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91〜100
91: 「神武東征」の原像 (1)
92: 土岐市原氏と禅体寺 (1)
93: 土岐流 金森氏について (3)
94: 土岐気良氏 (3)
95: 頼芸の室 (3)
96: 中村仁右衛門の子孫いませんか? (9)
97: 土岐植村氏 (5)
98: 明智氏と織田氏、本能寺で対談 (11)
99: 美濃源氏フォーラム2006 (2)
100: お墓 (3)

「神武東征」の原像

1 名前:mino阿弥 投稿日: 2006/11/11(土) 10:24:58 
(「神武東征」の原像)(宝賀寿男氏著・嘉悦大学教授・青垣出版)が出版されました。
新羅王家の朴氏は稲永に始まる系譜とし、瓢公は、もと倭人であって瓢箪を腰に下げて海を渡ってきたので瓢公と名づけられた。
また文中「姓氏録」右京皇別の記事の解釈では「稲飯命は新良国に出掛けていって国主となり、
また稲飯命は新羅国に出て(新羅国の)王の祖と婚姻を結んだという意味になろう」という佐伯有清氏の解釈の紹介もあります。
宝賀氏は、「瓢公が、もとは北九州出身の倭人であったとすると稲飯命の後身であった可能性をかなり思わせる」と述べられています。
驚嘆すべきことが記述され、歴史認識がまったく変わってしまうような大変おもしろく、すばらしい著作であると思います。
ご紹介まで。 


土岐市原氏と禅体寺

1 名前:T・M 投稿日: 2006/10/14(土) 22:33:25 
昨年 岐阜県内の市原氏の調査で瑞浪市市原の禅体寺近くの墓地を訪れたましたが、その時
京極氏家臣 上坂氏、遠藤氏の名を見つけました。遠藤さんの家紋は郡上遠藤氏の家紋亀甲に唐花と同じと記憶しています。
郡上遠藤氏は千葉東氏につながる流れといわれていますが、
この墓地から感じるには、ひょっとすると信長暗殺を進言した江北浅井氏家臣須川遠藤氏の流れかもしれないと思うのです。
この地の遠藤氏の系図がわかると「功名が辻」お千代さんの「近江説」 「郡上説」のなぞが解けるかもしれません? 


土岐流 金森氏について

1 名前:T・M 投稿日: 2006/10/05(木) 00:09:11 
インターネット検索によれば、清和源氏土岐氏流金森氏は、土岐成頼の二男大桑定頼の子大畑定近という者が、
近江国野洲郡金森に住んで、金森采女を称したのにはじまるという。
 定近の子に政近・長近・政秀の三兄弟があり、政近のあとを受けて長近が金森氏の家督を継いだ。
戦国大名として頭角を現わすのは。この長近の代からである。とあります。桔梗紋のほか梅鉢紋も使用しています。
金森(現滋賀県守山市)は当時近江守護佐々木六角氏の支配下に置かれ、
江東の7手組旗頭、三上、落合、伊庭、三井、池田、馬渕、目賀多などの武将達とも深い交流があったと思われます。
なぜ梅鉢紋を使用したのか?。なぜ金森の地に移住したのか(六角の家臣として??)その理由をご存じないでしょうか? 


2 名前:月窓居士 投稿日: 2006/10/08(日) 14:43:12 
「寛政重修諸家譜」には
美濃の守護職土岐美濃守成頼が二男兵部少輔定頼、美濃國山県郡大桑に
住し、大桑氏を称す。後、同國土岐郡多治見郷大畑村に移住する。
その男大畑七右衛門定近、近江国野州郡金ヶ森に移り、その在所名を
とって、金森を称し采女と改める。金森長近の父なりとある。
定頼が船田合戦にて中立を守って動かなかった為、政房は弟定頼を
大桑から多治見郷大畑村に転封した。
その子大畑七右衛門定近は政頼・頼芸兄弟の争いでは政頼に味方するも
斎藤道三に擁せられた頼芸が勝利し、定近は一家郎党を引き連れて不破郡
垂井の長屋景教を頼ったが次第に道三の手が伸びてきたので、近江へと
非難し野州郡金ヶ森に移住する事となる。
この地は堅田とともに一向宗の根拠地で道場主道西が建てた善立寺は
要塞化した城郭寺院で門徒や僧侶(堅田衆)に守られて門前町を形成し
近江商人らによって繁盛していたようである。
一説に定近は浪人から商人に転進し、伊吹山に産する薬草を手掛けて
再起に備えていた。
一説にこの地で絶対的権力を持った道西に取り入って地頭、代官、
或いは家老的存在だったとある。 


3 名前:T・M 投稿日: 2006/10/08(日) 20:41:19 
月窓居士 様 御教示ありがとうございました。
伊吹山は京極氏舘上平寺城跡があり、揖斐郡春日村とは国見峠で経済圏がつながっていたようです。
昨年からこの一帯における土岐、佐々木氏の関わりを調査中です。
佐々木定綱五男佐々木広定流堀部氏より中世の医学者として名高い曲直瀬道三(まなせどうさん 1507〜1594)が出ているようです。
一説に道西に取り入ってとありますが、出典を教えていただけたらと思います。よろしくお願いいたします。 


土岐気良氏

1 名前:T・M 投稿日: 2006/09/05(火) 22:50:50 
昭和12年「郷土研究社」発行の「地方発達史と其の人物」上巻『郡上郡の部』48ページ
元村長『佐藤氏」の紹介欄に
「君の家は気良の郷名を冠して、代々、興左衛門を襲名し気良興左衛門と称して、
代々庄屋を勤め来た家柄、君の至って22代と言う」とあります。 
初代以来、現在もこの地にお住まいです。土岐気良氏の可能性がありますが、家紋は土岐桔梗ではなかった気がします。
。再確認します。 


2 名前:澤源 投稿日: 2006/09/11(月) 10:40:41 
T・M様、土岐気良氏について御提言ありがとうございました。
早速、電話帳にて「気良氏」を探してみましたが、現在の所みつかりません。
佐藤氏ま前に気良氏であったとすれば、どの時点で改姓したのか、
系図上でもよいので研究が進まれたらご教授下さいませ。 


3 名前:T・M 投稿日: 2006/10/04(水) 23:34:48 
澤源様
土岐気良氏について現在調査中です。研究が進みましたら御報告させていただきます。
1)郡上市八幡町美山に桔梗紋の畑佐さんがみえます。菩提寺 願蓮寺(八幡町)
2)郡上市白鳥町野添にも桔梗紋の羽土さんがみえます。菩提寺 円徳寺(白鳥町) 


頼芸の室

1 名前:号安入道 投稿日: 2006/06/24(土) 00:30:24 
私の先祖は大桑城落城の時に土岐頼芸の室と女の子を匿ったという言い伝えがあります。
奥様が持っていた、お守りは代々受け継がれています。
金色の糸で戦勝の神、毘沙門天が織り込んであります。 


2 名前:澤源 投稿日: 2006/06/24(土) 00:47:47 
大変貴重な品をお持ちと、感嘆とております。私の以前勤務した会社の社長が国枝氏で、
殿様から拝領した手鏡と土岐鷹を一幅お持ちと聞いたことがありまして、谷汲に生家がありました。
近々、公開願えましたら有り難く存じますので、何卒詳しくご教授下さいませ。 


3 名前:T・M 投稿日: 2006/10/02(月) 17:22:32 
号安入道様  佐々木哲先生によれば
近江源氏 佐々木六角氏と美濃土岐氏の重縁は慈光院殿以来のものであり、このことはよく知られている。
それにもかかわらず、土岐氏の仇敵斎藤氏と縁組をすることは言語道断である。
また朝倉・織田・遠山と三方に敵を抱えている斎藤氏では当家の助けとはならない。
むしろ越前朝倉氏との関係を重視すべきである。
 このように承禎が強く説いているのは、土岐頼芸が当時近江で亡命生活中であり、頼芸は承禎の妹婿であり、
承禎も頼芸の妹婿(再婚)だったからである。(佐々木哲学校 佐々木義治の項)とあります。
金色の糸で戦勝の神、毘沙門天が織り込んであるお守りには 
四つ目紋等 佐々木六角氏の出を思わせるものは残されているでしょうか? 


中村仁右衛門の子孫いませんか?

1 名前:中村喜三郎 投稿日: 2006/06/07(水) 21:09:49 
私の先祖は土岐舟木氏族です。
舟木左馬介光春の弟中村仁右衛門尉光長と言われております。
中村光長は蒲生氏郷の侍大将として5000石を領していました。
私の家は、光長の嫡男喜三郎の系統ですが、光長の直系ではありま
せん。直系は次男の系統で、代々仁右衛門の名を継いできたようで
す。私の家も代々喜三郎を継いできました。
他に、又蔵という兄弟もおり、また、従兄弟も中村掃部助というも
のがおります。また、光長の兄の舟木光春も、一時期、蒲生氏に仕
えており、中村姓を名乗っています。
舟木氏の直系も中村氏の直系も現存しております。
この中村氏の子孫や縁者の方いませんか?
もし、いらしたら、先祖について情報交換しましょう。 


2 名前:源臣 投稿日: 2006/06/08(木) 21:44:46 
喜三郎様
私は、中村氏の子孫では有りませんが、土岐一族の端くれです。
ご存知かと思いますが、船木姓の集落が山梨県の小菅村にあります。
数十件の船木さんが今も暮らしています。
数年前に森林ボランティアで小菅村へお手伝いに行った時、
偶然このことを知り驚き、かつ感激したものです。
その時、船木一族のことを調べました。そのメモを今見ておりますが、
メモによると、(喜三郎様には既にご存知のことと思いますが)
光春の弟は光教となっており、
光教には正教、九右衛門(堀内)、光長(中村仁右衛門)の3人の子が居ります。
また、中村掃部助は光春の父・光経の2番目の弟、信光(中村掃部助)となっております。

船木家は頼貞の弟・頼重の系と頼貞の子・頼衡の系、それに定親のひ孫・頼胤の系統の
3系統があるようですが、その辺りのことについて、
もし詳しくお分かりになっていたら、お教え頂けませんでしょうか? 


3 名前:名無しの権兵衛 投稿日: 2006/06/09(金) 14:57:20 
系図では舟木頼重の子孫が南朝に属していたため伊勢北畠氏の重臣となり、嫡流
として続いております。しかし、ところどころで、舟木一族間で養子が行ったり
来たりし、また、土岐宗家からも何度も奥さんがきているので、どの系統が嫡流
でとか、分けることができなくなっているのかもしれません。また書類を見直し
てみます。
山梨の船木さんのことはあまりよく知りませんでした。
「船木」ではなく、「舟木」が正しいようです。
系図では、光経の男子は7人くらい居て、光春や光教や光長の名前は確かにあり
ます。しかし、伊勢の北畠国司没後あたりから、中村光長が一族の中でも台頭し
てきて、豊臣時代、伊勢に蒲生氏郷が封されてからは、惣領の光春も中村光春を
名乗り、また掃部助頼氏も中村姓となったようです。系図では、信光は掃部助の
親です。信光は光経の弟です。このころの舟木一族の主なものはそろって中村姓
を名乗り、蒲生家臣となって会津まで行っていたようです。うちの先祖喜三郎は
会津に残りました。舟木の惣領となった光春の子正光は氏郷没後、伊勢に帰って
帰農したようです。今も伊勢に嫡流が残っておりますが、大変なご高齢です。
山梨の船木さんのご先祖として考えられるのは、舟木一族の中に、武田家や上杉
家を頼って伊勢を出たものがいるらしいこと、また、一族は大変な人数がいます
から、中には関が原で石田三成に属したものなどもおり、そのうちのどれかが山
梨に土着していてもまったくおかしくないと思います。
その他、余談ですが、京極氏の家臣となった舟木や幕臣となった舟木もおり、堀
内氏は紀州徳川家の家臣となったり、中村家は嫡流が伊勢山田奉行の同心となり、
その子孫からは大岡越前と一緒に江戸にいったものもいたり、うちのように蒲生
家断絶後に呉服問屋になってから、下級ですが再度武士となって、ついでに戊辰
戦争でもめちゃくちゃになった家もあるので、もう、なにがなにやら、犬の血統
のほうがよっぽど正確に思われます。 


4 名前:喜三郎 投稿日: 2006/06/09(金) 14:59:02 
すみません。↑の文は喜三郎です。 


5 名前:澤源 投稿日: 2006/06/15(木) 10:47:34 
舟木氏の情報ありがとうございます。
香川県と山梨県にて従来はお聞きすることもありましたので、
今後の展開を期待して待っている者の、一人です。
尚、岐阜県本巣市糸貫の十七条城の舟木氏のその後をも注目しており、
ケミックの林さんと、美濃での行脚をしております。 


6 名前:中村喜三郎 投稿日: 2006/06/18(日) 02:25:18 
舟木氏の研究をしてくださっている方に参考まで、
舟木氏の家紋は、伊勢の嫡流は定紋が丸に土岐桔梗で替紋は三階菱。
会津の舟木氏は光春の後裔で江戸時代は会津田島の庄屋職で、定紋が三階菱で替紋は丸に土岐桔梗。
光長の後裔の中村家の嫡流の家紋は、丸に一つ角隅立紋と釘抜き。
中村光長嫡男の系統の我家は、定紋が丸に剣カタバミで替紋が丸に土岐桔梗。
他に中村家の分家筋で分かっているのは、丸に違い鷹の羽や三階菱。
土岐舟木氏族の家紋の場合、土岐桔梗のほかに、わりかし三階菱という家紋が、特徴みたいですね。 


7 名前:喜三郎 投稿日: 2006/08/25(金) 20:05:40 
少し調査の成果があったので、書きます。

光春の子孫は、分かっているもので大きく三つの流れがあって、
舟木宗家(分家多し)、会津舟木家、中村三郎右衛門家(中村
大蔵家ともいい、中村喜三郎家から猶子を迎え、祖としている)。

光長の子孫は、分かっているもので、大きく四つの流れがあって、
中村喜三郎家(後に二つの流れとなって、一つが中村三郎右衛門
家の名跡を継ぐ)、中村仁右衛門家(後に三つの流れになり、そ
のうちの一つが中村又蔵家の名跡を継ぐ)、中村又蔵家、中村次郎
右衛門家(堀内家の名跡を継いだ跡、中村姓に)。

光教の子孫は大きく分けて、二つあり、
井上家(幕命で藤原姓に)、堀内九右衛門家(次郎右衛門家に替わ
って堀内家の名跡を継ぐ)。 


8 名前:森の梟 投稿日: 2006/09/10(日) 03:16:17 
舟木氏族のことをいろいろ調査・研究されておられるのですね。ご苦労様です。
舟木家の家紋のことについて
伊勢の舟木氏の家紋は、定紋が「中丸に土岐桔梗」 替え紋が「石持地抜き三階菱」と言うそうです。
それから、中村仁右衛門光長は「群書系図部集」にも光経の子で光春の兄弟として
載っています。
中村光長は、北畠氏家臣で伊勢一志郡久米城の城主でした。1584年の小牧の役にて秀吉の味方し、伊勢松ヶ島城攻めの
案内を務めたといいます。後に蒲生氏郷に仕え、七手組 次席組長になり五千石を賜ります(蒲生家支配帖に記載あり) 


9 名前:喜三郎 投稿日: 2006/09/14(木) 15:37:57 
森の梟様、

情報、有難うございます。

舟木氏族の別スレで教えていただきました中村掃部助頼氏の子孫は、どのように
お調べになったのか、お教えいただければ、幸いです。
調べたくても、どうやって調べたらよいのか、どんな資料を参照されたのかと、
驚き、関心いたしております。
また、中村仁右衛門光長の子孫の情報についても、森の梟様の調査力ならば、私よ
りもずっと詳しい調査が出来るのではないかと尊敬申し上げますので、もし、お調
べいただけるのでありましたら、どうか、よろしくお願いいたします。 


土岐植村氏

1 名前:澤源 投稿日: 2006/08/02(水) 22:07:10 
本日、私の瑞浪小学校・中学校の同級生の川瀬女史から情報があり、
娘さんの友達で植村さんと言う方があり、本人が土岐植村氏との情報を頂きました。
室町幕府第五代美濃守護の土岐頼忠以後の系譜に出てくる植村氏ですが、
本人からお聞きする方は始めてでしたので、ワクワクしています。
三河に住んで以後の資料を頂きましたが、菩提寺を含めて更なる情報をお待ちしています。
尚、鎌倉在住とのことですので、
建長寺様・鎌倉学フォーラム様・アースデザイン様・団塊サミット野口様を含めて、
またまた御縁が頂けそうであります。
かくなる上は、岐阜県東濃地方も鎌倉に負けじと、小鎌倉(こかまくら)を目指そうかな。 


2 名前:源臣 投稿日: 2006/08/03(木) 20:16:21 
ご存知かと思いますが、
土岐植村家の墓地は東京の品川区大井町に有ります。
如来寺と言いまして、以前は芝車町にあったものです。
車町と言うのは現在は有りません。
忠臣蔵で有名な泉岳寺の筋向いにありました。
港区史によりますと明治37年か41年ごろ、
品川に移転したようです。
その後大正12年に下谷(浅草の近く)から移転して来た養玉院と合併し、
「帰命山養玉院如来寺」となっています。大名家の立派な墓地です。 


3 名前:澤源 投稿日: 2006/08/04(金) 02:09:10 
スーパーマンWを源臣さん主演でプロデュースしようかな。 


4 名前:澤源 投稿日: 2006/08/04(金) 23:03:53 
只今、川瀬親娘ちゃんから問い合わせがあり、植村さんはなかなかの研究者とのこと。
是非、今後「土岐植村氏の解明−三河に栄えた植村一族の活躍」として表願えたらとお話しました。
この掲示板への投稿を、イクちゃん待ってますよ。 


5 名前:T・M 投稿日: 2006/09/10(日) 19:25:35 
土岐気良氏の可能性のある郡上市明宝気良の佐藤家の家紋は井に橘のようです。郡上市内に佐藤姓は235前後あります。 


明智氏と織田氏、本能寺で対談

1 名前:Ryuko 投稿日: 2004/06/17(木) 08:15 
6月17日、テレビ朝日スーパーモーニングにて、9時頃より、
明智光秀の末裔と織田信長の末裔の方が本能寺で対談された様子が放映されます。 


2 名前:源臣 投稿日: 2004/06/17(木) 14:51 
テレビ朝日拝見しました。明智氏と面会したくなりませんか?どうしましょう。
作戦を練りたいと思いますのでご協力ください。 


3 名前:Ryuko 投稿日: 2004/06/17(木) 17:47 
本能寺でお二人が握手されたシーンから鳥肌でした。しばらく足もガクガク・・・・総源さん、あの時みたいでした。
是非、明智氏に会いたいですね。なかなか立派な方でした。テレビ朝日では末裔シリーズを企画されていて、
希望の対談をお寄せくださいとの呼びかけがありましたね。
頼芸ジュニア(もしくは殿様)と斎藤道三の末裔という企画を提案してはいかがでしょうか?
明智氏対談シリーズ第二弾は、ガラシャ夫人の末裔との企画も・・・・ 


4 名前:日本史板住人 投稿日: 2004/06/25(金) 03:24 
突然の書きこみすみません。最近話題の織田信和さんは「織田家宗家」や「柏原織田家宗家」を名乗られていますが
どういった経緯でお名乗りになられているんでしょうか?
「織田家宗家」と言えば旧天童藩の御当主が、旧柏原織田家も現御当主の信孝さんがそれぞれご健在ですよね?
また織田信和さんのご先祖だとされる宗敦住職は、柏原藩主織田信親公の実子ではないようですが。 


5 名前:Ryuko 投稿日: 2004/06/25(金) 09:44 
日本史板住人様
「織田信和」で検索されると、NEWSで取り上げられている記事や、信和氏のHPもありまますので、ご参照ください。 


6 名前:日本史板住人 投稿日: 2004/06/25(金) 21:52 
こんばんは、レスありがとうございます。検索したのですが信和さんのホームページは見つかりませんでした。
信和さんのお父上の信成さんのインタビュー記事を見つけました。
http://www.tokyo-np.co.jp/hatena/20040521.html
ここに掲載されている系図ですと、信成さんの祖父の宗敦住職は柏原藩主の織田信親の子供となっています。
しかしながら、宗敦の実父は織田家家老の津田頼道ではないでしょうか?
またそう見寺の住職は、代々柏原藩主の養子となっていますが、これは家を継がせるための養子ではなく、形の上での養子縁組です。
また宗家を名乗られる根拠として「明治維新期の混乱が原因で、現在、どの家系を宗家とするのか、
家系の消息がどうなっているか、はっきりしない。」
との見解ですが、柏原藩主織田家は明治維新後、華族となり代々子爵の爵位を継がれており、
家系の混乱は生じていませんし消息もはっきりしています。
御当主は信親以降、信大(信親の実子)、信和(上記の信和さんとは別人です)、信孝さん(現御当主、柏原織田宗家)と続いています。 


7 名前:日本史板住人 投稿日: 2004/06/25(金) 22:01 
信和さんとご面識のある方もいらっしゃる様ですが、宗家を名乗られるご事情などお聞きされていますでしょうか? 


8 名前:宝善院 投稿日: 2004/06/26(土) 18:15 
日本史板住人さんへ
織田信和さんから、「織田宗家」と自己紹介を受けました。
織田信和さんが、家系図上宗家で無い可能性は高いと思われます。
どうして、「織田宗家」を名乗るようになったのかは聞いておりませんが、「織田信長の築き上げた安土文化を継承し、
後世に伝承して行く者」として、自分自身を「宗家」であると認識していると聞いたことがあります。
織田家
しかし、「織田宗家」を名乗ってよいのか否かについては、織田さん自身からは聞いていません。
私の個人的意見から言わせていただければ、「宗家」を名乗るべきでは無いと思います。
織田家(柏原藩)の家系図を拝見いたしますと、織田信貞様までは血族のようですが、
以降、信敬様、信民様、信親様まで養子縁組となっており、織田信長の血族が、藩主にはなっていません。
養子に入られた藩主が、織田家にとって、外孫の方であれば、血族でつたえられている事にはなりますが。 


9 名前:宝善院 投稿日: 2004/06/27(日) 00:14 
日本史板住人さんへ
総見寺住職であった宗敦さんが、津田家出身との事ですが、織田信長の甥や兄弟の中には、津田姓を名乗っている人が多く、
宗敦さんは、織田信長の子孫では無いかもしれませんが、織田信長を輩出した「織田家一族」の子孫であると思います。
忘れていましたが、織田信和さんもそのような事を言っておられたように記憶しています。
従って、「織田信長の築き上げた安土文化を継承し、後世に残す」と言う役割を、
織田一族の一人として担いたいと言う気持ちから、「宗家」を標榜しているのかもしれません。 


10 名前:日本史板住人 投稿日: 2004/06/27(日) 02:43 
こんばんは、レスありがとうございます。
津田家についてですが、ご存知のように織田家の分家の者に津田姓を名乗る者が多く、徳川と松平の関係に似ていますね。
柏原藩家老の津田家は、織田信長の孫高長の子頼房に始まる家です。頼房と子孫の頼道に血の繋がりがあるのかについては知りません。
略系図 織田信長−信雄−高長−津田頼房…頼房−宗敦
津田頼道の跡は他家から向かえた養子がついでいます。宗敦住職(頼道の子)は僧籍にあり実子は居なかったのではないでしょうか。
しかし織田信成さんが公表されていますとおり、宗敦住職のお孫さんなら、信長の子孫ではあると思われます。

今回の織田さんと明智さんのご対面のニュースに関して、掲示板2chのニュース速報+板にスレッドが立ちました。
【社会】本能寺にて、「織田信長」子孫と「明智光秀」子孫が対面し和解
http://news13.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1087285414/
現在はdat落ちしてしまっており、閲覧できないかもしれませんが、ここでログが保存されています。
【社会】本能寺にて、「織田信長」子孫と「明智光秀」子孫が対面し和解

http://mimizun.com/cgi/dattohtml.pl?
http://mimizun.com:81/log/2ch/newsplus/news13.2ch.net/newsplus/kako/1087/10872/1087285414.dat

レス番号921に、織田信孝さんの書きこみが見られます。
信成さんのインタビューを見なおしてみますと、信成さん親子は以前は織田姓ではなく、
おそらく「信」の付くお名前でもなかったのではと推測するのですが。

明智憲三郎さんは「明智家の流れをくむ」と書かれてますが、
織田さんも「織田家の流れをくむ」と名乗るわけにはいかなかったのかなと思いました。 


美濃源氏フォーラム2006

1 名前:澤源 投稿日: 2006/08/13(日) 10:00:21 
いよいよ8月19日日曜日15時30分〜18時まで、松山市道後温泉の道後公民館で、
第16回美濃源氏フォーラム2006四国伊予が開催されますので、松山市近郊ばかりでなく、
関心のあられる方の御参加、心よりお待ち申し上げます。
内容は下記の通りですが、ヨダレが出るほどの内容です。

 @石野弥栄氏 「南北朝末期の河野氏と土岐氏について」
 A井澤康樹氏 「土岐氏の発祥と伊予守」
 B豊田いずみ氏「尊卑分脈における土岐氏と河野氏の関わり」
 C林正啓氏  「美濃における伊予河野氏の伝承」
 D土居敬之介氏 「伊豫土岐氏の謎」
 E渡部一義氏 「仏教から見た河野氏と美濃の交流」

  尚、石野弥栄氏は河野氏居城であった「湯築城」のなかにある、
 湯築城資料館の館長で、美濃源氏フォーラム土岐氏研究講座にも
 御登壇いただいた先生ですし、スピーカーは美濃源氏フォーラムと
 文化財フォーラム愛媛の関係者ですので、お楽しみに。 


2 名前:澤源 投稿日: 2006/08/18(金) 04:30:57 
さあ、これから出立するぞ、台風も逃げてゆくから。 


お墓

1 名前:土岐ョ一 投稿日: 2006/08/05(土) 21:52:56 
東京駒込養源寺にありました当家の墓なくなりました。 


2 名前:土岐ョ一 投稿日: 2006/08/05(土) 22:11:27 
当家都合によりお墓を京都府八幡市移しました
養源寺にありました先祖代々の墓は養源寺さんの方にお願いし
円福寺霊園に新設となりました、参って頂いた方ありがとうございました。 


3 名前:澤源 投稿日: 2006/08/06(日) 00:34:23 
頼一さま、ご掲示ありがとうございました。以前、源臣さんの案内でryukoさんと公子さんと一緒に訪ねたことがあります。
次は、円福寺霊園におじゃまさせて頂きましょう。 



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