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111〜120
111: いいとこやよ中津川 (2)
112: 平成18年度事業計画完了 (2)
113: 春日局の虚像と実像 (2)
114: 源頼政の太刀を土岐氏が献上 (2)
115: 苗木遠山史料館で歴史学習講座が始まります (6)
116: 禅蔵寺屋根崩壊 (1)
117: 「名字と日本人」竹光誠著 (2)
118: 光憲殿見えてきました (1)
119: 土岐探検隊明智光憲氏と面談 (14)
120: 美濃源氏フォーラム東京支部総会と忘年会の報告 (1)


いいとこやよ中津川
1 名前:Ryuko 投稿日: 2006/04/06(木) 03:14:35 
遠山氏を研究されている方で、当会会員のケペル氏のHPが開設され、相互リンクさせていただきました。
中津川を中心に東美濃の見どころ、博物館、歴史資料館などの情報満載の楽しいHPです。
特に、岐阜県インターネット放送局にリンクしている『ビデオで見る中津川』はお勧めです。 

   http://www.d1.dion.ne.jp/~ktakadoi/ 


2 名前:澤源 投稿日: 2006/04/07(金) 00:04:36 
美濃源氏フォーラム会員のケベル様、リンクのお申込ありがとうございました。
つきましては、中津川市苗木遠山資料館調査員の千早保之先生(元岐阜県立高等学校校長)に御登壇頂き、
「遠山氏の系譜−土岐・岩村、そして苗木」の土岐氏研究講座にて発表頂きますので、
中津川の皆様にも宜しくお伝え頂き、多数のご来場をお待ち申し上げます。 


平成18年度事業計画完了

1 名前:澤源 投稿日: 2006/04/03(月) 18:22:24 
いよいよ、美濃源氏フォーラムを開講できる運びとなりました。
今年は、新たに【東京六本木講座】もスタートしますが、「土岐氏累代歴史講座」は3年間継続予定ですし、
毎回のゲスト講師も素晴らしい方による「美濃源氏歴史講座」としてご登壇頂けることになりました。
その他、【東濃瑞浪講座】では【岐阜長良講座】と日替わりで「土岐一族と武士団講座」が新設しますし、
【武家文化講座】も新たにそれぞれ始まります。
当然14年目を迎える【土岐氏研究講座】にも関東から富山県から講師に来て頂くことになりました。
また、4年目となる【揖斐大野講座】では、「美濃中世歴史講座」と「竹中半兵衛講座」がスタートします。
特に、杉山茂大野町長のご意向もあり、ことわざとして有名な「知らぬ顔の半兵衛を決め込む」の主人公が竹中半衛兵であり、
忍耐心と共に謙虚さを身につけるべく、一年間情報発信する予定です。
つきましては、年会費の改正を行い、従来は五千円となっていましたが、年会費千円と講座受講料五千円とさせて頂きます。
いよいよ、関東地区でも開始ですので、
今まで参加出来なかった会員各位には十二分にお楽しみ頂けるものと存じますので宜しくお願い申し上げます。
尚、東京六本木講座は35名限定ですし、揖斐大野講座は70名とさせて頂きますが、
なんとか定員一杯として講師をお招きさせて頂きたく、ご友人にも紹介して頂きなるべく早めの登録をお願い申し上げます。
その他、平成18年度事業案内はまもなくRYUKO様により掲示されるかと存じますので、少々お待ち下さいませ。 


2 名前:澤源 投稿日: 2006/04/04(火) 13:31:27 
RYUKO様、早速事業案内を掲載していただき有り難うございました。
なお、4月16日にラピロス六本木にて岐阜県県人会が行われるとのことですので、
PRタイムを検討してみようと思います。 


春日局の虚像と実像

1 名前:Ryuko 投稿日: 2006/03/16(木) 22:47:52 
六本木ぎふ倶楽部のカルチャー講座で、「春日局の虚像と実像」と題しての講演会があります。
講師は、大垣市教育委員会市史編纂室長清水進氏です。
聴講ご希望の方は、ラピロス六本木ぎふ倶楽部(TEL:03-5771-5221)にお問合せください。
3月23日(木)18:30〜20:00
3月24日(金)13:30〜15:00
ラピロス六本木は、JR六本木駅3番出口すぐ上にあります。
美濃源氏フォーラム東京講座は、このラピロス六本木にて6月17日(土)より、開講致します。
お楽しみに! 


2 名前:澤源 投稿日: 2006/03/17(金) 08:51:23 
平成18年度は、東京六本木講座を開設し、いよいよ関東地区の方々に受講いただけることになりますので、
お楽しみ頂きたいと存じます。つきましては、その会場を岐阜県東京事務所六本木センターのサロンをお借りする事となり、
関係者の方々に熱く感謝申し上げます。
尚、すでに岐阜県事業にて「春日の局」についての講演があるとのことですが、講師の清水進先生とは面識があるものですから、
RYUKO様におかれましては、宜しくお伝えいただきますようお願い申し上げます。 


源頼政の太刀を土岐氏が献上

1 名前:澤源 投稿日: 2006/01/15(日) 18:07:39 
 光文社1月30日付け発刊の「フラッシュ」に、
『坂上田村麻呂から織田信長まで、武将が愛した日本の名刀31』の
特集記事が掲載されました。
その中の、源頼政の太刀について紹介します。
 黒漆太刀(号獅子王)重要文化財
“源三位入道頼政とて、また歌人として知られる源頼政。
鵺(ぬえ=物の怪)を弓で射抜き退治した褒美として、頼政が近衛天皇から与えられたという御刀。
63歳になってからようやく昇殿した頼政は、この大太刀を佩いて、平家打倒に出陣したが、
企ては失敗し、自刃する。
土岐氏が守り、幕末を経て明治天皇に献上された。【東京国立博物館蔵】”

 瑞浪市と関市には、源頼政に関する伝承が多く残されていますが、
今回のことから「さもありなん」という感想です。
問題は、何故土岐氏が代々所蔵したのか、
若しくはいつ頃どういう過程で入手し、
恐らく沼田藩主からの献上と思われますが、
その経緯について解明できると、
皇室における土岐氏の位置づけについて、
素晴らしいのではと、今年の「初夢」としたいと思います。
情報をお待ち申し上げます。 


2 名前:delete 投稿日: delete 
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苗木遠山史料館で歴史学習講座が始まります

1 名前:ケペル 投稿日: 2006/01/11(水) 01:50:13 
 日々、苗木遠山氏の研究をいたしております。貴フォーラムにおいても
遠山氏をお取り扱いいただきありがとうございます。
 2万回アクセス記念での、中津川の苗木氏研究関係者とは私のことでしょうか。
実は、古樹紀之房間の「西美濃の武将」等を投稿したktakも私でございます。

 ところで、本年から苗木遠山史料館では歴史学習講座を始めます。一応市民の方を
対象としています。ご興味のある方は、史料館にお問い合わせください。
 なお、詳細については中津川市の公式ホームページ内の広報なかつがわからはいって、
博物館だよりをご覧ください。
 行く行くは、貴フォーラムをキャッチアップしうる内容と成果を期待しております。
そのためには、外部の研究者の協力を賜りたく、皆様方のご指導をお願いいたします。 


2 名前:澤源 投稿日: 2006/01/11(水) 09:01:30 
ケベル様
苗木遠山資料館での講座案内、ありがとうございました。
早速、平成18年度の情報提供に入れて頂くように致します。
尚、岐阜県立高等学校の校長を最後に退職され、
現在この資料館に在勤されます千早様が、
随分と研究をまとめられておりますので、
今年度の美濃源氏フォーラム講師の一人として
お願い致したく存じております。
昨年末の谷口研語先生の最終講座で「苗木遠山氏と岩村遠山氏」が
予定されていましたが、急遽変更になりました。
苗木遠山資料館からも見学に来て頂きましたので、
申し訳なかった次第ですが、本年いよいよご当地よりの登壇となります。 


3 名前:delete 投稿日: delete 
delete 


4 名前:mino阿弥 投稿日: 2006/01/11(水) 10:56:17 
デジタル岩村町史は、秀逸な内容だと思いますが遠山氏菩提寺とされる大円寺は、その後廃寺となり跡形もないのでしようか?
南浦紹明の法弟峰翁祖一、大虫宋岑、月菴宋光などの高僧が伊予河野郷に大通寺、宗昌寺を開山しています。
大円寺の高僧達が伊予河野氏の禅文化と精神面の支えとなったようですが、遠山氏との関わりなど、
何か史料や伝承は残っておりませんでしょうか?
特に峰翁祖一は北条時宗と異父兄弟とされ北条氏と遠山氏の関わりもうかがうことができるような気がします。
中世、大円寺の高僧達が、はるばる伊予に渡り河野氏に多大な影響を与えたかと思うと、歴史の不思議としか言いようがありません。 


5 名前:国士無双 投稿日: 2006/01/11(水) 20:46:28 
承久の変の後、北条氏の宮方についた遠山氏に恩賞として恵那郡の地頭職が与えられたのではないか、
そして、臨済宗を喧伝するため御家人達を通して各郡に拠点を増やしていったのではないか、
鎌倉建長寺末となってはいないのか、研究発表を期待しています。 


6 名前:mino阿弥 投稿日: 2006/01/12(木) 11:33:52 
国士無双様、コメントありがとうございます。
デジタル岩村町史には(「美濃国諸家系譜」の加藤氏及び遠山氏の系図は誤謬の頗る多いものであるが暗示に富み参考とすべき点もある)
と書かれています。
また私は単なる趣味で歴史に興味を持っているだけですがインタ−ネットがこれだけ普及したということで、
より一層歴史研究も情報交換ができるのではないかと思います。
「美濃国諸家系譜」も簡単には入手できない情報ですが東大史料編纂所のデータ公開により誰でも見ることができるようになり
大変な進歩であろうと思います。しかし、その変化に人間が追いついていないような気がします。
相変わらず一部の研究者や郷土史家と称する人達は閉鎖的な考えに固執し、
「お前ら素人にはわからないだろう」として人を見下すような姿勢をとる方もあります。
しかし史料が、ほとんど埋もれた状態では情報の横への展開や広範囲に物事を見る視点が必要であろうと思います。
歴史の教科書には書かれていない郷土史と郷土史をつなぐ歴史研究のグローバル化を図ることであり、
早期になんらかのシステムを構築することが望まれます。ところで昨晩、
NHKの教育テレビの視点論点に谷口研語先生が出演されていました。
犬年にちなんでのお話で大変おもしろく拝聴しました。ハラハラして聞いていましたがトチリもなくよかったと思います。
谷口先生のメジャーデビュー元年の年になればと期待しております。 

  
禅蔵寺屋根崩壊

1 名前:澤源 投稿日: 2006/01/07(土) 11:31:43 
 1月3日夜、禅蔵寺の屋根が崩壊したと連絡があり、翌日お見舞いに上がりました。
土岐正道住職のお話では、12月30日11時頃突如大音響とともに崩れ落ちたとのことでしたが、
その境内では弟さんと息子さん、その孫の全員で6名が雪掻きと正月の準備をしていたところ、
約15メートル程離れていただけの近距離でした。
 問題は、室町幕府美濃守護代五代土岐頼忠・六代頼益の菩提寺であり、寺宝の延命地蔵は鎌倉末期で、
土岐の鷹絵を始め多くの文化財もあり、特に頼忠と頼益の供養塔である宝筺印塔は岐阜県史跡となっています。
然し、元々が鎌倉建長寺を開いた蘭渓道隆の孫弟子で、千葉一族の覚源(平心処斎)を開山にして興った寺であり、
本山の下には末寺が多くあったのですが、現在ではその本寺と塔頭の関係はなく、又檀家の無い寺ですので、
果たして修復が可能かどうか、住職は頭を抱えている所でした。
幸い、地元の新聞社がどこで聞きつけたか分かりませんが、見舞いに上がっているところに取材にみえたものですから、
翌日の岐阜県版の一番見出しでトップ記事となっています。
 今後、檀家ではない近隣の信徒の方々とともに対策委員会が設置されるとは思いますが、
何れにしても本堂の屋根全体修復でも何千万円でしょうし、本堂作り替えは1億円を遙かに超えるでしょうし、
今回最低限の修復でも数百万円となりましょうから、大変な道のりであることは間違いないでしょう。
 まずは、第1弾の報告としますが、デジタルカメラで写真を撮ってきましたら、
早速Ryuko様が特別記事にしていただきましたので、ホームページの「美濃源氏NEWS」を是非御覧下さいませ。 


「名字と日本人」竹光誠著

1 名前:mino阿弥 投稿日: 2005/12/15(木) 08:50:58 
「名字と日本人」(先祖からのメッセージ)竹光誠著(文春新書・定価660円+税)最近読んだ本ですが、大変勉強になりました。
もし読んでおられないのであればお勧めします。 


2 名前:mino阿弥 投稿日: 2005/12/15(木) 08:52:46 
間違えました。竹光→武光でした 


光憲殿見えてきました

1 名前:mino阿弥 投稿日: 2005/12/13(火) 13:11:10 
「美濃国諸家系譜」によれば、林光家(工藤四郎藤原家継三男、母は三浦為継女。
林貞光の養子)の娘(母は三浦義継女)は左馬守源義朝の妾となり悪源太義平の母。三浦大介平義明の養女となる。
悪源太義平の忘れ形見源頼平の後裔山岸長山遠江守は美濃二代守護土岐頼遠の婿養子となり土岐明智氏の祖となる。
代々天皇家を守護し奉る源氏の嫡流として明智光秀は、信長を討つ必然性があった。自由に空想できる歴史研究は楽しいですね。 


土岐探検隊明智光憲氏と面談

1 名前:源臣 投稿日: 2005/03/16(水) 15:18:50 
光憲様ありがとうございました。昨日美濃源氏ゆかりの「ぎふ倶楽部」
にて新源、公姫、Ryuko、と私めの4人で光憲様にお話しを伺いました。
光秀の子、於寉丸と明田理右エ門・鉄太郎を結ぶ一本の能管が
明治11年に名門明智姓の復活の基をなし今日の光憲様に繋がります。
現在「本能寺の変」の真相究明に力を注がれ、長宗我部元親と石谷氏の関係など、
新視点からの分析・検討には思わず首肯させられる説得力のあるお話しでした。
上梓される日が一日も早く来ることを・・・と願ったのは源臣のみにあらず、
探検隊のメンバー全員の思いでした。 


2 名前:澤源 投稿日: 2005/03/16(水) 20:46:50 
光憲様、そして源臣様を始めとし新源・公姫・Ryukoの皆様、有意義なお話しのようで羨ましい限りです。
その中で、長宗我部氏との関わりで、石谷氏のことについては沼田の土岐文書にも散見されるとのこと。
新展開を心待ちにしておりますが、その中で「明田氏」について触れてみえますので、
早速全国の「明田姓」について調査終わりましたので、機会があれば光憲様のご意見を伺ってみたく存じます。 


3 名前:Ryuko 投稿日: 2005/03/16(水) 21:22:38 
光憲様との会談は、ご子孫ならではの迫力ある「本能寺の変」前後の考察には、その説得力と迫力に感動しました。
美濃源氏フォーラム東京講座は「本能寺の変に迫る」からスタートでいかがでしょうか?大変興味深い会談でした。
また、六本木のラピロスにある「ぎふ倶楽部」は、一歩足を踏み入れるとそこは岐阜、
親切な応対と「松浦軒のかすていら」の味わい、なつかしい緑の山々が目に浮かんで来ました。皆様、ありがとうございました。 


4 名前:光憲 投稿日: 2005/03/16(水) 22:45:53 
源臣様 新源様 公姫様 Ryuko様
 こちらこそ長時間お話をお聞きくださり大変ありがとうございました。また
いろいろ情報もいただきありがとうございます。とにかく今は自説の出版まで
早く到達することがご先祖から与えられた使命と思い、全力を投入しておりま
す。(といっても、サラリーマンと二束のわらじで思うように時間が取れませんが。)
 出版できた暁には是非ゆっくりと皆様と「明智光秀桔梗盃」で一献よろしく
お願いいたします。なお、まだ未確定ですが、講談社より「本能寺の変の真実」
と題して、お話した私の推理を世に問いたいと謀議を進めております。
 お話した他にもいろいろな歴史の新解釈に至ったのですが、子孫として一番
うれしかったのは、愛宕百韻についての新解釈であり、「四百年を隔てて、
確かにあなたの子孫がメッセージを受け取りました」とご先祖様に言えるという
感激を時空を越えて味わっています。
 これも織田信長ご子孫の織田信和様と図らずも昨年お会いしたことからはじま
っており、ご先祖様たちのお導きであったと見えざる力を感じております。 


5 名前:光憲 投稿日: 2005/03/17(木) 22:02:14 
Ryuko様
 本日永井先生の「明智光秀」を受け取りました。早速お送りいただき大変あ
りがとうございました。本掲示板をお借りして御礼申し上げます。早速目を通
しましたが、大変よく研究されており大いに参考になるものと思います。少し
お時間をいただいて精読させていただきますので、しばし拝借をよろしくお願
いいたします。
 それにしても永井先生は会社勤めと二足のわらじとのこと。ここまで本格的に
研究されて本を書かれていることには感服いたします。あなたも見習ってもう
一息がんばってみなさいと発破をかけられた思いがします。 


6 名前:Ryuko 投稿日: 2005/03/17(木) 22:38:10 
光憲様
「明智光秀」の本から、そのように前向きなメッセージを受け取ってくださったこと、たいへん嬉しく思いました。
いずれ永井先生とも会う機会があると思います。皆で「光秀に親しむ会」を開きたいですね。
「本能寺の変の真実」の出版、楽しみにしております。 


7 名前:光憲 投稿日: 2005/11/17(木) 23:09:33 
 長らくご無沙汰しておりましたが一筆啓上させていただきます。
 昨年6月の織田家ご子孫との和睦以来、本能寺の変についての私の仮説の
裏付け研究を本格的に行ってきました。その結果、従来の歴史研究では見逃
されてきた様々な事実の発見とそれに基づく推理の展開が自分の期待以上に
ありました。この成果を本にまとめて広く世に問いたいと執筆を行ってきま
したが、何分サラリーマン生活の傍らでの活動のため出版に至るまでにはまだまだ
時間がかかりそうな状況です。
 そこで、この掲示板をお借りして、少しづつ私の研究成果をお話して皆様
からのご批判や関連する情報をいただきたいと思い立ちました。
 今回は私の推理の根幹を成すとも言える「光秀はまぎれもない土岐明智氏である」
というお話です。
 これについては谷口研語先生が「美濃・土岐一族」(新人物往来社)や「俊英
明智光秀」(学習研究社)に書かれた研究成果が極めて明解に立証しています。
沼田藩に伝わる土岐文書及び続群書類従本明智系図がその裏付けとなっています。
 それによれば光秀の父は光隆、祖父は頼典で、頼典は父親の頼尚から義絶され、
家督は弟の頼明へ譲られています。この頼明の孫の定政は明智姓を避けて母方の
姓を名乗っていたが家康の命により土岐姓に復姓して沼田藩主家につながったとの
ことです。したがって現在土岐氏を名乗られている方の中には本来明智姓を名乗る
べき方がかなりおられるということになります。
 谷口先生の書だけでなく、当時の人が書いた日記にも光秀が土岐氏であったことを
書いたものがあります。立入宗継は日記に「光秀は美濃国住人ときの随分衆」と書い
ています。つまり土岐氏のかなり身分の高い人ということです。
 ところが谷口先生はここで大きな問題を提起しています。それは明智系図の明智氏
の系統が明智と名の付く土地を領有した事実がない、ということです。これは通説と
なっている「光秀は明智城の城主の子供であり、明智城が落城した際に逃れて諸国を
放浪した」という話と合わないからです。したがって、明智系図は後世になって光秀
の系統を継ぎ足したものではないかと谷口先生は推理しています。
 ここからは私のオリジナルの推理です。
 実は「光秀は明智城の城主の子供であり、明智城が落城した際に逃れて諸国を
放浪した」という話は江戸中期に書かれた「明智軍記」というはなはだいかがわしい
書物が初めて書いた話です。本能寺の変から120年もたって書かれた書物に新たな
事実が書かれることがありえるでしょうか?ましてや「明智軍記」を読んでいただけ
ればたちどころにわかりますが、これは歴史的な事実を書こうとした歴史書ではなく
良く言えば庶民受けする物語、悪く言えば与太話です。最近話題の「信長の棺」で
題材とされている太田牛一の書いた「信長公記」のような歴史記録とは全くレベルの
違うものです。
 つまり光秀が明智城に居たという話の信憑性は全く無く、明智系図に書かれている
通り「光秀は明智荘を領有したことのない土岐明智氏の系統」であることが真実と
見るべきなのです。
 明智系図には光秀の生地は美濃多羅城であり、谷口先生によればこの土地は土岐明智
氏にはなんのゆかりもない土地であり、親に義絶された頼典と光隆が美濃を流浪してい
たことを裏付けているのではないかとのことです。
 光秀は本能寺の変の前年の天正九年に明智家中軍規を定めています。この史料は丹波
福知山の光秀を祀る御霊神社に伝わっていますが、その書の最後に「自分は石ころのよ
うに沈倫しているものから召し出された上に莫大な兵を預けられた。武勇無功の族は国家
の費えである。だから家中の軍法を定めた。」と書かれています。
 この文章の意味するところは信長への感謝であり、忠誠心ですので、本能寺の変の1年前
には光秀に謀反の心がなかったことを示す重要な証拠といえます。そして大事なことは自分
が「沈倫しているもの」という表現です。辞書をひくと「沈倫」とは「おちぶれはてること」
です。これは正に「父に義絶されて放浪した頼典の孫」という境遇に合致していると思いますが、
いかがでしょうか。
 光秀が土岐明智氏であることが本能寺の変の重要な要素であったという私の推理については今後
のこの掲示板で少しずつ丁寧にご説明させていただきたいと思います。本日はこれにて私の推理話
を終わらせていただきます。 


8 名前:mino阿弥 投稿日: 2005/11/18(金) 10:10:38 
「明智氏一族宮城家相伝系図書」東京大学史料編纂所蔵をぜひ一度ご覧頂きたいと思います。
「土岐頼兼、明智家元祖也、美濃国可児郡明智城主、母佐々木頼綱女・・
頼重、室は長山遠江守源頼基女也」長山遠江守については「美濃国諸家系譜」におもしろいことが書かれています。
(清和源氏本国加賀国江沼郡住人暦応二年十月初テ入美濃国、大力量、土岐頼遠の婿養子となり根尾、外山、長峰、伊自良を領す)、
南北朝の動乱で南朝に味方し敗れた人達が新田義貞の弟脇屋義助と同時期に(一緒か?)加賀国江沼郡から根尾谷に逃れて来ています。
長山氏は、その中の一人であろうと考えられます。
他に、山岸、林、森本、井上、富樫坪内など五十余騎。
口碑伝承や系図類は、史実として証明することは困難ですが全て無視や軽視をしては、歴史研究が成り立たないのではないかと思います。
「土岐頼武」の問題にしても、常識から考えて守護という身分の人の名前に「武」という字を当てるということは考えられないことです。
あまり捻って考え無理に学問づけしようとすると岐阜県史のような大きな間違いをしても堂々とそれがまかり通ることになります。
専門家と称する人達も精査せず、何の異議も唱えないということは、見識がないというほかありません。
後世の人達に恥ずかしいことではないかと思います。
歴史研究では過去に大家と称する人達や小説家の間違った説が真実として又、定説とされてきた事実が往々にしてあります。 


9 名前:mino阿弥 投稿日: 2005/11/18(金) 16:56:56 
Ryukoさんにお願いです。
以前送付しました昨年の「美濃源氏フォーラム」における宝賀寿男先生の講演資料をメールで光憲氏にお送ってあげてください。
明智氏の出自などについて述べておられる論文です。
こういう場面で有効に活用して頂ければ、せっかくの先生の論考も活きてきますし、ご参考になるのではないかと思います。 


10 名前:光憲 投稿日: 2005/11/19(土) 19:07:18 
 mino阿弥様ありがとうございます。
 「歴史研究では過去に大家と称する人達や小説家の間違った説が真実として
又、定説とされてきた事実が往々にしてあります。」というご意見は私が本格的
に本能寺の変を研究して正に痛感したことであり、我意を得たりの思いです。
その原因は彼らが「信長公記」のような歴史記録と後世に書かれた物語に過ぎない
俗書の記述とを信憑性において同列に扱うという誤りを犯してきたところにあり
ます。これまでの歴史研究が史料の信憑性の評価を明確に行わないまま行われて
きていることには、企業人として仕事においてはまず事実確認ということを習性
としてきた私には信じがたいことです。
 光秀研究において、この最大の誤りが「光秀は明智城落城後に諸国放浪し、越前
朝倉家に仕えていた」「信長の縁者である光秀が足利義昭の側近の細川藤孝と協力
して信長と義昭を結びつけて上洛させた」という通説にとらわれてきたことにある、
というのが私の研究成果として、まず主張したい点です。
 この説は本能寺の変後120年もたって書かれた「明智軍記」が書いたもので、
さらにその40年後に書かれた「細川家記」(綿考輯録)が「明智軍記」を引用しつ
つ話をふくらませたものに過ぎません。
 これが現代においても通説となっているのは、正に日本の歴史学界の大家である
高柳光壽氏が50年ほど前に書いた名著「明智光秀」の中で「細川家記の書いていることは
本当らしい」としてしまったことが大きく影響しているとみています。(mino阿弥様
のご指摘されていることの代表的な例だと思います。)
 高柳氏は本能寺の変の原因として通説となっていた怨恨説を「後世の俗書の創作である」
と明確に否定した大きな功績のある方ですが、ご自身が信憑性を否定した俗書の記述の
ある部分については「本当らしい」という首尾一貫しない態度をとっています。この姿勢
がその後の歴史研究に引き継がれてしまい、未だに日本の戦国史研究が「夜明け前」の状態
をさ迷っていると言っても過言でない状態を生んでいると思います。
 これに対して信憑性ある史料に依拠して研究・推理を展開されている方が谷口研語氏であり、
「本能寺の変の群像」を書かれた藤田達生氏であり、軍事上の通説を覆す「信長の戦争」を
書かれた藤本正行氏だと思います。私もこれらの方々の姿勢を見習って研究してきました。
 前置きが長くなってしまいましたが、光秀の出自に関する私の研究結果は「室町幕府の幕臣
であった土岐明智氏」であり、「光秀自身、はじめから幕臣として細川藤孝を通じて足利義昭
に仕えていた」というものです。
 これを裏付けるものとして、「足利幕府奉行衆番帳」に古くから明智氏の名前が書かれている
こと、「永禄六年諸役人付」に御供衆として藤孝、足軽として明智が書かれていること、当時
日本で宣教していたイエズス会のフロイスの書いた日本史に「光秀は公方様の邸の
兵部太輔(藤孝のこと)に奉仕していた」と書かれていること、大和の多聞院の当主英俊の日記
である「多聞院日記」に「光秀は細川兵部太夫の中間(ちゅうげん)だった」と書かれていること
が直接的な証拠としてあげられます。
 状況証拠的なものとしては、「信長公記」に初めて光秀の名前が出てくるのが、義昭が上洛後に京都
本國寺で三好三人衆に攻められたときの防衛戦であること、義昭上洛後の幕府の行政に光秀が関与した
り、義昭の申次の役をしていたこと(これに関する古文書が多く残っている)、幕府軍としばしば行動
をともにしていたこと、義昭の側近宛の「退職願い」ともいえるの光秀の書状が残っていること、光秀と
藤孝とは親交が深かったこと(子供同士の結婚、藤孝が光秀の組下大名となる)など様々なものがあります。
 私は「光秀が土岐明智氏で元々幕臣であった」ということが、本能寺の変につながる重要な要因であっ
たと見ています。この原点ともいえる事実を見誤った本能寺の変の原因推理は的をはずしていると思いま
す。
 ここまでは私が確信としていることですが、さらに一歩踏み込んで推理しているのが、「明智軍記と細川
家記は、この事実を隠蔽するために、あえて「明智城落城、越前朝倉仕官」の話を捏造したのではないか、
ということです。このことは私の本能寺の変の原因の推理にも大きく関わることですので、今後の説明で
順を追って書かせていただこうと思います。
 本日は長くなりましたので、ここで終わりとさせていただきます。 


11 名前:光憲 投稿日: 2005/11/26(土) 00:11:07 
(3)無視されてきた光秀と長宗我部氏との深いつながり
 本能寺の変の原因を先入観なく推理しようとしたら、ほとんどの人が「長宗我部氏
の征伐を阻止するため」という結論に至るのではないでしょうか。
 本能寺の変の発生した天正十年(1582年)六月二日の翌日に織田信孝率いる
長宗我部征伐軍が大阪から出港する予定になっていました。変の発生により征伐軍は
自壊し、これにより長宗我部氏は滅亡から救われたのです。この因果関係を虚心坦懐
に見れば、本能寺の変の原因は長宗我部征伐阻止にあったと考えるのが当然のように
思います。
 では何故、本能寺の変の原因として長い間「怨恨説」が通説となってきたのでしょう
か。そして「長宗我部征伐阻止説」は現代においても正当な地位が得られていないので
しょうか。
 その原因は2つあるとみています。
 ひとつは江戸時代に書かれた俗書(甫庵信長記、川角太閤記、明智軍記など)が、その
ようには書いていないことです。そしてさらに本能寺の変の首謀者として活躍した光秀家臣
齋藤利三の記述も極めて目立たない書き方になっていることです。私は長宗我部氏や利三
に脚光が当らないように作為が働いていると思っているのですが、そのことについてはおい
おい説明させていただきます。とにかく人々に広く読まれた物語の中では長宗我部も利三も
無視された存在であり、ずっと忘れ去られてきたのです。
 ふたつめの原因は現代の研究が「齋藤利三を追っていくと長宗我部氏にたどりつく」という
史実をつかんでいるのに、そこで追跡をやめてしまい、光秀と長宗我部氏とのつながりがそれ
程深いものではなかったと見てしまっていることです。
 利三が光秀と並んで本能寺の変の首謀者とみられていたことは様々な記録が明確に物語
っています。公家の勧修寺晴豊は利三が捕まって京都市中引き回しになるのを見て日記に「彼
は信長打ちを談合した衆だ」と書き、同じく公家の山科言経は「日向守の内、彼は謀反の随一」
と書いています。長宗我部元親の家臣の書いた「元親記」には本能寺の変の前に「四国の儀を
心配し利三は謀叛を差し急いだ」と書かれています。
 つまり本能寺の変直後からしばらくは、利三が長宗我部を救うために謀叛を首謀したと考えら
ていたものとみられます。これを裏付ける話として、光秀滅亡後に利三の妻子(娘の福は
後の春日局)が長宗我部氏を頼って土佐に逃れていたという話も伝わっています。
 現代になって、これらの史実が「再発見」されたのはよいのですが、ここでも通説が真実の追求
を邪魔してしまっています。その通説は「利三の妹が長宗我部元親の正室であり、利三が元親と
光秀を結びつけた」というものです。1575年に元親は光秀の取次ぎで信長と同盟を形成してい
ますが、このときに利三が光秀と元親をつないだという説です。
 この説に従うと光秀と元親の関係は本能寺の変の7年前から始まったということになり、そのせい
か両者の関係はそれほど深いものではなかっただろうと見られてきたようです。
 ところが利三が光秀に仕えている記録は1579年以降しかなく、1575年に光秀の家臣であっ
たかどうかははなはだ疑問があります。また元親の正室は利三の妹ではなく、石谷頼辰(いしがいよりとき)
の妹だということも判明しています。
 この石谷頼辰は土岐石谷氏でありもともと幕臣でしたが、足利義昭が信長に京都を追われた後の
1574年には光秀の家臣となったとみられています。私は、これまで脚光の当っていない頼辰こそが
光秀と元親を結びつけた張本人であり、かつその時期は1575年よりもはるかに早かったと推理しま
した。この推理については次回ご説明させていただきます。 


12 名前:光憲 投稿日: 2005/11/26(土) 18:47:29 
 Ryuko様のご配慮により、大変僭越ながら私の投稿が「土岐氏調査研究ノート」の
コーナーの方に掲載されることになりました。今後はそちらに続きを書かせていただきま
すので、ご高覧のほどよろしくお願いいたします。
 参考情報などがございましたら是非、本スレッドにお書き込みをお願いいたします。
 Ryuko様には引き続きお手数をおかけすることになり大変恐縮ですが、よろしくお願
いいたします。 


13 名前:Ryuko 投稿日: 2005/11/29(火) 09:18:38 
光憲様より掲示板に書き込んでいただきました記事は、連載「本能寺の変の真実」として掲載しましたので、以下のページをご覧下さい。
ご意見、ご感想をお待ちしています。

   http://www.geocities.jp/minogenji_tokiuji/koken.htm 


14 名前:光憲 投稿日: 2005/12/07(水) 12:44:23 
 Ryuko様のお手を煩わせて、ようやく第5回までの連載を掲載いたしました。
 これで「本能寺の変の目的は信長による長宗我部征伐の阻止にあった」という
「真実」を書き上げました。この裏付けとなるような史実をさらに発見して、
さらに説得性のあるものにしていきたいと思います。是非そのような情報があり
ましたら、本掲示板でお知らせいただけると幸いです。
 mino阿弥様からは「真静寺には、元親の義父石谷摂津入道空然(石谷兵部大輔)
の書状(土佐入道宛)と長宗我部元親書状(稲葉勘右衛門宛)が残っています。」と
いう情報をいただき大変ありがとうございました。元親が石谷氏と密接に連携し
ていたことを裏付ける貴重な史料です。
 なお、私の連載はほぼ三分の一を書き終えたところです。まだまだ本論はこれ
からですので引き続きご愛読のほどよろしくお願いいたします。(師走にかかり
忘年会などの合間を縫って、執筆時間をどう確保するかが課題となってきました。) 

 
美濃源氏フォーラム東京支部総会と忘年会の報告

1 名前:宝善院 投稿日: 2005/11/29(火) 21:46:05 
去る11月27日、銀座サッポロビアホールにて、東京支部総会と引き続き忘年会が行われました。
出席者は、源新氏、澤源氏、源臣氏、源勝氏、マダムRyukoと宝善院の6名でした。
議題は、東京支部の定期講演会開催に関するものでした。美味しいビールと料理に舌鼓を打ちながら、
白熱した議論が交わされ、その結果、来年6月から年5回程度開催し、
テーマは室町から織豊時代における美濃の歴史と言う事に決まりました。
前日に行われた澤源氏の講演会も大盛況との事で、今後は講師としての澤源氏の活躍も大いに期待できそうです。 




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