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61〜70
61: 後奈良天皇宸記 (5)
62: 土岐頼武は「恵胤」か? (4)
63: 谷口家系譜についてご教授願います。 (11)
64: 美濃源氏フォーラム東京講座 (9)
65: 「明智氏一族宮城家相伝系図書」 (3)
66: 土岐成頼 (9)
67: 肥田瀬氏について (13)
68: 岐阜県揖斐郡大野町の相羽城のこと (3)
69: 初陣への激励に御礼を言上申し上げる (2)
70: 瑞浪市に井澤康樹あり (9)

後奈良天皇宸記

1 :mino阿弥:2007/09/25(火) 11:19:14 
「続史料大成」「岐阜市史」より
天文五年六月廿日
去年濃州守護恵胤出家名也、蘭者待名香、所望之由、
以甘露寺大納言申、雖為秘蔵給之、祝著之由申
雷鳴一雨如何、御禮美物鴈五、蛸一折(ハリタコ)
煎梅鼠(イリコノ)一折二十荷代千疋進上

イリコノあとがわかりませんが海鼠(なまこ)?

天文五年七月一日
土木(岐)源頼藝美濃守事申、勅許

ご参考まで。 


2 :mino阿弥:2007/09/27(木) 15:45:59 
「濃州守護恵胤」とは、実体のない錯誤により創られた人物であると言えます。

では、「土岐頼武は出家し、「恵胤」と号した」

と言ういわば定説は、いったいどういう史料に基づいて述べられているのでしょうか?
ご存じの方がおられればお教えください。
また、土岐系図に土岐頼武の名が書かれている系図があればお教えください。
私は、今まで見たことがありません。
前述の「依田、山名、土岐系図」(東大史料編纂所蔵)には政房のあとに頼芸がいて
政頼、盛頼、頼純すら書かれておらず、もちろん頼武の名もありません。
頼芸の子として頼充(二郎法名宗m玉岑天文十六年十一月十七日卒廿四歳)と
されています。
南泉寺の頼純の法名と頼充の法名が酷似しているため混同されたような感じも
しますが、なんともわかりません。
谷口研語先生、岐阜県史、「美濃源氏フォーラム」の皆様はじめ、土岐頼武説は
揺るがない史実のようですが、しかし、土岐頼武説については「濃州守護恵胤」を
きっかけに何らかの研究を進めておかなければ、土岐系図自体が永久に判然と
しないものになってしまうのではないでしょうか? 


3 :祝:2007/10/09(火) 23:14:22 
とても難しく?????の連続です。おやすみなさい。 


4 :mino阿弥:2007/10/10(水) 11:23:15 
とても短くまた、的を得たご感想ありがとうございます。
実際、私自身もよくわかりません。

谷口先生は、「頼純は知りません」と言われますが、一次史料に見えないと
いうことでしょうか?
ではなおさら、土岐頼武の子として土岐頼純がいること自体が不審であると
いうことになります。
土岐頼芸と相続争いをした土岐家の人物がいるはずです。
山県市大桑の南泉寺に葬られている土岐頼純は、誰でしょうか?
南泉寺に行かれるとわかりますが、土岐頼純の墓は一段と小高いところにあり
その周囲に大桑に古くから住んでおられる方々の墓があります。
頼純公の墓のそばに巨大な五輪塔があり、その石碑には代々の守護の名前が
刻字されています。
土岐頼純は、十代守護とされています。
現在の県史、市史などの見解が正しいということであれば、これは大きな
誤りであるということになります。
南泉寺の寺伝では、永正14年(1517)土岐頼純が開基し仁岫宗寿開山とされて
います。
現在では土岐頼純は、大永4年(1524)生、天文16年(1547)11月17日卒とされています。
(前述の「依田・山名・土岐系図に見える頼芸の子頼充の卒年月日と同じです)
土岐頼純は、24才で卒したということになっていますが、卒年の30年前に
南泉寺を開基したという寺伝があり、土岐頼純の画像も残っています。
これは南泉寺の寺伝の誤りでしょうか?
東大史料編纂所のデータべースから土岐頼純の画像は、簡単に取り出す
ことができます。
土岐頼純が南泉寺の開基であり、仁岫宗寿を招いて開山とした人物であれば
土岐頼純は、土岐頼芸と土岐家の相続争いをした人であり、土岐政房の子
であろうと考えられます。
「土岐頼純は土岐頼武の子である」ということは、どのような史料にもとづいて
主張がなされているのか、私にはわかりません。
また、土岐頼純の画像も精査する必要があります。

確実な史料で証明することはできませんが、天文16年11月17日に24才で亡くなった人は
土岐頼芸の子頼充の可能性があり、土岐頼純と混同されたのではないかと思われます。 


5 :mino阿弥:2007/10/11(木) 11:04:13 
1517年に南泉寺は、仁岫宗寿により開山とされています。
土岐頼純の戒名は、「南泉寺殿玉嶺元珪大居士」となっています。
土岐頼純が1547年に卒して24才だったとすれば、1524年生まれだったという
ことになります。

「南泉寺殿」という戒名は、南泉寺を開基した人につけられる戒名であるはずです。

土岐頼純の戒名は、頼純が生まれる前に建立された寺の戒名であることも
普通に考えれば不思議なことです。
一般的に、寺を開基した人につけられる戒名を、寺が建立された後に生まれた
人につけられているということ自体が疑問です。
南泉寺を建立した人は、土岐頼純でなければ誰でしょうか?

開基した人が土岐頼純であれば、24才卒ということも土岐頼武の子である
という説も誤りであるということになります。
難しく考えず素直に見れば、戒名がおのずから物語っているのではないか
と思います。 


土岐頼武は「恵胤」か?

1 :mino阿弥:2007/09/18(火) 10:41:33 
「能登畠山氏七尾の歴史」の畠山義綱殿にお尋ねしたところ
畠山義総は、出家して「徳胤」(悳胤)と号したとのことです。
岐阜市史の編纂者が能登畠山氏の史料を誤って使用し、なおかつ
「悳胤」を「恵胤」と読み違えた可能性があります。

基本的に、守護のような人物の名前に「武」という字を使用するか
どうか疑問です?
土岐頼武は、自分自身の立場も危ういのに、天皇に蘭麝待の切り取りを
申請し、なおかつ切り取ったなどということは到底考えられません。

「悳胤」を「恵胤」と読み違い、更に「恵胤」に対応する守護土岐頼武が
作り上げられてしまった二重三重の錯誤によるものではないかと考えます。

「悳胤」は気がつきませんでした。
畠山義綱殿のご指摘に感謝するとともに、今後の皆々様のご研究に
期待したいと思います。 


2 :mino阿弥:2007/09/18(火) 14:51:10 
恵胤については
「後奈良天皇宸記」天文5年6月20日条(岐阜市史資料編666頁)
ご参考。 


3 :mino阿弥:2007/09/19(水) 15:27:58 
土岐頼芸と斎藤道三との攻防に明け暮れていた土岐頼武が、はたして蘭麝待の
切り取りを天皇に申請するような余裕があったかどうか疑問です。
当時の美濃の状況を冷静に考えてみることも必要であると思います。
それに比して当時、能州守護畠山義総(悳胤)は磐石の体制であった。

「徳」=「悳」。
くずしでは「徳」の「彳」をはぶく時もあり「恵」に酷似している。
岐阜市史編纂者の読み誤りか、「宸記」自体の書き誤りか?
この推論を確実なものにするためには、「後奈良天皇宸記」の原本を確認する
必要があります。 


4 :mino阿弥:2007/09/20(木) 18:10:24 
「歴史伝承フォーラム」加賀藤原姓豊田氏からの情報です。

「続史料大成21」(後奈良天皇宸記・天文五年六月二十日)には、濃州守護恵胤
は蘭麝待のお礼に海産物を進上したようです。
明らかに、「宸記」自体の書き誤りであろうと思われます。
これは、能州守護悳胤(能登守護畠山義総)を指していると考えられます。
また、「宸記」には、天文五年七月一日に「土木源頼芸美濃守事申、勅許」
とあります。
天文五年七月一日に、土岐頼芸が美濃守の勅許を得ているわけですから、
美濃では、土岐頼武の存在自体が希薄であり、不明です。
「濃州守護恵胤」は、「能州守護悳胤」の誤りであることは、確実なようです。
では、土岐頼武は、どうなっているでしょうか?
土岐頼遠を除き、守護の墓や戒名は、すべて判明しています。
土岐頼武のみ、わかりません。
これは、土岐政頼(盛頼、頼純)が同一人物である可能性が考えられます。
多治見永保寺の土岐頼武の禁制など頼武の名が見られる史料が数点がありますが
これは、土岐政頼が一時期使用した名前であるようにも考えられます。
土岐頼武については、今後もう少し慎重に検討する必要があると思われます。 


谷口家系譜についてご教授願います。

1 :伊勢の谷口:2007/09/02(日) 17:44:18 
鎌倉時代阿波守護の佐々木経高が承久の乱後 
紀伊の国へ落ち延びた子息高重の子から谷口家が出自されていると系譜で見ましたがその後の足取りが解りません。
一の坂文章にも高重が落ち延びた後の文章が無く困惑しております。何卒関連の事がございましたらお教え下さい。お願い致します。
美濃源氏のフォーラムと関係がございませんが このBBSがしっかりとなされておる様子を伺え質問させて頂きました。
申し訳ございません。 


2 :mino阿弥:2007/09/03(月) 10:44:00 
佐々木氏は、わかりません。
「佐々木哲学校」など佐々木氏についてのHPもあるようですのでご確認されたら
いかがと思います。
谷口氏は、「美濃源氏フォーラム」の常任講師谷口研語先生も同姓ですが、確実な
史料があれば別ですが系図上のことについては、プロですから、あまりコメント
されないのではないかと思います。
また、谷口研語先生は、もともと東濃、恵那方面のご出身ではなかったかと思います。
推測ですが、そちらの方の「姉小路氏・姉小路氏の名跡を継承した佐々木氏流三木氏」
など関係があるやもしれません。

実は昨日、「美濃源氏フォーラム」があり横山住雄氏が講義されたようですが、その際
土岐頼武が出家して「恵胤」と号したという説を訂正されたそうです。
これは谷口研語先生にも確認しましたので、どうも確実なようです。
詳細はわかりませんが、能登守護で恵胤という人物を発見した方があり、横山住雄氏が
自ら講義の席上で訂正されたということですから、確実な史料の発見があったと思われます。

岐阜県史なども、すべて書き直してもらわなければならないと思います。

この件では、宝賀寿男先生の説が正しかったということが証明されつつあると思います。
「古樹紀之房間」というHPがありますので、疑問点をお持ちであればご質問されます
ことをお勧めします。http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihumokuji.htm

土岐氏についても、佐々木氏との婚姻関係は確実であろうということは
考えられますが、系図上のことで佐々木氏の娘の誰が土岐氏に嫁いできたかと
いうことは、本当はわかりません。

あまり、ご参考にならなかったのではないかと思いますが、中世については
ほとんど史料がなく確実なことは、なかなかわかりません。
上記の如く、土岐氏についても研究途上であり、土岐系図自体が、はっきり
しておりません。
この程度で申しわけありませんが、失礼致します。 


3 :伊勢の谷口:2007/09/03(月) 18:49:06 
色々とご教授有難うございました。ご親切丁寧なご回答有難うございました。
家の家紋が四ツ目でしたのでご質問させて頂きました。同じ佐々木経高の子孫が飛騨三木一族に分かれて行ったと何かの系図で見ました。
谷口先生が飛騨三木一族の本を著者しておられましたのでご教授の願いに質問させて頂きました。
ご返答重ねて御礼申し上げます。 


4 :T・M:2007/09/04(火) 00:12:59 
伊勢の谷口様 
1)どんな四つ目でしょうか?
2)三木氏は定綱流京極氏の出ではないでしょうか?
3)飛騨市出身と記憶しています谷口先生は著書の中で、飛騨三木氏一族の出目を断定されてはみえなかったようです。
4)身近に谷口姓の方がおられ、奥美濃一帯(郡上市には60家弱)の谷口氏のルーツを調べています。
2年程前、調査に入った関市武芸川町谷口には谷口姓はありませんでした。
5)江戸時代、宝暦騒動(郡上一揆)で郡上藩土岐流金森氏家臣の職を失い、京に出で宮大工の修行をし、
飛騨高山の山車の製作に深く関わった谷口氏かみえるようです。高山市山車会館にその系図があったと思います。
奥美濃の谷口氏が鷲見氏、東氏、遠藤氏、佐藤氏、斎藤氏、土岐氏 、佐々木氏などににつながっていくかどうかどうかが課題です。
上有知湊から長島をへて 伊勢の谷口氏とつながっていくといいですね。 


5 :伊勢の谷口:2007/09/04(火) 20:03:52 
色々とご質問に対しましてアドバイス有難うございました。家紋は隅立て四ツ目です。
和歌山県熊野地方から伊勢にかけて渡った様子と聞き及んでおります。
三木一族は佐々木経高→の三男景綱(多賀氏)からの出自と姓氏類別大観で見ました。
経高の長男の高重の子孫が谷口と名乗っている様子でした。
高重が和歌山県西牟婁郡へ承久の乱後落ち伸び熊野別当にて殺されたと聞きました。
その子孫が熊野地方に今も残っていると聞き谷口姓を名乗って伊勢地方まで反映されたのでは無いかと推測致しました。
私は嫁ぎ姓も変わってしまいましたが年老いた父親の事を思い色々調べて見た結果この掲示板にたどり着きました。
色々とアドバイス感謝申し上げます。有難うございました。 


6 :T・M:2007/09/10(月) 00:25:46 
伊勢の谷口様
沙沙貴神社に伝わる「佐々木一家流々名字の分系」の中で、
11代佐々木信綱の長男重綱(大原氏)より白井、富永、高山、福永、井口、福井、春近、鳥越、鳥脇?、
伊吹、本郷?夫馬、竹谷、坂田、磯部、磯野、海北、高坂、谷口、薗の各氏が出ています。
子の系図では谷口氏は磯野信泰の子で第22代佐々木高頼に仕えた磯野高信の3男谷口兼條が谷口氏の祖のようです。
元進→兼信→正信と続いています。この先は系図にありまません。いままでの私の調査中の谷口家の家紋の中には四つ目紋はありません。
家紋を信頼すれば大原流谷口氏の可能性が高い気がします。菩提寺はどこでしょう? 


7 :伊勢の谷口:2007/09/11(火) 17:36:30 
T.M様詳しい情報を有難うございました。
偽書とされておりますが江源武艦に谷口藤一郎何某と言う者が矢の競技の様な催しにて登場しておりました。
近江六角の屋敷にての事で六角家からの召し出しの様子にてその後足利義輝の側に使え
三好 松永の襲撃にて討ち死にとなっている様子でした。
その後が解りませんが何か六角家と関係が有るのかと勝手に推測しておりました。
T.M様より情報大変嬉しいかぎりです。佐々木経高の方ばかり調べておりましたが六角高頼の方をもう少し調べて見ます。
有難うございました。
お教え頂いた事を参考にまた調べて見ます。何となくでも関係が有ったと言う推測でも父親に話が出来ます。
有難うございました。重ねて御礼申し上げます。おかげを持ちまして また暫く色々調べる事が出来ました。
大原氏の方研究して見ます。
伊勢松阪の蒲生氏郷公の菩提寺 清光寺に代々の墓が有ります。 


8 :T・M:2007/09/12(水) 23:23:51 
伊勢の谷口様  
少しでもお役に立ててなによりです。
何度も読み返します「江源武艦」(江州侍より)
巻二 天文九年11月18日に伊庭氏の庭で行われた弓射(15名)で谷口藤一郎何某についての記述がありますね。
ご存知と思いますが、蒲生家の菩提寺は信楽院(浄土宗)、神社は綿向馬見神社です。
昨年五月の日野町祭りの時、両方とも行きました。今年3月頃、尾張徳川家ゆかりの徳川美術館へ行きました時、
春日局が探し出したとされる「自証院」についての文献(書籍)を探しました。
ある一冊の中に・蒲生飛騨守氏郷の家臣某氏の女・岡半兵衛重政の女(柳営譜略)・岡吉右衛門の女(以貴小伝)
・会津産三保氏の女(自証院記)・岡越後守貞綱の妹(柳営婦女伝)町野長門守幸和養女(町野氏系家譜)の記述を見つけました。
伊勢の谷口家(さん)は三井家(三井財閥の祖)と同様 氏郷公が会津若松へ転封になっても、松坂に留まられたのでしょう。 
綿向馬見神社に掲示されてある寄付名簿を見ますと何名かの岡姓の方を見いだす事が出来ます。 


9 :伊勢の谷口:2007/09/13(木) 14:32:15 
TM様毎回のご丁寧なご返答有難うございます。あれから佐々木大原氏や足利義輝公の記述を見ております。
毎回貴重なお教え有難うございます。御礼申し上げます。 


10 :T・M:2007/09/15(土) 23:29:23 
伊勢の谷口様
今年五月末、滋賀県安土町「浄巌院」へ行きました。沙沙貴神社のすぐ近くです。
天正7年(1579)5月27日織田信長の命により浄土宗僧と日蓮宗僧の宗論の舞台となった所で、
もとは六角氏の菩提寺慈恩寺があった所です。
その墓地を調査した資料を見ていましたら、その中に、折り敷に桔梗紋の小西家、家紋は不明ですが、
谷口家のお墓がありました。御参考までに。 


11 :名無しの権兵衛:2007/09/16(日) 17:12:27 
T.M様 私し事に対しまして毎回のご親切なご教授有り難うございます。御礼の言葉の申し様がございません。
この連休に父と近江の方へ行ってこようと思っております。敬老の日に少しでも親孝行にと思いました。
高齢の父親が楽しみにしてくれてます。浄厳院の件有り難うございました。沙沙貴神社までは行った事有りましたが、
浄厳院にその様な墓が有ったとは全く知りませんでした。大変嬉しいかぎりの情報感謝申し上げます。
私達素人には調べる術を知らず、六角氏の菩提寺、和田氏の墓所とぐらいにしか存じておりませんでした。
大変参考になりました。有り難うございました。
あれから近江源氏と言う本を読んでおりましたら谷口民部、谷口藤一郎、
谷口勝一と言う(勝一とは現代風の名前なので信憑性が少ないのですが)者が将軍義輝と一緒に自刃している様なのですが、
どれも同一人物の様でした。おかげを持ちましてまた違う方向で調べて見る事が出来ました。 


 美濃源氏フォーラム東京講座

1 :Ryuko:2007/09/09(日) 04:22:15 
台風が関東を直撃致しましたが、いかがでしたでしょうか?
9月15日、下記の要領で東京講座が開催されます。厳しい残暑が続いていますが、皆様とお会いできるのを楽しみにしています。

日時:9月15日(土)13:30〜16:45
場所:ラピロス六本木10F(岐阜県東京事務所六本木センター)
演題:「秀吉謀反−異説・本能寺の変」 土岐信吉講師 13:30〜15:00
   「2代守護頼遠とバサラの世界」谷口研語講師 15:15〜16:45

土岐信吉講師より、「4月の土岐会とは内容を変え、皆様に楽しんでいただける講演になると思います」とのお言葉を頂いております。
当日会員もOKです。多くの皆様のご参加をお待ちしております。 


2 :浪花の桔梗丸:2007/09/09(日) 21:50:28 
Ryuko様はじめまして「土岐ョ一」です本名は出さない方が良いと言われ
以前やっいてた無線の名前を使うことにします。
仕事で高崎に14日まで滞在予定です一度フォーラムの方のお話
聞きたいと思っておりました、もし時間が取れれば帰りにお伺いしたいです
以前澤源様宅にアポなしでお伺いしお会い出来ずご迷惑をおかけしました
土岐七家など知りたい事はいっぱいあります宜しければまた教えて下さい。 


3 :Ryuko:2007/09/13(木) 03:29:21 
頼一様
9月15日の東京六本木講座でお目にかかれますこと、楽しみにしています。
当日は、瑞浪から澤源様も来られますので、講座修了後の懇親会にも是非ご参加ください。 


4 :mino阿弥:2007/09/13(木) 10:32:05 
今日、澤源師が、例の虎ノ門の焼酎屋に行かれるそうです。
飲みすぎないようにお守りをしてやって頂きますようお願いします。
また、私についてありもしないろくでもないことを店長にベラベラ
しゃべらないよう見張って頂ければ幸いです。
よろしくお願いします。 


5 :澤源:2007/09/13(木) 10:57:53 
7月22日(日)には全く声を潰してしまい、その後静養に務めましたが8月20日に声帯が片側動いていないと診断されました。
元々喋り過ぎとは言われますが、一番多い原因は肺ガンとも脅され、夫婦で覚悟を決めもしましたが8月28日にはCT検査で正常と診断。
又一昨日の9月11日にも頭神経を含めたMRI検査でも異常なしと。
そして、何より全然動かなかった声帯が耳鼻咽喉科にて半分ほど動き始めたとのことで、
再び世間に『小さな声』を出し始めましたので、何卒宜しくお願い申し上げます。
尚、明日から上京しmino阿弥様の青春の原点を探訪したり、今年から山口事務局長を筆頭として
ryuko様等のご支援で独自の展開を見せ始めた東京六本木講座へのご挨拶と激励に上がります。
『酒宴無礼講』を楽しみにしておりますので、皆様のご参加共々宜しくお願い申し上げます。 


6 :mino阿弥:2007/09/13(木) 11:47:38 
なんだ、まだ居たんですか?
虎ノ門の焼酎屋は、土、日、祝日は休みです。 


7 :Ryuko:2007/09/13(木) 15:34:10 
明日、金曜日の18時ですよね?楽しみにしています。
mino阿弥様、ご心配でしたら、一緒にいかがですか? 


8 :mino阿弥:2007/09/13(木) 15:44:31 
私は、ゴルフです。

店長に電話しておきましたが、今日かと間違えていました。
できれば、人数と時間の予約入れといて頂ければと思います。

何をしゃべられるか非常に不安です。
なんとか、おとなしくしていてもらいたいと願っています。
Ryuko様、よろしくお願いします。 


9 :澤源:2007/09/15(土) 02:09:45 
夕方6時から10時まで4時間の無礼講でした。本当に美人の店長でした。mino阿弥さん、ありがとうございました。 


「明智氏一族宮城家相伝系図書」

1 :mino阿弥:2007/08/30(木) 10:45:58 
この系図書によれば
土岐頼貞の母は、北条経時女とされている。
土岐頼貞の母は、北条貞時女とする「尊卑文脈」は明らかに誤りであるが
北条経時(1224〜1246)は、若年で没し、更に経時の妹は五代将軍藤原頼嗣に
嫁いでおり、周囲の事情を考慮すれば土岐頼貞の母は、北条経時女とする確証はない。
土岐頼貞は、土岐光定六男又は七男とされているが、光定57才〜64才の子供であり
実子かどうか疑問である。
土岐頼貞の兄とされる土岐定親(鉢屋氏)は、嘉元三年(1305)四月の「北条時村攻め」に
定親は母方北条宗方に味方し戦死とされている。
定親と頼貞が同母であれば、母は北条宗方の父北条宗頼に関わる人物となり、母は
北条宗頼の娘であろうかとも推測できる。

以下は、荒唐無稽な説との批判も承知で私見を述べる
土岐光定の父光行は「承久の乱」において宮方であり、妻が千葉氏の娘であったため
助命され、その結果千葉氏の娘の子である光定に家督を譲った前例もあるが
同様に、光定は北条氏の娘の子である頼貞に家督を譲らなければならなかった事情が
あったのではなかろうか?
土岐光定の妻が三浦義村女であり、その子光包は「宝治合戦」(1247)で三浦氏が
滅亡したため、光包は隠棲を余儀なくされ、北条氏の娘の子である頼貞を娘婿とする
ことにより、清和源氏土岐氏を存続させたのではないかとも想像できる。
土岐光定が伊予に所領を得ていたことも不詳ではあるが、「宝治合戦」以前の三浦氏の
四国における支配力(守護など)を考慮すれば、三浦氏の娘婿として土岐光定が伊予に
所領を得ていたことも、かろうじて説明できるのではないか?

この系図書には、明智光秀は進士山岸勘解由信周の次男也と記されていることも
不審を招く根拠となっているが、明智氏と山岸氏は代々重縁である。

「明智氏一族宮城家相伝系図書」より略系図

光衡ー光行ー光定ー光包ー頼貞ー頼宗(頼清)ー

皆々様のご研究を期待し失礼致します。 


2 :mino阿弥:2007/08/30(木) 16:58:06 
兄とされる蜂屋定親は、「時村攻め」により討死しており、また同母弟であろうと思われる
土岐頼貞は、もし、母が北条宗頼・宗方に関わる人物であったとすれば、謀反人の弟でもあり
北条幕府では冷遇されたであろうことは容易に推測できる。
土岐頼貞が、のちに足利尊氏に随従したことも「嘉元の乱」以来の北条主流派に対する怨念が
底流に潜んでいたのであろうか?

ここ2〜3日、ひまでした。 


3 :mino阿弥:2007/09/01(土) 10:21:54 
「明智氏一族宮城家相伝系図書」の概要・宝賀寿男氏作成

光衡(1247〜1206)郡戸判官代 自是称土岐氏其始祖也
光行(1174〜1249)土岐三郎
光定(1207〜1281)土岐五郎
光包(1235〜1272)土岐伊予守
頼貞(1264〜1339)隠岐太郎 右衛門尉蔵人従五位上昇殿入道存孝
        隠岐孫次郎土岐六郎伯耆守
        母北条武蔵守平経時女、或又北条相模守貞時女共云々是誤也
        頼貞実ハ隠岐守光定六男也、家嫡光包文永九年壬申十二月卒去
        男子無之因依光定之命以頼貞為兄之順養子相続家督住土岐郡高田郡
頼宗(1291〜1352)六郎次郎本名頼清又頼藤
頼宗の弟として
頼基 土岐伯耆九郎長山遠江守
頼宗の子として
頼兼(1317〜1390)土岐明智次郎兵庫助下野守従五位上、入道浄孝号下野入道
頼兼の子として
頼重(1342〜1423)土岐彦九郎明智次郎兵庫助民部少輔従五位下、入道浄栄
        康永元年生、明徳元年出家、応永三十年卒八十二歳
        室ハ山県郡伊志良住人長山遠江守源頼基女也
        伝曰頼重実頼兼之叔父土岐伯耆九郎頼基之子也云々
        有故観応ニ年二月為頼兼之猶子
頼篤      明智十郎駿河守、入道宗観
        貞治五年生於千多芸郡多芸嶋
        永享十年卒 七十三歳
        母ハ長山遠江守頼基女室ハ蜂屋新蔵人源康光女
        仕足利将軍義満義持 明徳元年継家督
書き疲れましたので、この程度にしておきます。
ご参考まで。 

   
土岐成頼

1 :mino阿弥:2007/08/28(火) 10:44:23 
「依田・山名・土岐系図」原蔵者内務省地理局地誌課(東大史料編纂所蔵)
所収土岐系図には、「土岐成頼・・明応六年四月三日卒、実は大桑駿河守頼名子」
と書かれています。
頼世(頼忠)の子として頼益など10名が記載され末子として「頼名」がいます。
「頼名」の子として佐良木光俊もいます。

また、前述の土岐直氏の子として道守(僧)、満直、満康、詮直の4名記載され、
満康と詮直は兄弟として書かれていますが?
詮直(宮内少輔・肥田瀬)ー頼直
直氏のあとに康貞(弟?)が記載され、子として行春、久利(三河守)、康任、行之、光直がいます。
康貞(土岐悪五郎三河守一名頼名為和田五郎討死)とあります。

真偽のほどはわかりませんが、ご参考まで。 


2 :権兵衛:2007/08/28(火) 14:28:21 
一般的には、土岐成頼は、一色氏の出ということになっているのですか?
であれば、美濃国守護の土岐宗家は、実質的には、純然たる土岐氏でなく
なっていたということですよね・・・
土岐頼芸の子孫旗本土岐氏も一色氏の末裔ということに・・・
でも、同じ清和源氏でまだ良かったのかもしれない。 


3 :mino阿弥:2007/08/28(火) 15:09:25 
一色氏、饗庭氏説が一般的ですが
佐良木氏(宝賀寿男先生説)、さらには仁木氏説(禅蔵寺土岐先生説)まであるようです。

一色氏説が有力なようにも思いますが、不明というより他ありません。
(斎藤龍興の家老に延永氏など一色氏の被官を連想させる家臣名が見られる)
成頼は、斎藤利永、妙椿によってまつりあげられた斎藤氏の傀儡的な守護のようにも
思われます。
土岐成頼以降、相続争いなど内訌が目立ち、著しく守護家の威光が衰え滅亡に至った感があります。
実質的に、土岐持益までで土岐家の支配は、終わってしまったようにも思われます。 


4 :権兵衛:2007/08/28(火) 15:14:53 
どれも清和源氏ですね・・・
当時は、おそらく、血族主義だったでしょうから、少なくとも、清和源氏からの
養子でないと、叛乱とはいえ、格好がつかなかったのでしょうかねえ? 


5 :mino阿弥:2007/08/28(火) 16:12:53 
「美濃国諸家系譜」所収「越智姓稲葉氏之家譜」には、稲葉良通(一鉄)とその姉とされる深芳野がいて
いずれも母は、丹後国一色左京大夫義遠女と書かれています。
一鉄の祖父にあたる稲葉通富の母は、斎藤越前守利永女とされており、一鉄の父通則の妻は一色氏の娘
ということになります。
また、一色氏の娘から生まれた深芳野は、土岐頼芸の妾となり斎藤義龍を生んだということになります。
斎藤道三の正妻の子二人を暗殺して、父道三を討ち美濃を支配した義龍は、一色氏とも称したようです。
この系図書が、真実を述べているかどうかは全く不明ですが、土岐成頼の頃から一色氏との関係があった
とすれば、非常におもしろい歴史小説が書けるのではないかと思います。

このHPで、こんなことを書くと袋叩きにあいますが、実のところ土岐氏が、清和源氏であるかどうかという
ことについては、系図上以外の確証を知りません。 


6 :権兵衛:2007/08/28(火) 17:11:15 
そういうパターン多いですね。
近江浅井氏は、正親町三條流ではなくて、古代浅井直の末裔とか、
近江佐々木氏は、宇多源氏ではなくて、古代沙沙貴一族の末裔とか、
近江蒲生氏は、秀郷流ではなくて、蒲生稲置の末裔とか・・・
私は、こういうパターンの半分くらいは仮冒で、
もう半分くらいは、そういう古代氏族の名跡を、源平藤橘の支流が受け継ぎ、
、古代からのその土地の部民を抱え込んで武士団として成長したのではないか、
と思っています。
土岐氏も、そういう古代トキ(漢字忘れました)一族の末裔ではないかという
説もあります。
しかし、清和源氏の発祥が10世紀で、それから約200年しか経っていない
段階で勃発した源平合戦のころ、土岐光長は、源氏一門として木曽義仲の挙兵
に加わっており、その資料的な裏づけは探せばありそうに思えますねえ・・・
上記の佐々木氏は源平合戦のころ、近江源氏と称して源氏方で奮戦しており
ますが、それは、源為朝が佐々木高綱兄弟の烏帽子親だったからだと説明でき、
源平合戦当初の源氏に不利な美濃の戦況からして、源氏一門でなければ、義仲
に従わなかっただろうと、考えたことがありました。 


7 :権兵衛:2007/08/28(火) 17:32:43 
上記の佐々木氏は源平合戦のころ、近江源氏と称して源氏方で奮戦しており
ますが、それは、源為朝が佐々木高綱兄弟の烏帽子親だったからだと説明でき、
源平合戦当初の源氏に不利な美濃の戦況からして、源氏一門でなければ、義仲
に従わなかっただろうと、考えたことがありました。
とき書きましたが、
つまり、佐々木氏は宇多源氏の仮冒で、土岐氏は限りなく白、つまり、清和源氏
であっただろうと思います。 


8 :無僧:2007/08/29(水) 01:59:25 
mino阿弥様、はじめまして。
群書系図部集(第三)の土岐系図には、
土岐直氏の子供として 道守(僧)・満直・満康(左馬助)・直詮(詮直か)の4名が記載されています
また、直氏のあとに 康貞、頼忠が記載されています
康貞(土岐悪源五郎 三河守 文和二年六月九日於吉田河原討死)の子供としては、
行春(久久利)・康任(宇田)・行之・光直(羽崎二郎)とあり
行春(久久利)-----□□三河守-----□□民部少輔とあります

頼忠(号池田頼世改名美乃守刑部少輔 応永四年八月十一日卒)の子供としては、
光忠(号月海太郎)・頼益(号萱津左京大夫)・頼兼(大須三郎)・頼音(西郷上総介)
・之康(鷲巣右馬頭)・光廉(洲原伊勢守)・頼綿(尾張守)・頼郷(田原)・僧(禅居菴)・頼名(駿河守)とあります 


9 :mino阿弥:2007/08/29(水) 16:23:12 
権兵衛さま
「明智氏一族宮城家相伝系図書」によれば
土岐頼宗(本名頼清又頼藤)の母は近江国住人佐々木備中守頼綱女也。実は土岐光包家女ノ云々。
(この系図書は、土岐光包は土岐光定の子であり、土岐頼貞は、土岐光定の子土岐光包の娘の
婿となって土岐光定、光包家を継承したと言っているわけです。年齢的には頼貞は光定の孫に
あたる年齢でもあり、この系図書の言わんとしていることは従来の土岐系図を根底から覆す
重大事を述べていると思いますが、旁証できないのでなんともコメントできません)
土岐頼康の母は佐々木備中入道崇西之女也と書かれています。
いずれにしても土岐氏と佐々木氏の婚姻関係を示唆しているように思われます。
佐々木氏は、わかりません。
土岐氏が、なぜ瑞浪など東濃へ移ったかということも謎であり、ヒントになると思います。
土岐光定が、なぜ晩年まで伊予にいて伊予で没したという所伝があるのかということも
本当は大きな謎です。
子供に伊予の所領経営をまかせ、美濃で没していても不思議ではありません。
土岐光定・光包で「光」を通字とする清和源氏土岐氏本流は一旦途切れ、
「頼」を通字とする頼貞流土岐氏に継承されたのであろうか?
義仲についたのは、北陸の開発領主達の場合、権門や白山神社と対抗する手段でも
あったのではないかとも考えられます。

無僧さま
書き込みありがとうございます。
「続群書類従巻第百二十九系図部廿三土岐系図」見直しました。

岐阜県史なども近年「土岐系図」の政房のあとを勝手に書き替えてしまい
到底承服できません。
頼武については、疑問です。
「古樹紀之房間」HPの掲示版・応答版に「土岐頼武という人物」という
タイトルで宝賀寿男先生の見解が述べられていますので、ご参考まで。 

 
肥田瀬氏について

1 :呑舟:2007/05/04(金) 20:14:16 
御HPの土岐氏略系図によると直氏・・詮直は肥田瀬の祖となっていますが
出典はどのようなものでしょうか?以前にも投稿しましたが直氏は伊予久万地方の大野家
の養子と大野系譜に記録されているのですが?

突然話変りますが、井澤さんの個人のHPを見て 私の大学の後輩と
知りびっくりしました。何かの因縁でしょうね。和泉と駿台で顔を
会わせていたかも知れませんね。今後とも宜しく。 


2 :呑舟:2007/05/05(土) 00:40:43 
井澤氏はこのHPからリタイアしてたのね・・・

詳しい方いらしゃいませんか? 


3 :澤源:2007/05/05(土) 14:00:09 
只今7月15日告示の瑞浪市長選にむけて頑張っております。
なかなか投稿までは難しいのですが、いつも拝見はしておりますので、よろしく。 


4 :森の梟:2007/05/08(火) 23:35:52 
呑舟さん、始めまして。
「土岐氏略系図によると直氏・・詮直は肥田瀬の祖となっていますが、出典はどのようなものでしょうか?」とお尋ねの件ですが
「群書系図部集」第三 系圖部 巻第百二十八 土岐系図
「国史大系 尊卑分脉」第三篇
に記載があります。

「以前にも投稿しましたが直氏は伊予久万地方の大野家の養子と大野系譜に記録されているのですが?」と書かれておられますが、
「土岐氏略系図によると直氏・・詮直は肥田瀬の祖」のどこが問題なのでしょうか
直氏が大野家に養子にはいっても、その子(詮直)が「肥田瀬の祖」になることは不思議ではないように思います。
直氏がいつ、大野家に養子に入ったのか?   家督を詮直に譲ってから大野家に養子に入った可能性はないのでしょうか?
或いは、大野家に養子に入ったのち土岐氏に戻ってはいないか?
私の家の先祖にも「当主」でありながら他家に養子に入った人が何人かいます
(嫡男に家督を譲っていった人と「当主」のまま他家に養子にいき両方の家督を見ていた人もいます)
また、一度他家に養子に入り子を作り 家督を子に譲って戻ってきた人もいます
昔は、親が他家に養子にいっても 子はいっしょに行くとは限りません。
あるいは、養子に入ったのち わが子に大野家以外の家督を継がすことも考えられます
直氏には子供が 詮直以外にも数人いたようです 


5 :呑舟:2007/08/22(水) 06:40:50 
美濃稲葉郡那加村 徳山ひさ氏所蔵の「土岐家伝系図」によると

肥田瀬の祖は直氏の兄、康貞(三河守)の子 満康(肥田瀬)となっている
のですが? 


6 :mino阿弥:2007/08/22(水) 14:57:09 
稲葉郡那加村西市場徳山ひさ氏所蔵本(東大史料編纂所蔵)は、「土岐家伝大系図」「土岐家伝系図」
「別本土岐家伝系図」があり、いずれも大正11年10月に謄写されています。
「土岐家伝大系図」には、直氏・康暦元年11月14日卒ー詮直・肥田瀬宮内少輔・応永6年9月船岡山被誅
直氏(文和2年6月9日討死)の兄と思われる康貞の子として満康(肥田瀬)とあります。
「土岐家伝系図」には、上記同様に頼世(五代守護頼忠)の兄弟として康貞がいて、その子として満康(肥田)、
直氏は卒年同じでそのあとは書かれていません。
「別本土岐家伝系図」には、直氏の卒年は同様ですが、あとが書かれていません。直氏の兄にあたると
思われる康貞の子として満康(肥田瀬)と書かれています。
「土岐家伝大系図」には、詮直がいますが、他の系図には記載がありません。
系図上のことですから、想像に過ぎませんが、「土岐家伝大系図」には、詮直は応永6年9月船岡山に
於いて被誅と書かれていますので、真偽のほどはわかりませんが、とにかく何らかの理由で卒去後、
肥田瀬の家督を満康が継承し肥田瀬となったのではないかとも思われます。
この系図書は、非常に詳しく貴重なものであると思いますが、土岐頼貞の母は、北条貞時女と
されており少しがっかりです。
大野氏は、無文元選禅師が開山した岐阜市椿洞の了義寺建立以前に、貞治元年(1362)に帰休庵(京都ではなく
岐阜ですが。後に妙徳寺となる)を大野六郎家冬の帰依により無文禅師の道場として開基しています。
伊予の大野氏かどうかわかりませんが、系図によれば始めは「完戸氏」となっています。
しかし、数百年以前に美濃人と伊予人の養子縁組があったということ自体、すごいことですね。
あらためて驚きました。 


7 :名無しの権兵衛:2007/08/22(水) 18:03:07 
土岐詮直は、応永の乱と土岐氏の内訌に合わせて関わり戦死しているようで、
満康が詮直戦死後その所領を獲得したようにも推測されます。
書き損じましたが文和2年6月9日卒は、満康の父康貞(土岐悪五郎三河守伊予守)であり、吉田河原(?)に於いて討死法名堅信とあります。 


8 :mino阿弥:2007/08/24(金) 11:36:18 
呑舟さま、愛媛でもおなじみですね。
明治大学ですか!校歌がすばらしいと思います。
また、芭蕉を最後まで看取った高弟のお名前と同じですね。
書き損ないましてたびたび、すみませんが。
土岐直氏は伊予守、宮内少輔、刑部大輔、尾州領主(知行尾張国)剃髪後信慶、
康暦2年11月14日卒でした。
土岐直氏が大野氏の養子となったというような所伝が残っているということは、
伊予は想像以上に、土岐氏にとって重要な所領であった可能性があると考えられます。
八代守護土岐成頼の大野氏[大野九郎次郎(綱直)]宛て書状もあり、土岐氏本宗家は、
その所以を知っていて大野氏に伊予に於ける所領の依頼をしたのかもしれません。
お手元の系図は、美濃と伊予をつなぐ重要なヒントを示唆しているのではないか
と思われます。 


9 :呑舟:2007/08/27(月) 01:52:48 
mimo阿弥さま ゆづきのほうではいつもお世話になっています。

大野系図によると大野(土居)直利の代に伊予の守護 土岐頼清は当国 荏原・林・久万を
分領としており、直利に男子がなかったので養子に貰い 大伴(大野の本姓)氏の家督を
継いだとあります。その子詮直は母直利の娘で宮内少輔、大野十郎左衛門尉とあり
細川頼有や今川弾正俊通の書状があります。

詮直の子義直は天授5年吉岡佐志久原で討死。

その後は弟 詮義が継ぎ

詮義の次ぎの直里の代において、永享4年6月20日(土岐)明正より
太田本郷及び久万を譲り受ける。

その次ぎの直鎮の代を経て繁直の代に京よりの帰りに暑さのため兵庫で卒。
その時讒言者ありて断絶する。

繁直の遺児通繁(河野通春烏帽子子)は縁に連なる土岐成頼が将軍義政への
とりなしにより太田土居城に迎えられ家名再興をすることが出来た。
この時将軍にお礼として料足20貫文を大平中務大丞にもたせ上京させている。

ご指摘の九郎次朗綱直(宇都宮教綱烏帽子子)は通繁の二男で成頼の書間は2通あることになっていますが
愛媛県編年史は7月20日分を載せています。
お家再興がなったため再度土岐成頼より安堵されたことになっています。
他に土岐光定の名もみえます。

これ以降は土岐家の名は出てこなくなります。 


10 :呑舟:2007/08/27(月) 01:58:04 

「直利に男子がなかったので養子に貰い」
直氏を養子に貰いで直氏が抜けていました。 


11 :呑舟:2007/08/27(月) 02:08:44 
直氏から綱直まで少なくても150年ありますので、その間は双方とも親族と
して認識していたことになります。 


12 :呑舟:2007/08/27(月) 02:25:40 
すいません。土岐政房の名も出てきます。
この人はあまり知らないのですが、どんな人ですかね? 


13 :mino阿弥:2007/08/27(月) 10:08:38 
呑舟さま
大野氏と土岐氏の関係を精査することが、伊予と美濃の中世における美濃の土岐氏
や河野氏との関係を明らかにする手がかりになると思います。
土岐光定は、「尊卑文脈」によれば、伊予(松山市東方町矢谷・興源寺)で卒している
ようで、土岐氏が美濃の守護となる以前から伊予と美濃は何らかのつながりが
あったと思われます。
土岐頼清は、足利尊氏が九州へ下る時、伊予に配されたようで頼清の子三代守護頼康
など土岐氏の本宗家にあたる人物も一時いたようです。
三代守護頼康のあとは、弟頼雄の子康行が四代守護となっています。
この揖斐(伊尾)頼雄系統が大徳寺文書にも見られる河野氏関係文書にも登場
しており土岐揖斐氏系統が伊予に深く関わっていると考えられます。
八代守護成頼は養子であり、のちに九代守護となった政房と弟にあたる元頼
との間の相続争い(舟田の乱)もあり、土岐氏は弱体化していきます。
政房の墓石も岐阜市茜部の廃寺跡に現存し、説明の看板もありますが、
墓の台石は割れ放置されており、なんとも哀れな状態です。
舟田の乱に勝利した守護代斎藤利国(政房の)は、近江六角氏を討伐に行き
逆に馬借の襲撃により全滅したようです。
斎藤利国戦死後、斎藤守護代家は衰退し、長井氏や斎藤道三の父であろう
長井氏が美濃を牛耳ることとなったようです。
また、斎藤道三は、その長井氏を討ち、国盗りということになったようです。

このあたりは、あまり興味がありませんので
特に伊予と美濃の関係を主に、できるかぎりお教え頂きたいと思います。

政房は、父である成頼と腹違いの元頼に舟田の乱で勝利し、成頼は出家、
元頼は石丸氏(元頼派で小守護代とも)とともに自害していますので、
成頼と伊予大野氏との関係は、ここで切れてしまったような感じがします。
土岐氏の伊予における所領も、その後どうなったのかわかりません。
おそらく大野氏が継承していったものと思われます。

岐阜県恵那市岩村町の大円寺(廃寺)開山の峰翁祖一(〜1357・北条時宗と
異父兄弟という所伝あり)が伊予で河野通朝開基の大通寺(旧北条市下難波)
を開山しています。
その法嗣大蟲宗岑(〜1362)は、宗昌寺(旧北条市八反地・正岡氏開基)、
またその法嗣月菴宗光(〜1389)は、最明寺(旧北条市上難波)を開山しています。
善応寺(旧北条市・河野通盛開基)は、美濃墨俣法蔵寺の住持でもあった
南山士雲(東福寺・円覚寺・建長寺などの住持)の門下正堂士雲が開山と
なっています。
南山士雲の師は、円爾弁円、峰翁祖一の師は南浦紹明であり、いずれの方も
禅宗史に名を留める名僧であり門下に多くの禅傑がおられます。
これらの名僧は、伊予河野氏の精神面の支えになったとも思われ、合わせて
今後の研究課題であると考えられます。

ではまた、何かとご教示くださいますようお願い申し上げ失礼致します。 

 
岐阜県揖斐郡大野町の相羽城のこと

1 :尋ね人:2007/04/02(月) 01:11:58 
相羽城の事で何でも良いので教えてください。斉藤道三とか関わった人や相羽城
の近くや城に使えていた人の子孫等教えてください。 


2 :事務局:2007/04/02(月) 09:36:12 
揖斐郡大野町で平成17年秋、柿の取り入れが忙しい中、土岐頼芸子孫のピアニスト深澤亮子さんと、
土岐頼芸に先祖が仕え、また土岐家からも姫を貰った河村家の子孫である桂三枝師匠に出演頂き、
美濃源氏フォーラムin大野町が開催されました。その折、揖斐地域の土岐氏史跡を紹介私用と、
各町の町史に残る土岐氏関連史跡を調査しましたが大野町が特に多く見受けられました。
神社仏閣の檀那として土岐氏が出てきますが、土岐氏から分派した苗字で出るものですから、
気づく人も少ないのでしょうし、地元の方々も知っている人は殆どないようです。
その中で、相羽城についてですが町史にも記録されていますし、相羽城址の碑が残されています。
中々雰囲気も良いですので、現地を訪問されるとよいでしょう。
尚、美濃源氏フォーラム大野町講座も5月20日(日)9時00分から総合町民センターにて始まりますので、
是非ご参加くださいませ(詳しくはこのホームページの平成19年度事業案内を参照ください)。 


3 :T・M:2007/08/07(火) 21:32:09 
佐々木9代秀義の子 定綱(10代)、経高、盛綱、高綱、義清と続く中で、
6男巌秀より、吉田、河内、今西、堀、角倉、辻、大石が出ています。
辻家は吉田豊方三男豊房の子秀清が祖で正秀、景秀と続きます。辻さんに「秀」の通字はありませんか? 


初陣への激励に御礼を言上申し上げる

1 :井澤 康樹:2007/08/02(木) 12:03:55 
このたびの瑞浪市長選挙に対して瑞浪市内は元より県内ばかりでなく、
岐阜県外からも多くのご声援や激励を賜りまして誠にありがとうございました。
昨年10月24日に記者会見にて立候補表明してから9ヶ月に及ぶ選挙戦でしたが、海千山千のツワモノ方々を相手に戦いました。
家内ばかりでなく長女長男次女三女達の家族一丸となれたことから、
地元の区の推薦が頂けましたし燐区も推薦やら支援にて援軍となりました。
ましてや小中学校から高校から、その他多くの友人達の献身的な御協力を賜り、
ふらふらになりながらも7月22日の投票日を迎えることが出来ました。
結果は、接戦とまではいかなくとも、自民党を離党し組織がない中での草の根選挙としての評価を頂きながらも、
力不足を認めざる終えないことが残念です。
今回の発端は、平成16年1月25日に行われた多治見・土岐・瑞浪・笠原の合併が不発にに終わった後、
その後の悲惨に市の経営状態を誰が建て直すのか、
この問題が出発点でありました。
今回から配布が許され、又公的資金にて作成ができたマニフェストにも、今出来る財政改革による政策を掲げ、
更に市民がそれ以上のサービスを望まれるなら、
土岐市との合併により可能であることを言及した次第です。
私の役目は果たして終わったものかどうか、多くの支援者の方々からご意見をお伺いし、
課題の整理と方向性を見つける所存ですので、皆様のご指導をお願い申し上げます。
直、選挙戦の最終に声帯を潰してしまい、昨日まで話をしようにも如何にもシワガレタ元気のない声らしく、
静養に務めて参りましたが、何とか普段の声に近づいたようでありますので、近々お礼とお詫びの行脚にお邪魔するつもりですので、
その間にご心配下さいましたこと心より御礼申しあげます。 


2 :呑舟:2007/08/03(金) 17:23:06 
お疲れ様でした。ゆっくり休んで又頑張ってください。
密かに応援していましたが残念でした。
この夏の選挙は変な風が吹きましたね。 


瑞浪市に井澤康樹あり

1 :Ryuko:2007/07/23(月) 04:29:12 
市長選挙、お疲れ様でした。「おめでとうございます」結果は残念でしたが、「おめでとう!」と言わせてください。
大勢の人たちとともにがんばって頑張ってガンバッタ選挙運動。瑞浪市に「井澤康樹あり」です。これからがスタート!
この掲示板訪問者の誰もが、瑞浪市長選挙に全国区があれば・・・と願ったことでしょう。
そして、美濃源氏フォーラムには、まだまだ『井澤康樹』が必要です。 


2 :T・M:2007/07/23(月) 07:14:30 
おはようございます。
昨日はお疲れさまでした。応援に行けず申訳ありませんでした。
美濃源氏フォーラム同様、今後も様々な角度から市政に貢献される事を期待しています。 


3 :mino阿弥:2007/07/23(月) 09:36:49 
井澤氏は、よく健闘されたと思います。しかし、今回は準備不足の感が否めません。人物的には真の市長です。
選挙のテクニックに敗れたと言っても過言ではありません。
次回は、ぜひ捲土重来を期して頂きたいと思います。「鳥は飛ばねばならぬ」(坂村真民さんの詩)。 


4 :himiko:2007/07/23(月) 11:03:22 
皆様方の、暖かいご声援ありがとうございました。午後10時30に結果が出ました。
。残念ですが結果を厳粛にうけとめ、将来に向けて新たな第一歩を踏み出しました。
今朝、伊澤康樹は投票日まで毎朝していたように、中央線瑞浪駅にて(私も同行しました)
昇降客の皆様に、お礼の言葉を云いながら頭を下げ続けました。約1時間、暖かい
言葉を何名かいただきました。本人も家族も少し落ち込みましたが、大丈夫です。
今後も、よろしくお願い申し上げます。伊澤泰樹の内緒で、ここに書き込みました。
もし許していただけなら。非会員の私も時々お邪魔したいと思います。 


5 :himiko:2007/07/23(月) 11:05:37 
また伊澤と井澤を間違えました。sorry 


6 :源臣:2007/07/23(月) 12:07:45 
井澤さん
お疲れ様でした。
まずはお体のために、一休みしてください。
いつの日か(近い将来)きっと瑞浪の空に、鷹が羽ばたく日がくる事を信じています。
いくさは終わったわけではありません。
始まったばかりです。
いつものように変わらず、熱い情熱を振りまいて、周りを元気にしてください。
ぼく等なんかにあまり構わず、地元、瑞浪の人たちをもっともっと、大切にしてください。
期待してます。 


7 :美濃林2:2007/07/23(月) 20:39:49 
おつかれさまでした。 


8 :總源:2007/07/26(木) 12:04:38 
井澤さん本当にお疲れ様でした。選挙中は、なにもお力になれず後悔しております。
遠い千葉の彼方からご当選を祈念しておりましたが残念でした。
しばらくご休養され、また、市民の幸福のため活動を再開してください。
井澤さんの活動は、永遠に不滅です。 


9 :imajou:2007/07/30(月) 16:16:34 
ご無沙汰しております。久し振りに来て見たら、何と。歴史に
詳しい異色の市長さんをと期待しておりましただけに残念です。
物事は考えようで、将来にとって良かったのかも知れません。
終戦直後の話ですが、或る候補者が「前々回は当選しながら、
前回は幸いにも落選し、お陰で追放を免れ、・・・」と語っていました。
次回には、お陰で今回は当選し、と言えることを、遠くより祈っております。 

  


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