の南朝関係について未解明部分が多々あると存じますが、
この掲示板に頻繁に投稿されますMino阿弥氏は方広寺を開いた無文元選皇子を探求中ですし、
その方広寺は静岡県引佐町にあるものですから、
南朝方土岐高井氏との関係にも関心が高まるものでしょう。 


5 :三宅川:2008/03/22(土) 18:50:34 
澤源様
私は浅学非才でありますので、お教え頂くほうが多いかと思いますが、できうる限りご紹介させて頂きたいと存じます。

先ほど、「長篠大通寺」のほうへ出向きました。
現在、大通寺自体は無住職となってしまってますが、本堂を修理中であり屋根瓦を葺き替えている最中でありました。
そして近くにあります本寺である、「医王寺」へ向かい、副住職様とお話をしてきました。
住職様でないと詳しいことが分からないということであり、後ほど連絡を頂けるということで寺を後にしました。
医王寺は、長篠の戦いの際に武田勝頼が本陣を敷いたところであります。また、大通寺も同様に陣地を敷いたところです。

そして先ほど住職様より連絡があり、大通寺、医王寺共々寺紋は現在無いということでありました。
ただ、過去にあったかもしれないということで、今回の屋根葺き替えで発見されるか注意深く確認するということでした。
大通寺は、応永18年に開山し、もともと鳳来寺末の真言宗であったのが長篠の戦いで焼失し、曹洞宗に改宗したということです。
また、土岐氏の流れを汲むという長篠氏、土岐氏河野氏に関連の深い大通寺の旨もお話致しましたところ、
大変興味深くお聞き頂きました。
因みにこの住職様は、昨年まで鳳来寺山の麓にあります「鳳来町自然科学博物館」の館長をされていた、地質学者の方であります。 


6 :澤源:2008/03/23(日) 00:27:56 
三宅川さま、早速軽快なフットワークにて情報収集に動いて頂き恐縮しております。
現地ならではの見方と捌き方が、お導きを呼び新たな展開に繋がるものですから、
きっと楽しみな発見が起きるものと確信します。
実は、Mino阿弥氏が11年前に岐阜市において美濃源氏フォーラムを開催して欲しい旨承り、
自社の60名入れる会議室を解放していただき現在まで岐阜長良講座を続けて参りました。
お陰で、岐阜市内においての土岐氏の位置づけから、歴史と文化を活かしたまちづくりに対する重要性も高まり、
お節介はお節介なりの得心をしている次第です。
その間、岐阜市近郊を何度となく訪れもし、地元の方が気がついていない発見などもあり、
埋もれているものはまだまだあるものと再考の必要性を感じた次第です。
三河も遠州も土岐氏については、まだまだこれからでしょうから、また1つ夢が膨らみました。 


正法寺

1 :mino阿弥:2008/03/21(金) 16:07:36 
土岐頼康開基
嫩桂正栄開山・臨済宗法燈派(南朝系)法燈国師の高弟紀州興国寺
法嗣信仲自敬
信仲の法嗣梅隠祐常(後村上天皇の皇子惟成親王)が在籍。
土岐頼康は南北朝統一のため尽力されていたのではなかろうか?
瑞巌寺の開山は大林善育。南禅寺、建仁寺歴任。これも南朝。
土岐氏が南朝よりであったことも、足利義満のターゲットに
なった一因であろうか? 


2 :mino阿弥:2008/03/21(金) 17:28:43 
後醍醐天皇の皇子無文元選禅師は、興国元年(1340)建仁寺普光庵で、ご出家。
瑞巌寺の開山大林善育とは面識があったのではないか?
浜松市引佐町の方広寺には、無文元選禅師と宗良親王の位牌あり。
大桑(昭慶門院領)から椿洞の了義寺にかけて南朝の敗残の人々が多数落居
していた気配がある。
土岐頼康の川手城の隣に、後村上天皇の皇子が居たとすれば、何を意味する
のであろうか?
この土岐頼康の南北朝融和政策が没後、足利義満によって土岐氏の勢力が
削がれた一因にもなったのではないか?
妙心寺のように。
また妙心寺の中興日峰宗瞬は、無文元選禅師に参禅している。 


3 :澤源:2008/03/22(土) 08:41:34 
いよいよmino阿弥氏の本領発揮となってきましたね。
南朝北朝問題と禅僧の動きが中世史の解明の大きな指針となるでしょうから。
ついては、鈴木佐氏が全国の建長寺末について調査中でして、
その成果が土岐氏も千葉氏も、
そして河野氏についても複雑に絡み合っていた糸を解き解すことになっています。
鈴木佐氏とmino阿弥氏の対論を次年度の講座に入れましょう。
その節は、宜しくお願い申し上げます。 


4 :mino阿弥:2008/03/22(土) 10:59:19 
土岐氏の周辺、特に禅僧について、もう少し明らかになれば、当時の
状況も、より理解できるのではないかと思います。

方広寺には、妙心寺から管長になった方がおられます。
また、建長寺は、明治期に方広寺から半僧坊大権現を勧請されています。
法燈国師には、一遍上人も参じたという伝説があり、宗教上の教義は
まったくわかりませんが、朝廷、将軍家、守護に近い高僧達が
大きな影響力を持っていたことは確かなことであろうと考えられます。

岩村大円寺の臨済宗遠山派の法嗣月菴宗光の「月菴法語二帖又一帖」が
足利義教の御所に備えられていた。
世阿弥の「拾玉得花」の末尾に「月菴和尚云・・・」と記されている。
また後小松天皇から正続大祖禅師号を賜っている。
大徳寺、妙心寺にならぶ大円寺また峰翁祖一の法嗣であった故のことでは
ないかと考えられます。
これらは、恵那市岩村町の誇るべき歴史的遺産であると思いますが。
南山士雲の住した墨俣の法蔵寺でも同様ですが、土地の方は、あまり興味を
持っておられないということが残念です。

また、この件は、調査途上であり、仮に皆さんの前で、いろいろお話しても
興味がない方にとっては、退屈なものとなります。
岩村や墨俣ばかりではなく、岐阜市も、観光的には「信長」一辺倒であり
残念ですが、視点が違うということだと思います。 


土岐植村氏

1 :澤源:2008/03/04(火) 10:21:08 
 昨日、小中学校の同級生から依頼があり、娘の友達が土岐植村氏について造詣が深いとのことで、
発祥地の土岐郡を見学したいから案内を頼まれ、半日土岐一族史跡探訪を致しました。
 来訪され、よくよく伺うと江戸時代の奈良県高取城の大名家土岐家政以後の宗家嫡男で、驚きながら色々と説明を致しました。
 流石に、砂が水を吸うが如く殆ど私の説明を理解されるには驚きましたし、週一のバスケットで鍛えている足腰は
疲れをしらず鶴ヶ城から自刃洞から小里城から永保寺から先祖の土岐頼忠よろしくの駆け巡りでした。
 ついては、関東在住なので4月19日(土)開催予定の「土岐会」に参加してもよいとか、
6月21日(土)から始まる美濃源氏フォーラム東京六本木講座でも
谷口研語氏の「美濃源氏土岐氏累代歴史講座」では丁度スタートから「土岐西池田氏三代」として頼忠や頼益や持益がテーマですので、
こちらも紹介する予定です。
 尚、当然親族が霞ヶ関ビル(旧鹿鳴館跡地)の最上階のメンバーとのことであり、再開を楽しみに多治見駅で解散となりました。 


2 :總源:2008/03/04(火) 14:05:55 
上総に勝浦という所が在ります。上総土岐氏の万喜城から南に20キロに位置していますが、
天正18年小田原北条氏が滅亡と同時に「土岐植村氏」が入っています。
植村氏の菩提寺である覚翁寺の碑に「美濃土岐氏の分脈にて土岐頼益の子孫」であることが記されています。
初代植村土佐守泰忠から6代161年に亘りこの地を治めています。
上総土岐氏が去ってから新たに上総に美濃源氏が入ってきたこと恥ずかしながら先日知った次第です。
研究材料が増えたようで嬉しく思っています。 


3 :澤源:2008/03/04(火) 23:54:07 
本日、植村宗家が土岐頼忠・頼益・持益の禅蔵寺を訪ねられ、土岐住職の説明を受けられたとのことでした。
分家の植村氏が勝浦にあることも知っていましたが、なかなか機会がなく是非総源様のご研究の一部となれば幸いです。 


4 :娘:2008/03/05(水) 20:03:45 
娘です。
3日はお忙しい中ご案内していただいて、ありがとうございました♪

昨日も、禅蔵寺で
いつもは閉ざされているお墓の扉が掃除のためとはいえ開いていたこと。

なにか虫の知らせを感じていただけたと言う程でもないかも知れませんが
鎌倉からはるばる来てくれた植村くんのために
神が巡り会わせてくれたものではないかと思っております。

植村くんも、大変喜んでくれておりましたし
私もそれを大変嬉しく思っております。

3日4日と、いろいろ回り
私はすごい人と友達なんだなぁとつくづく感じました(笑)

完璧な解説と、ゆかりの地巡り。
本当にありがとうございました!! 


5 :植村家政:2008/03/05(水) 23:06:35 
井澤様、先日はご案内有難う御座いました。
平日の日中と言う忙しい中、丁寧にご案内して頂き、
非常に勉強になり、大変嬉しく思っております。

植村家は土岐持益の後裔と伝わっており、
一度は美濃土岐郡を訪れてみたいと常々思っておりましたが、
何分、宗家である当家は明治維新後、東京府貫族として東京移住を命じられ、
続いて現在の住まいである神奈川県鎌倉市に居を移しましたので、
縁も少なくなり、なかなか機会がありませんでした。

今回、川瀬さんからの縁で美濃郡を訪ねられた事は、
非常に感慨深いものがありました。
これを機に、また訪れたいと思っております。

父親が霞会館の会員ですので、美濃源氏フォーラムのイベントにも
予定を調整して参加できたらと考えております。 


6 :澤源:2008/03/06(木) 01:03:37 
 植村家政さま、友達娘さま、頭がキリキリとねじを巻くほどの説明に良くぞ付いてこられたと敬服の極みです。
さて、遠江守や駿河守の歴代を土岐系図にて探してしてみると、土岐頼遠の子供だけが見受けられます。
特に、土岐氏○と通字を氏とすることを、一つの推測として今川氏真のように今川氏との関連でみたらと思っています。
例えば、植村氏も遠江を発祥とするとか、島田氏も駿河を発祥とか、又大井川沿いの川根本町には徳山城があり、
土岐館とか土岐氏菩提寺などがあるのに、美濃と系図が繋がらないのが不思議なことです。
土岐氏の親子の争いに兄弟争い、そして家臣との争いの末、一族相別れて戦った後遺症がどこに残ったか、
そういう意味で土岐頼遠の子供が静岡県に多い理由かもしれません。
そして、拠点が出来た後美濃に居られなくなった人達が、そちらへ移住することがおきたのではないか、
そんなことを今回の植村氏の発祥から推定してみました。
是非、土岐植村氏の奈良高取城へ行き、お導きのチカラにて啓示を受けてみましょう。 


7 :澤源:2008/03/07(金) 23:58:07 
本日、愛知県名古屋市の方から植村氏についてお問い合せがありました。
関市に多いとの情報で調べてみましたら39軒あり、中でも26軒が字名広見にありました。
ついては、岐阜県全域で135軒あり、ダントツ一位の関市ですが、第二位は流石に岐阜市が28軒で、
第三位が山県市宮永の13軒です。
その他、愛知県全域では408軒で三重県が310軒、そして植村氏発祥と言われる静岡県が129軒でした。
尚、奈良県の高取藩で譜代大名となりましたが、現在奈良県全域では435軒ありますが、高取町は2軒です。
植村家政氏のご協力があれば、土岐植村氏サミットを開催してみましょうか。
全国の植村氏の情報から、土岐氏に関しても新発見があるかもしれませんし、貴重な資料が出てきもするからです。 


8 :新:2008/03/08(土) 13:47:28 
澤源様、この度は色々とありがとうございました。
じっくりとサイトを拝見し、勉強させて頂きたいと思っております。
また、こちらへお邪魔するきっかけを作って下さったmino阿弥様にも
重ねて御礼申し上げます。

祖母が名古屋に嫁いで以降、その実家は転居してしまったようですが
番地から察するにおそらく遠い親戚筋遠にあたるであろう家は
今も残っているようですので、
仰るとおり、まずは一度思い切ってお手紙なりでコンタクトを取ってみようかと思います。

今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。 


9 :澤源:2008/03/08(土) 22:55:40 
新道さま、植村氏の研究は本宗家以外では如何様なものか、遣り甲斐のある仕事でしょうから、
決して個人的な先祖返りというよりも、土岐氏一族研究であるので、是非ともご助力もしますし頑張って下さいませ。
つきましては、まもなく平成20年度美濃源氏フォーラム事業計画が発表になりますので、
岐阜県内3会場か東京六本木講座などを見られて、是非ともご関心がさらに頂けますことを願っています。 


10 :植村家政:2008/03/15(土) 00:41:20 
土岐植村氏サミット面白そうですね。
このような文書がありましたので掲載しておきます。

[植村氏]
 松平氏に被官化することにより小領主化する過程の典型としては植村氏があげられる。
『重代記録』によれば、明応二(一四九三)年、土岐源三郎持益が遠州植村から、三河国碧海郡北本郷(岡崎市北本郷町)に来往して、
植村と改姓した。持益の男新六郎氏義は松平長忠に仕官して北本郷に城屋敷を構えたという云う(74)。
『寛政譜』によれば、植村氏は土岐氏の流れで頼益の子持益が明応年中(一四九二〜一五〇一)に美濃から遠江へ移り、
その後三河へと来往したとしているから(75)、土岐氏の流れであることは分かる(系図6)。
三河への所縁は一族の島田氏が碧海荘代官である可能性が高いので、その所縁だろう(76)。
このことから考えると、島田氏の所領だった北本郷へ一族の植村氏が来往し、
松平氏に被官化することで領主職を保証されたと考えられる。
つまり、嶋田氏との所縁で訪れた植村が恩給として一時期は領主支配から外れていた地だった本郷の領主職を手に入れた
ということである(77)。
この支配は当然松平氏の権力と武力を背景として獲得できた支配であり、
松平氏に被官することによって、名主職から領主へと昇格できた典型である。

やはり植村は、島田氏との関係があるようです。
愛知県岡崎市には、私は行ったことはありませんが、
「植村新六郎栄安生誕地」なるものがあるようです。

   http://www.geocities.jp/shiro20051212/Kita-hongo-jo.html

土岐光兼からの流れとする系図もあるみたいです。

   http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01004c.htm#001

うちの家系図は、貸し金庫に入っているようですので、
一度しっかりと見てみようと思います。 


11 :澤源:2008/03/15(土) 21:46:15 
植村家政様、高いご関心を示して頂きありがとうございます。
南朝と北朝の関りと、また土岐一族の兄弟や親戚の争いなどで、
又下克上のため家臣に追われて美濃から外戚を頼り多くの者が出て行っていることでしょう。
例えば、最後の美濃守護土岐頼芸などは斎藤道三に追われて尾張へ逃げ、
その後越前へ逃げ、そして遥か関東の弟のいる江戸崎へ逃げ、上総へ逃げ、
最後は武田の甲州へ逃げておりますので、その苦労が偲ばれます。
ついては、遠江や駿河への足掛かりが何であったのか、
島田氏や植村氏の発祥地への移動の前に何があったのかを南北朝期の研究の中で紐解く必要が、
土岐一族研究としてあると思います。
その為には、駿河の守護今川氏や三河の守護足利氏や斯波氏などへ情報を求めねばならないでしょう。
何故、遠江や駿河なのか、例えば大名沼田の土岐氏も美濃から道三に追われて妻の菅沼に身を寄せ、
菅沼氏として家康に仕えたあとに土岐氏に復しています。
土岐氏の所領地に何故か静岡県は出てこず、
由一土岐頼遠の子供が二人遠江守と駿河守に南北朝期に名乗っていることに関心を持っています。
さて、土岐植村氏サミットの場合、どのくらいが全国に植村としてあるか見てみましたら、
なんと北海道・東北で675軒、関東・東京で1457軒、東海・北陸で1232軒、
関西で2623軒、中国・四国で915軒、九州・沖縄で1026軒の合計7928軒です。
トップ10は、大阪府892軒・兵庫県562軒・京都府495軒・奈良435軒・東京都435軒・
愛知県408軒・神奈川県371軒・北海道348軒・香川県339軒・千葉県313軒でした。
高取藩か静岡の植村発祥地か、開催候補地は他にもあるかもしれませんが、
いずれにしても、土岐氏との関りについて望まれる方は多くあるでしょうから、
学術的な研究の一貫としてご勘考されることをお奨めします。 


     


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