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131〜140
131: 美濃源氏フォーラムinJAPAN (2)
132: 2万回アクセス記念 (10)
133: 饗庭氏について (4)
134: 土岐乾氏の事 (1)
135: おめでとう二万回アクセス (5)
136: 中村加賀守の関係者の方へ (2)
137: どき?とき? (3)
138: 平成17年度スタート (4)
139: 中村加賀守氏宗殿は美濃土岐氏の末裔か (23)
140: 土岐頼武と政頼、頼純との関係 (5)


美濃源氏フォーラムinJAPAN

1 名前:澤源 投稿日: 2005/09/13(火) 21:49:00 
このたびの、ホームページ更新にあたりRYUKO様には大変お手数をおかけしました。
お陰様で、本年の15周年以後日本中で「美濃源氏フォーラム」を開催し、
あらゆる方々にご理解を賜るようにとのメッセージとして受け取りました。
つきましては、出前にてフォーラム開催を実現させて参りますので、
是非共にオーダーを掲示板でお知らせ下さいませ。 


2 名前:Ryuko 投稿日: 2005/09/14(水) 07:18:34 
長い間、更新できずに申し訳ありませんでした。各地での美濃源氏フォーラムと、
関連記事をわかりやすくお知らせするにはどうしたらよいか考えまして、
とりあえず、地図から入れるようにしました。これから内容を充実させていきたいと思っています。
皆様のご意見、情報をお寄せ頂ければ幸いです。
講座やフォーラム、各種行事に参加された会員の皆様からの報告もお待ちしております。 


2万回アクセス記念

1 名前:澤源 投稿日: 2005/07/02(土) 13:37:50 
Ryuko様のご尽力により、いよいよ2万回アクセス記念日が近づいて参りました。
思い返せば4年前、美濃林様より「ホームページの立ち上げ」について要請があり、
その後Ryuko様から作成及び管理のご快諾を賜りました。
以後、順次拡充して頂いておりますし、多方面からアクセスされております。
近々では、愛媛県の近藤様から「美濃・土岐一族」の購入依頼がありましたが、
丁度品切れとなっており、谷口研語先生を通じて出版社への再販を要請する予定です。
その他、中津川の苗木氏研究関係者様からも、「土岐政頼・頼武・頼純」論争について
高い評価を頂戴するとともに、今後の展開を期待する旨、電話を頂いております。
何れにしましても、いよいよ楽しみな「美濃源氏フォーラム掲示板」となって参りました。
さあ、前回の1万回アクセス記念は「東海オオシマ様」でしたので、
この2万回はどなたになられるか、この掲示板で発表願います。
尚、前回の記念品は「清酒美濃源氏」でしたので、前回以上の物を用意しています。
その他、御立ちよりの皆様のコメントを記入頂けましたら幸甚です。 


2 名前:澤源 投稿日: 2005/07/10(日) 07:02:00 
おはようございます。 今朝19988人目となりました。 いよいよ幸運が近づいてきました。
尚、本日10時から東濃事務局運営会議を開催しますが、
来る23日土曜日の15周年祈念事業についての打合せです。
皆様の、御参加をお待ち申し上げます。 


3 名前:船木 投稿日: 2005/07/10(日) 11:59:00 
はじめまして
いつも楽しく土岐家に関する事柄を読まさせて戴いております。
今回、20000ヒット目となる番号を戴きました。
新参者で申し訳ありませんがご報告致します。 


4 名前:源臣 投稿日: 2005/07/10(日) 19:50:31 
船木様、おめでとうございます。どちらにお住いの船木様か存じ上げませんが、
もし関東近県の方でしたらお祝いの席に参上させて頂き、共に一族のことについて、
祝杯をあげたいと思いますが、メールをご覧の皆様方、如何でしょうか?
美濃にお住まいの方でしたら、2万回HiTを東の空から心よりお祝い申し上げます。 


5 名前:澤源 投稿日: 2005/07/11(月) 00:12:13 
船木様 2万回ヒットパレード、おめでとうございました。
つきましては、ご連絡先を澤源へメールにて御知らせくださいませ。
(青字の澤源をクリックして頂けたら接続しますが、念のためbureyko@basil.ocn.ne.jp)
清酒美濃源氏や、にごり酒無礼講で御馴染みの、蔵元若葉より「生冷酒、美濃路」をお届け致します。
尚、掲示板の御利用有り難う御座います。時々は、書込みもお願い申し上げます。
 さあ、次は3万回を目指してがんばりましょう。 


6 名前:delete 投稿日: delete 
delete 


7 名前:Ryuko 投稿日: 2005/07/11(月) 08:49:30 
船木様、2万回ヒットおめでとうございます。
もしかして小菅村の???ご無沙汰しておりますが、HPを見ていただいて下さっていること大変嬉しく思っています。
これからもよろしくお願い致します。 


8 名前:船木 投稿日: 2005/07/11(月) 23:49:25 
澤源様、源臣様、Ryuko様、ありがとうございます。

自出に関して今、調べている最中ですが、土岐一族では無いようです。
こちらのサイトに来たのも船木家に関して調べている過程で来て
船木家に関して調べているうちに土岐氏に興味を引かれてそのまま
居着いてしまいました。

小菅村の船木家とは関係はありませんが、丁度その時に親類の集まりがあり
船木集落の話題で盛り上がる事が出来ました。(近くにそんな所がと)

母方が、肥後細川家の支藩の重臣をしていて細川家とも姻戚関係にあったと言う
不確かな情報もあるので明智つながりで血のひと流れくらいつながっている
可能性もありますが確証が取れて無いので一族と言うわけではありませんが、
これからもよろしくお願いします。 


9 名前:船木 投稿日: 2005/07/30(土) 21:12:18 
2万回ヒット記念プレゼントの「生冷酒、美濃路」を戴きました。
ありがとうございます。
まだ美濃に行ったことが無いので美濃に行ける事を願い
美濃路を戴きたいと思います。 


10 名前:澤源 投稿日: 2005/09/03(土) 08:16:14 
船木さま、岐阜県瑞浪市土岐町にある蔵元“若葉”の地酒、自信を持って送りました。
瑞浪には、3軒の蔵元がありましたが、すでに10年以上前に1軒廃業し現在は2軒となりましたが、
そのうちの若葉は、平成5年から地元にちなんだ銘酒開発を行い、『清酒美濃源氏』と、
『にごり酒無礼講』を特別な酒米から製造しており、現在の地酒ブームに乗ることができました。
もちろん、美濃源氏のメンバーですし、このように歴史と文化の理解者が増えないと
“まちは活性化できない”ようであります。 


饗庭氏について

1 名前:下総介(佐) 投稿日: 2005/07/13(水) 13:15:46 
改めまして、よろしくお願いします。鎌倉円覚寺塔頭の黄梅院は夢窓礎石の開山になります。
しかしこの塔頭の開基が「饗庭氏直」です。足利尊氏の直臣にして太平記でも随分活躍しています。
土岐氏分流だと思われますが父祖が誰であるかご存知の方いらっしゃいますでしょうか?
23日のフォーラムでも会場の皆さんに照会したいと思います。 


2 名前:澤源 投稿日: 2005/07/13(水) 20:47:11 
左(すけ)様とお呼びするのでしょうか? 丁度、源頼朝がNHKに出ていますので連想いたしました。
饗庭氏については、殆ど今まで話題となっておりませんので、今後の解明が楽しみです。
是非、23日の美濃源氏フォーラム15周年記念事業にお越し下さいませ。 


3 名前:源臣 投稿日: 2005/07/14(木) 12:06:04 
ご存知かと思いますが、青山学院大学の饗庭孝男名誉教授が『故郷の廃家』と言う本を2月に出されております。
その著書によると、饗庭教授もご自身のルーツを訪ねておられ、当然土岐もその調査段階では出てきますが、
残念ながら教授は饗庭でも土岐一族の饗庭ではないようです。饗庭氏の故郷滋賀のことが興味深くかかれている
名著だと思います。本の帯に感動の「私歴史」と書かれておりました。澤源様のおやりになっていることは公の「郷土史」
で僕のは「私歴史」なんだと改めて思いました。
いつものことですが昨日は酩酊して、澤源さまに電話を・・・失礼いたしました。
あのあと銀座の「銭形」で源新様と源勝様と3人で無礼講でした。で、今二日酔いなのです。失礼。 


4 名前:下総介(佐) 投稿日: 2005/07/26(火) 17:37:20 
饗庭氏直は土岐支流かいなか?
実は25日に岡崎市の三河武士の館にいき鎌倉期から室町期の三河国地方の武士たちの動きをみてまいりました。
そこになんと足利氏被官・饗庭氏がいました。吉良町饗庭という地名もありました。
今回22日に谷口先生に伺ったところ、饗庭妙(命)鶴丸は足利尊氏の家臣団で下野・三河にいた人物らしい。
美濃源氏かどうかわからないが可能性も否定できないとご教示をいただきました。
しかし三河地方の専門家・鈴木悦道先生(かつてお世話になりました)によれば、山内首藤の流れと書いていました。
真実はいかに円覚寺黄梅院を開基した饗庭氏直についてさらに情報収集を必要としています。どうかご教授願います。 


土岐乾氏の事

1 名前:澤源 投稿日: 2005/07/20(水) 22:01:13 
可児市在住の板垣さんが、板垣氏の研究で板垣退助を調べてみえました。
すると、板垣退助は土佐藩の乾氏がもとであり、旧姓の板垣に復したとのことらしいです。
理由は、織田信長の家臣であった乾氏が甲斐の武田を滅ぼした時、重臣の板垣氏も滅ぼしたとか。
この時、板垣氏の遺児を乾氏が引き取り、その後幕末となり乾退助が先祖の板垣に戻ったとのことでありました。
さて、この乾氏が土岐一族であり、山内一豊について土佐に入り、一時は家老職を務めたとか。
然し、明治以後その乾氏の本家筋だけが、再び乾氏の本姓である土岐氏を使うようになったとのことです。
現在、その高知の乾氏の墓石群は圧倒されるものらしく、さらに土岐氏一類の墓所と双立しているとのことです。
現在、千葉県にその土岐氏の御子孫がお住いとのことですが、現在の乾さんが土岐一族ということが分からないと、
この土岐氏と乾氏の別れ方が理解できないのでしょう。
因みに、清和天皇の子である貞純親王第六王子の源経基より連なる、
土岐頼貞の四男謙道(土岐三郎・宮内卿律師 法名道源 住武儀郡乾)から分かれたとのことですので、
可児氏の板垣様の御発表をお待ち申し上げます。 


おめでとう二万回アクセス

1 名前:美濃平 投稿日: 2005/07/12(火) 06:53:45 
二万回アクセスおめでとう御座います。
関係者の方々ご苦労様でした。今後もご発展お祈りします。
土岐氏と美濃の林氏は、守護と国人(地頭・御家人)の関係のようで、
又美濃林様から教えていただいたのですが、姻戚関係もあったようです。その立場で今後も見させていただきます。
二万回の舟木様の、細川家の件ですが、美濃の林は伊予の越智・河野と
関係深く。讃岐守護は細川家、伊予守護河野家の関係で、手を結んだり。
戦火をまじえたりしています。土岐氏も伊予に領地を持ち、又土佐の長
曽我部とも、夫々が関係があったようで、長曽我部へは美濃から、
春日局の伯母?が嫁に行ってます。
明智光秀も長宗我部と、手を結ぼうとして失敗しています。
長曽我部滅亡の際以下の文書が、細川家の家臣に送られていますが、
美濃と四国の関係は錯綜しています。
我が家でも養子にきた祖父が、長曽我部の子孫と言う家伝があります。
舟木様も土岐氏とは何処かでつながっていると思います。
今後のご研究を期待しています。


長曽我部盛親書孫盛胤後見依頼文
京都蓮光寺で調査したもの参考にしてください。
長曽我部盛親書〔孫盛胤の後見依頼文〕の内容
(二条城豊臣展の展示時解説文)
元和元年五月十五日は、大阪落城についで敗走中に捕らえられた盛親が
六条河原の露と消えはてた日である。
最近盛親を葬る連光寺(下京区富小寺六条上る)の寺宝の中から彼の絶筆
と推定される書簡が発見された(軸物)。
それは肥後熊本の細川家に身を寄せている。秦刑部(田中弟の右近大夫)
に当てたもので、先ず「兼て孫親胤養育相成り候段御礼申入候」と孫養育
の礼を述べ、「ついで此度ハ御勝敗如何と存じ候」とすでに豊家の命運つ
きたると洞察している。「さらに拝領ノ兼定をサシ遺え候に付後來一見
頼み上げ奉り候」と孫への形見を託している。 


2 名前:下総介(佐) 投稿日: 2005/07/13(水) 12:31:34 
RYUKO様 澤源様 初めてメールします。2万件アクセスおめでとうございます。またぜひ、近いうちに飲みたいですね。
とりあえずは22日・23日の夜にはお世話になりますので23日あたり飲めるといいのですがよろしくお願いします。
さて、23日の講演、お世話になりますけど、よろしくお願いします。
やはり地元の人の方が詳しいので恥じをかきにいくようなものです。ま禅宗では恥じをかくことが大事なのですが・・・・。
よろしくお願いします。 


3 名前:delete 投稿日: delete 
delete 


4 名前:船木 投稿日: 2005/07/13(水) 20:56:48 
美濃平様、貴重な情報をありがとうございます。
肥後細川家は名家コレクターと言われる位色々な家を召抱えてますが、
長曽我部盛親の孫が細川家に身を寄せていたとは知りませんでした。
長宗我部元親の弟吉良親貞の孫が、大阪の陣の後に細川家に仕えたのは
盛親の孫を頼ったのでしょうか

光秀の女婿明智左馬介光春の子が細川家に光秀と細川家との縁故によって仕えているので
他にも土岐一族の中で縁故を頼って仕えている家もあるかもしれませんね。 


5 名前:源臣 投稿日: 2005/07/14(木) 11:43:22 
佐殿ご無沙汰しております。「禅宗では恥じをかくことが大事」とはどういうことでしょうか?
興味を引きます。例えばどんなことか?よろしかったら具体的にお教えください。
最近「勿体無い」が話題になっているようですが、「恥ずかしい」も同じように大切にしたい言葉・行為だと思っております。
禅宗でそれ「恥じ・・」が大事とは、とても興味深く思います。 


中村加賀守の関係者の方へ

1 名前:屋島西町の住人 投稿日: 2005/07/07(木) 12:52:40 
中村加賀守のご子孫は、今岐阜にお住まいで当主であった叔父は
亡くなっていますが叔母は80余歳でお元気です。
 昨秋も墓地(白羽神社の南側)に関して牟礼に来られています。
系図などもお持ちだと思いますが、確認はしておりません。
もし、投稿されておられる方で調査などされている方は御一報戴ければ思います。 


2 名前:加賀守末裔 投稿日: 2005/07/12(火) 12:29:55 
屋島西町の住人様始めまして、加賀守末裔と申します。
「調査」と言うほど立派な物ではありませんが、ご先祖様の生き様に
興味を持っていろいろと教えていただいております。
連絡させていただきますので、よろしくお願い致します。
(白羽神社横の墓地にも、つい先日参ってきました。) 
  

どき?とき?

1 名前:ムーンライト 投稿日: 2005/07/11(月) 15:24:22 
私の母方の先祖の姓は、土岐ですが、昔は土の上に点がありました。
お墓にも桔梗のしるしがはいっていますが、土岐一族なのでしょう
か?ちなみに山形県の南陽市です。 


2 名前:澤源 投稿日: 2005/07/11(月) 20:51:02 
ムーンライト様、お立ちよりありがとうございます。南陽市とのことですが、合併して新しい市なのでしょうか。
さて、土岐氏の読み方には各地において様々あり、結局は「とき」「どき」「とぎ」「どぎ」のパターンとなっています。
勿論、土岐一族の発祥地である岐阜県の東濃西部地方、つまり旧土岐郡(ときごおり)から
土岐氏(ときし)となりましたので、一般にはそのように発音します。
それから、土の上に`を打った土岐も、現在でも各地にあります。
`をつけられた理由が恐らくあるのでしょうが、それは分家筋とか、逆に土岐一族を隠すためとか
また土岐の殿様から明治の頃に土岐姓をいただいたとか・・・。
いずれにしても、桔梗紋を御使いということは土岐一族であります。
尚、8月19日(金)〜21日(日)まで「美濃源氏史跡探訪ツアー東北」を開催しますが、
その行程で8月20日(土)11時から山形県上山市にて市内の土岐氏史跡巡りと
『美濃源氏フォーラムin東北かみのやま』を開催しますので、是非御参加ください。
コースは色々で、土岐氏の上山城・沢庵和尚のいた春雨庵・上山土岐氏の菩提寺が史跡巡り。
16時からフォーラムで美濃源氏土岐一族についての解説から上山土岐氏の説明、
また東北地方に分派する土岐氏について現在までの情報交換会といったもの・
そして交流会と宿泊、といったものですのでスケジュールに合わせてご勘考頂けたら幸いです。 


3 名前:澤源 投稿日: 2005/07/11(月) 22:57:47 
ムーンライト様、大変失礼いたしました。南陽市は市政50年以上という歴史のある市で、
私の早とちりをお許しくださいませ。また、南陽市の方々にも心よりお詫び申し上げます。
なお、山形県には「土岐姓」が97軒あり、南陽市の1軒がその該当先でしょうか。
さて、圧倒的に多いの鶴岡市ですが、中でも大谷と言うところに多くの方がみえます。
これは、御地元の伝承として源光国が大治五年に出羽守として下向し、
その落胤が先祖というものです。ちなみに、光国以降のせんぞには源義経の逃避行に際し
出羽で見送ったという話も伝えられています。
なお、このホームページの各地の土岐氏紹介にて、その地域に祭られてきた神社と
その中の神様を照会しておりますのでご覧くださいませ。 
 

平成17年度スタート

1 名前:澤源 投稿日: 2005/05/10(火) 09:21:21 
5月7日土曜日より、東濃瑞浪講座が開講しました。
美濃人物列伝を大久保甚一氏にて『後光巌天皇の臨幸と土岐頼康』、
中世歴史回廊を谷口研語氏にて『織田政権と美濃』、
土岐氏研究講座を梅田薫氏にて『土岐氏の文化活動−梅花無尽蔵を中心』、
を約70名の参加者に聴講していただきました。
尚、総会が講義の前にありましたが平成16年度の事業報告・会計報告、
そして平成17年度の事業計画と予算案、なかでも15周年を迎える本年
特別会計事業として、『再考、美濃の中世社会−東西文化の結節点、蠢きまわるモノやヒトたち』と、
『ピアニスト深沢亮子氏と落語家桂三枝師匠のコラボレーション』も承認されました。
 そして、翌日5月8日の日曜日午前中は揖斐大野講座にて谷口研語氏の『土岐氏累代歴史講座』と
加納宏幸氏による『大野町歴史講座』があり約50名の参加者があり、
午後からは岐阜長良講座にて谷口研語氏により『信長と光秀、そしてその時代』と
西尾精二氏による『岩村藩主松平乗賢公の岐阜西濃の飛地の政事』がありました。
本年も、新規の会員が20名程申し込まれましたが、現在会費の未納の方もあり、
来月の開講日までにご参加頂き納入賜ります様宜しくお願い申し上げます。
一点、新会員に「一柳さん」が登録されましたが、伊予河野氏の分派でありますので、
従来より注目しております、美濃と伊予、
そして土岐氏と河野氏の問題を掘り下げてゆくために、欠かせぬ人になりそうで
やはり、オミチビキでしょうなぁ。
尚、7月23日(土)15周年記念のフォーラムのチラシも出来上がりましたし、
500円の資料券も用意致しましたので、お早めにご購入くださいませ。
当日、ご来賓の方次第では【プレミアムチケット】として入手困難になるかもしれません。 


2 名前:早矢仕 投稿日: 2005/07/10(日) 12:59:48 
はじめまして、早矢仕と申します。

美濃源氏フォーラム15周年記念講演のポスターを拝見し、非常に興味を持ちました。
一つ質問なのですが、この講演を拝聴するには予約などは必要でしょうか。
それとも当日文化センターに行けばよろしいでしょうか。

よろしくお願いいたします。 


3 名前:mino阿弥 投稿日: 2005/07/11(月) 10:17:56 
当日行かれたら良いと思います。それより早矢仕氏のご投稿歓迎申し上げます。
「丸善」の創始者でハヤシライスの発明者早矢仕有的氏は山県市(旧美山町)笹賀出身。
福沢諭吉に師事し「丸善」を起業。この笹賀の早矢仕氏は美濃明細記、美濃国諸旧記などにも土岐氏方として登場しますが、
越智姓林氏の分流です。
早矢仕氏系図は越智通行で始まり土岐頼貞、頼遠、頼康、大桑落城まで連綿として土岐氏に代々仕えた股肱の臣と言えます。
奈良興福寺の一条院門跡坊官内侍原(梨原)氏の所蔵本を水戸徳川家が書写した「諸家系図纂」によれば河野四郎通信の子通政、
その子に政氏と通行があります。
「政氏」は愛媛県歴史文化博物館の石野弥栄氏「鎌倉・南北朝期の河野氏と美濃国」という論文で
「美濃河野氏源流」であろうという考察がされています。「通行」については、
その子「経通」が宝冶合戦後弘長三年(1263)四月幕府の吏僚となって鎌倉に進出したと述べられています。
兄「河野政氏」の系統が「河野墨俣氏」として美濃墨俣二木郷に地頭として基盤を築き、
その子孫が石野氏指摘の如く「美濃河野氏源流」として美濃に土着したのであれば
弟の「通行」も美濃に何らかの足跡があっても不思議ではありません。
幕府に召抱えられた「経通」の他に美濃に土着した「通行」の子孫もあったであろうと思われます。
早矢仕氏の系図はこの推測を裏付けるものです。家紋は「丸に花沢潟」です。
ご興味をお持ちであれば、ご一緒に解明したいものだと思います。
小生は、最近一遍上人(河野四郎通信の孫)に傾倒し勝手に出家、和洋折衷の画期的法名を創案し
「mino阿弥陀仏」、「mino阿弥」と称することとしました。今後ともよろしく。 


4 名前:澤源 投稿日: 2005/07/11(月) 12:10:14 
早矢仕様 美濃源氏フォーラム運営幹事の澤源と申します。お問合せありがとうございました。
ワザワザ、の予約などの連絡数が当日の参加者数の想定にもなりますので、喜んでいます。
是非とも御参加くださいませ。当日受付にて予約名を言っていただければわかるようにします。
その他、mino阿弥さんは「河野一族林氏」を研究してみえますが、
伊予の河野氏と土岐一族を探求する必要があり、掲示板へのご投稿も期待しております。 

 
中村加賀守氏宗殿は美濃土岐氏の末裔か

1 名前:水軍丸船長 投稿日: 2004/08/25(水) 12:59 
私の根城近くの田井城(中村城、岡の城)天文年間(1532−55年)美濃から来て当地を領す。
弘冶三年(1557年)四月に波羅城城主、原采女と戦い戦死したと。
その息子中村新左衛門恒貞(蔵人宗ト)は十河氏に属し、天正八年城が火災で焼失した時、十河氏に居城造作を求めたが応じず、
不和に為ったと云われております。現在も城跡には石碑と詞があります。
この原氏の幡羅城と茶臼山城共に私の住いから2−300メーターの近所也!驚きました!美濃の林様!!!。 


2 名前:美濃林 投稿日: 2004/08/25(水) 14:16 
「新撰美濃志」によれば斉藤道三は弘治2年4月20日、子の義龍と戦い討死。道三方に中村惣助の名が見られます。
天文年中は土岐頼純、頼芸と斉藤道三との抗争があり美濃から何らかの縁を頼り四国へ渡った人達があるかもしれません。
不明です。むしろ(土岐)原氏はありますが(土岐)中村氏は見当たりません。近江出身の中村氏ならあり得ます。
「高忍日賣神社」のご探索お願い致します。土居通景から正平6(1351)2月18日神領寄進とのこと。
南朝に忠節わ尽くし伊予国千丈城にて戦死。土居通景は美濃に来ていませんか? 


3 名前:加賀守末裔 投稿日: 2004/11/16(火) 01:28 
ご先祖の事に興味を抱いて、前から見させていただいています。水軍丸船長様の書込みを見、思い切って
書込みをいたします。私、香川県在住の加賀守末裔で、田井城跡、白羽神社の加賀守墓所、弟の佐近政氏の
屋敷跡や代々の墓所にも、時々参っております。
加賀守は香川県の牟礼町史や全讃史に土岐末流とあり、また親族古老からもそのように伝わっております。
加賀守・氏宗の父は頼宗とあり、美濃より京へ出てこの時中村姓を名乗り、細川高国に仕えたようです。
戦功あって讃岐国牟礼・大町の2邑を賜ったとあり、その他いろいろ調べた家人もいますが、決定的な
繋がりは不明です。これからも勉強いたしますので、よろしくご指導ください。 


4 名前:源臣 投稿日: 2004/11/16(火) 10:06 
加賀守末裔殿、頼芸の三男に頼宗(主水)がいます。義良が嫡男かどうかわかりませんが、系図上では頼宗の跡を継ぎます。
義良と氏宗が兄弟であることを確認できれば、加賀守は頼芸につながるのですが如何でしょうか? 


5 名前:美濃林 投稿日: 2004/11/16(火) 10:14 
加賀守末裔殿、ご投稿ありがとうございます。
「美濃源氏フォーラム」教、教祖井澤康樹氏始め土岐一族の皆様方も、さぞお喜びのことと思います。
土岐一族の分流につきましては、ほんの一部しかわかっておりません。貴重なご投稿だと思います。
また水軍丸船長こと「遊行笑人」様は、さぬき市在住でありコンタクトされたらいかがかと思います。
「文化財フォーラム愛媛」のHPを開かれると談話室があり「遊行笑人」様が投稿されています。
登録者の欄をクリックされれば「遊行笑人」様へメ-ルできます。美濃と四国は縁が深く、また新田一族に味方した土岐一族もあります。
加賀守をどのようなわけでご先祖が称しておられたかも探索のヒントになるのではないかと思います。ご研究を期待しております。 


6 名前:遊行笑人 投稿日: 2004/11/16(火) 10:31 
加賀守末裔殿!初めまして同じ地元の伊予国河野氏の末裔の者です。
美濃の土岐氏のサイトへ、林氏の御縁にて仲間入りしました牟礼の住人です!
伊予と美濃と四国の雄・細川氏と土佐の長宗我部氏との時代を遡る関係から、色々と由縁あり、遊行の旅の途中です。
又、この際に是非先祖のルーツを辿り、情報を交換しましょう!
十河氏も阿波・讃岐の国に、其の名を残す名将の一族也。この由縁の探索が肝要と考えております。
讃岐国は都から・瀬戸内・西国・筑紫の国々へ。遠くは朝鮮半島・越の国への要塞の背景が歴史に残す、重要拠点の一つ也
各氏・各族の由縁の多し史実が埋もれていても不思議では無いと、笑人信じて居ります!是非今後のお付き合い宜しくお願いします! 


7 名前:遊行笑人 投稿日: 2004/11/16(火) 11:27 
四国霊場85番八栗寺付近に八栗城在り。この城は田井城主中村新左衛門恒頼(後蔵人宗トと名乗る)の城跡です。
天正八年(1580年)長宗我部軍の攻撃に備えて築城し、同十一年に田井城より移ると聞く。
この山は由緒深き五剣山・八栗山の標高366メータに在る古刹の地也!!!。 


8 名前:加賀守末裔 投稿日: 2004/11/16(火) 11:27 
長い間書き込みをためらっておりましたが、こんなにお返事をいただいて感激しています。
加賀守の事さえ十分にわからない未熟者ですが、よろしくお願いいたします。
「源臣」様、頼芸1502〜1582とあり、頼宗の没年を1515と聞いております。養子縁組等も
多かったようですが、ここが引っかかっているところです。
「美濃林」様、よろしくお願いします。加賀守は細川氏に仕え、阿波勢−十河氏と行動を
一にしていたやに聞いております。その後十河氏と不和になり、長宗我部来襲の際も単独で
戦ったようです。
「遊行笑人」様、牟礼生まれの高松在住で加賀守の事をちょっとかじっただけの未熟者です。
こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。 


9 名前:美濃林 投稿日: 2004/11/16(火) 14:13 
加賀守末裔殿 11月21日に「美濃源氏フォーラム」の岐阜会場において
「古代氏族系譜集成」著者宝賀寿男先生(現弁護士)の講演があります。
内容は明智光秀の出自と土岐系図の問題点などです。
特に東大史料編纂所が大正12年に謄写した「明智一族宮城家相伝系図書」の原本解説があり皆様驚愕される内容であろうかと思います。
その系図書によれば「頼宗」は「土岐頼貞」の子「本名頼清又頼藤」六郎次郎1291年生1351年卒62歳とされています。
時代が160年ほど違いますが土岐一族を想起させるお名前であると思います。源臣様ご指摘の可能性も大だと思います。
武家の系図は血統系図として見るより相続系図ですから年代の相違があることはありえます。弟が継げば兄の下に記されており、
付注がなければ後世の人は子供かとも誤解してしまいます。
また中世の婚姻は血を汚さないという誤った考えから血縁結婚が頻繁に繰り返されております。
「土岐頼清」もそうですが中世の人は2〜3の名前を持っており解明は、なかなか困難かと存じますが今後のご研究をお待ちしております。
「遊行笑人」様は歴史探求に熱心な方でありご協力が得られるものと思います。 


10 名前:遊行笑人 投稿日: 2004/11/16(火) 14:51 
加賀守末裔様・源臣殿のご説明の土岐頼芸氏の弟頼元氏の系列の方々は伊予の国にも御縁ある家系と以前、
美濃の林様から伺った事もあり、頼芸殿の身上も信長、斎藤氏の時代には、苦難・難儀の由を聞く。
細川氏の関係や長宗我部の経緯のことを鑑みましたら、四国の国情は複雑に変貌を提した時代也。
土佐国大津城の由縁の方に、九州在住の中村氏が居られ、別のサイトで、先祖を尋ねられております。
この方の先祖は、大津天竺城主細川氏の家来衆か?身内か?は定かではないのですが、中村右近の子孫と先祖から伝承されており、
系図が中途で不祥(記載が切れている)の故、何方か由来のある方を探し、系図を完成する様にと遺言されて居られましたので、
丁度中村姓の先祖の探索のお手伝いを挿せて頂いております。
何処かで中村氏を名乗った所以に行き当たるかも知れませんね!。
連絡頂いたメール宛に改めて、ご紹介挿せて頂きます。(相手の中村様の了解がいただければ、この際窓口でも紹介挿せて頂きます) 


11 名前:美濃林 投稿日: 2004/11/16(火) 16:41 
あくまでも推測のかぎりですが、明応4年(1495)に美濃応仁の乱と言われた「舟田の乱」があり土岐、
斉藤一族が相続をめぐり血縁同士で戦いました。
「頼宗」殿が1515年卒であれば「舟田の乱」で土岐政房(後の九代守護)と守護代斉藤利国に敗北し、
近江の六角氏などを頼り西に逃れたであろう土岐元頼(八代守護土岐成頼の庶子)に味方した一族の可能性があります。
また、加賀守は土岐明智一族と姻戚関係がある進士(官名)山岸家(称利仁流藤原氏)が称しています。ご参考まで。 


12 名前:澤源 投稿日: 2004/11/17(水) 20:02 
来年のフォーラム開催準備で、東京や京都又伊勢などへ飛び回っているうちに
加賀守末裔さまから遊行笑人さまから御登壇賜りまして誠にありがとうございます
中でも、香川県における土岐一族については、牟礼町の舟木氏について、
綾歌町の明智光春子孫について(光秀子孫とも言われる)、又高知県においては
山内一豊の家老乾氏、又石谷氏などを聞いておりました。
それ以外に、当然土岐姓の方々もみえますので、
是非美濃源氏フォーラム高松事務局が創って頂けたら幸いに存じます。
いずれにしても、全国の話を広げて参りましょう。 


13 名前:遊行笑人 投稿日: 2004/11/18(木) 05:03 
澤源殿お久しぶりです。何時もながらの東奔西走のご様子、目に浮かびます!
何時も美濃の林様には、土岐氏の歴史他にて色々と、ご懇意に挿せて頂いて居ります。
この度、地元・牟礼町の土岐氏の流れを汲む御仁の中村氏のアクセスを受け、忙しく成りそうな気がします。
地元の町史の史料も役場に有る様ですので、探って見ます。又ご報告致します! 


14 名前:澤源 投稿日: 2004/11/18(木) 21:15 
遊行笑人様、愛媛で毎日御多忙な中、美濃へのご出陣誠に有り難く存じ上げます。
然しながら、四国の河野氏と共にした土岐氏の関係も多々ありそうでありますので、
美濃の林様ともどもご指導の程宜しくお願い申し上げます。
尚、香川県には延喜式内社讃岐国稲積大社高屋神社加麻良神社の西田氏が土岐一族で
土岐明智系統の沼田氏分派でありますので、加賀守末裔様とご一緒に研究の程
宜しくお願い申し上げます。 


15 名前:遊行笑人 投稿日: 2004/11/18(木) 23:11 
澤源殿ご案内の讃岐国の土岐氏の同族・分派の継累の方々のご紹介のこと心にとめて勉強挿せて頂きます。
伊予の河野氏・土居氏(南予鈴木家累・瀬戸内河野家累)の由縁を深索すべく、
この度『西南四国歴史文化研究会』に会員申し込みを済ませました。
土佐国西南部と伊予国南部の歴史の遊行を此れから足を延ばし、情報収集と研究を試みて見てみます。
土岐氏の関連記事に接しましたら直ぐにご報告します。
明日からは江戸末期の120年ぶりに同じ先祖の人物から分かれました江戸の住人の者と伊予の国湯築城で出会い、
その後土佐の国宿毛・高知経由で讃岐の国の先祖所縁の地の遊行に出かけ留守にしますので悪しからず、暇を頂きます。 


16 名前:源臣 投稿日: 2004/11/19(金) 15:32 
加賀守末裔様、頼宗様の没年以外の情報は他にお持ちでしょうか?例えば別名とか・・・。
どんな事でも結構ですから、差し支えのない範囲でお教えください。たいした知識は持ち合わせませんが、
今後の調査の中で関連情報と出会わないとも限りません。中村加賀守が一族のどこに繋がるか、貴重なテーマが
僕のノートに新たに加わりました。 


17 名前:加賀守末裔 投稿日: 2004/11/19(金) 16:57 
「澤源」様、未熟者ですが、どうぞよろしくお願いいたします。
「源臣」様、少ない資料ですが「牟礼町史」などに書いてある事を書きます。
源資料、編纂された方などは、今のところ不勉強でわかっていません。
また、一族の先人が調べた物もあり、その部分は{  }で区切ります。
頼宗−幼名・新九朗と言い、{父・土岐成瀬、母・中村七朗左衛門入道浄運之女
の間に、奥州中村の里に文明年間に生を受け美濃国に育つも同族不和の為、京に
出て細川高国・氏綱に仕えた。}牟礼日向守秀尚之女を娶り、幼名・新次郎、
後の氏宗・加賀守を産む。{氏宗長じて牟礼権兵衛秀親之女を娶り、恒頼―後の
宗卜(むねしめ)、政氏、成貞、宗貞を産む。}外姻・牟礼越中守村秀、摂津の
陣中に病死、後継無く、天文21年村秀の旧領・讃州三木郡牟礼・大町の2邑を
戦功を賞して氏宗に賜る、等々とあります。
(細川晴元、三好元長らと戦って敗れ、縁者のいた讃岐・牟礼の地で兵備を整え
機を待ち、細川氏綱、三好長慶らと兵を挙げ、摂津・楠南城の攻城戦等で戦功を
挙げた。)なども、聞いております。
先に書きました、「美濃国に育つも同族不和の為」が「美濃林」様のおっしゃる
「舟田の乱」かもしれません。この折、名前を生を受けた中村の里に変え、紋も
変えたように聞いており、そうとうな事があったのでは、と思っています。
(「牟礼町史」のこの項、原文は漢文です。)
浅学ですので、「中村七朗左衛門入道浄運」「奥州中村の里」「牟礼日向守秀尚」
「牟礼権兵衛秀親」「牟礼越中守村秀」等もわかりませんが、讃岐・牟礼城に
関係していると思っています。よろしく、お願いします。 


18 名前:加賀守末裔 投稿日: 2004/11/19(金) 17:06 
書き忘れました。地元史ではどれにも「土岐末流」「土岐庶流」とあります。
一族の先人が調べた資料「父・土岐成瀬、母・中村七朗左衛門入道浄運之女の
間に、奥州中村の里に文明年間に生を受け美濃国に育つ」が、私の特に気になって
いる所です。あるいは、また別の繋がりなのか・・・。 


19 名前:美濃林 投稿日: 2004/11/19(金) 18:05 
八代守護土岐成頼自体がどういう人かわかりません。下記は「古代氏族系譜集成」著者宝賀寿男氏の見解です。
成頼の父を饗庭備中守義枚(或いは義政、元明)の子、また一色兵部少輔義遠の子とも伝える。
土岐系図(子爵本、徳山本、阿子田家蔵)に記載の一説に「実は光俊子」という。
成頼は持益の従兄弟の佐良木光俊の子とするのが妥当と述べられています。
「尊卑分脈」では成頼は法名宗安明応六年四月三日卒。
成頼の子として政房、定頼(政房同母)、尚頼(政房同母)、元頼が知られています。
成頼は元頼を支援したため一族を二分する戦いとなり、土岐成頼、元頼方となった土岐一族も多かったのであろうと思います。
元頼の母の出自は、わかりません。頼宗殿が土岐元頼と兄弟だった可能性もあります。
一般の系図には記載されていない土岐一族もたくさんあります。また細川高国は近江六角氏や土岐氏とも関係があります。
お調べくださいますよう。また母方中村氏の出自が奥州方面にあり、もともと名字の地は陸奥国新田郡中村郷などの可能性があります。
源氏に味方し鎌倉時代に美濃に移住した人達の末裔ではないかと思われます。
よく解からなければ解からないほど調査する楽しみもあろうかと思います。
しかし調査しても永久にわからない可能性もあります。「念ずれば花ひらく」です。 


20 名前:澤源 投稿日: 2004/11/20(土) 00:14 
明日20日と21日に講座がありますので簡単に本日の感想は、日向守秀尚の娘を娶り・・・の部分について
綾歌郡へ逃げた明智三春子孫の伝承から、惟任日向守光秀を連想してしまうのですが・・・・坂本竜馬にも
又、奥州の土岐氏としては、青森県が全国一の土岐姓の地域ですが、美濃との繋がりは今の所不明です
その他、岩手県宮古市には土岐頼兼の子である頼孝、そしてその子頼古が土着したとの話もあります 


21 名前:源臣 投稿日: 2004/11/20(土) 11:16 
加賀守末裔様。貴重な情報をありがとうございます。
成頼の子に政房、定頼、尚頼、元頼、成教(義成)がいるのは既にご承知でしょうが、
その他に現在判っておりますのは、頼房(鷲尾九郎)瑞護(僧)妙守(僧)元房(九郎)
貞延(対松軒)などがおります。上の3人と元頼以降の母は違うようです。
元頼以降の兄弟も母が同一とは思えません。この他にも土岐会の会員の先祖に成頼の子、頼基(頼貞の子と同名偉人)がおります。
頼房と元房が同じ九郎というのが気になります。
元房を新九郎と呼んでいたと推測するのは、僕のロマンが過ぎるでしょうか?
いずれにしましても、成頼に頼宗という子供がいたと言う情報を大切にしたいと思います。 


22 名前:屋島西町の住人 投稿日: 2005/07/07(木) 12:49:06 
中村加賀守の関係者の皆様へ
 中村加賀守のご子孫は、今岐阜にお住まいで当主であった叔父は亡くなって
いますが叔母は80余歳でお元気です。
 昨秋も墓地(白羽神社の南側)に関して牟礼に来られています。
系図などもお持ちだと思いますが、確認はしておりません。
もし、投稿されておられる方で調査などされている方は御一報戴ければ思います。 


23 名前:屋島西町の住人 投稿日: 2005/07/07(木) 12:50:03 
中村加賀守の関係者の皆様へ
 中村加賀守のご子孫は、今岐阜にお住まいで当主であった叔父は亡くなって
いますが叔母は80余歳でお元気です。
 昨秋も墓地(白羽神社の南側)に関して牟礼に来られています。
系図などもお持ちだと思いますが、確認はしておりません。
もし、投稿されておられる方で調査などされている方は御一報戴ければ思います。 


土岐頼武と政頼、頼純との関係

1 名前:美濃林 投稿日: 2005/06/27(月) 11:14:30 
土岐頼武問題について宝賀寿男先生のご見解を伺いましたので、HPご参考まで。
このなかで「天文十六年十一月十七日」に死んだのは土岐頼純ではなく二十四才の若さで早世したのは
土岐頼芸の嫡子土岐二郎頼充であり、土岐頼純が実際死んだのは同年八月の大桑での戦いか
「天文十八年伸冬」前後とであろうされています。全くの新説であり今までどなたも指摘されてこなかったことだと思います。
大変説得力のある新説であり、納得できるものであろうと思います。結論は土岐政頼(頼武、盛頼)と頼純とは同人とされています。
「美濃源氏フォーラム」としても再検討して頂きたいものだと思います。

  HPは    http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keijiban/tokiyorit1.htm 


2 名前:美濃林 投稿日: 2005/06/30(木) 18:27:15 
みなさま、どうされました?あまりの静寂に当方が戸惑ってしまいます。
長良川さま、岐阜県史などの誤りを訂正させるまで頑張りましょう。一遍上人いわく「一切を捨離すべし」。
どうしてもそんな気になれませんね。煩悩だらけです。 


3 名前:澤源 投稿日: 2005/07/01(金) 11:49:50 
美濃の古寺関係資料からの解説不足です。 


4 名前:長良川 投稿日: 2005/07/01(金) 13:12:25 
美濃林先生のご執念恐れ入りました。さて、小川明氏の『屋愚集』の仁岫録ですが、
その中の土岐頼純公葬儀の折の解ですが、私が思うに後世の人が一連の流れを表す
ため、継接ぎ的にまとめた様な気がします。梅香・温顔等何故か平穏な部分が気
になります。 


5 名前:美濃林 投稿日: 2005/07/01(金) 18:08:18 
長良川さまのご造詣の深さには感服いたします。保守的、閉鎖的にならないよう歴史は、
いろいろな人の意見にも耳を傾ける必要があると思います。その点、岐阜の中世史研究の現状は、
研究すべき人がやるべきことをやっていない感があることは否めないと思われます。 



 


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