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121〜130
121: 長宗我部元親の室は? (1)
122: 井澤康樹氏講演会のお知らせ (3)
123: 土岐光親 (4)
124: 千葉県いすみ市の誕生 (2)
125: 土岐直氏・詮直について (10)
126: 万喜道哲、左近右衛門屋敷 (7)
127: Ryuご夫妻おつかれさまでした (3)
128: 桂三枝 (2)
129: 7月23日のフォーラム大盛況 (3)
130: 愛媛県松山の徳川神社について (5)


長宗我部元親の室は?

1 名前:mino阿弥 投稿日: 2005/11/28(月) 16:18:15 
戦国大名系譜人名事典(新人物往来社)著者山本大氏は、元親の室は石谷兵部大輔女、斎藤内蔵助異母妹とされています。
また真静寺には、元親の義父石谷摂津入道空然(石谷兵部大輔)の書状(土佐入道宛)と長宗我部元親書状(稲葉勘右衛門宛)が残っています。
元親は、天正2年幡多全域を手中に収めた。直臣団の進駐にともない領地の没収が行われ真静寺も寺領を召し上げられた。
南海最古の法華道場で開山以来大本山妙顕寺住職が兼務し輪番制により番僧が派遣されていた真静寺は
ただちに事の次第を本山に報告した。
妙顕寺は、さっそく元親の義父石谷摂津入道空然と元親の縁戚稲葉勘右衛門(稲葉兵庫頭重通、春日局の養父)を通じ
寺領を返還するよう働きかけた。元親は直ちに空然と重通に書状を送り適切な処置を取ることを約した。
そして中村城にいた桑名藤蔵人に対し真静寺本坊と脇坊の寺領を返還するよう下知した。
朝倉慶景「長宗我部元親の縁辺について」では、石谷兵部少輔は斎藤利三の弟であり石谷兵部大輔の養子となっています。
石谷兵部少輔の娘が長宗我部信親に嫁いでおり信親の弟長宗我部盛親の室は兄信親の娘となっています。複雑ですね。 

 
井澤康樹氏講演会のお知らせ

1 名前:Ryuko 投稿日: 2005/11/17(木) 07:50:39 
美濃源氏フォーラム運営幹事の井澤康樹氏が、下記の要領で埼玉県蕨市にて講演されます。
関東の土岐一族の皆様、ご参加をお待ちしています。

日時:平成17年11月26日(土)19時〜20時30分
場所:「伊勢長ビル」埼玉県蕨市北町2-10-6(TEL048-444-4400)
演題:『歴史と文化を活かしたまちづくり』 


2 名前:mino阿弥 投稿日: 2005/11/17(木) 12:00:20 
ご苦労さまです。信じられないことですが、うまくやってください。
先日の大野町での「桂三枝」と深沢さんのコンサ−トは800人ほど来場し大成功でした。蕨市となんの関係があるんでしょうか? 


3 名前:Ryuko 投稿日: 2005/11/26(土) 08:04:38 
岐阜県瑞浪市から井澤氏が本日蕨商工会議所の招きで講演されますが、
明日、下記の要領で「無礼講の宴」を開催します。美濃源氏土岐一族に関心のある方のご参加をお待ちしています。

日時:平成17年11月27日(日)18:30〜20:30
場所:銀座ライオン(銀座7丁目)地下鉄銀座線銀座駅 徒歩3分
会費:ワリカン 3000円〜5000円? 
  

土岐光親

1 名前:mino阿弥 投稿日: 2005/11/22(火) 15:50:13 
日本史に、土岐光親、天文5年天皇に即位料を献上とありますが、この人は誰でしょうか? 


2 名前:月窓居士 投稿日: 2005/11/23(水) 11:49:43 
土岐頼芸の弟で揖斐基信の養子となった揖斐五郎光親と違いますか。 


3 名前:mino阿弥 投稿日: 2005/11/25(金) 08:38:02 
ありがとうございます。ご指摘の通りではないかと思います。
ところで「月窓居士」様のお名前は、拙宅の先祖に「月窓了白居士」という戒名の人があり、そっくりです。
不思議ですね。なにか意味があるのでしょうか?勝手ながら、なんとなく親しみが湧きます。今後とも、ご教示よろしくお願いします。 


4 名前:月窓居士 投稿日: 2005/11/25(金) 10:04:32 
mino阿弥様
此方こそ、ご挨拶も致さずに書き込み失礼致しました。
又、ご先祖の戒名を勝手に拝借したようで申し訳ありません。
私は板取川が好きで、その上流にあります月窓杉に因んで
HNとして時々名乗らせていただいております。
聞くところ、月窓杉の名前の由来は長屋重景の法名
「長水寺殿前信州太守月窓道仙大居士」に因んで
付けられたそうです。
こちらこそ、ご教示宜しくお願い致します。 

 
千葉県いすみ市の誕生

1 名前:Ryuko 投稿日: 2005/11/04(金) 12:47:56 
総源さまより、いすみ市誕生のニュースをいただきました。

上総土岐氏の故郷・夷隅は、12月5日に大原町、岬町と合併し、いすみ市となります。
この「いすみ市」の区域は、偶然にも上総土岐氏の支配地域と合致します。

萬木城を中心に歴史探訪の好所となることでしょう。岐阜の皆様、頼芸縁のいすみ市にお出かけ下さい。 


2 名前:澤源 投稿日: 2005/11/04(金) 13:01:22 
いざわのい、すずきのす、すみおのみ、いすみ市の誕生をお祝い申し上げます。 
 

土岐直氏・詮直について

1 名前:呑舟 投稿日: 2005/10/12(水) 12:34:07 
土岐直氏・詮直についてどなたか教えて頂けませんか?
わかればその後裔についても知りたいのですが。 


2 名前:澤源 投稿日: 2005/10/13(木) 21:37:10 
平成8年度美濃源氏土岐氏研究講座に登壇されました土岐嘉允氏(故人)の研究発表があり、
備中土岐氏の起源と系譜の考察があり、土岐直氏から岡山県に辿り着くことが書かれています。
直氏の子に、直詮と直景があり、直景より景武−常興−興陣−景直−景次−景興(慶長18年生)
として系図がまとめられいますし、その間の斯く斯く活躍などもでてきます。
尚、備中の土岐氏の系譜には3通りあり、一つはこの直氏系で、その他山陰から下ったものと、
四国から移ったものの系譜がみられると、生前お話を伺いました。
 呑舟さま、直詮についても情報を集めていますが、
御貴殿も何か分かりましたら是非情報をお寄せ下さいませ。 


3 名前:呑舟 投稿日: 2005/10/28(金) 09:54:10 
手許に土岐家の四国伊予の所領を相続(?)したと伝えられる、伊予久万地方に勢力を張った大野家
の系図がありますが、それによると詮直は大野直利の養子として入った直氏と大野の女との間に生まれた子
となっています。義詮の一字を貰ったとあります。系譜の流れは 
(略)直利→直氏→詮直→義直→繁直→繁直→通繁→綱直→朝直→利直→友直→直澄→直昌→(略)
となっています。他の大野家系譜も違いはありますが大略流れは同じです。
繁直の時、宝徳3年京よりの帰り、兵庫で死亡し、讒言により一時家が絶えますが、のち通繁の時、土岐頼成
の口利きでお家再興をはたしています。土岐家とは親族の付き合いだったようにおもわれます。
京での土岐家の影響に頼っていたとおもわれます。
言うまでもなく大野一族は嫡流、直昌が秀吉の四国征伐により伊予河野家とともに
小早川の援助で竹原に移り没しましたが、子孫は帰農したりして現在も四国・山口
を中心に脈々と続いています。 


4 名前:呑舟 投稿日: 2005/10/28(金) 10:10:29 
訂正です。土岐頼成ではなく成頼です。 


5 名前:mino阿弥 投稿日: 2005/10/28(金) 13:28:22 
大野氏は最後まで河野氏に随伴した河野家股肱の臣だと思います。
「駿河方広寺史」に妙徳寺、大野六郎家冬の帰依により無文禅師が開山された寺。
大野氏は南朝の武士。妙徳寺系譜図によれば師は「貞治元壬寅(1362年)春来たり、
志賀洞山麓に庵を結んで亦名を帰休庵とす。」大野氏の系図に完戸とあり宍戸氏かとも推測されます。
伊予大野氏かどうか定かではありませんが美濃の椿洞に了義寺(1371年)が建立される以前に大野氏が来て「庵」を建てているようです。
二代目の即宗和尚は楠木正成の血筋であると書かれています。 


6 名前:源臣 投稿日: 2005/10/28(金) 21:02:39 
呑舟さま、私は土岐大系図の編纂を夢見る一族のものですが、
恐縮ですが、詮直の孫と曾孫が同名の繁直となっておりますが、よろしいのでしょうか?
お手数をお掛けいたしますが、出来ましたらご確認を・・・。 


7 名前:源臣 投稿日: 2005/10/28(金) 21:10:40 
呑舟さま
お差し支えなければ、直昌以降もお教えいただければ、有り難いのですが・・・。 


8 名前:呑舟 投稿日: 2005/10/29(土) 20:07:34 
源臣殿
繁直が続いて二人いるのには私も首を傾げているのですが。
詳しく言うと繁直が続いて出て来るのは直利流(大洲)大野系譜と直秀流(屋代島)
大野系譜であり、直澄流(上川村)大野系譜には出てまいりません。出典は不明ながら
「日本の苗字七千傑」の久万氏の欄の土居氏流には出てきません。この久万氏の項は
あまり信頼置けません。いずれの系譜も転記時の錯誤や挿入があるものと考えています。
よって傍証となる他の一次資料を探しています。
直昌以後は上川村系譜によると直昌→直清→直棟→直倫→直胤→直森→直由
→直尚→直基→直伊(この系譜資料はここで途絶えていますが、上川村の子孫の方は書き足しながら
現在に伝えていると思われます。ちなみに
直伊は1780年頃の人です。) 


9 名前:源臣 投稿日: 2005/10/29(土) 21:10:05 
呑舟さま
早速書き込みいただきありがとうございました。
直氏と大野家の間に詮直が誕生。
大野家の姫の子かどうかは分かりませんが、詮直の兄弟に満直、光名、直景が居ります。
ご存知かと思いますが、念のため書き込みました。 


10 名前:呑舟 投稿日: 2005/10/30(日) 16:08:07 
源臣殿
詮直の兄弟についてはお教え頂いた3名の名は手持ちの大野系譜には出て参りません。
詮直の母については、母 直利娘と明記されていますので、腹違いかと思われます。

父直氏の項は「大洲大野系譜」によると

直氏
 ・土居弥六
 ・宮内少輔
 ・実 当国守護土岐太郎源朝臣頼清三男也
  依為当国荏原林久万山分領
  頼清任之未生已前有木竒瑞直利無男子
  故為養子改姓為当家大伴氏継家督
  任従五位伊豫守自正慶年中至貞利
  数度合戦依抽粉骨軍忠
  尊氏公感之賜感状並当国守護職又其后
  義詮公御昼曰

  於御方致忠節者 伊豫国守護職之?可宛行
  之由先度被仰出?定令到来?■所詮
  昨日九日立江前四十九院宿己発向京都也
  継夜於日可責上之状如件

   観応三年 三月十日   義詮

    土居宮内少輔殿

 ・一族並国人等相催急走上尽無ニ戦功勝利
  有依茲自義詮公賜感状数通有其后
  国土治天下泰平喜而嫡子詮直使家督
  譲於之隠居
  康暦二庚申年十一月十四日逝去也
    法名信慶大居士 齢八十歳

とあります。この感状がいつの戦いかわかりません、どなたかわかりませんか? 


万喜道哲、左近右衛門屋敷

1 名前:源臣 投稿日: 2005/10/02(日) 22:55:55 
大垣城へ行ってきました。土岐会会報4号の山口先生の記事を頼りに、
道哲と左近右衛門の屋敷跡を訪ねてきました。
子孫忠衛門為信の墓園成寺は、時間がなく今回は行く事は叶いませんでしたが、
水門川のほとりにある「奥の細道むすびの地記念館」に大垣城を中心にした町の模型がありました。
そこには道哲の屋敷と左近右衛門の屋敷が本丸の両サイドに復元されておりました。感激! 


2 名前:Ryuko 投稿日: 2005/10/04(火) 07:10:14 
源臣様
大垣をご訪問とのこと、源臣様の『奥の細道』踏破の旅は、結びの地で満願ということでしょうか?おめでとうございます。 


3 名前:mino阿弥 投稿日: 2005/10/04(火) 09:44:12 
水くさいですね。お声をかけて頂ければ!岐阜公園近くの「妙照寺」は芭蕉がひと月ほど滞在した寺です。
私の自宅は芭蕉の弟子で油商賀島善右衛門(俳号賀島鴎歩)の別邸跡です。
おそらく「十八楼の記」が書かれたであろう十八楼跡に現在も住んでいます。
「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」の碑は子供のころ、私の自宅にありました。いつのまにか別の場所に移ってしまいましたが。 


4 名前:総源 投稿日: 2005/10/04(火) 17:00:52 
源臣様 ご無沙汰しています。大垣に行かれたとか。mino阿弥様の地元なのでしょうか?何度行っても良いところですね。
ところで、円成寺の忠衛門為信の墓石が気になってたまりません。
現在、無縁墓石の山の中にあり、お参りしても多分発見できないと思います。いずれ何とかしなければならないと思っています。
何か良い知恵があったらご教示ください。 


5 名前:源臣 投稿日: 2005/10/04(火) 21:41:03 
Ryukoさま、お陰さまで「行春や鳥啼魚の目は泪」の隅田川(大川)から、
「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」の水門川まで、あしかけ5年の付き日が流れました。
次は何をしようかと考え中です。
mino阿弥さまが翁とそれほどまでご縁の深いお方とは・・・。あの「鵜舟」の碑がご自宅にあったとは・・・。
同行の先生に早速報告しておきます。
総源さま、こちらこそご無沙汰しております。為信の墓がそうだったとは、夢にも思っておりませんでした。
迂闊でした。何としましょう・・・。 


6 名前:澤源 投稿日: 2005/10/13(木) 20:44:16 
大垣市の円成寺には為信の墓、岐阜市御望の円成寺にも土岐氏の関係者が関わっているとのことです。 


7 名前:Ryuko 投稿日: 2005/10/16(日) 17:36:31 
山口先生の土岐会会報4号の記事『上総土岐氏末裔の墓石発見』を土岐氏調査・研究ノートに掲載させて頂きました。
千葉県からも入れます。
戦火に焼かれ、無縁墓石の中にあって、為信の墓石が発見されたことは奇蹟に近いと思います。
山口先生の熱意に応えられた中村住職様、お二人のお気持ちに感動しました。

   http://www.geocities.jp/minogenji_tokiuji/ogaki-mangi.htm 


Ryuご夫妻おつかれさまでした

1 名前:mino阿弥 投稿日: 2005/10/11(火) 11:00:01 
岐阜講座には、ご遠方のところ、わざわざご参加頂きありがとうございました。
さぞかしおつかれのことであったと思います。しかしご夫妻の行動力には恐れ入りました。
とても真似できません。白山はおもしろいと思います。いかがでしたでしょうか?また何かとお教え頂ければと思います。
取り急ぎ御礼まで。 


2 名前:澤源 投稿日: 2005/10/13(木) 21:09:23 
11月9日の大野町講座と岐阜講座に御遠路遙々御夫婦にてご参加頂きありがとうございました。
そして、10日には白山を登山され。11日には飛騨金山の玉龍寺、
又12日には美濃加茂市の正眼寺での650年遠忌にと、すっかり美濃の良さを堪能されたとのことで、
さらに、12日最後の日程では、mino阿弥様のご先祖が祀られている南泉寺にある、
土岐頼純のお墓まで見学されましたので、モー何をか言わんや、であります。 


3 名前:Ryuko 投稿日: 2005/10/14(金) 00:38:26 
mino阿弥様、澤源様、こちらこそたいへんお世話になり、ありがとうございました。
8日は、市原の頼貞・土岐氏累代供養塔に参拝、桜堂薬師文化講演会、谷汲の立花屋(美人女将健在)、
9日は華厳寺の奥之院まで、ミイラの横蔵寺(樹庵と横蔵寺茶店に11月12日のポスター掲示依頼)、
頼芸の法雲寺、大野町野古墳群、大野会場見学、岐阜市歴史博物館にて大野・来振寺五大尊像国宝指定記念展
(お勧めです。白山長滝神社阿名院の十二天像も素晴らしい)、岐阜講座見学、中華料理
(mino阿弥様お勧め黒酢の酢豚は好好)、谷口先生、私共の迷走にお付き合いいただきありがとうございました。
10日は早朝の白川郷、平瀬口より白山登山4時間半、11日下山3時間、平瀬登山口の露天岩風呂(300円)◎、
白鳥町白山長滝神社・修古館訪問(壮大な境内と巨木、白山信仰、歴史と文化に圧倒され、若宮様ご夫妻に感動)、
金山玉龍寺(金森氏菩提寺)着、下呂温泉、平林寺・妙心寺龍泉庵両老師様との出会い、12日は、玉龍寺での朝課、
正眼寺法要参加、山県の南泉寺頼純供養塔、美山の明智光秀(荒深小五郎)墓等々、皆様の温かいおもてなしと出会い、
美濃の自然、お抹茶と松茸、数えあげるときりの無い岐阜・美濃の素晴らしさに感動、感動でした。
お世話になったお礼は、美濃源氏フォーラムのHPの充実でしかお返しできませんが、これからも微力ながらかんばりますので、
よろしくお願い致します。
皆様ありがとうございました。金山の玉龍寺は紅葉の名所、ちょっと足を伸ばして白山長滝神社の参拝をお勧めします。
瑞浪、大野町、岐阜講座の皆様、関東にお越しの節はお声を掛けてください。 

 
桂三枝

1 名前:Ryuko 投稿日: 2005/10/06(木) 01:00:19 
桂三枝師匠のホームページの講演予定に、11月12日『美濃源氏フォーラム in 岐阜大野』での講演が載りました。
美濃源氏フォーラムのHPリンクにしていただきましたので、相互リンクさせていただき、掲示板にお礼を書き込みましたら、
三枝師匠が以下の返事を書き込んでくださいました。

【土岐氏 桂三枝 - 2005/10/05(Wed) 00:16 No.4929】 
『どうやら、ご先祖の河村五郎作入道は土岐氏と縁組みするのですが、その前は小田原の方からきたと聞きました。
どんな風になるのか頑張ります』

三枝師匠は、多忙の中、大野町での講演のためにいろいろ調べてくださっているようです。フォーラムでの講演が楽しみです。
ただ今、『美濃源氏フォーラム in 岐阜大野』入場券の前売りを開始しています。
入場ご希望の方は、美濃源氏フォーラム事務局まで、お問合せください。

*桂三枝ホームページ http://www1m.mesh.ne.jp/vrk/34/ 


2 名前:澤源 投稿日: 2005/10/13(木) 21:03:51 
桂三枝師匠は、大変素敵な方です。昨年、瑞浪商工会議所40周年記念講演会の講師として招聘しましたが、
不肖澤源が言い出しっぺとして講師接待をさせていただき、お迎えと講演と見送りを通じて美濃源氏土岐一族の話を致しました。
本年春にマネージャを通じてお願いをしたところ、快くご参加頂けることとなりましたので、
11月12日土曜日には、揖斐郡大野町の総合町民センターにて、世界的ピアニストの深沢亮子さんとの共演となりますので、
どうか皆様ご来場賜りますよう、隅から隅までズ・ズ・ズイーットお願い申し上げます。 


7月23日のフォーラム大盛況

1 名前:下総介(佐) 投稿日: 2005/07/26(火) 16:05:42 
23日のフォーラムは大変な盛り上がりでした。
梶原前知事会長をはじめ菊池先生・野口先生・伊藤先生・若宮先生のお話素晴らしいものでした。
改めて多角的な視点で勉強させていただきました。できれば12月3日の越渓秀格の講座にはお邪魔したいと存じます。
よろしくお願いします。
最後に澤源様はじめ関係者各位の今までの準備とご尽力に感謝します。 


2 名前:下総介(佐) 投稿日: 2005/07/26(火) 17:29:52 
一番大切な人の名前を忘れていました。谷口先生です。やはり凄い方ですね。
まとめ役としても美濃源氏の専門家としても素晴らしい人でした。そして時間どおりに進行し、改めて敬服しております。 


3 名前:澤源 投稿日: 2005/10/13(木) 20:54:34 
平成3年にスタートした美濃源氏フォーラムも本年15周年の記念の年となり、美濃の流通・物流・交通を取り上げることにより、
日本の中世交通史の一端を担うべく、梶原拓前全国知事会長の記念講演に始まり、谷口研語氏・菊池紳一氏・野口実氏・伊藤裕偉氏・
福井金弘氏・鈴木佐氏・若宮多門氏の、それぞれ研究報告のあとに全員参加のシンポジウムとなりました。
お陰様で、美濃中世史のなかでも、交通史からの視点の必要性が展開されましたので、
是非とも刀剣・和紙・材木・陶器の物流に土岐一族が室町時代にどのように支配していたか、
期待があつまりました。
 尚も中世交通史の研究者であられる皇太子殿下へのご案内を差し上げましたところ、
御言葉が侍従の方からつたえられましたので、開催の挨拶にて皆様にご披露申し上げました。
大変名誉なことであり、今後も美濃源氏フォーラムの研究事業を進めて参りたく存じますので、
皆様のご高配を何卒宜しくお願い申し上げます。 


愛媛県松山の徳川神社について

1 名前:gart@愛媛 投稿日: 2005/09/18(日) 09:24:50 

   http://goo.gaiax.com/home/gart4869

(ガルトのホームページです。南北朝時代の伊達政宗を研究中)

私は松山在住の者でございます。
世間に疎く、あまり本も読まない不埒な者ゆえに唐突な書き込みをお許し下さい。
松山市津吉町にある徳川神社について、出来るだけ詳細を教えて下さいませ。

残念ながら単なる歴史好きなだけで、土岐氏うんぬんを語れる家柄とは関係ありません。
しかし徳川城とか、松山に住んで生活している割には意外と知らされてなく、平成九年に皇太子が松山訪問なされた後に、
松山の徳川神社を参拝したと報道され初めて、その存在を知りました。

行って見ても管理している人もなく、ひっそりとしており詳細を知りたくても松山にある歴史書にも解説がありません。

なんとなく徳川神社は神君家康公との流れでもあるけれども、明智光秀と二代将軍秀忠との接点が関係あるような気がしてきます。
また徳川城の遺跡はどこに。なんか解説している本があれば教えて頂きたいです。 


2 名前:mino阿弥 投稿日: 2005/09/21(水) 13:59:10 
「美濃源氏土岐氏主流累代史 全」渡辺俊典氏著などがあります。郷土史の本のため入手困難と思います。
「美濃源氏フォーラム」の研究講座の講義録にも記述がありますので井澤康樹氏にお問い合わせ下さい。
土岐氏系図(松山市在住の土岐氏蔵系図)によれば美濃守護土岐頼芸の弟頼元の子頼政は河野氏に仕え浮穴郡徳川城主、
天正六年九月二十二日討死。頼政の子政経は文禄三年三月六日討死(朝鮮役か)伝承によれば
土岐氏は紺原西ノ山の山崎城に居館していたと言われる。政経は父祖のため紺原に円浄寺を建立。
直誉上人を開山とした。円浄寺はその後今治市本町四へ移築。
政経の父頼政は毛利氏の播州上月城の尼子攻めにより後に討死したものと思われる。
毛利氏援軍の河野氏に従っていた土岐頼政は信長(秀吉差遣)の中国攻めのいずれかの合戦で討死したものと思われる。
政経の子頼久は藤堂の家臣となり土岐氏も今治に移った。なお徳川神社の名前の謂われは、わかりません。
また歴史研究に家柄もなにもありません。むしろ先祖を修飾することの方が最も避けるべきことであろうと思います。
「天は人の上に人を作らず。人の下に人を作らず」 


3 名前:gart@愛媛 投稿日: 2005/09/22(木) 22:03:33 
mino阿弥様

書き込み有り難うございます。また土岐氏研究に家柄は関係ないというのは嬉しいです。
むろん、そんなつもりは最初からないとは思いましたが、ちょっと敷居が高い気がしたもので・・・。

松山在住の土岐氏系図の内容は驚いています。浮穴郡の徳川城は隣接地の荏原城主・平岡将監と争い次第に勢いを
失ったように書いてある本があったからです。しかし平岡氏は河野氏の家臣。しかしこの記録だと土岐頼政も河野氏の配下。

でも徳川神社の由来書には、河野通清と土岐頼政がありましたから、なるほどと思いました。

古老の話だと、昔は徳川という地名だったけれど、江戸時代に松山藩は松平なので憚って変更したのでは、

という推測を聞きました。あくまで推測の域・・・。

まずは天正六年の九月の討ち死にというくらいですから、どんな合戦があったか推察してみます。 


4 名前:mino阿弥 投稿日: 2005/09/24(土) 09:38:56 
松山に住んでおられる由、私も理想的には松山近辺に住みたいと思っているぐらいです。
「文化財フォーラム愛媛」というHPがあり、この「美濃源氏フォーラム」にもリンクしていますのでご覧頂ければと思います。
その談話室には、遊行笑人様、今城様、maru阿弥様が投稿しておられますが、
いつも教えられることが多くgart@愛媛様には、ぴったりのサイトではないかと思います。
今城様とmaru阿弥様は松山在住で特に「土岐氏」と「平岡氏」についてコメントされていましたので質問されたらいかがかと思います。
徳川氏は、新田氏に付会したもので世良田氏の末裔云々はデタラメであろうとする説が一般的ですが
偽書とされる「浪合記」には世良田氏も登場し後醍醐天皇の子孫を守護してきた津島四家七名字(愛知県津島市)は史実であり
現在も津島天王祭が執り行われています。私は、この「浪合記」がデタラメであろうとは思っていません。
すべてが正しいとは思いませんが史実に基いた事実もあろうかと思います。また津島の寺はもともと南朝に近侍した時宗の寺です。
徳川氏と時宗はなんらかの形で関係があったのではと思います。河野氏=一遍上人=時宗。あとはgart様のご推察におまかせします。 


5 名前:gart@愛媛 投稿日: 2005/09/28(水) 20:01:50 
いろいろ書き込み有り難うございます。
この掲示板の内容を吟味しつつ、徳川神社宮司・武智様と電話で話しました。
今度の休みに整理し、分かった範囲の内容をご報告したいと思います。
少し整理しないと、書けない浅学非才な者ですから・・・
また「文化財フォーラム愛媛」というHPも訪れてみます。
有り難うございました。 


        


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