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41〜50
41: 澁川系図(東大史料編纂所蔵) (23)
42: 満喜土岐氏のおしゃべり見つけました (3)
43: 土岐菩提寺南泉寺と雪舟スパイ説 (7)
44: 美濃加茂市宝積寺の仏像盗難 (3)
45: NPO(特定非営利団体)取得について (2)
46: 東濃地域史講座開設 (2)
47: 新会員の申込み (1)
48: 学割制度の摘要について (1)
49: 『鷹の夢プロジェクト』 (8)
50: 昭慶門院 (2)

澁川系図(東大史料編纂所蔵)

1 :mino阿弥:2007/10/24(水) 16:38:47 
國房ー光國ー光信ー光長ー光衡ー光行ー光定
土岐光定の子として
國時(太郎)
胤國(三郎)
光時(四郎)
教國(安房次郎)
定親(孫太郎)ー定経(近江守)ー頼清(安房守)
頼貞(孫次郎)
定行(孫三郎)ー頼春(舟木)
光定は、大勢子供がいます。
國時が長男のような感じです。
定親、頼貞は、孫太郎、孫次郎になっていますから
普通に考えれば、孫です。
光定の家督を一代飛んで、頼貞が相続したのでしょうか?
教國は、安房次郎とあり安房国と何らかの関わりがあったので
しょうか?
いろいろな系図を見ても本当にわけがわかりませんね。 


2 :名無しの権兵衛:2007/10/25(木) 11:44:34 
定行とは、頼重の別名でしょうか?
頼重の通称は孫三郎です。 


3 :mino阿弥:2007/10/25(木) 15:40:29 
他系図では、ご指摘の如く
「頼重」号舟木 従五位下 右近将監 蔵人
子として
「頼春」蔵人 左近将監 法名春蓮 正中変返り忠ー頼員
「頼夏」ー「頼尚」

のように書かれているものもありますが、この系図書に限って
かもしれませんが「定行」ー「頼春」とあります。
返り忠とは、なんとも感じ悪い書き方ですね。
大昔は、返り忠が頻繁にあったやもしれません。
精一杯の言葉でしょうか?

東大史料編纂所のデータベースから検索するには
東大史料編纂所のミスで、「澁川系図」を「渋江系図」として
載せていますのでご注意下さい。 


4 :土岐一族:2007/10/25(木) 23:08:34 
定親−頼貞−定行などは、隠岐孫太郎ほかとなっておりますので、光定が隠岐守としていた頃の子ども達ではありませんか?
又、頼貞も頼定となっているものもあり、「定」が通字でしょうから光定と直接的のような気がします。
それに対して、國時.胤國などは浅野系の「國」の通字のような気がします。 


5 :mino阿弥:2007/10/26(金) 10:09:28 
系図上のことで、なんともわかりません。
土岐系図に限らず、他氏の諸系図も全般にわたって難解です。
推測に頼らざるを得ないところがあり、またそれを一々検証しようとすると
更に大変です。
ただ、土岐系図から推測できることは、定親以下の方は他の方と母親が違い
所伝の通り、母は北条氏に関わる人であろうと思われます。
光定の母は、千葉頼胤(胤頼ではないと思います)の娘という所伝も
ありますが、精査しておらずなんともわかりません。
千葉頼胤の生没年を考慮すると、少し年代がずれ、光定の母としては
疑問があり、ひとつひとつチェックしていくと収拾がつかなくなって
しまいます。
光定の母は、東(千葉)氏の娘と考える方が無難のような気がします。
頼貞の「頼」は、北条宗頼の「頼」をイメージすればよいのか
どういうわけで「頼」が、土岐氏の通字となったのかもわかりません。
逆に、いろいろとお教え頂ければと思います。 


6 :土岐一族:2007/10/27(土) 12:44:05 
光定と安房の関係は、どのようなものなのでしょう。一般的には、「阿波」を連想するのですが、「安房」とは現在の千葉県とすれば、
千葉氏との関係もよく解る気がします。
中世の姓氏の発展からすれば、土岐と同様に安房と隠岐となったのかどうか、でしょうが。
それよりも、光定の在任時に生誕と考えるにしても、定親からは「孫」が使われており、
mino阿弥さんのように、光行の孫としても面白いかもしれませんね。 


7 :mino阿弥:2007/10/29(月) 10:58:31 
安房神社のHPを見ると、天富命が忌部氏を連れて阿波から、房州安房に
流れ着いて土着したように書かれています、
四国の阿波から来た人達が、安房と名づけて住みついたようで同様の例が
三重県の東側の地名と伊豆半島の地名などにも見られます。

「明智氏一族宮城家相伝系図書」によれば
光定は、承元元年丁(1207)卯三月鎌倉に於いて生まる。
母は千葉介平常胤女也。・・・
弘安四年(1281)八月十一日伊予国に於いて卒去。年七十五歳
法名宗岳道号定光興源寺と号

土岐光定(1207〜1281)であれば、
土岐頼貞の生没年は
    (1264〜1339)
 または(1271〜1339)とされており
頼貞は、土岐光定が、57才〜64才の頃の子供になり、普通に考えれば
頼貞は、土岐光定の孫にあたる年齢であると言っているわけです。
千葉常胤(1118生〜1201卒)は、84歳卒だそうで、光定の母は
千葉常胤の娘なのかは不審ですが、常胤の子供達(東氏も含まれる)の娘が
光定の母やもしれません。
私は、土岐氏については、あまり関心がありませんが
少し調べると、どうしてもよくわからないことが多く気になります。
本来は、土岐一族の皆様から、お教え頂かなければならないことだと思います。 


8 :delete:delete 
delete 


9 :名無しの権兵衛:2007/11/01(木) 13:46:12 
「頼」が通字になったのは、土岐氏の遠祖源頼光から来ているのでしょう。
土岐一族は、「頼」か「光」が通字として多いです。
土岐頼芸や明智光秀とかね。 


10 :歴史好き:2008/03/09(日) 16:08:28 
土岐国房以後、鎌倉幕府の御家人となった土岐光衡が土岐郡の地頭を任されたが、瑞浪市においては美濃守護と誤りを犯している。
そして、光行・光定(光貞)の後に頼貞として何故「頼」が通字となったかを考えるとき、
「頼」を想定させる人物として「千葉氏東胤頼」もあげられる。彼は、土岐光行の妻に娘を嫁してしているので、
mino阿弥説で思考すると、光衡の妻も千葉東氏の娘であり、千葉氏宗家に近い人物が猶子として入ったかもしれませんね。 


11 :mino阿弥:2008/03/10(月) 11:14:12 
蜂屋定親は、「嘉元の乱」(1305)で北条宗方(に味方し戦死。
定親は、母方に味方してとあり
また蜂屋定親と土岐頼貞は、同母とされている。
仮に、これが事実であれば、土岐頼貞の母は北条宗方の父北条宗頼に
関わる人物であると考えられる。
また、北条氏は、幕府創業の重臣を排除してきたこともあり、千葉氏との
関係以上に、次第に土岐氏は北条氏に近づいていたのではないでしょうか?
猶子であれば、千葉氏より、むしろ北条氏の可能性の方が高いのではないかと
考えられます。 


12 :歴史好き:2008/03/10(月) 18:03:30 
光行 − 光定 − 頼貞 −
 |    |     |
千葉東氏−北条氏−北条氏 −

このように、光衡が鎌倉幕府源頼朝将軍の御家人となったことで、
その子光行が千葉東胤頼の娘を嫁にすることが出来たわけで、
ましてや「承久の変」に光行が加担しても地元の浅野に逼塞する程度で済んでいる。
その子供である光定が北条氏から妻を娶るということは、
光行は後鳥羽上皇から北条氏に寝返った可能性がある。
だから、逼塞程度で且つ又北条宗頼の関係者が土岐郡に入り、
臨済宗建長寺派の定林寺を造り拠点としたと考えるべきではないだろうか。 


13 :mino阿弥:2008/03/11(火) 09:57:39 
土岐光定には、数名の子供がいたにもかかわらず光定の六男、又は七男とも
される土岐頼貞が美濃国初代守護となり土岐氏の惣領となった。
また、光定は、伊予(松山市東方町矢谷・興源寺)で没したとされている。
土岐頼貞は、所伝によれば光定がおよそ57〜64才の頃に生まれており
光定の孫にあたる年齢である。
なぜ光定は、伊予で没したのであろうか?
子供に所領経営をまかせて本国美濃へ帰っていても不思議ではない。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」によれば、土岐光定の妻は、三浦義村娘で
あり、「宝治合戦」(1247)が土岐氏に何らかの影響を与えたのでは
ないだろうか?
土岐光行の妻が千葉氏の娘であり、「承久の乱」では宮方であった
にもかかわらず助命され千葉氏の娘の子である光定が、土岐氏の惣領となった。
同様に、「宝治合戦」後は、北条氏の娘の子供が土岐の惣領となったのでは
ないかと考えられる。または、北条氏からの養子であろうか?
「明智氏一族宮城家相伝系図書」によれば土岐光定の子光包の娘が土岐頼貞の
妻となっており、土岐頼貞は、土岐光定の孫娘を妻にして土岐光定家を相続
したと読み取れる。
土岐光定から土岐頼貞にいたる過程で世代の空白があり、土岐系図について
大きな疑問が生じる。
土岐系図は、土岐光定で一旦切れた可能性がある。 


14 :歴史好き:2008/03/13(木) 00:35:53 
土岐頼貞は隠岐孫二郎と名乗っているので、隠岐に住んでいたのでしょうか。
又、mino阿弥氏の言われるように土岐光定で切れたとして、
誰の孫で、そして隠岐を名乗る可能性は・・・・? 


15 :mino阿弥:2008/03/14(金) 08:51:40 
わかりません。

謎です。
隠岐との関わりは?
なぜ、孫太郎、孫次郎なのでしょうか?

基本的なところが、不明です。
系図から読み取ることは困難であり、土岐系図自体に不審な点があります。
隠岐における土岐氏の足跡を示す何らかの史料、痕跡などは?

このあたりが、もう少し問題とされてもよいのではないかと思います。 


16 :歴史好き:2008/03/14(金) 15:54:42 
鎌倉時代から南北朝期、そして室町時代と現地に住み苗字としたことから言えば、
当然誰かが住んでいたので隠岐を名乗ったものなのでしょうか。
但し、土岐光定は伊予氏となったわけでもないでしょうから、
又土岐頼清も湊川へ参陣するときには伊予からでしょうが、
伊予を名乗っている訳でもないのでしょうから特段関連はしないのでしょうか。 


17 :mino阿弥:2008/03/14(金) 17:09:39 
「尊卑分脈」によれば
光定 悪党讃岐十郎搦捕るにより隠岐守に任ず

光定子 国時 隠岐太郎ー国経・隠岐弥太郎ー貞頼・隠岐五郎ー頼為・隠岐弥五郎
            光方・隠岐太郎三郎
    胤国 隠岐三郎ー泰国・隠岐二郎太郎
    定親 隠岐孫太郎ー貞経ー頼貞・隠岐孫四郎
    頼貞 隠岐孫二郎
    頼重 隠岐孫三郎
これは、いったいなんですかね?
伊予は、土岐氏にとって軽視できない所領であったと考えられます。 


18 :mino阿弥:2008/03/14(金) 17:54:05 
光定が、隠岐守に任ぜられたのは事実かどうか?
「尊卑分脈」の誤記か?
土岐氏は、実は佐々木氏流隠岐氏だったのか?
わけがわかりませんね。 


19 :歴史好き:2008/03/14(金) 18:19:43 
日蓮を庇護し、関東での布教に尽力した富木常忍は千葉県市川市の中山法華経寺の開山ですが、
出自し鳥取県で地元では土岐氏とは言えないと言っているのに、市川では土岐桔梗がお寺の参道の上に大きく出ているらしいです。
隠岐と鳥取と、そして島根あたりにおいても足跡を残したものかどうか。
朝鮮との交易や日本刀を造るためのタタラを求めたものなのか、と解釈すると意味が大きいのですが。
是非、中国地方での地方紙研究の中で、どなたかヒントはありませんかねぇ? 


20 :生無上人:2008/03/14(金) 21:44:09 
mino阿弥さん、はじめまして
光貞の子の頼重(舟木氏・高松氏祖)が建武二年(1335)に讃岐の高松庄に所領を賜り、
高松城(喜岡城)を居城とした
この際に、頼重に同行して老父も讃岐入りしたといいます
また、建武2年11月26日に足利尊氏の臣 細川定禅らの軍勢に攻められ 老父一族14人と
郎党30余人が討死したと言われています
この老父とは、光貞と思われますが・・・? 


21 :澤源:2008/03/14(金) 23:53:20 
土岐高松氏について初めて記述がされたことが大変嬉しいです。
それも、喜岡城についてのことは谷口研語氏の資料でもみたことはありましたが、
老父一族14人と郎党30余人が討死との伝承とは、
どちらでの伝承かなど生無上人さまの更なるご発言をお願い申しあげます。 


22 :mino阿弥:2008/03/15(土) 10:03:39 
そうですか、興味深いですね。

美濃国初代守護土岐頼貞の弟にあたる舟木頼重が讃岐守護とされる
高松頼重であれば、年代的にはおかしくないと思います。
しかし、系図上の父土岐光定の没年は、弘安四年(1281年)です。
土岐光定の推定生没年は、1207〜1281であり建武二年には、おそらく
生存していなかったと考えられます。
土岐頼貞の父は系図上、土岐光定となっていますが実は不審です。
建武ニ年に討死した老父と云う方は、土岐頼貞兄弟の実父であるやも
しれません。
なぜかと言えば蜂屋定親、土岐頼貞、舟木頼重は、隠岐孫太郎、隠岐孫二郎
隠岐孫三郎であり、同母で、かつ実の兄弟である可能性が高いと考えられます。

確実な史料が見つかれば大発見です。
ご研究に期待したいと思います。 


23 :mino阿弥:2008/03/15(土) 11:33:01 
土岐頼貞の没年は、暦応ニ年(1339)
推定生没年は、1271〜1339(69才説)または1264〜1339(76才説)

舟木氏は、およそ1270〜1280年前後の生年と推定され、建武二年頃には
50〜60才前後であったように考えられますので、その老父は相当な年齢と
なります。 


満喜土岐氏のおしゃべり見つけました

1 :澤源:2008/03/12(水) 00:13:08 

美濃土岐氏の分流で、小田氏のそばにいた勢力だったみたいですが。
本流が滅びた時点で土岐原から土岐に改めたそうです。

>私の知識では、土岐原氏(のち土岐氏)の治英とかかと思ったのですが、
その御仁存じ上げません。(^^;
>なにせ、万喜土岐氏なんて全く知らないもんですから。
いやいや、私もよくは知りません。たまたまある書籍に書いてあったのを参考にしただけです。
>刃物を扱っていて手を切り、「拙者の寿命も長くないか…」
初めての怪我の話ですね。忠勝は生涯戦場で、1度も傷を負わなかったとか。
馬場信春にもそんな話がありましたね。(最後は討死ですけど)
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[289] 土岐氏? 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/05/15(Mon) 01:16 
>野州さま
お答え、ありがとうございました。
私の知識では、土岐原氏(のち土岐氏)の治英とかかと思ったのですが、
先に書き込んでいただいて助かりました。
なにせ、万喜土岐氏なんて全く知らないもんですから。
土岐原氏とは一門なんですかね。
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[288] そうですか 投稿者:武藤舜秀 投稿日:2000/05/14(Sun) 13:42 
そうですか・・・土岐万喜入道と言う人物が2人いたなんてしりませんでした。
かなりの智勇にたけていたのにのぶやぼにでてきもしない・・・涙×1000


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[287] 万喜土岐氏 投稿者:宮野州 投稿日:2000/05/14(Sun) 04:25 

武藤舜秀さん
はじめまして、北関東の戦国武将のHPを開いているものです。
ここの御当主を差し置いて答えるのを憚っており、
また房総の武将もそんなに詳しくはないのですが、
分かる範囲で書きこませていただきます。
土岐万喜入道というのはおそらく2人考えられます。
土岐為頼/頼春父子のことではないかと。
いずれも入道号は慶岸/道鉄と名乗っています。
万喜土岐氏は、美濃土岐移住説以外にも、摂津富山からの移住説もあるそうです。
為頼は当初は里見方に属し、「里見の三羽ガラス」の一人に称されていましたが、
第二次国府台合戦後北条方に付いたようです。
後年本多忠勝が大多喜に入封したときに、旧土岐家臣を召抱えその武勇伝を聞き、
「万喜少弼殿(為頼)」と読んで敬意を表したとか。
頼春は、父為頼の死後(1983)以降里見義康/武田信栄/正木時茂の攻撃を撃退したそうです。
情報収集に長けていたらしく、乱波をよく用いていたようです。
最後は秀吉の小田原攻めのとき、
秀吉方の立場をとった里見義康に敗れて逃亡したとも言われていますが、
はっきりした事は分からないようです。
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[286] 土岐万喜入道 投稿者:武藤舜秀 投稿日:2000/05/13(Sat) 11:28 
関東の戦国で拙者が今注目しているのは、土岐氏です。美濃の国から移住してきたらしく,
土岐万喜入道という武将は里見軍を知勇を持ってはねかえしたとか・・・だれか詳しく知りませんか? 


2 :mino阿弥:2008/03/12(水) 09:42:28 
「能登畠山氏七尾の歴史」ですか?
研究熱心な方が多いようです。

「能と狂言」(世阿弥と月菴宗光)両者をつなぐもの
天野文雄氏の研究によって

岩村の大円寺の大蟲宗岑の法嗣月菴宗光の弟子は大徳寺二十一世と
なっていたり、「月菴法語二帖又一帖」が義教の御所に備えられていたようです。
月菴は、山名時煕と師弟関係にあった。
惟肖得巌が月菴を「吾師」としている。
惟肖は、将軍義持から篤く敬慕されていた禅僧。
応永13年に後小松天皇から月菴に正続大祖禅師号が与えられたという
ことなどが断片的にわかりました。

恵那市岩村町の大円寺は、当時大徳寺、妙心寺にならぶ遠山派の拠点で
あり、峰翁祖一の遠山派法嗣月菴は、私の想像以上の人物であった
ことがわかりました。
大徳寺開山宗峰妙超(浦上氏)と峰翁祖一は、南浦紹明の法嗣として
親しかったのではないかと思われます。

禅僧は、あまり興味ありませんか? 


3 :澤源:2008/03/13(木) 00:30:52 
鈴木佐氏が7月19日(土)に東京六本木講座にて「建長寺と土岐一族」のテーマにて講演されます。
氏は、建長寺の末寺調べを全国的に展開中でして河野氏・四国・北条氏などとの関連や、
ましてや大徳寺にも認められる研究となって参りましたので、
「建長寺と伊予河野氏一族」としてもmino阿弥により依頼されてはと存じます。 

   
土岐菩提寺南泉寺と雪舟スパイ説

1 名前:T・M 投稿日: 2006/10/16(月) 21:38:45 
先月9月30日日経新聞文化欄(40)に雪舟研究者 
島尾新先生(多摩美術大教授)氏は没後500年 
水墨画の神様、漂泊の画聖と言われてきた雪舟は「スパイとまでは言わないが、天下をうかがう大内氏のスタッフだったとみなされる」
と述べられ、又国史研究の今泉夜淑夫氏は文明13年(1491年)の美濃への旅を分析し
『山寺図』が描かれた場所が美濃(私は現在何処か特定していません、どなたかご存知ですか?)であることから、
土岐・斎藤氏の美濃経営の実情を視察する狙いがあったと推定されています。昨年今頃、
幕紋の桔梗が素晴らしい南泉寺にお伺いした時、雪舟の水墨画を拝見し、なぜここに雪舟の画があるか不思議でした。
「山口 大内氏、美濃 土岐氏は雪舟派遣の4年、共に戦乱の京都を引き払っていた。」
とこの記事を書かれた日経 編集委員 内田洋一氏は述べてみえます。
この記事は、時代が重なる連歌師「宗祇」についても「何故中央にそれほど名の知られていない「東常縁」を追い、
古今伝授を受けたのか」と言う疑問を裏付けています。 
雪舟と同じように「宗祇佐々木氏スパイ説 広大名誉教授金子金次郎先生は宗祇=佐々木六角重臣伊庭氏説を提唱されています。」
が成立しないかと考えています。私は宗祇の出目を蒲生家との姻戚関係から同じ六角重臣でも広定流と推測していますが。
土岐氏が大内氏と関係してるとはおもしろいですね。 


2 名前:名無しの権兵衛 投稿日: 2006/12/29(金) 15:15:38 
ふ〜ん。 


3 名前:T・M 投稿日: 2007/01/14(日) 22:36:10 
本日、久し振りに南泉寺を訪れ、南泉寺霊園にある土岐氏歴代当主のお墓にお参りいたしました。
しかし雪舟の水墨画は当寺には所蔵されてなく、お詫びし訂正させていただきます。 


4 名前:T・M 投稿日: 2007/05/11(金) 13:05:50 
雪舟筆の「大達磨像」が飛騨三木氏の菩提寺 禅昌寺にありました。 


5 名前:影 投稿日: 2008/03/02(日) 19:08:49 
この寺の裏山に財宝があるかもしれない。金の鶏確信にせまっている 


6 名前:影 投稿日: 2008/03/02(日) 19:20:38 
南泉寺の山々は城見山といい、ほかからの動きを監視する山である。また、岐阜の歴史をくつがえす書物が竜宮門にかくされている。
土岐頼芸が道三に追われる最中金の鶏を寺のどこかにあずけた。そのありかを記すものが南泉寺にある。 


7 名前:澤源 投稿日: 2008/03/02(日) 23:40:23 
南泉寺の檀家関係者が美濃源氏フォーラムにいますので、一度聞いてみましょうかねぇ。
然し、土岐頼芸は最期に谷汲へ帰ってきているので、何故この金の鶏が表に出てこなかったのかしら。 


美濃加茂市宝積寺の仏像盗難

1 :mino阿弥:2007/11/01(木) 16:54:09 
今日(11月1日)の岐阜新聞の朝刊の記事ですが
美濃加茂市加茂野町の宝積寺に置かれていた県重要文化財の
木造十一面観世音立像など二体の仏像が盗まれた・・・
同寺は、普段無人で週末に愛知県安城市から住職の男性が管理
などに訪れている・・・

甲恵集(岐阜県図書館蔵)には
寶(宝)積院殿芳岩常與大姉(土岐政房の母)としてあり
この宝積寺は、政房の母を弔う寺であったのでしょうか?
たまたま、似かよった名前であるのか、よくわかりませんが
何らかの発見があるやもしれません。
ご存じの方があればお教えください。 


2 :mino阿弥:2007/11/01(木) 17:50:35 
岐阜県各務原市宝積寺町という地名もありますね。
当然近くに宝積寺は、あると思います。
こちらでしょうか? 


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NPO(特定非営利団体)取得について

1 :澤源:2008/02/25(月) 11:39:40 
 平成20年度美濃源氏フォーラムの運営に際して、下記の主旨によりNPOを取得し更なる活動を検討することになりましたので、
御意見をお寄せ下さいませ。

 平成3年から始まった美濃源氏フォーラムも18年目を迎えかえますが、会場が4箇所となり、事業も多岐に渡るようになり、
今一層の展開が必要になってきました。
総合的にコントロールしていき、かつまた自活の道を模索せねばなりませんが、残念ながら専門で従事できる体制にありません。
つきましては、NPOを取得する中で継続した増収を模索する必要がありますし、会計と資料づくりや講師折衝など、
年間通してパート的に行なえる人材の確保が必要なところになりました。
一般事業所にも美濃源氏フォーラムから人材派遣を受けようと思いますし、委託事業も出せればと思います。
今後のためにも、そろそろ懸案であったNPO化を進める状況であります。
特に、平成19年度は大きく会員減少から赤字が進みましたので、これからの事業展開が大きな岐路と考えています。
元々、NPP(ノン・プロフィット・パーソナル)という個人の発案で始まったボランティア活動が、
その後NPG(ノン・プロフィット・グループ)という小集団にまではなるのですが、
その後規模の拡大と共に運営が多岐に渡ったり事務量の増大が懸案なったときに新たな方向性が必要になります。
利益(プロフィット)を目的としてはいないのですが、事業経費の捻出を図ることが活動の更なる発展であるため、
今後事業化を考える以上組織的活動としてのNPO(ノン・プロフィット・オーガニゼィション)取得した展開が必要なわけです。

皆様のご意見を宜しくお願い申し上げます。 


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東濃地域史講座開設

1 :澤源:2008/02/26(火) 18:31:04 
東濃地域は、古代東山道や中世鎌倉街道、又近世中山道や中馬街道などを見るまでもなく、
そして苗木藩や岩村藩に尾張藩の影響など、交通は元より文化や教育や経済産業までも相互補完の元に近代まで発展して参りました。
現代でも、国道19号線やJR東海や中央自動車道路、そして近未来の道州制が及ぼす将来像を想定する時には、
同床異夢ではなく同床同夢の時代が到来すると思われます。
更に、今後予想される地域の時代とは、正に独自の歴史と文化を尊重しながら町づくりを行ってゆくことでしょうし、
市民参加なくしては語れません。
又、多くの人々にお越し頂くためには、「東濃地域の歴史を学ぶ市民」のチカラなくしてありえないでしょう。
ですから、歴史と文化の尊重をコミュニティーの足元として捉えた街づくりを行い、
然し小さな町の集合体が魅力ある地域として、何度でも訪れたくなるよう連携しあうことが求められるようになるでしょう。
ついては「東濃地域史講座」を開設し、地域史研究者と市民団体、また公的団体と町づくり団体、
そして愛好者としての個人への情報発信と連携強化等を進めて参りますので何卒ご入会賜り、
ご参加下さいますよう宜しくお願い申し上げます。 


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新会員の申込み

1 :澤源:2008/02/26(火) 18:27:01 
本日、土岐市肥田町のM木さんが訪れられ、今年の三月で定年一年前に退職されることとなり、
ついては美濃源氏フォーラムに入会して地域史は元より、自分史の勉強を始めたいとのこと。
再就職の斡旋を断ってまで今まで調査してきたことを完結させたいということで、
運営委員の方が色んな情報が入り込むことをお話しすると、末席のほうで宜しくとのことでした。

今年は、名古屋にトヨタのミットランドスクエアが出来たことにより、
新しく名古屋に入ってきた人達が多いので、今まで特段名古屋にてのPRがあったわけでもないので、
リキを入れて頑張ります。
どうか多くの会員の方に入会して頂きたく存じます。 


学割制度の摘要について

1 :澤源:2008/02/25(月) 11:24:31 
平成20年度の美濃源氏フォーラム開催にあたり、
一般会員の会費以外に学割制度の摘要が下記の趣旨により事務局から提案されましたので、ご意見をお寄せ下さいませ。

中学生以下は当日会費無料、高校生は500円、大学生は1000円、もちろん一般は1500円
又年会費についても中学生以下は無料で高校生が2000円、大学生が4000円という提案を致しました。
尚、神奈川県の高校で日本史が必修となる世の中ですが、今後の中世史研究者を養成していくという遠大な夢です。
もちろん、講座内容は一般向けでありますが、本当に歴史好きな中学生はいますので、学校から案内してもらえたらと思います。 


『鷹の夢プロジェクト』

1 :澤源:2008/02/15(金) 21:25:12 
司馬遼太郎の「国盗り物語」は金字塔を打ち立てた偉大な歴史物語ではあるが、
残念ながら斎藤道三の一代成上がり説をとって書かれおり、
現在の研究成果によれば親子二代説に訂正しなければならない。
又、「岐阜」の地名の発祥についても織田信長発想説ではなく命名説として確立されており、
信長が美濃に入国する以前から既に「岐阜」が使われていたことから、
当然「応仁の乱」で焼け払われ京を脱出した禅僧や公家たちが、
衣食住を与えてくれた美濃守護土岐氏に対する最大限の敬意により、
「岐阜」を使うようになったとすべきです。
     
 また、中国の「洛陽」は「洛水」という川の北側の陽当たりの良いなだらかな丘陵地に栄えた都であり、
そのため「洛陽」というようになったそうです。
その後、禅僧が日本に入り今日の京都を「日本の洛陽」としたわけで、
その名残が今でも、洛中・洛外・洛北などなど使われています。
ついては、「岐蘇川(木曽川)」の北側の南側に栄える陽当たりのよい土岐氏の都を「岐陽」と呼んだのであり、
その後には「岐陽」と「曲阜」から「岐阜」が誕生したと解釈すべきであろうと思います。
故に、「岐阜」の「岐」の字は土岐氏の「岐」として位置づけなければなりません。

ましてや、土岐頼芸は遊興に耽る馬鹿殿様として表現されたものですから、
NHKの大河ドラマ以降「土岐の馬鹿殿様」として屈辱を受けてきました。
今後は、実際の斎藤道三像と土岐頼芸との関りを文化人としての素養の解釈が大きく影響します。
然し、美濃を終われ越前朝倉氏や尾張の織田氏を頼ったり、
はたまた弟のいる江戸崎や房州にまで逃避行をし、最後は甲州武田氏を頼り、
美濃を制圧できた暁は国主として返り咲く、そんな夢をみながら旧臣稲葉一鉄共に美濃へもどり生涯を閉じました。
この戦乱と逃避行の間ばかりでなく、土岐氏の誕生から先祖の威徳を偲び、 
美濃の繁栄以後は親子や兄弟に家臣との確執の戦いに明け暮れた、
そんな時代から逃避するための文化への埋没であったかもしれません。
 そして、道三以後は織田信長と明智光秀や森蘭丸の登場と降壇に、
また武田信玄も上杉謙信に北条早雲達など多くの武将たちが消え去るまで、
頼芸はゆるり大空を舞う鷹のように見続けていたのかもしれません。

こんなプロジェクトの発案致しましたので、
皆様からご意見を賜りながら具体的に実現方法までも一考してみようと思います。
まずは著作から、そしてNHKの大河ドラマにと、夢は膨らみ続けています。 


2 :mino阿弥:2008/02/16(土) 11:52:13 
まあ、それも結構なことだと思いますが。
私にとっては、そんなことどうでもよいことです。
基本的なことが解明されておりません。
史料を探してください。 


3 :源臣:2008/02/18(月) 21:41:52 
澤源殿
いいですねえ
着眼点が素晴らしいです。
一族の端くれだから思うのかもしれませんが、
あの時代に長生きした「頼芸の目」で歴史を見たら・・・
こういう着想はなかなか出て来るものではありません。
澤源殿には、編集者の才能があるようです。
「鷹の夢」を皆で見ようじゃありませんか。 


4 :總源:2008/02/19(火) 12:37:28 
「鷹の夢プロジェクト」大賛成です。
とりあえず、東京講座にて発会式をして盛り上げましょう。
期待するとともに応援いたします。
小生も「總陽の鷹(土岐為頼)」の構想を暖めています。 


5 :澤源:2008/02/19(火) 13:44:41 
mino阿弥さま、“そんなの関係なイッー”と言わず、博識をお菓子下さい。
もう一度、美濃の中世が見直されていけば必ず新資料の発見にも繋がるものと確信します。 


6 :mino阿弥:2008/02/19(火) 15:27:52 
「美濃源氏フォーラム」発展のため、頑張ってください。

岐阜は、他国から来て美濃を乗っ取った織田信長、斎藤道三の追悼慰霊祭
(信長祭、道三祭)までやっており、どういう感覚か理解に苦しみます。
いくら戦国とは言え、人の道にはずれた人物を顕彰していることになり
他県の人からも、土地柄について疑問を持たれてしまいます。
「主を切り婿を殺すは、美濃尾張、昔は長田、今は山城(道三)」
もう、そのあたりは、やりたくないところです。

伊予の所領について、もう少し目を向けてもらいたいと思います。
土岐系図(尊卑分脈)には、土岐頼基の母は平宗頼女と、はっきり書かれています。
土岐頼貞の妻の中に、北条宗頼の娘がいたことになり、「嘉元の乱」(1305)で
北条宗方とともに蜂屋定親が北条時村を討ったことも考えさせられます。
伊予に所領を得たことは、土岐光定の妻が三浦義村の娘、または北条氏の
娘であったために特段の出世をしたのでしょうか?
美濃国守護北条時村の母は、三浦義村の娘とされています。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」は、偽書として切り捨てられていますが
背景を考えれば、あり得る筋書きとなります。
「承久の乱」後の土岐氏には、宝治合戦で滅亡した三浦氏と北条氏との
関わりを、垣間見ることができる。
また、美濃守護宇都宮氏とは、どのような関係だったのでしょうか?
宇都宮頼綱は伊予守護であり、子の宇都宮泰綱は美濃守護。
宇都宮泰綱の母は北条時政の娘。
河野四郎通信の妻は、北条時政娘。惣領河野通久の母は、北条時政の娘。
関市の日龍峰寺には、北条政子寄進と伝えられる多宝塔(国重要文化財)が
あり、北条氏の縁を伝える。
とにかく、わからないことばかりで、頭が一杯です。 


7 :mino阿弥:2008/02/20(水) 10:50:22 
執権北条(赤橋)守時の母は、北条宗頼女
土岐頼基の母は北条宗頼女−頼重(明智家元祖也・或は頼兼子・室は頼基女)
「嘉元の乱」で北条宗方(父北条宗頼)とともに行動した蜂屋定親は、
母方に味方してとありますが、どのような経緯だったのでしょうか?
「嘉元の乱」自体が、よくわかりません。
(馬籠脇本陣蜂屋氏の覚え書きをもとに島崎藤村の「夜明け前」は書かれた)
戦死した蜂屋定親は、実は、土岐家惣領か?
北条(赤橋)義宗−北条久時−北条守時(赤橋流北条氏)
恵那市岩村町の大円寺(廃寺)開山の峰翁祖一は、父が北条(赤橋)義宗という伝承
峰翁祖一は、伊予河野郷に大通寺開山(開基河野通朝)
赤橋氏は、伊予河野郷に拠った。さらに北条氏流金沢、大仏氏も。
土岐氏も伊予に。
恵那市岩村町に金沢氏、代々居住。
三浦光村(父三浦義村)は、讃岐守護(1243〜1247)
三浦義村、三浦氏は土佐守護。
三浦氏は、1247年滅亡。
土岐光定「悪党讃岐十郎搦取るにより・・」土岐光定の室に三浦義村女?
美濃守護北条時村の母は三浦義村女。北条時村を北条宗方と蜂屋定親が討つ。
段々と、わけがわからなくなってきました。
このあたりのことを研究されておられる方は、ありませんか?
お教え下さい。 


8 :澤源:2008/02/20(水) 10:52:55 
前田尊敬閣文庫の主幹、菊池紳一先生が以前北条氏研究の一環として岐阜へメンバー6人で起こしになられており、
私が案内申し上げました。ことは、mino阿弥さまのご指摘の件を本家本元で研究されており、
今以上に、北条氏一族と土岐一族の歴史検証が必要なわけであります。
現在、この問題に取り組んでおりますのて美濃源氏フォーラムでありますので、
末永くmino阿弥師の御先達をお願い申し上げます。 


昭慶門院

1 :mino阿弥:2008/01/31(木) 13:30:30 
大桑郷は、亀山天皇(大覚寺統)皇女昭慶門院の所領であった。
(昭慶門院御領目録・1306亀山上皇遺領処分状・京都大学蔵)
後醍醐天皇皇子世良親王は昭慶門院の養子となり亀山天皇の
川端殿であった地で北畠親房、夢窓国師から教養をうけた。
世良親王は、早世されたので父である後醍醐天皇が夢窓国師を開山
として臨川寺を建立された。
岐阜市椿洞の了義寺開山無文元選禅師(後醍醐天皇皇子・満良親王
の後身であるとする説あり)の母は昭慶門院であるとする説もあるが
昭慶門院の生没年を考慮すると実母ではない。
大覚寺統は、亀山天皇から伝領された昭慶門院領を財政基盤として
いたようであり後醍醐天皇が世良(ときなが?)親王を昭慶門院の養子と
したこと自体、昭慶門院領を世良親王に相続させるという深慮が
あったのではなかろうか?
また無文元選も昭慶門院の嗣子にしなければならなかった何らかの
理由があったものと考えられる。
(世良親王と混同された誤伝の可能性もあるが)
浜松市引佐町の方広寺(臨済宗方広寺派本山・無文元選開山)は井伊氏の
居城であり、この近辺も昭慶門院領が点在していた可能性がある。
昭慶門院領は、南朝の財政基盤でもあったようであるが、その所領の
多くが土岐氏などの所領に変遷していったものと考えられる。
また特定の昭慶門院領は、敗残の南朝勢力の人々のための
「流寓して居れる地」(吉田東伍引用)となったことが推測される。 


2 :澤源:2008/02/01(金) 10:57:17 
南朝の動向なくして、やはり美濃は語れません。
根尾も八百津も恵那も、
それ以外にも多くの逼塞した南朝関係者を研究する必要があるとおもいます。

 最近の新聞より、常滑窯について中世陶磁器の流通問題が中日新聞に掲載。 
 村上水軍の研究書について、これも中日新聞に掲載。
 その他、岐阜・愛知の首都機能移転調査費の大幅減額記事が毎日新聞に掲載。
 因みに、鈴木佐先生から第一報が入りました。 




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