過去ログ

トップへ
戻る
前へ
次へ

81〜90
81: 平成19年度事業計画発表 (2)
82: 小里氏について (39)
83: 瑞浪市長選に向けて (1)
84: 瑞浪市長選挙 (3)
85: 小里氏について (1)
86: 小里氏について (1)
87: 萬木さん (1)
88: 思うに。 (3)
89: 美濃源氏無礼講ライブ (1)
90: 沼田土岐氏に関連して (3)


平成19年度事業計画発表

1 :事務局:2007/03/31(土) 14:57:36 
平成19年度美濃源氏フォーラムの事業計画が完成しましたので、RYUKO様にお願いしてホームページにアップしていただきました。
今年度の総会にて、スタートから運営責任者をしてきた井澤氏から小倉氏へ交代することになっており、
今回の企画決定は東濃瑞浪講座・岐阜長良講座・揖斐大野講座・そして東京六本木講座の各事務局にて推敲され完成に漕ぎ着けました。
また、ご協力頂く講師陣にしましても速やかに決定し周知に入るべく胸襟を開いてお願いしたことに快諾賜り、
例年以上の内容となりましたので多くの方々のご参加をお待ち申し上げます。
尚、各会場の登録人数が講座の運営費と連動すべく進めて参りますのでご承知置き下さいませ。 


2 :shikibunomiya:2007/03/31(土) 15:14:27 
今日、事務局の方から、ご案内書いただきました。お手数おかけしました。早速
入会の手続きをさせて頂きたいと思います。御礼まで! 


小里氏について

1 名前:Ryuko 投稿日: 2005/03/06(日) 17:46:23 
昨年の『美濃源氏フォーラム in 九州』の折、別府の小里さんから千葉県の小里さんを紹介して頂いておりました。
本日ようやくお会いすることができました。千葉小里さんの古里は岐阜県大野町だそうです。大野町には小里姓の郡住地があり、
毎年大野町から瑞浪市小里の興徳寺に一族で法要に出かけていたそうです。今でも続いているかもしれませんが・・・
小里さんは平成12年の第二回土岐氏サミット、平成13年の興徳寺400年記念祭にも参加されています。
昨年より大野町で美濃源氏大野町歴史講座が開講されていることをお話ししますと、
大野町の小里氏についての研究も是非お願いしたいとのことでした。小里氏についての情報がありましたらお知らせください。 


2 名前:澤源 投稿日: 2005/03/07(月) 20:15:46 
揖斐郡大野町黒野が小里さんの群住地域です。その中で、美濃源氏フォーラムに入会して頂いている方もありますが、
江戸期以降の系図は一族の発起人が作成されたのですが、土岐氏の分流頃からが不明のようです。
尚、八幡神社が黒野にありますので昨年12月に参拝し拝見しましたが、土岐氏勧請の八幡神社かどうか
不明のままです。特に、大野町も土岐一族が多数派生致しましたので、2年前からの活動が少しづつ開花すれば良いと
思っています。 


3 名前:カツヤ 投稿日: 2005/05/12(木) 19:44:52 
Ryuko様、澤源様
小里氏について
この書き込みを、友人の小田さんを通じて拝見しました。
私は大野町出身で現在は岐阜市在住の小里活也66才です。
もともと家系に興味があり調査を時々していましたが、6年前から
美濃源氏フォーラムに参加して色々情報を得て楽しんで居ります。
今回墓誌を建碑するに当たり大野町の先祖の経緯も調べました。
黒野初代は1580年生まれ、小里忠衛門頼久と言う人物です。本家は其処から
15代の嘉彦さんです。其の前は瑞浪で小里初代からは19代目になる筈です。
清和天皇からですと、小里初代は土岐家の繋がりで8代守護土岐成頼の4男から
との事です。成頼が24代といわれておりますので、其れを信じれば嘉彦さんは
43代ということになります。
未だ不明の処もたくさんありますが、取り敢えずの調査結果をお知らせします。
カツヤ 


4 名前:Ryuko 投稿日: 2005/05/12(木) 23:31:45 
カツヤ様
貴重な情報をありがとうございました。
現在千葉県柏市にお住まいの小里様に早速お知らせ致します。
小里氏研究のページを作りたいと思いますので、ホームページ用の記事としてまとめていただけませんか? 


5 名前:澤源 投稿日: 2005/05/13(金) 09:19:04 
カツヤ様、いつも講座におこしいただきありがとうございます。
又、先日は法要の品にと「土岐源氏桔梗盃」と「バサラ武者陶人形」をお買い求め下さり、
重ねて御礼申し上げます。
さて、現在瑞浪市稲津町小里の興徳寺では寺史編纂が始まり、
いろいろの調査を進めてみえますが、ご住職も美濃源氏フォーラムの会員になって頂いておりますし、
その他地内には小里氏研究の大家もお見えになりまして、当地散策といろいろお話を聞かれれば、
ますます研究の幅が広がるのではと存じます。
そんな中、6月18日土曜日の第二回講座では15時30分より
前瑞浪市文化課学芸員の砂田先生による「岐阜県史跡土岐一族小里城発掘調査報告」の
美濃源氏土岐氏研究講座もありますので、当日は午前中小里めぐりで午後からは
たっぷりと美濃源氏土岐氏を中心とした美濃中世史をお楽しみくださいませ。
因みに、講座の会場は瑞浪市総合文化センターであります。 


6 名前:カツヤ 投稿日: 2005/05/14(土) 11:16:07 
Ryuko様澤源様ご連絡有難う御座います
小里氏のホームぺージ立ち上げに是非とも協力したいと思います
大野町黒野の小里姓は37世帯になります(電話帳による)
然し祖先に詳しい人は殆ど亡くなり現在は菩提寺光専寺の令室と本家くらい
でしょうか。此れを機会に調査する事が有ればお申し付け下さい
記録として子孫に残すべくがんばります 


7 名前:源臣 投稿日: 2005/05/14(土) 20:49:17 
カツヤ様、私は土岐会のものです。一族の大系図なるものに挑戦しております。
勿論未だ未完です。永遠に完成はしませんし、またしては困リますが、会員の方々の系図を
差し障りの無い程度に、ご本人の了承を得た上で系図に書き込ませて頂いております。
元頼系の小里氏は今のところ、成頼ー元頼ー頼連までしか判っておりません。差し支えなければ頼連の後を、
お教えいただけませんでしょうか。土岐会にも大分や千葉の小里さんがいらっしゃいます。
小里家譜が存在することが俊典先生の著書に書かれています。家譜には頼連の後嗣がどこまで記入されているのか?
家譜の存在が以前から大変気になっておりました。 


8 名前:カツヤ 投稿日: 2005/05/14(土) 22:08:06 
源臣様
ご投稿有難うございます
詳細を書くには、今energyが有りませんが、はしりだけ書いて見ます
頼連(小里初代)ー光忠-光明ー光直ー光親ー光重となります
黒野初代は光明次男光次ー光久次男光友ー頼久(黒野初代)となります
以後の詳細は又のご連絡とさせてください 


9 名前:澤源 投稿日: 2005/05/15(日) 09:20:12 
平成11年度、美濃源氏土岐氏研究講座にて瑞浪市稲津町小里在住の水野孝先生により
「江戸期小里城絵図発見-近世旗本小里氏之事」の研究発表があり、
小里氏に繋がる三系統の整理がなされています。
尚、大垣戸田藩に仕えた小里氏が近代に土岐に改姓され、
その家に1700年代初期に書かれた「小里城絵図」が残されていましたので、
愛知県在住の土岐さんより稲津町小里の興徳寺へ寄託され、現在管理されております。
然し、この話も土岐氏サミットを開催するために出した一通の手紙がキッカケで、
「私の家に、小里城の絵図があります」とのコメントを寄せて頂いた御陰でありました。
 尚、このHPの「全国の土岐一族の紹介」コーナーで、
小里城の絵図とか法要の記事が掲載されています。 


10 名前:源臣 投稿日: 2005/05/15(日) 21:20:57 
カツヤ様早速のご回答痛み入ります。
次回の折に、出来ましたら光久の嫡男をお教えいただけるとあり難いのですが。
早速書き加えさせていただきます。
お忙しい中お手数をお掛け致しました。有難うございます。 


11 名前:カツヤ 投稿日: 2005/05/16(月) 20:16:59 
源臣様
澤減様のおつしゃる様に、水野先生が一番詳しいと思います
但し黒野サイドまでは手が伸びていないかも知れません
ご質問の光久は32歳で本能寺で殉死して居り子息は居られ無かつた様です
代つて次男光友が後を継ぎますが嫡男光親ー光直親子に阻害されたのか(私見)
子息の頼久が瑞浪の小里から黒野へちっ居したと過去帳は伝えています
其のあたりの事実が解れば知りたいものです
以上ご報告と致します 


12 名前:カツヤ 投稿日: 2005/05/16(月) 20:46:43 
源臣様
報告を一部訂正します
先ず嫡男光親ー光直は間違いで光忠の次男が光明で相続が光直ー光親ー光重と
続きます、又光忠の嫡男が光次でその嫡男が光久で殉死次男が光友です、其の光友
の死別は不詳で嫡男頼久が黒野へちっ居、次男の流れは興徳寺に弔われていますから
すから瑞浪の小里で何かあつたと想像されます
以上訂正して報告します(澤源も間違えましたー御免なさい) 


13 名前:源臣 投稿日: 2005/05/16(月) 21:17:01 
カツヤ様有難うございます。
 光忠ー光明ー光直ー光親ー光重
    光明の兄が光次で、光次に光久(長男)と光友(次男)あり、光久に子が無く、
    次男の光友が継ぐ、そして光友ー頼久と続く。
スレッド上で系図が僕には描けませんが、以上の関係ですよね。
どうもありがとうございます。
光久は本能寺で殉死と言うことは、信長方だったのですね。   
頼久の蟄居の理由等が判明することを祈念します。 


14 名前:澤源 投稿日: 2005/05/17(火) 09:12:05 
現在、小里氏の系譜については光行より四代後裔に尾里国定が出てきます。
又、光行の子に小里刑部少輔あり、これに連なる系譜が「濃州小里記」です。
そして、光定の子である定親(土岐頼貞兄、江戸崎土岐源流)の孫に師実があり、
小里頼連−光忠となるのが、「美濃明細記時系図」です。
揖斐郡大野町黒野に伝わる系譜は、八代守護成頼の子、元房から頼連−光忠と続くものです。
また、大垣藩に仕えた小里政良は光親の子で、この系統の愛知県在住の土岐さんが
今回発見された小里城絵図を所持されていました。
この、小里家(現在は土岐)には先祖由緒書があり、
一部は水野孝先生の講義時にレジュメとして発表されております。 


15 名前:源臣 投稿日: 2005/05/17(火) 15:15:22 
澤源様、成頼の子は元頼ですよねえ、元房と言う人もいるのでしょうか?定親系の頼連と
成頼系の頼連は時代が違いますから、同名異人のようですねえ。
岐阜でお目にかかった小里城絵図をお持ちの土岐さんは、光親の子政良の系統でしたか。
講義録の刊行が進めば、いずれこの系統も加筆できますねえ。
一日も早く刊行出来ますことを、江戸の空より首を長くしてお待ち申し上げて居ります。 


16 名前:カツヤ 投稿日: 2005/05/17(火) 19:15:42 
澤源様、源臣様
追加情報を提供致します
黒野小里本家の資料に因れば、光親の嫡男は光重で彼は20歳で病没し此処で
長子相続が断絶し小里家没落となつて居ります
然し光親には六男が居り、次男宣政、三男政衆、四男松千代、五男無名、六男
政郎となつて居ります
次男の後裔には松本市長で有名な頼永氏が居られます
三男は「寛政重修諸家譜」に五代が記載されているようです
六男は「大垣十万石」に政郎以下七代頼綱までが記載されています
以上報告と致します 


17 名前:澤源 投稿日: 2005/05/17(火) 19:26:32 
平成11年度美濃源氏土岐氏研究講座講義録並びに資料集までは既に刊行されています。
又、小里城絵図も今まで小さなサイズでしか発表しておりませんでしたが、
瑞浪市の文化課の判断でA4サイズの資料提供をしたものですから、
現在岐阜県発行の「岐阜県中世城館分布調査報告書第3集中濃・東濃編」に
カラーで紹介されています。
瑞浪市稲津町小里の財産として保管し、
資料使用も一々小里の興徳寺さんまで問い合せすることにより、
広く小里一族について広げたいと発掘者としては考えていたのですが・・・・。
ですから、A4ならばカラーコピーして誰でも引用されることになってしまいました。
ゥー、残念。 


18 名前:ori-fa@jcom.home.ne.jp 投稿日: 2005/06/09(木) 12:50:03 
カツヤ様 小里頼久は光友の子で光友は彦次郎と名乗った ある時助右衛門と争いになり長期間戦ったが、
助右衛門が森右近と戦っているすきに行方不明にんった 
光友の行方は不明だが頼久は尾張大納言の命により大野町に移り住んだとの事です 助右衛門とは光明のことです 


19 名前:澤源 投稿日: 2005/06/10(金) 09:55:50 
小里−ファ様
従来、頼久が蟄居となったことが漠然としていましたが、尾張大納言の命にてとの事。
このあたりの顛末が、関ヶ原合戦との関係になるのでしょうねぇー。
資料とか、伝承とかあれば詳しく御教授くださいませ。 


20 名前:葉源 投稿日: 2005/06/11(土) 00:03:16 
澤源様 光友が行方不明になったのは文禄元年ないし二年 関ヶ原の戦いは六、七後です 
光明に反旗を翻したのですたたから小里に戻れなくなり尾張大納言に相談したとゆう事かなあ 
関ヶ原の戦いとの関係かもしれません 何か根拠があればいいのですが 光友の墓とか・・ 澤源様教えて下さい
 なお光友の経緯は濃州小里紀に書いてあります 


21 名前:カツヤ 投稿日: 2005/06/11(土) 10:12:55 
ori-fa様
連絡有難うございます、すると矢張り光明と光友は相続をめぐる骨肉の争いだつ
った訳ですね。光明は光友の父嫡男光次の弟ですから当然と思います。
知りたいのは光次の墓所、光友の終焉の地あたりですね。光次の没年は1582年で嫡男光久
が本能寺で戦死したのと同年、光友は27歳頼久は二歳でした。 


22 名前:Ryuko 投稿日: 2006/02/13(月) 19:02:25 
ori-fa様

昨日は、源秀がお世話になりました。ori-fa様に対等に戦えるようになるまでは、相当がんばらなければと言っておりました。
小里のスレッドは健在ですよ。時々、訪問してください。 


23 名前:delete 投稿日: delete 
delete 


24 名前:小里 投稿日: 2006/05/24(水) 11:59:26 
小里は母方の家で家は直系です!!ひいひいひいじいちゃんが小里鉄次郎という方です 


25 名前:澤源 投稿日: 2006/05/24(水) 13:09:59 
小里さま、訪問ありがとうございました。
お母様の小里家と、そのご先祖の鉄次郎様とのことですが、お住まいはどこなのでしょぅか?
現在岐阜県揖斐郡大野町黒野には多くの小里さんがお住まいですが、
それ以外の郡住地域か関心を持っていますので、是非お知らせ下さいませ。
尚、明治期に小里姓から土岐姓に復された方で、
大垣の戸田藩に仕えた家から貴重な絵図面が出ており、
何気なく「捨てちゃおうかな?」なんてものが、資料として大切な物であったりしますから、
どうか、歴史解明のためにも「ひいひいひいじいちゃん」家にもお伝え下さいませ。 


26 名前:delete 投稿日: delete 
delete 


27 名前:広元 投稿日: 2006/07/25(火) 18:58:01 
小里氏について、少し補足させてください。
まず、光次についてですが、彼が亡くなったのは元亀3年12月の「上村合戦」の
ときです。このとき、遠山景行(宗宿)も同じく戦死しています。光次の妻は、
『濃州小里記』に遠山与助の妹となっていますので、年齢的に景行は光次の岳
父となります。このときの遠山与助は景行の長男景玄なのですが、明智町流に
いえば、遠山景玄→母方おついで三宅弥平次→明智秀満となります。『濃州小
里記』には、「本能寺の変」の際、銃弾に倒れた光久(光次の嫡男)を抱え困っ
ていた家臣を助けたのは秀満とありますから、この縁戚関係は間違いないと思
います。
もうひとつ、頼連と光忠の関係ですが、親子ではないと思われます。その根拠
のひとつは、文亀3年(1502)3月に明智頼典(成頼の3男頼尚の長男で光秀の祖父)
が弥十郎頼房という人物を攻め殺しているからです。このため、頼典は父から
義絶され、弟の頼明が明智本家を継ぎます。
弥十郎というのは、小里氏の当主の名前ですから、年代的に頼連の可能性が極
めて高いと判断しています。
光忠が頼連の子でないとすれば、誰の子なのか、という問題ですが、素直に考
えれば遠山景行(明智光安)の弟ということだろうと思います。その次男の小里
光明(和田助右衛門)が明智次右衛門となりますが、明智町と違ってこれを受け
入れるにはなお時間が必要なように見受けられます。 


28 名前:小里 投稿日: 2006/08/13(日) 14:12:28 
僕の祖父は僕の生まれる前に死んでしまい、また祖父の兄弟の男子も早死にしてしまいました!
残った男子はキョウヘイといい僕の親戚に当たります!現在奈良に住んでいるはずです!
また家は本家なので黒野の小里の菩提寺の近くに大きな屋敷がありましたが、これも又僕の生まれる前に
廃墟となり現在駐車場になっています!祖父の妹に当たるおばが3年前まで岐阜に住んでいましたが現在は神戸に住んでいます 


29 名前:源臣 投稿日: 2006/08/13(日) 21:22:39 
8/13日投稿の小里様へ
奈良在住の大叔父キョウヘイ様と神戸の大叔母様に、
お目にかっかって小里家のお話をお聞きになられることを、お進めします。
大切な情報に巡りあえるかも知れません。
貴方にとっての貴重な小里家の情報を収集し、それを纏めて身近なご親戚に伝えていく、
それが貴方に与えられた役割かもしれません。
余計なことを申し上げてしまいました。
小生も昔、初対面の大叔父を訪ねて行き、貴重な情報に巡り合った経験を持ちます。
今は一族のことを少しずつ、興味を持ち始めた甥達に、話し聞かせています。 


30 名前:澤源 投稿日: 2006/08/14(月) 13:39:06 
小里さま、岐阜市のmino阿弥氏のご教示で東大史料編纂所の資料の中で「小里氏」を見つけました。
東大史料編纂所のホームページにアクセスし、横断検索にて土岐珠生家一族の「珠生」で探すと、
伝記が出てきますが、その中の小里氏について研究余地がありそうです。
九州に渡った小里氏にて、現在でも“おり”とか“おざと”などと言われる方々が残っています。 


31 名前:小里 投稿日: 2006/09/01(金) 23:15:56 
キョウヘイはまだ20位の若者ですので、しかも歴史には縁の無い方なので僕の方が知っているくらいです(笑)
ちなみに僕は今高2です。神戸の叔母には一年に1回は会っていろんな話を聞いています!!
とても興味深い話ばかりです!!とても勉強になります!!でもとても残念な事に、現在嫡流にあたるのが
母なのですが、女子の為家督を継ぐことが出来ません。僕が父方の長男でなければ小里家を継ぎたいのですが、これも定めでしょうか?
とても無念です!!ちなみに僕の苗字は小山です!!小山とはどのような歴史があるのかとても興味があるのですが
調べることが出来ません(泣)(どうやって調べれば良いのかわからなくて・・・)
あの名門おやま氏ならいいのですが、家はこやま氏ですので漢字は一緒でもやはり読みが
違うとなると全く違うのでしょうか?(脱線してすみません)
え〜・・・とにかく、小里氏のために掲示板を立ててもらい恐縮です。
これからも小里を末永く宜しくお願い致します!!
また来ます!!! 


32 名前:shikibunomiya 投稿日: 2007/03/09(金) 20:37:28 
私の父方の祖母は小里寿恵というそうです。叔母に聞くところによりますと
岐阜瑞浪の小里城の出ということらしいのですが、私にはこういうことの知識があまりありません、
この度、娘の結婚を機に土岐一族のことを色々調べているうちに
このサイトを見つけました。色々、教えていただきたいのですが・・・
一応、谷口研語先生の美濃・土岐一族という本は購入して、手元にはあるのですが・・・・・ 


33 名前:関係者 投稿日: 2007/03/12(月) 21:46:57 
小里氏の発祥は岐阜県瑞浪市小里なり。現在、興徳寺が菩提寺となっているので、訪問されるべし。
地元の郷土史家で水野先生と可知先生が著名。その他、江戸時代に大垣戸田藩に仕えた小里氏が、
その後土岐氏に名を改め、その家から小里城の絵図が発見された。又、揖斐郡大野町黒野に小里姓が群生され、
一族の系図を作成している。美濃源氏フォーラムの会員で、小里さんが5名程登録済みなので、
平成19年度から美濃源氏フォーラムに入会し、岐阜長良講座か揖斐大野講座に参加されれば、
小里さん達との交流も深まり、解明に近づくと思われる。 


34 名前:shikibunomiya 投稿日: 2007/03/13(火) 20:04:24 
関係者さま
早々にアドバイスを頂いて有難うございます。美濃源氏フォーラムに是非入会
したいのですが、また、揖斐大野講座というのにも是非参加したいのですが・・・・ 


35 名前:関係者 投稿日: 2007/03/13(火) 21:58:02 
美濃源氏フォーラムは4会場にて開催されますので、主たる会場を1つ決定し、
登録すれば、4会場を廻って聴講出来ます。
因みに、平成19年度計画が決定しておりますので、早々に掲示板にアップする予定です。
尚、お住まいは岐阜県の近郊でしょうか、市町村名で構いませんが、どちらでしょうか?

事務局から案内を出しますので、メールかファクスにてご住所と電話番号をお知らせ頂き、お申込の程宜しくお願い申し上げます。
メールアドレスは、この掲示板にあるメール先で結構です。 
  36 名前:delete 投稿日: delete 
  delete 
  37 名前:delete 投稿日: delete 
  delete 
38 名前:Ryuko 投稿日: 2007/03/15(木) 01:55:47 
Shikibunomiya様、書き込みを削除させていただきましたが、平成19年度美濃源氏フォーラムのご案内を差し上げますので、
しばらく、お待ち下さい。 


39 名前:shikibunomiya 投稿日: 2007/03/15(木) 18:41:07 
有難うございます!私も書き込みをしたものの、住所、氏名とかはっきり書いてしまいましたのですごく気に掛けておりました
ご配慮有難うございます。 


瑞浪市長選に向けて

1 :多治見の友:2007/03/09(金) 21:50:27 
君ならできる、君こそできる、君がやらねばだれがやる。 


瑞浪市長選挙

1 名前:井澤康樹 投稿日: 2006/10/28(土) 00:20:51 
私儀、井澤康樹が平成19年7月に満期を迎える瑞浪市長選挙に出馬する意向を固め、
去る10月24日瑞浪商工会議所において記者会見を行いました。つきましては、
美濃源氏フォーラムの活動は東濃瑞浪事務局と岐阜長良大野事務局と東京六本木事務局にて対応頂くことになりましたし、
全体の運営についても小倉運営幹事補佐にお願いすることになりましたので、皆様何卒宜しくお願い申し上げます。
尚、瑞浪市の人口は約4万2千人で一般会計予算145億でして、地場産業であった陶磁器がバブル崩壊後三分の一となり、
又平成16年1月25日の多治見市・土岐市・瑞浪市・笠原町の三市一町の合併意向調査にて約65%の反対から失敗に終わってから、
正に閉塞した状況です。美濃源氏フォーラムにて16年間文化活動に携わってまいりましたが、
危急存亡の折残りの人生の10年を土岐氏発祥地のために懸けてみることとしましたので、
ご理解を賜りますよう宜しくお願い申し上げます。政治的発言を繰り返すのはよくありませんので、
この掲示板での書き込みは唯一これのみと致します。 


2 名前:T・M 投稿日: 2006/10/28(土) 13:44:55 
井澤康樹様 
土岐氏発祥の地「瑞浪市」発展のため今後の大いなる飛躍とご活躍を期待しています。 


3 名前:多治見の友 投稿日: 2007/03/09(金) 21:47:13 
君ならできる、君こそできる、君がやらねばだれがやる、 


小里氏について

1 :shikibunomiya:2007/03/09(金) 20:26:07 
初めて書き込みさせて頂きます。私の父方の母の名前は小里寿恵といいます。
岐阜瑞浪の小里城の出と叔母から聞いていますが、何から調べていいのかわからず、このサイトを偶然見つけました。
何か参考になるようなことがあればどなたか教えて頂ければうれしいのですが・・・・・・・ 


小里氏について

1 :名無しの権兵衛:2007/03/09(金) 20:24:57 
初めて書き込みさせて頂きます。私の父方の母の名前は小里寿恵といいます。
岐阜瑞浪の小里城の出と叔母から聞いていますが、何から調べていいのかわからず、このサイトを偶然見つけました。
何か参考になるようなことがあればどなたか教えて頂ければうれしいのですが・・・・・・・ 


萬木さん

1 :Ryuko:2007/02/12(月) 20:59:11 
昨日、川越市立美術館に行きました。
ふくやま美術館の特別展をやっており、特別展の講演をやるというので、参加しましたら、
ふくやま美術館副館長、萬木さんの講演でした。よろぎさんと読むそうです。
美濃源氏フォーラムの話をして、千葉県に萬木城があることを伝えましたら、
ご本人も萬木という苗字が珍しいため調べられているようで、夷隅にありますねと答えられました。 

  
思うに。

1 :源章:2006/12/11(月) 00:33:45 
土岐一族でリカンベントと言う自転車に乗ってるのは私だけでしょう。
妻子、友人からは総すかん。近所からも賛否両論。寝そべって乗るんですがやっぱし恥ずかしいんでサングラスして乗ってます。
この前は170キロ走りました。こんな書き込みでも良いでしょうか。 


2 :澤源:2006/12/17(日) 23:44:10 
源章さま、リカンベントをインターネットで献策しましたら、びっくりしました。
こんな自転車で170Kmもよく走れたものですね。敬服します。
私も、来年は自転車に乗ってみようかな。減量だけでなく、運動のために。 


3 :源章:2007/02/08(木) 00:44:02 
2月現在、積算で2.500キロ乗りました。次の土岐会にゃ乗っていきましょうかね。
去年の4月に購入しまして10月までは体重は返って増えましたがしのご4キロほど減りました。
次は携帯できるとトレンクル6500を買って輪行しようと思いますがこれが高価で。
従兄弟が「あんたは競輪、競馬、賭け事やら無いんだから買いなよ」と言ってくれますが。 


美濃源氏無礼講ライブ

1 :澤源:2007/01/27(土) 07:19:34 
3月4日(日)に【美濃源氏無礼講ライブ】を開催致します。
これは、メジャーアーティストの土岐英史率いるメンバーをお呼びし、
ジャズ&フュージョンを楽しんでもらうものですが、
THE BREAK´OUT(無礼講)が土岐一族の歴史に因むものであり、
婆娑羅に続き美濃源氏の地から再び日本中に「無礼講」を広めて参ります。
尚、岩村城女太鼓の演奏がありますし、演劇ビデオの「美濃源氏伝説」も放映しますので、
楽しい一時を過ごして貰えると思いますので、どうか皆様瑞浪へお越し下さいませ。
その他、Ryuko様に詳細をホームページに掲載賜りたく、何卒宜しくお願い申し上げます。 


沼田土岐氏に関連して

1 :北信濃:2007/01/03(水) 18:16:31 
我が家には桔梗紋の柄付大鏡があります。
4代前の友蔵さんが江戸後期、杜氏として沼田に在住し、金融業も営んでいたようです。
明治維新の頃、沼田を引き払い北信濃へ戻りました。その際、沼田の殿様からいただいたという品々を持ち帰りました。
刀剣や鎧などあったようです。残念ながら土蔵破りや戦中供出で残っていません。少し前に土蔵から出てきた和鏡の文様をみて、
先の伝え聞いた沼田の殿様とつながることから、沼田の殿様とご先祖のつながりが少しでも分かればと書き込みました。 


2 :源臣:2007/01/03(水) 22:15:46 
北信濃様
投稿ありがとうございます。
北信濃様のご年齢にもよりますが、
沼田大名家で4代前と言いますと、12代頼知(よりおき)の時代かと思われます。
藩主就任月日は慶応3年4月16日、退任年月日は明治2年6月20日です。
その前の11代は頼之です。
貴重な情報をありがとうございます。
折を見て、桔梗紋の和鏡を拝見させていただけたらと思います。
どうぞ大切に保存頂きますようお願い申し上げます。 


3 :北信濃:2007/01/04(木) 19:52:34 
早速のご回答ありがとうございます。
6代友蔵の生没は1836-1910(天保6−明治42)で、酒蔵2軒で修行し、
1863(文久3)から吾妻郡布施村原沢蔵と1869(明治2)から利根郡月夜野町住田蔵で杜氏となっています。
参考までにその祖父源八も同様に1772-1780(安永)の間、吾妻郡大戸村加部家の杜氏でした。
桔梗紋の和鏡は柄付で径24cm、1.5cm程度の小さな細桔梗紋を幾何学的にちりばめた地の中央に12cm位の桔梗紋を鋳出しています。
鏡師の銘は「津田薩摩守藤原家重」とあります。勝手ながら江戸後期の製作と考えております。 




トップへ
戻る
前へ
次へ