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51〜60
51: 「青い三角定規」再結成 (4)
52: 土岐村山氏 (10)
53: 江戸崎・龍ケ崎土岐氏 (2)
54: 読書 (4)
55: 長沢氏 (7)
56: ryukoさんありがとう (4)
57: 忘年会 (4)
58: ウィキペディアを利用した中傷 (2)
59: 土岐氏の桔梗紋 (11)
60: 「甲恵集」岐阜県図書館蔵 (4)


「青い三角定規」再結成

1 :mino阿弥:2008/01/24(木) 09:39:38 
昨日のテレビで「青い三角定規」が再結成されたということです。
谷口先生の遊び相手岩久さんも忙しくなりそうですね。
ライブでもあれば、みなさんで行きませんか? 


2 :澤源:2008/01/24(木) 11:12:26 
西口久美子さん、岩久茂さん、斎藤真理さんと、懐かしいメンバーがブラウン管の向こう側で輝いていましたね。
斎藤さんの悲しい出来事を乗り越え再結成との報を聞き、谷口研語先生からその間の事情を聞いていただけに、
手に取るように状況が分かりましたし、今後の活躍を是非願っています。
因みに、二人を呼んでコンサートを開催したいですね。その時のゲストには、
是非谷口研語氏にも登場願いたいものです。 


3 :澤源:2008/01/24(木) 11:13:56 
追伸 昨日のテレビ放映を谷口研語先生にメールしましたら、先生も丁度見ていたと返事がありました。 


4 :mino阿弥:2008/01/24(木) 11:34:19 
私がメールで教えました。
「青い三角定規」のコンサートができれば楽しいですね。
ぜひ、実現して頂きたいと思います。
去年のずっこけて、皆さんの期待を裏切ったわけですから
万難を排して瑞浪又は岐阜のために頑張ってください。
お金もうけではなく、純粋な文化活動としてやってください。
落ちたけど立派な奴だと、みんなが見直しますよ! 


土岐村山氏

1 :澤源:2008/01/15(火) 23:01:22 
一昨日、岐阜市の村山さんから谷口研語著「美濃・土岐一族」を購入したい申込みがありましたが、
残念ながら品切れ状態となっている旨ご返信しました。その際、ひょっとして土岐村山氏でしょうかと、
問い合わせしたところ、発祥地の岐阜市村山に近いところに村山氏が固まって住んでみえることから、
研究中とのことでした。岐阜市に今も土岐村山氏がみえるとするならば、
いえいえまだまだ分派が多くあることでしょうから、更なる情報を集めることによって、
土岐一族をますます解明していきましょう。 


2 :mino阿弥:2008/01/16(水) 16:48:44 
田中豊氏の解読された岐阜市城田寺「国島家文書」には、土岐家に仕えた
村山越後守芸重、中島監物政重、国島相模守隆重は土岐の三将、或は三重
(さんしげ)と称され幾多の武功を積み歴史に名を残したと書かれています。
斎藤道三から土岐家を守護した忠臣として諸所の伝記や、又この文書にも
たびたび村山氏は出名しています。ご参考まで。 


3 :mino阿弥:2008/01/16(水) 17:31:19 
岐阜市村山が名字の地だと思われます。
その辺りには、現在でも村山氏が住んでおられます。
市内から、谷汲カントリ−や岐阜北カントリ−に行く道筋です。
近くに、石谷、則松、城田寺という地名がみられます。
非常にわかりやすく簡単ですね!
以前から詳しく調査してみたいと思ってもいましたが
熱心な方がおられないとなかなかわかりません。
確か「村山家文書」もあったはずですが? 


4 :澤源:2008/01/17(木) 14:37:53 
mino阿弥様、本年お願いします。
早速、土岐村山氏についてご教授を賜りありがとうございました。
連絡頂いた、岐阜市の村山さんへメールし、この掲示板での投稿をお願いしました。
尊師は、「歴史伝承フォーラム」の事務局長でもありますので、
土岐村山氏関係のことについて、今後ともご指導をお願い申し上げます。 


5 :mino阿弥:2008/01/17(木) 18:00:22 
「美濃国諸家系譜」(東大史料編纂所蔵)には則武氏はありますが
村山氏は、見当たりません。
有名な武蔵七党系図には「村山党」の系図が見られ
平忠常ー胤宗ー元宗ー頼任(村山)ーとされています。
村山氏からは大井、宮寺、金子、山口氏などが分出しています。
おそらく鎌倉幕府草創の頃、関東から移住した武蔵七党村山氏の
可能性もありますが、なんともわかりません。
(美山地区の臼井氏(千葉氏系)のケ−スもありますから。)
精査すれば、興味深いことがわかるやもしれません。
また、私は事務局長ではありません。
勝手にいろいろな役職をつけないように。
知らない方は本当に思われます。 


6 :村山:2008/01/18(金) 22:15:30 
岐阜市の村山です。初めまして。

土岐氏との関係に興味を持ったのは、下記サイトでの記述がきっかけです。

  http://aries.hp.infoseek.co.jp/myouji/g/minamoto/mitsunaka/toki/murayama.html

現在のところ、手元に確たる資料は何もありませんので、これ以上のことは何も分かりませんが… 


7 :總源:2008/01/19(土) 19:22:46 
上総の總源です。村山氏に興味を持ち、見ていたら大変驚きました。
村山様ご教示のサイト・土岐氏族2に掲載されている系図に・・頼忠ー頼益ー持益そして成頼とあり、その子に頼房が見えます。
さらに頼房の子に為頼ー頼春と続きます。これはまさに上総土岐氏であり、初めて系図で見ました。
いままで此の説をとっていたのは小生のみで確実な資料は得られませんでした。
そこで、この系図の出典を知りたく思います。どなたかご教示頂ければ幸いです。 


8 :mino阿弥:2008/01/21(月) 13:01:39 
そうですか? 私にはわかりません。

今日の岐阜新聞に梅原猛氏の「親鸞の謎」というタイトルの記事があり
親鸞の母は、源義朝の娘であるという説があることを知りました。
これは存覚の「親鸞聖人正明伝」、「高田開山親鸞聖人正統伝」が
主な根拠のようです。
真宗高田派本山専修寺(三重県津市)は、蓮如上人とは一線を画し
親鸞聖人の教えのみを継承する寺だそうです。
宗教的なことはよくわかりませんが、浄土真宗にもいろいろな派があり
又その成立過程は興味深いものですが、とても時間が有りません。

土岐實光氏作成系図や2〜3の土岐系図をチェックして見ましたが、わかりません。
村山氏が美濃では、いつ頃から出名するのかも調べる必要が有ると思います。
美濃には北条氏の足跡が多々あり、土岐氏には北条氏の娘が嫁いできているようです
から北条氏に鎌倉から随伴してきた村山氏やもしれません。
谷汲長瀬城の鷹司氏(公家)は、二代目から土岐氏が養子として入ってきています。
もともと土岐村山氏から始まっているのかどうか?
「舟田の乱」では、どうだったのでしょうか?
興味はつきませんが、また何かとお教え頂ければと思います。 


9 :澤源:2008/01/22(火) 10:50:42 
総源さま、ご無沙汰しています。そろそろ、六本木講座の日程と講師陣について東京事務局会議を致したく、
RYUKO様にも連絡致しますが、準備の程何卒宜しくお願い申しあげます。
さて、万木土岐氏について村山氏系図にて関連するとは澤源も思いませんでしたし、
岐阜の村山様からの情報を掲示板にて紹介したことを喜んでいます。
何れにしても、この系図に関してホームページ管理者への問い合わせが一番であろうと存じますので、
今後の展開を楽しみにしています。
岐阜の村山様には、未だ理解が難しいかもしれませんが、上総における土岐氏研究について、
こいつっぁ春から、縁起がいいわいなぁー。 


10 :總源:2008/01/22(火) 17:36:22 
小生も六本木講座の件、気になっております。来年度も素晴らしい講座が開かれるよう協議したく思っています。
さて、上総土岐氏の件ですが、美濃国八代守護成頼の子に土岐氏系図に出てこない「頼房」がおり、
「舟田の乱」等の内紛の折美濃をでて上総土岐氏、土岐頼元の養子に迎えられたというのが小生の考証です。
これを裏付けるような村山氏関係の系図をみて驚いたしだいです。 


江戸崎・龍ケ崎土岐氏

1 :筆者:2008/01/01(火) 18:30:25 
去年一二月に高志書院から『中世東国の内海世界』(3500円+税)という本が出ました。
これには盛本昌広「江戸崎土岐氏旧臣による新田開発」という論文が収録されています。
江戸崎城主最後の土岐治綱の墓などを調査した結果が生かされています。 


2 :澤源:2008/01/03(木) 17:24:39 
一昨年の東京六本義講座へ御登壇賜りました盛本先生の論文掲載ですので、
早速一冊購入し事務局から会員向けに講座開校時に紹介させて頂きます。
今後の更なるご活躍を祈念申しあげます。 


読書

1 :美濃林2:2007/12/08(土) 18:14:15 
mino阿弥様
先日宝賀先生との一席如何でした。
「神武東征」の原象・安土往還記てにいれ、読み始めました。
初期諸天皇実在説、面白く読ませてもらっています。
小生は神武系統の倭政権にニギハヒが代わり、卑弥弓呼に襲われ、
又神武系統に政権を返還したのではとおもいます。
安土往還記による佐久間氏や信長の人物像面白いですね。
又面白い本お教え下さい。 


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3 :mino阿弥:2007/12/10(月) 09:00:14 
宝賀先生は、競馬と音楽の知識はプロ並みです。
お詳しいのには驚きました。
競馬の予想屋もびっくりです。また、音楽評論家でも通用すると思います。

歴史の話は、まったくしませんでした。
ライブハウスにお誘いするのはどうかと思い、お誘いしませんでした。
来年も機会を見つけて遊びに行くつもりです。
もし、ご興味がおありであればお誘いします。

故浅香年木氏の「治承・寿永の内乱論序説」法政大学出版局をおすすめします。
独特の文章であり、難解ですが、北陸の中世武士団の動向を鋭く分析した
名著であると思います。少し高くて7000円ほどです。

古代王権については、まったくわかりません。
また、お教え頂きたいと思います。 


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長沢氏

1 :Atsu:2007/12/05(水) 23:55:23 
昔に先祖が土岐氏に関わっていたという話を聞いたのを思い出し、
少し調べていたら、このページへ辿りつきました。庶流にも載って
いたので、間違ってはいないようです。長い間は上杉家に仕えてい
たそうですが、以前の事は全くもって不明のようです。
また最近に定年を迎えた父が、いずれ近いうちに調べに行ってみる
ような事を申していました。もし何か良いアドバイスでもあればご教授
願います。 


2 :mino阿弥:2007/12/06(木) 09:06:52 
土岐氏については、多くの系図書がありますが確実であろうと思われる
系図は、見当たりません。
以前「美濃源氏フォーラム」で講義して頂いた「古代氏族系譜集成」の
著者宝賀寿男氏(嘉悦大教授・弁護士)の講義資料によれば、
{越中国婦負郡長沢に苗字の地を有するとみられる長沢氏の系図は不明。
(大垣市長沢町という説もあるが、越中でよいか)。
「尊卑文脈」記載の長沢氏についての系図部分には裏付けがない。
左衛門尉光長の子で光衡の兄弟の左衛門尉光経の子孫とされ、その子
出羽守光助が越中国長沢に居住したのが起こりと伝え、永享年中
(1429〜41)及び文安年中(1444〜49)の「御番帳」に
「土岐長沢治部少輔」が見える。徳山本には末尾に長沢先祖は分明ならず
と書かれる}と書かれています。
{また、おそらく初期段階の分岐とみられる土岐長沢氏の系譜が分かれば
一つの手がかりとなりうると思われる}とも述べておられます。
ご参考まで。 


3 :澤源:2007/12/06(木) 10:22:14 
Atsu様、お初にお目にかかります(インターネット上での)。
さて、土岐長沢氏のことについて調べて頂ありがとうございます。
つきましては、平成18年12月2日に美濃源氏フォーラムにおいて「北陸戸山に移ったとき長沢氏」の演題にて、
射水市新湊博物館学芸員の松山充宏先生に講演をして頂きました。
長沢氏は、室町時代の幕府奉公衆となっていますが、発祥から室町における内容で、貴重なものとなりました。
ついては、今後テープおこしの後に冊子にする予定はありますが、まだ刊行日の予定はたっていません。
この松山先生の研究を教えて頂いたのは、千葉氏フォーラム創設後、現在は鎌倉建長寺の末寺考を研究されている、
鈴木佐(たすく)先生で、偶々研究調査で訪れた富山にて松山先生に面識ができたことから実現したものです。
尚、美濃源氏フォーラムは現在東濃瑞浪講座、岐阜長良講座、揖斐大野講座、東京六本木講座の四会場で開催中です。
是非ご登録頂きご参加下さいますようご案内とお願い申し上げます。
その他、歴史の切り口として美濃中世史の雄である「美濃源氏土岐氏研究」は、
幅が広がる中で求めるものも解明されてゆくものと存知ます。 


4 :mino阿弥:2007/12/06(木) 14:22:45 
宝賀寿男氏のHP「古樹紀之房間」の(A古代及び中世の氏族系譜)をクリックされると
「古代氏族系譜集成に見る土岐一族・土岐一族関係系図の各種検討・試論)があります。
ご参考まで。 


5 :Atsu:2007/12/06(木) 23:59:27 
こんばんは。皆様、早速のご返事ありがとうございます。
かなり具体的な内容もあって、大変驚いています。
不明な部分が多くて、調べるのは難しいようですが、皆様から頂いた貴重な
情報を見れば父も喜ぶと思います。美濃源氏フォーラムにも参加させて頂く
事になるかと思います。
記録にはないただの言い伝えでしたが、少し現実味を帯びてきた事がとても
うれしく思います。
ありがとうございました。 


6 :澤源:2007/12/08(土) 09:41:21 
長沢氏・長澤氏氏の分布について一部探してみましたら、下記の通りでした。
岐阜県228軒・愛知県324軒・三重県79軒・静岡県802軒
福井県9軒・石川県63軒・そして富山県249軒で、
因みに大都市の東京都1065軒と大阪府全体で542軒でした。
僅かなサンプルですが、発祥地として言われる北陸の中でも、やはり富山県に多くあり、
又東京と大阪への転出からいっても静岡県に多いのが特筆でしょう。
全国各地の群生地を抽出し、
そのなかで特に電話番号の若い家が本家筋と言えるでしょうから、
そういった所に書面でお願い文書を出されるのも宜しいかと存じます。
1994年に美濃源氏フォーラムでは、全国2885軒の土岐姓に案内を出して、
『土岐氏サミット』を開催しました。
約500軒から返信があり、
そのうち130家族180名が青森県から長崎県より集合されました。
ここで必要なことは、斯く斯く自分のルーツ探しが第一義となることが多いのですが、
土岐氏一族という日本中世史の雄を検証する高邁な事業性を訴求していることを、
我々発祥地から情報発信する者として、忘れてはいけないと心がけています。 


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ryukoさんありがとう

1 :浅利 政敏:2007/11/18(日) 13:47:55 
昨日は突然のお電話でびっくりし、またありがたく存じました。
実は今月の27日、岐阜市を訪問することにしていました。
そしたらお電話に出られた講師の土岐先生がその住職が教え子だって言うんですもの、
びっくりですが、ありがたく拝聴しました。土岐鷹絵の研究で富山から車で白川郷経由で
岐阜入りします。当日は池田町まで足を伸ばして土岐先生に面会し、土岐鷹の絵を拝見できると期待しています。
人のつながりは、心のつながりだとつくづく感じました。
ryukoさんありがとさんさんです。 


2 :mino阿弥:2007/11/20(火) 09:13:53 
禅蔵寺所蔵の鷹の絵は、貴重なもので後ろから照明をあてると作者の名が
浮き出てきます。
大桑の南泉寺や名前は忘れましたが浄土真宗の寺にも所蔵されているはずです。
確か、土岐の鷹絵を集めた本があり、図書館で見たことがあります。 


3 :Ryuko:2007/11/26(月) 15:31:02 
浅利様、鷹のご縁、本当に不思議なお導きですね。
橋本長兵衛と土岐の鷹のつながりが解明できるといいですね。
東京に来られる機会がありましたら、ご連絡ください。 


4 :浅利 政敏:2007/12/04(火) 17:23:39 
ryuko様重ね重ねご協力ありがとうございます。
富山から車での岐阜行は雪のため来年に延期になりました。
それと岐阜の護国之寺には鷹絵屏風(土岐氏)が保管されていない
ということで、直接拝見できないと出発直前に断られました。
池田町の土岐住職ともお話出来て、来年気候のいい頃にどうか
と促されました。岐阜周辺を十分に精査してから拝見に
伺うつもりでいます。どうも資料をありがとうございました。
不作法とは存じますが掲示板で御礼申し上げます。 


忘年会

1 :mino阿弥:2007/11/29(木) 15:27:49 
12月2日の忘年会は、大勢になりそうです。
あんな狭い中華料理屋では、入りきれるかどうか心配です。
谷口先生は、どうでもよいので美人の奥様にご出席頂ければ
皆さん大喜びだと思いますが。

サーフライダーズ同窓会ライブは、27年ぶりの再結成とかで
まったくの素人同然でした。
アンプは、ハウリングしっぱなしで、練習不足のため音のバランスも
メチャメチャでした。
しかし、復活を待ち望んでいた方達にとっては最高だったと思います。

昨日のコンペは、若者達を押しのけてべスグロでした。
少しゴルフも落ち着いてきたようです。 


2 :澤源:2007/11/29(木) 17:16:52 
今年は色々な事がありましたが、忘年会にて全てを忘れ去るつもりはありません。
然し、忘れたい方々もみえるでしょうから、共に傷を舐め合いましょう。

それから、久しぶりに『土岐一族』にて検索しておりましたら、二つの項目に注目しましたので御案内申し上げます。
@アマゾンでの古書価格にて、谷口研語著「美濃・土岐一族」が9800円〜12000円でした。
 再販されないからかどうか分かりませんが、定価3150円(税込)が3倍〜4倍です。
 丁度、美濃源氏フォーラムにて預かり品も全て無くなりましたので、桔梗屋での販売は終了です。
A江戸崎土岐氏について、詳細に掲載している「美浦村散歩団」を観てください。なかなかです。

RYUKO様へのお願いですが、桔梗屋での頒布品のなかで、ストラップと土岐一族の取扱中止をお願いします。
又、「美浦村散歩団」へのリンクを聞いて頂けるでしょうか? 宜しくお願いします。 


3 :mino阿弥:2007/11/30(金) 09:30:07 
「美浦村お散歩団」見ました。
詳しいですね。ぜひリンクして頂けたらと思います。

過ぎたことは、忘却し、坂村真民さんの詩を、思い起こしてください。

「念ずれば花ひらく」「鳥は飛ばねばならぬ」 


4 :澤源:2007/12/03(月) 17:22:12 
 11月17日(土)には東京六本木講座の忘年会、12月1日(土)は東濃瑞浪講座、
そして12月2日(日)は岐阜長良・揖斐大野講座の忘年会が行われました。
それぞれに、平成19年度を振り返りつつ次年度への希望を新たにしたところです。
 ついては、次年度案の企画を検討していますので、ご助言を頂けたら幸いです。
特に、15年間に渡り座学中心で、フィールドワークは任意となっていましたので、
中世の山城探索や関連史跡巡りを中心とした健康づくりウォーキングを加味したものが出されています。
それから、美濃源氏フォーラムの足場である東濃地域の原点を見直す為に、
『東濃地域史講座(多治見・土岐・瑞浪・恵那・中津川の地域史)』が提案されましたし、
又日本史の中での美濃(岐阜県)がどのように戦乱や争乱に関ってきたかを探求する、
『資料をで読む美濃合戦史』が運営委員の多くの賛同を得ています。
 その他、会員にも多くの歴史を探求している方々がみえるので、
そういう方の発表などをしてもらう案も、かなりの他薦で出ています。
今年度の会員数が、大きく減少しましたので何とか平成20年度は回復させるべく、
運営委員一同頑張ってゆくことも、それぞれの会場で意気軒昂に語られましたので、
どうか一人でも多くの会員増加に御協力賜りたく、何卒宜しくお願い申し上げます。 


ウィキペディアを利用した中傷

1 :mino阿弥:2007/11/07(水) 09:37:26 
ウィキペディアの「清和源氏」の中で、宝賀寿男氏が誹謗中傷
されています。
ウィキペディアは、個人的な感想や意見は控えるというルールが
あるはずですが、ネットを利用した個人攻撃ともとれます。
ネット上で自由に発言することは必要であろうと思いますが
反論することも自由であるべきです。
宝賀氏のHP「古樹紀之房間」(更新履歴から)に反論が述べられて
います。
しかし、ウィキペディアを利用したことに大きな問題があると思います。
ご意見、ご感想をお聞かせ頂ければ幸いです。 


2 :T・M:2007/11/17(土) 20:06:08 
宝賀先生のHP「古樹紀之房間」は私にとってとても参考になる資料が多くあります。ウィキペディアの「清和源氏」
での宝賀先生についての記事は拝見いたしましたが、やはり個人攻撃と受けとられる意見は載せるべきではないと思います。 


土岐氏の桔梗紋

1 名前:光長 投稿日: 2006/06/17(土) 21:33:10 
見聞諸家紋の土岐氏桔梗紋は、このホームページの桔梗紋とは違うように見えますが桔梗紋について教えて下さい 


2 名前:森の梟 投稿日: 2006/09/13(水) 02:04:57 
光長さん、初めまして。
土岐氏の家紋は「水色土岐桔梗」と言われています。
見聞諸家紋の土岐氏桔梗紋は一般に言われている「桔梗紋」のように思えます。
一般に言われている「土岐桔梗紋」は 花弁のかたの部分が張った状態のものをいいます。

『寛永諸家系圖傳』の土岐に
 家紋、水色桔梗、
  家傳にいはく、土岐の家紋、本は白色也、其後水色をもちゆ、むかし土岐の氏族、
  秋の頃野原にて合戦の時、桔梗の花をとりて甲にさし、勝利をうるゆゑ、子孫吉例として、
  桔梗の花を水色の中におきて定紋とす
という記述があります。

植物としての桔梗は秋の七草のひとつにして、朝顔の名で呼ばれているものである。
朝顔とは古代の呼称で、別名「岡止々支」(オカトトキ)とも呼ばれた。
これは「岡に咲く神草」の意で、このトトキの咲くところから土岐の地名が生まれた。
このため、土岐氏が桔梗を家紋に用いるとも言われています。

桔梗は、「吉更=さらに吉」の草木として尊ばれた 


3 名前:名無しの権兵衛 投稿日: 2006/10/03(火) 23:48:13 
森の梟様
舟木主馬助信光以後について・信光【光頼三男 主馬助 雲林院合戦討死】
----中村掃部助頼氏【信光男 属蒲生飛騨守氏郷卿幕下於勢南与會津領二千二百石】----とあります。
「青森ねぶた祭り」にも登場する 猪鼻山魔王投げ倒した蒲生貞秀(蒲生智閑)家臣 猛将 
「.土岐元貞」について何か資料お持ちではないでしょうか? 


4 名前:T・M 投稿日: 2007/01/14(日) 22:51:17 
本日午後旧美山町中洞の明智光秀公のお墓を訪ねました。
近くにある墓地には末裔の荒深氏一族のお墓があり、桔梗紋と五三の桐紋が左右にありました。
春日局ゆかりの粉陽寺とは山をはさんですぐ近くのようですね。 


5 名前:土岐ョ一 投稿日: 2007/01/29(月) 00:25:43 
便乗してすいません私も家紋に付いては知りたい事があります、ご存知でしたら是非教えて下さい
同じ土岐家でも家紋は違うのでしょうか?私はョ藝の孫ョ泰の子孫に当たりますが
墓には3種類の桔梗がありいずれも土岐桔梗ではなく亡き祖父よりは「けんにょう桔梗」と聞いております、
予定では私が13代目を継ぐ予定なので出来るだけ知って後に伝えていきたいので宜しくお願い致します。 


6 名前:源臣 投稿日: 2007/01/29(月) 21:19:50 
頼一様、書き込みありがとうございます。私は土岐会に席を置くものです。
お尋ねの桔梗紋については、土岐一族それぞれ多種の桔梗紋を使っております。
また土岐でも桔梗以外の家紋を使っている家も多くあります。
自家がなぜその桔梗紋を使っているのかは、
なかなかどの家も解らないようです。
答えにならなくてスイマセン。
頼泰のご子孫と言うことは「藤兵衛」の系統で菩提寺は養源寺さんですか。
4/14(土)に土岐会が開かれます。是非ご出席くださいませ。
いろいろお話をお聞かせいただきたく思います。 


7 名前:土岐ョ一 投稿日: 2007/01/31(水) 20:33:28 
源臣様ありがとうございます、以前澤源様に伺いました
養源寺のお墓にも参って頂いたみたいで合わせてありがとうございます
そのお墓も当方が大阪在住と言う事もありお世話がなかなか出来ず
昨年移動し墓石の処分は養源寺さんにおまかせましたので
もうなくなっているかと思います。
お話を聞かせて頂きたいのはこちらの方で祖父が他界し聞くことも出来ず
父より資料は預かったのですがなかなか整理も出来ずで、ただ子孫にはきちんと
伝えていきたいのでまたよろしくお願い致します。 


8 名前:土岐ョ一 投稿日: 2007/01/31(水) 21:37:18 
PS戒名、俗名、関係などの資料は少し整理しました
俗名は「藤兵衛」多いですね、後土岐植村かは分かりませんが
親戚に植村家があります鎌倉の分家さんとは交流があるみたいです
植村錠三郎=10代土岐ョ貴で岐阜に行った時には大変
歓迎して頂いたと聞いております。 


9 名前:源臣 投稿日: 2007/02/01(木) 21:06:24 
高取城の城主でありました土岐植村家の菩提寺は、
東京は品川区大井町の如来寺にあります。
以前は芝にありましたが明治40年ごろ、大井町に移ってきたようです。
私の住む隣の区になります。
10代土岐頼貴様は土岐植村家からのご養子という解釈で、
よろしいのでしょうか? 


10 名前:土岐ョ一 投稿日: 2007/02/01(木) 23:45:28 
植村子爵と養子と言うのは聞いておりますが具体的には何も知らず
6代は実の弟を養子に迎えたりと名前を絶やさぬ為色々と複雑な関係が
有るようです、10代ョ貴の長男11代ョ信が関西に住むようになり
関東とは縁遠くなりました次男の子孫が鎌倉におりそちらは植村家と
交流があるようです私どもとは縁遠くなってしまってて出来ればまた
交流出来ればと思っております。 


11 名前:T・M 投稿日: 2007/11/01(木) 10:04:34 
『絵本太平記』に
「水色に桔梗の紋つけたりし九本旗、四手しないの馬印、川風に吹きなびかせ、母衣かけたる使番二十余人」とあるそうですが、
基本的なことですが、この「水色」はどんな染料(顔料)を使用しているのでしょうか?色々調べていますが、わかりません。
 御教示いただけたらと思います。よろしくお願いいたします。 


「甲恵集」岐阜県図書館蔵

1 :mino阿弥:2007/10/15(月) 13:21:44 
快川国師七年忌香語并下火在之といった書ですが。

寶積院殿芳岩常譽大姉  政房公母  七月十四日
南泉殿玉岑玄珪大禅定門 政房公子  頼芸兄
東春院殿文○宗藝大居士 政房公二男 頼藝
左京兆
雲峯玄竜大居士  永禄四年五月十一日 義竜公
            快川国師焼香 
忠山道孝居士      竜興公於敦賀死天正元年八月朔日
華峯道栄居士      尾ノ一ノ宮北路ノ東並松之元地○在之 
            土岐氏之一族尾州萱津居
禅松院殿華屋理春大姉  十八日 頼純公母

などと書かれています。
土岐政房の母とされる方の戒名も見られ貴重な書ではないかと
考えられます。
斎藤義竜と快川国師は美濃宗教戦争ともいわれた事件もあり
あまり関係がよくなかったのではないかと思われますが?  
斎藤道三が、まったく書かれておらず、逆に不思議です。
やはり、斎藤義竜は、道三の実子ではなく土岐頼芸の子であった
やもしれません。
「南泉殿・・」のあとに頼芸兄とありますが残念なことに実名が
書かれていません。
「東春院殿・・」のあとには、はっきり頼芸と書かれています。         
「禅松院殿・・」は、頼純の母となっており、これも貴重な記述
ではないかと思います。
こちらから、何らかの手がかりがつかめないでしょうか?
何か情報ありましたらお教えください。 


2 :源臣:2007/10/16(火) 21:41:56 
mino阿弥さま
いつごろ記録したものか、どの文献から書き写したものか、
残念ながら記録漏れですが、僕のノートに頼純の法号が記録されています
法号 南泉寺殿玉岑珪公大禅定門 とあります。
玄珪と珪公違いがありますが、かなり似ています。
出典が明らかでないのがなんとも残念です。 


3 :mino阿弥:2007/10/17(水) 17:26:26 
拙宅は、南泉寺に墓があり、聞けばわかりますが。

「南泉寺殿玉嶺元珪大居士」 天文十六年十一月十七日
              渡辺俊典著「土岐氏主流累代史全」より
「南泉寺殿玉岑玄珪大禅定門」「甲恵集」
          この書が、どういうものなのか、よくわかりません。
ただ「南泉寺殿・・」という戒名を持つ方は、南泉寺を建立した方である
ことは、間違いないのではないかと思います。

私は、伊予の海賊衆に興味があり、土岐氏については、よくわかりません。
また、何かとご教示頂ければと思います。

11月23日(金・祝日)に、銀座コリドー通り「ケネディハウス」の
サーフライダーズ同窓会ライブ予約しました。楽しみです。
加山雄三やワイルドワンズも出演するライブハウスですが
当日は、残念ですが、違うバンドです。
22日に、業界の会議があり、24日は、高校の同窓会です。
22日から2泊3日で東京にいます。
ご都合がよろしければ、おもりして頂けませんでしょうか? 


4 :mino阿弥:2007/10/19(金) 16:12:00 
谷口先生に、無理やりつき合って頂けることになりました。
歴史のバカ話は、聞きたくないと常々言われていますので、気をつけます。 


     


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