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141〜150
141: 「土岐系図」 (27)
142: 明智光秀の遺跡を訪ねて (3)
143: 千社札の貼り方 (3)
144: 見ました。すごい! (6)
145: 初代長兵衛の鷹 (20)
146: 鵜沼承国寺 (2)
147: 増上寺の土岐石灯籠 (1)
148: 村松志保子の顕彰碑設立について (2)
149: 日本の苗字七千傑 (2)
150: 「山田寅次郎」TV放映 (8)


「土岐系図」

1 名前:美濃林 投稿日: 2005/02/03(木) 19:18:10 
近年、美濃守護十代は土岐頼武でその子は頼純という説が岐阜県などでも認知されていますが、
土岐頼武、政頼、盛頼、頼純は同一人物であろうとする説もあります。
数百年伝来されている系図がここ十年ほどで簡単に変えられてしまいました。。
岐阜県山県市大桑の南泉寺には十代守護土岐頼純公の墓があります。
刑死した二代守護土岐頼遠をのぞいて歴代守護の戒名や墓は明らかです。
土岐頼武の戒名や墓は不明です。土岐御一族の皆様方は、どのように考えておられるのか不思議です。 


2 名前:源臣 投稿日: 2005/02/03(木) 22:09:28 
清和源氏か陽成源氏か?頼信の石清水八幡宮の願文が発見されたときなどのように、
変更や断定などは大変難しい問題が含まれているように思われます。
事実はどうなのかを諦めずに追求し続け無ければならないでしょう。美濃林様から教えいただきましたように、
頼武―頼純説の根拠は永保持の禁制及び福井市武生の古文書だそうですが、どのようなものなのでしょうか?
土岐一族としてお答えするような立場のものではありませんが、個人的には近年そういう古文書が出てきて
新しい説が称えられていると、そのような程度で捉えております。肯定する根拠も否定する根拠も残念ながら持ち合わせておりません。
ただしこのHPの土岐一族略系図についてはご担当されました源秀様とは、頼武―頼純のところは、「美濃源氏フォーラム
系図委員会」などがあって、検討を加えることが出来ればと話し合っております。
勿論そこでの決定が(ついた場合ですが)最終決着であるはずはありませんが。 


3 名前:美濃林 投稿日: 2005/02/04(金) 10:48:58 
反証できないため、このような説が公認されてしまうようになったと思います。
特に研究する方もおらず史料もないための紛乱であろうと思います。
一郷土史家の功名心のため数百年にわたる「土岐系図」が書き換えられてしまったということを
土岐一族の方々はどのようにお考えかということをお尋ねしています。第三者である私自身は、ひと事ながら憤慨してます。
本当に腹が立って寝られません。真剣なご研究を期待しております。 


4 名前:美濃林 投稿日: 2005/02/04(金) 18:35:02 
追伸「武将系譜辞典」の(土岐家人名録)

   http://www1.odn.ne.jp/~cem89780/    ご参考。
このHPはどのような方が運営されているか知りませんがよく調べておられ、すごいと思います。 


5 名前:澤源 投稿日: 2005/02/04(金) 19:16:30 
頼武・道三・頼芸・頼純の関係を資料に基づいて展開できるのは、現在のところ横山住雄氏だけのようです。
横山氏は、岐阜県中の石造物における金石文の拓本を40年近く収集し、現在あの薄い半紙が1mに及ぶ程となっています。
又、その金石文と合わせてお寺の古文書なども広範囲に見聞し、それが研究ベースとなっているようです。
ですから、江戸期以降の既存の文書のみに捕われて、抹殺されてしまった頼武などは恐らく涙を流して喜んでいる事でしょう。
唯一の問題は、政頼と頼純が別人であるかどうかでありますが、斎藤氏の研究も含めて考えねばならず、
現在では、岐阜県史の最新版に入るほどの理論展開であると言う事でしょう。 


6 名前:美濃林 投稿日: 2005/02/05(土) 09:15:42 
現在日本に伝承されている「土岐系図」に土岐頼武が記されているものはありません。
もし頼武が抹殺されたということであれば抹殺したのは土岐頼芸一族ということになりますが、
そうではないと思います。ただ観点が違うだけのことだと思います。新しい発見であるとしていかにも真実を発掘かに見えますが、
もう少し冷静に慎重に再検証したほうがよいのではないかと提案しております。
そうでなければ土岐一族は斉藤道三に国を乗っ取られ、
その上、他人によりあらたに「土岐系図」まで改竄されるようなことになりかねません。
昨年の宝賀寿男氏の講義内容ですが
「(「徳山氏系図」には年未詳の8月24日付け土岐頼武書状写がある)が頼武は政頼と同人とするのが自然です」
と述べられています。
これは土岐御一族全体の問題として再考されるべき課題であると思います。 


7 名前:澤源 投稿日: 2005/02/06(日) 23:49:27 
そうなのです、政頼と頼純がちがうのであります。 


8 名前:澤源 投稿日: 2005/02/06(日) 23:53:38 
頼武=政頼で、頼純がその後に亡くなっていないと、時代が合わないのです。 


9 名前:源臣 投稿日: 2005/02/15(火) 11:04:51 
政頼と頼純が別人とはどういうことでしょうか?その根拠は? 


10 名前:長良川 投稿日: 2005/05/30(月) 12:58:10 
頼純・頼武が同一か別人かは大桑南泉寺の仁しゅう宗寿和尚の頼純三周忌の
際の画像讃が1のヒントでありその中での「遂に」は長時間間隔を感じる。
又戻って来た人物が以前に比べやせ細り人人に笑われた表現はかって宗寿和尚
の弟子であった人物に対して辛辣である。だが南泉山自分の故郷であると一筋
に慕い戻って来た人物に対しある種の愛情をこの讃には感じる。
宗寿和尚は永正の政変及び天文の土岐氏滅亡を目の当りに見てきた人である
恐らく守護継承時は政頼で最初の越前逃亡後の帰還は名を頼武を名乗り、十年
後の越前逃亡そして十余年後に遂に戻って来た時には頼純と再度名を改め土岐氏
の復権に余命をかけたと思われる。私の結論は以上の推論から政頼・頼武・頼純
は同一人物である。 


11 名前:美濃林 投稿日: 2005/05/30(月) 17:20:23 
ご見識、拝承致しました。「古代氏族系譜集成にみる土岐一族」ー土岐一族関係系図の各種検討(試論)ー宝賀寿男氏

   http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/toki/toki1.htm   ご参考。 


12 名前:美濃林 投稿日: 2005/06/01(水) 09:10:09 
高富町史、史料編118頁 南泉寺殿玉岑玄珪大禅定門眞讃、下火。天文16年11月17日卒。
128頁土岐頼純肖像仁岫宗寿讃。承隆寺殿前左京兆海雲壽公大禅定門(土岐政房)永正16年6月16日卒96頁。
天澤宗清居士三十三回忌之香語(朝倉貞景)山縣郡居住奉三寳弟子孝女。長良川様のご提言通り、
精査すべきであり見逃していることがあると思います。 


13 名前:美濃林 投稿日: 2005/06/02(木) 16:33:23 
朝倉貞景(1472〜1512)永正九年三月二十五日卒40才。朝倉孝景(1492〜1548)天文十七年三月二十二日卒56才。
朝倉貞景の室は斉藤利国女永正十五年十月十四日卒。土岐政頼、斉藤利良永正十五年(1518)に越前逃亡。
朝倉義景天正元年(1573)八月二十日卒41才。松隠庵開基惟清利貞首座大姉一周忌之香語 天文六年八月初三日仁岫。
利貞尼(約1455〜1537)は斉藤利国の室。朝倉貞景の三十三回忌の法要を行った山縣郡居住の女性は利貞尼に関係する人であろうか?
朝倉貞景の法名は長陽院殿天沢宗清。仁岫和尚が土岐、斉藤氏の盛衰をすべて知っていることとなります。 


14 名前:澤源 投稿日: 2005/06/12(日) 01:12:50 
天文四年(1535)六月十六日土岐政房十七回忌法要が守護館で行なわれたが祭主は孝男源府君頼芸であった(仁岫録)。
同年、守護が出家し恵胤と号した(後奈良院宸記)、同年八月に守護が修理太夫と四位を朝廷へ申請した(同書)。
土岐政房は文正元年(1466)生まれで、頼芸が生まれた文亀元年(1501)は36歳頃であった。
嫡男政頼は、順調に政房が育っていれば20歳から21歳の頃出生であろうから、政頼と頼芸の年齢差は凡そ15才か。
そして、土岐頼武の守護発給文書は大永二年(1522)から五年(1525)のものが確認されており、
政房死去が永正十六年(1519)であるから、それ以後3年程の守護は誰であろうか。
何故、政房の嫡男が政頼であるのに、父の「政」と土岐氏の通字である「頼」を使用せず、頼武としたか。
それは、朝倉へ追われた父への対抗意識から、「政」を捨て「武」にて守護職を捕る心の内と見るべきでは。
さて、頼純については天文十六(1547)年十一月十一日49歳で亡くなり南泉殿玉岑玄珪居士とされているが、
仁岫語録『屋愚集』にある南泉殿葬儀の時の鎖龕(さがん)の語によって24歳が正しい。
とすると、頼純の出生は1525年頃となり、大永五年頃の政頼守護の25歳の時代である。
ゆえに、49歳頼純の死亡年代とは父政頼(頼武)の事が伝承されたのではないか。
頼芸が天文四年(1535)に美濃守護となった頃、頼純は10歳ほどで
美濃から朝倉へ落ちる天文十二年(1543)は18歳頃で、
天文十三年(1544)八月にかけて越前と尾張軍の二万五・六千人の軍勢に率いられて
美濃を奪還するも、九月のすぐに越前へ再び引き上げた。
その後天文十五年六角氏の力で、再度美濃へ入国し守護になれど、
天文十六年に急死となってしまったが、偶然として片付けるには忍びない。
 以上の様に、概観で『政房』と『政頼=頼武』と『頼純』を整理してみましたので、
皆様のご意見をお待ち申し上げます。 


15 名前:澤源 投稿日: 2005/06/12(日) 01:25:14 
追伸 政頼と頼武と頼純が同一人物とすると、出生が1485年〜1486年の推定で、
  死亡が1547年となり、60歳近い年齢であったことになります。
  又、南泉寺の49歳死亡説からみると1499年頃の出生となり、
  父政房が嫡男を作った年代が33歳頃となってしまいます。
  以上の状況から、同一人物説は難しいのではないでしょうか。 


16 名前:澤源 投稿日: 2005/06/12(日) 01:41:03 
再追伸 南泉寺の頼純三回忌の画像讃について『始め越烏に随って去り、また岐鳳に因って遂わる。
仁愛冬日の趙、武威雪夜の裴』について
若くして越前に去り、のちに又岐陽の鳳凰(斎藤道三)によって遂われた不運の人で、ついに若い命を終えた
道三の目が光る中で、最大限の哀悼の言葉ではないでしょぅか 


17 名前:美濃林 投稿日: 2005/06/13(月) 11:57:32 
澤源氏の光秀探訪やら土岐氏研究活動については本当に頭が下がります。研究者、専門家にも、これほどの熱心さがあればとも思います。
明応4年(1495)の舟田の乱以降の土岐氏の内訌がずっと続きついには土岐家自体が崩壊してしまったということでしょう。
「政頼=頼武」であれば皆さんも納得されると思います。
「頼純」は「政頼」の子供として法名が「南泉殿玉岑玄桂大禅定門」であれば
父親の「政頼=頼武」の墓や法名は不明ですので今後の研究に期待したいと思います。 


18 名前:長良川 投稿日: 2005/06/14(火) 13:15:20 
南泉寺の頼純画像を拝見したならば、その人物が少なくとも40代であることを理解するだろう。
仁岫和尚の讃の冒頭本朝貴姓以源為魁以下は始美濃を越の烏用に追われ、その間十余年肌を刺す様な寒い地で
美濃の国の人人を思い、頼純として美濃に遂に帰った時人人は昔日の面影のない人物として迎えたのであろうか、
この瞬間頼武とかっての乗っていた人物の名は消え、周囲は頼純として確かに冷ややかではあるが、迎いいてたのであろう。
我々は今日諸書物により政房・頼芸の人格を朧下なりとも掴む事ができる。天文4年の長良川氾濫の枝広舘から大桑への移転
頼芸を政から文芸への思慕をより以上強め一時出家し恵胤を名乗ったかもしれない人物である。
かって、腐っても上国美濃守護職であった人物である、その生死がどうであれ今日何の足跡が皆目判然としえない
人物を別個人として捕らえるのはいかがなものか。 


19 名前:美濃林 投稿日: 2005/06/14(火) 15:34:19 
12月4日(日)岐阜長良講座にて西村覚良氏(岐阜市埋蔵文化財調査事務所長)が
「大桑城の攻防を巡る人々ー土岐頼純を中心に」という演題で講演されます。
楽しみですが結局、岐阜では真剣な土岐氏研究がなされていないということにつきるのではないかと思います。
やるべき立場の人が、やるべき事をやっていないということだと思います。
岐阜県史も認知している現状では、何を言っても所詮犬の遠吠えにしかなりません。
我々第三者にとってはどうでもよいことと静観した方が健康のためでしよう。 


20 名前:源臣 投稿日: 2005/06/14(火) 17:59:48 
スレ14の澤源様の項に政房死去が永正16年(1519)であるから、それ以後3年程の守護は誰であろうか。とございますが、
「土岐家譜」には永正14年(1517)に「頼純が家督相続」(いうまでもなく父・政房からです)とあります。
頼純の出生を1525年頃と推定する根拠となる、仁岬語録『屋愚集』の語によって、頼純の没年を24歳と断定され、
それを根拠にいろいろと推理されるのはご自由ですが・・・。
小生もそういう記録があるという情報は大切にして行きたいと思います。
改めて申し上げることもございませんが「土岐家譜」にある頼純の没年は、天文16年(1547)11月17日 49歳、
法号 南泉寺殿玉岑珪公大禅
家譜や系図は残念ながら、今ひとつ歴史資料としての価値はあまり高くありませんが、先祖の没年や享年、
それなりの家に於ける家督相続の記録等は、かなり参考になるのではないでしょうか。 


21 名前:美濃林 投稿日: 2005/06/15(水) 17:49:27 
土岐御一族としてのご見解を期待したいと思います。
次世代に持ち越すことがないよう誰かがやらなければならないことだと思います。
今ここではっきりさせておかなければ更にわかりにくくなるのではないでしょうか?一郷土史家の説に翻弄されることなく、
数百年にわたり継承された土岐家としての系譜を大切にして頂きたいと思います。 

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24 名前:美濃林 投稿日: 2005/06/16(木) 11:34:07 
澤源氏もだいぶおつかれのようですね。ストレスが、たまり過ぎているようなので息抜きしてください。
倒れられたらこのフォーラム事業も終わってしまいますのでくれぐれもお体を大切に。
私がストレスの原因かもしれませんが。19日はゴルフに行かず、まじめに歴史講座の設営しますからご宥免ください。 

25 名前:長良川 投稿日: 2005/06/16(木) 12:57:58 
澤源先生には大変失礼ですが、一言ご注意をスレ14で頼武・頼純の出生年推定を
行っていますが、その中で頼武は政房20歳の1486年頃、頼純は1547年に24、5歳で
亡くなっていますので、1522,3年の出生とすると頼武の35,6歳の頃の子になりますよ
私が思うに近年になり若干の頼武関係文書が見いだされますが、今日迄その周辺の足跡
やら、民間伝承等皆目何も報告されていない事に疑問を持っているだけなのですよ。
美濃源氏フォーラムの研究発表での各個人の憶測での報告結果に、何か割り切れないものが
をただ感じているだけですよ。それめでの各先生方の研究成果は尊敬・評価はしています。 


26 名前:美濃林 投稿日: 2005/06/16(木) 15:06:14 
やはり政頼、盛頼、頼純、頼武はどう考えても同一人物ですね。
たまたま永保寺などにきまぐれで頼武を使用した文書が残っていただけでしょう。
草葉の陰で怒り心頭に発している方もおられることと思いますが。
それより朝倉貞景の三十三回忌の法要を執り行った山縣郡居住の女性は朝倉貞景の娘であり
利貞尼の孫にあたる人であろう思われますので、もし、この方の足跡などがわかれば新しい発見があるのではないかと思います。
利貞尼の寺または汾陽寺あたりに手がかりがあるやもしれません。
また、このような香語が残っていること自体が時代背景などを考えるとなかなか理解しがたいものがあります。
ぜひご教示頂きたいと思います。 


27 名前:美濃林 投稿日: 2005/06/17(金) 11:30:07 
朝倉貞景の娘が武芸川町谷口の利貞尼の寺または、斉藤氏の寺汾陽寺近辺に居住していたとするなら、
山県市中洞にある伝明智光秀の墓こそが土岐政頼=頼武の墓である可能性が高いと思われます。
この明智光秀の伝承を主張する荒深氏の説は荒唐無稽のものであり、
むしろ斉藤道三に憚ってひっそりと建立されたようなおもむきのあるこの墓こそ悲劇の守護土岐政頼の墓ではないでしょうか?
南泉寺の土岐頼純の墓は後斉藤氏滅亡後、堂々と再建されたものであろうと考えられます。 

   
明智光秀の遺跡を訪ねて

1 名前:澤源 投稿日: 2005/05/17(火) 09:21:17 
6月13日〜14日にかけて「明智光秀」の遺跡を訪ねます。
岸和田本徳寺には、唯一光秀公の肖像画があり、お寺様のご好意で拝観させていただける事になりました。
これは、掲示板管理者Ryuko様が旧知の間柄とのことで、ご尽力賜りました。
そして、大阪高槻市にある霊松寺は土岐明智氏の沼田土岐家の菩提寺で、ここも参拝致します。
そして、14日は大津市西教寺にて明智光秀公顕彰会総会があり、法要並びに講演会が開催されます。
つきましては、岐阜県の瑞浪市役所より午前7時に出発する参加者を募集していますので、
全行程参加でなくても構いませんから、現地集合も受け付けますので希望者は御連絡くださいませ。 


2 名前:Ryuko 投稿日: 2005/05/18(水) 07:50:16 
本徳寺とは美濃源氏フォーラムが創立される前に知り合いましたので、最近まで、本徳寺に明智光秀画像があるのを知りませんでした。
明智光秀の子孫の方とお会いする機会を得、明智光秀に関する本を読んでいたら、
岸和田の本徳寺に明智光秀だ増があると知り驚きました。
光秀画像に逢いたいと思っておりましたら、美濃源氏フォーラムで企画されていましたので、さらに驚きました。
しかし、今回は参加できず残念です。
千葉県市原市に明智光秀の側室の墓と光秀の子と伝えられるお墓があります。市原市の郷土史家の大室氏の推論では、
坂本城で亡くなったとされる光慶ではないかとあります。
光慶ではなくても光秀の子と伝えられるのであれば、光秀の画像に逢わせてあげたいと思い、
お墓の写真と大室氏の研究論文を本徳寺に送り、光秀画像の前にお供えしていただくようお願い致しました。
坂本城を逃れて、遥か千葉の山奥でひっそり暮らしたであろう若武者のことを思うと心が痛んでおりましたので、
数百年ぶりに親子の対面の機会を作ってくれた、美濃源氏フォーラムの企画に感謝しています。 


3 名前:澤源 投稿日: 2005/06/12(日) 23:50:08 
いよいよ明日から光秀探訪です。メンバーは、澤源と桑隆・桑純・恵山・佐治夫妻、
そして、なんと私の次女が帰省していたので、岸和田まで同行することになりました。
そして、本徳寺にて土岐姫と源新夫妻に合流しますが、
Ryuko様のご手配にて喜々として参上致します。
その後、高槻の霊松寺へ向いますが、
ここも沼田土岐家の大姫百合様より執り成して頂いてしるとの事ですし、
資料も用意して頂きましたので、先ほど準備が終わったところです。
尚、西教寺では中島道子先生と桐野作人さんが同宿される由、楽しみです。
その他、帰路では千本松原へ途中下車することになりそうで、
薩摩義士の堤防かさ上げ工事の記念碑を見学してから、一同解散になりそうです。 


千社札の貼り方

1 名前:源章です 投稿日: 2005/06/07(火) 01:35:02 
一応貼りつけました。 


2 名前:源臣 投稿日: 2005/06/07(火) 07:59:21 
拝見しました。有難うございます。 


3 名前:Ryuko 投稿日: 2005/06/10(金) 22:12:01 
千社札の貼り方は源章様のHP、「お父さん」のページに掲載されております。百聞は一軒に如かずです。
青森の土岐様も、お父様の作られた「土岐」の千社札を床の間の鴨居に貼られていらっしゃいました。
10年前、瑞浪で開催された第1回土岐氏フォーラムでのお父様との出会いをいつも思い出されているそうです。
原章様のHP

  http://www.geocities.jp/iron_tokihard/ 


見ました。すごい!

1 名前:臣道 投稿日: 2003/05/06(火) 09:38 
ホームペイジ 開設おめでとうございます。土岐関連情報が見つかったら、書き込みます。
一族史見習としては、新情報の発見は雲の上の上のことで、無理かもしれませんが、
意欲だけは「ムスターファ」の年になっても、まだまだ健在です。
それではまた。失礼致しました。 


2 名前:Ryuko 投稿日: 2003/05/06(火) 12:22 
Ryukoです。HP見てくれてありがとう。
未熟なHPで申し訳ないのですが、これから徐々に整えて
いきたいと思っていますのでよろしくお願いいたします。 


3 名前:源 投稿日: 2005/05/05(木) 14:58:15 
HP拝見しました 
我が家の家紋は丸に桔梗でTVで明智氏が討ち入りの際にかがげていた
ノボリが桔梗で驚いたことがあります。
祖先が土岐氏に通じるときいたことはありますが
こんなふうに繋がりがあるのは不思議です
機会があればフォーラムにも参加してみたいですね 


4 名前:澤源 投稿日: 2005/05/05(木) 20:59:34 
源様 ご来場ありがとうございます 美濃源氏フォーラム事務局運営幹事の澤源と申します。
来る、5月7日(土)から岐阜県瑞浪市にて今年度の事業が始まりますので、
この掲示板の案内にてご確認いただき、是非ご参加くださいませ。
尚、「源」を使われる方が結構多いものですから、
あと一文字ぐらいありますと識別できるかと・・・。
尚、明智光秀公に連なる後家系とのこと、差し支えない程度に地域とか伝承話を
御教授くださいませ。 


5 名前:源臣 投稿日: 2005/05/05(木) 21:06:45 
源様ようこそ美濃源氏FのHPにお越しくださいました。
このHPには既にご覧のように、源様を含めた一族に関する情報をお持ちの方が、
沢山いらっしゃいます。どうぞお気軽にご相談ください。
もっともこちらがお教えを請う事の方が多いかもしれませんが・・・。
どうぞよろしくお願いいたします。 


6 名前:Ryuko 投稿日: 2005/05/07(土) 08:13:58 
東北の旅から帰ってきましたら、掲示板が賑やかになっていて驚きました。
また、源様からはホームページ開設当時のスレッドへの書き込みを頂きましたことは丁寧に読んで下さった証拠と大変嬉しく思いました。
お蔭様で初心に返り開設当時を思い出しました。
この掲示板にもたくさんの情報が集まるようになってきており、改めて皆様の支えを頂いていることに感動しています。 


初代長兵衛の鷹

1 名前:Ryuko 投稿日: 2005/04/25(月) 23:58:41 
育久夫さんの鷹の図を掲載して、鷹図を検索していましたら、下記のサイトを見つけました。
ちょっと、ミステリアスな初代長兵衛・・・土岐氏と関係ありそうではありませんか?

   http://asari-akt.hp.infoseek.co.jp/ronkou/tyoubei.htm

この論考に掲載されている鷹の図(初代長兵衛鷹架図)と山口先生からお寄せ頂いた
夷隅郷土博物館の鷹の図(写真5)がそっくりなので驚いています。
土岐の鷹に関心が出てきました。育久夫さんの土岐俊量も解明されるといいですね。 


2 名前:源臣 投稿日: 2005/04/26(火) 22:01:58 
凄いサイトを見つけましたねえ、興味津津です。敦賀城主蜂屋出羽守頼隆を何とか探し出したいものです。
土岐氏をして「土岐風鷹絵」とか、鷹の絵を評価するときに「土岐の風格」有り等と往時言っていたとは・・・
俊量はもとより富景や洞文のことなどわからないことだらけですが、頼芸の孫の頼高もおなじ(ヨリタカ)
で鷹の絵がありますねえ。今石灯籠に振り回されていますが、鷹が気になって仕方ありません。 


3 名前:源臣 投稿日: 2005/04/26(火) 22:12:37 
写真5は「初代長兵衛の鷹架図」と全く同じものですねえ・・・。
初代長兵衛なる人物が非常に気になってきました。 


4 名前:delete 投稿日: delete 
delete 


5 名前:Ryuko 投稿日: 2005/04/27(水) 04:41:38 
長兵衛論考の写真がカラーでないのが残念ですが、よくよく見ると紐の色など違うようです。
この絵のカラー写真を見つけたいですね。山口先生の解説写真5は、
夷隅町郷土博物館にあるとの事なので実際に見ることが可能なのはラッキーですね。
灯籠が一段落したら探検しませんか? 


6 名前:源臣 投稿日: 2005/04/27(水) 17:24:24 
4番デリートありがとうございます。
土岐探検隊の出番ですねえ。それまでに何とかカラー写真を手に入れましょう。
関東近県の方、(もちろん遠方の方でも歓迎ですが)興味のある方は是非お声をおかけください。 


7 名前:浅利 投稿日: 2005/04/27(水) 18:40:31 
『長兵衛鷹絵考』編集責任者の秋田大館市浅利です。土岐氏のHPを初めて笠さんのメールで知りました。
お邪魔させていただきます。土岐氏は数年前から大変気になっておりまして、研究のため岐阜へ調査にいく予定しておりましたが、
距離があり
計画が立っておりませんでした。
三重県桑名市への調査が必要ですので、その節は是非土岐氏の周辺遺跡や鷹絵の実物を拝見したいと考えております。

土岐の鷹絵は伝統があり、こちらの牛欄(当家の先祖)が永禄5年以降、越前地方で日本画を学んだお手本かも知れません。
先祖牛欄は本格的な鷹匠で織田、蒲生、佐竹に鷹匠頭として勤仕しております。
鷹匠であり、絵描きであったことは『古画備考』の索引で浅利政吉として紹介されております。
これからも真実の探求のために、研究を一緒にやっていきたいものです。
どうか皆さんよろしく情報をお願いいたします。 


8 名前:Ryuko 投稿日: 2005/04/27(水) 21:15:40 
浅利様
美濃源氏フォーラムHPにお立ち寄り頂きましてありがとうございます。
桑名市照源寺の屏風も見事ですね。土岐氏も絵だけではなく土岐家に伝わる養鷹法があったとのことです。
思いがけずGW中に浅利様をお尋ねすることになりました。
よろしくお願い致します。 


9 名前:浅利 政敏 投稿日: 2005/04/29(金) 00:01:04 
源臣様からの御伝言が笠さまから届きました。
笠様にもお話ししますが、冷静にお話しましょう。

屋号について
蜂屋、蜂谷はどちらも同一姓とみていいでしょう。古くは土岐一族であり、また近江地方の豪商であったと聞いております。
武家であれ、商家であっても家系は近いものがあります。
私共の屋号は偶然か奇遇か近江商人の末裔で蜂屋五郎兵衛という山形の日本一の時計小売商のものであります。
いまから100年前に曾尊父が年季奉公をして獲得した屋号なのです。
ですから敦賀城主蜂屋出羽守頼隆とはなんの関係もございません。全くの偶然で、私自身もそこで修行しました。
そして時計修理の技術を学びました。

長兵衛について
私共の家系は慶長9年以来、明治までの幕末まで代々長兵衛を名乗っており、呼称も長兵衛と言われてきました。
これは確固たる事実であります。男子の長子は幼名が千徳、元服すると五郎作、家督相続すれば長兵衛で婿養子も長兵衛を
名乗りました。ですから長兵衛は私共の鷹絵にも影響を与えたとするのがベストではないかと考えます。
異論はあろうかとも思いますが、ここは冷静なる判断が必要ですので興奮しないでくださいね。

蜂屋六左衛門に関して
伊達騒動の原田甲斐を討った御仁と言うことは存じていますが、それ以上は踏み込めません。
系図などは今となっては解明できないでしょう。

ということでまずは期待に添えず申し訳なく存じますが、今後研究が深化して新たな事実が判明することを願っています。 


10 名前:浅利 政敏 投稿日: 2005/04/29(金) 00:05:23 
長兵衛について→誤記を書き改めます。
私共の家系は慶長9年以来、明治までの幕末まで代々長兵衛を名乗っており、呼称も長兵衛と言われてきました。
これは確固たる事実であります。男子の長子は幼名が千徳、元服すると五郎作、家督相続すれば長兵衛で婿養子も長兵衛を
名乗りました。ですから土岐氏の鷹絵が私共(長兵衛)の鷹絵にも影響を与えたとするのがベストではないかと考えます。
異論はあろうかとも思いますが、ここは冷静なる判断が必要ですので興奮しないでくださいね。 


11 名前:源臣 投稿日: 2005/04/29(金) 06:10:12 
年甲斐も無く久しぶりに「鷹」と「蜂屋」に熱くなりました。内情が現れたようで、
お恥ずかしゅうございます。にもかかわらず、ご丁寧な説明を頂きありがとうございます。
感謝申し上げます。 


12 名前:浅利 政敏 投稿日: 2005/04/29(金) 08:08:08 
源臣様、おはようございます。いやいや恥ずかしいと言うことはございませんよ。
熱たぎるような情熱がないと研究は前に進みません。思いつきや仮説は歴史考察の基本です。
思いこみ先入観はややもすると危険な坂道になりますが、鋭い論点は新しい発見に繋がる場合が多いですね。

土岐氏の歴史は時代も古く、歴史文書の多くは残存数が少なく大変ですが、
各地に分散した土岐一族の解明はとても楽しくうらやましい限りです。
私もこの長兵衛研究がやっと10年ですがほとんどが解明されておりませんが、苦しいながらも資料収集で全国を歩いています。
その時間と経済的な負担はかなりのものになりましたが、女房の理解のもと自営業の利点も生かし、自由気ままにやらせて貰っています。

57歳になりましたが、未だ研究に対する情熱は30代のつもりです、
どうかこれからも研究の情報交換や相互理解のもと仲良くしていただきたいと存じます。 


13 名前:源臣 投稿日: 2005/04/29(金) 10:20:18 
浅利様、こちらこそ今後ともよろしくお願いいたします。当方の調査・研究は散らかるばかりで、
少しも纏まりませんが、分相応に楽しんでおります。
一族の中には土岐鷹を研究している者もおります。今後の調査の中で鷹絵の情報などに出会う機会がありましたら、
お役に立てるかどうかは判りませんが、ご一報差し上げようと思います。
どうぞ長兵衛のご研究を末永くお楽しみくださいませ。 


14 名前:澤源 投稿日: 2005/04/29(金) 11:08:41 
この度、Ryuko様御夫妻並びに新婚長男御夫婦が、お嫁ちゃんの実家である秋田へ行かれたそうで、
近々に浅利様から東北土岐氏探訪をされる由、事務局整理ウイークで連休中自室に閉じこもっている者として、
大変羨ましい限りです。
 さて、浅利様の情報から幾つかのヒントが見えてきました。
@幼名千徳を名乗るとありますが、下閉伊郡史に出てくる宮城県宮古市千徳城の土岐氏と関係があるのでは・・・。
 土岐頼兼の嫡子頼古、そしてその子頼孝から続くものですが、千徳城を出て東北へ移動しております。
A宮城県瑞巌寺に伝わる『天台記』(東海市オオシマさんより御教授)には、北条氏が禅宗を広げる為に
 蜂屋氏などを派遣して布教に努めたと出てきますので、現在でも多くの蜂屋姓が居住してみえますので
 その分流として考えることは如何かと・・・。
 この、天台系を禅宗系に変えて行くというものは、殆んど他では見受けられませんが、
 実際にそうだったとしたら土岐頼貞も建長寺末定林寺を北条氏の意によって創建となり、
 全国の鎌倉禅と御家人の関係まで再考させることになります。

以上、浅利様と源臣様に敬意を表して、私考でありました。 


15 名前:浅利 政敏 投稿日: 2005/04/29(金) 17:30:13 
澤源様、はじめまして
早速おもしろいご提案ありがとうございます。
これだから歴史は楽しいものでネットの便利さをつくづく感じます。

@のひらめきはすばらしいものです。
確かに幼名千徳はあの宮古流千徳氏で土岐氏とは深い関係にありますね。
『千徳館興廃実記』によれば宮古千徳城主はかつて土岐氏であり、17代土岐次郎善勝などを
排出していますね。その一族が現在の青森県黒石市の浅瀬石に千徳政氏があり、その友好関係にあって
浅利氏と縁戚であった関係からでしょうと考えられておりますが、確証はありません。
こうした東北の隅々まで土岐氏が息づいています。
大変楽しい関係にあります。すごいことですね。

Aについては天台宗から禅宗への転換期はかなり早い時期にあったようですが
詳しくは後ほど検証したいと思います。
かなり掘り下げた段階に入って来てますね。どうぞよろしく。 


16 名前:澤源 投稿日: 2005/04/29(金) 19:05:57 
本日、平成16年度美濃源氏フォーラム決算報告書をまとめておりましたが、やっと8割まできました。
ぶっ続けですので、休憩がてらHPを見ますと展開が早いものですから、
完了までにはまだ少しかかりそうになって参りました。
さて、『千徳氏』については岩手県宮古市へ伺い、市史編纂室にて千徳土岐氏について問い合せ、
資料も宮古市へ行かれた燐市出身の伊藤さんから頂いておりますが、
まだ特定できないとの当時の見解でした。
明治以後に千徳氏子孫の方が、系図等まとめられたとのことで、
現在どのような市史となったか是非調べる必要があります。
それから、現在の『千徳氏』は北海道に41軒・岩手県に4軒・宮城県に1軒、
そして青森県は1軒ですが、やはり黒石市浅瀬石には千徳公民館がありました。
Ryuko様御一行が青森へ入り、黒石市の土岐さんにも会われる予定ですので、
大きな展開が始まるかもしれません。
これも、オミチビキのようであります。 


17 名前:総源 投稿日: 2005/05/02(月) 10:42:48 
ご無沙汰しております。
早速ですが、初代長兵衛の鷹の図を拝見し、びっくりしています。夷隅の鷹の図と全く同じですね。
しかも上総土岐氏は、蜂屋の系統ですし、なにか因縁を感じます。夷隅の鷹の年代は、室町とされていますが、これも同時期ですね。
リユウ子さん有難うございました。源臣さん、新たな調査結果が出ましたらご教示ください。
もし、夷隅の作品が初代長兵衛の作であったら、どうゆう経路で伝わり、なぜ夷隅にあるのか興味が深まります。
現在、夷隅の郷土資料館にある「鷹の図」は、以前、地元のある個人の方が所有していました。小生も何回かお会いし、
経緯等をお聞きしましたが詳細はお話しされることなくお亡くなりになってしまいました。
この疑問が分かるかもしれませんね。 


18 名前:浅利 政敏 投稿日: 2005/05/03(火) 10:18:16 
昨日、ryuko様ご夫妻がお帰りになり弘前方面で桜と土岐氏探訪を満喫されている様です。
夷隅と初代長兵衛の鷹絵の相似、酷似性は大変重要なことだと考えます。
同一作品(同一人物)であるということは断定は出来ませんが、師弟関係であったのではないだろうか、
というのがryukoさんとの合致した意見でした。
資料と写真をryuko様にお渡ししましたので、どうか実感してください。
考察の初期段階ですが、土岐頼芸と初代長兵衛は同一人物と考えない方が無難ではないかと存じます。
ryuko様の印象をお聞きください。早計ながら土岐鷹は初代長兵衛に相当の画風としての
影響を与えた!とするべきではないでしょうか!いかがでしようか。 


19 名前:源臣 投稿日: 2005/05/03(火) 20:09:02 
頼芸と初代長兵衛は別人と思います。初代長兵衛は土岐蜂屋の流れであるような気がしてなりません。
根拠はありません単なる推測ですが・・・・。そうあって欲しいと言う願望かもしれません。 


20 名前:浅利 政敏 投稿日: 2005/05/04(水) 08:24:20 
ご想像は自由ですが、現在初代橋本長兵衛は宮内庁書陵部発行『放鷹』所載浅利兵庫助政吉(茂)であると考えられております。
ですから土岐氏との画風での接点はありますが、土岐氏系と積極的に関連付けることはかなり無理があります。
それより、頼芸の越前での活動調査が先かと思われます。
鷹絵には一通りの姿態セオリーがありますので、どの方の鷹絵でも似ていますが、全く筆致が違います。
また無落款であっても分析は出来ます。
したがって、願望よりも多くの画派の鷹絵を比較検討したいと思っています。 

   
鵜沼承国寺

1 名前:澤源 投稿日: 2005/04/20(水) 22:47:56 
吉川弘文館発行の伊藤幸司著『中世日本の外交と禅宗』を岐阜県博物館で閲覧しましたら、
土岐頼益開基の鵜沼承国寺歴代住職から、いかに室町幕府が禅宗を通して外交を行なったか、
かかれていました。この切り口はすごいと思いますし、土岐氏の禅宗庇護が外交と結び付いていた事は、
さらに大内氏に多くのページを割き展開してみえますし、何より定価12000円ですので
とりあえず岐阜県図書館にて拝読して参りました。
次年度美濃源氏土岐氏研究講座の講師が一人見つかりました。 


2 名前:澤源 投稿日: 2005/05/02(月) 15:55:21 
訂正です
『中世日本の外交と禅宗』吉川弘文館・伊藤幸司著の定価は20,000円でした。 


増上寺の土岐石灯籠

1 名前:源臣 投稿日: 2005/04/08(金) 22:45:13 
行方不明になっていた土岐家の石灯籠が見つかりました。
土岐一族三代にわたる増上寺へ寄進した石灯籠が、あの東京大空襲を
潜り抜け現存していたのです。詳しくは「土岐氏研究ノート」辺りに
掲載されると思いますのでそちらをご覧下さい。 
   

村松志保子の顕彰碑設立について

1 名前:土岐 實光 投稿日: 2005/04/07(木) 19:44:11 
去る3月8日に、墨田区横網町に村松志保子の顕彰碑が建設されました。土岐藩の上屋敷は港区にありますが、
した。土岐藩の上屋敷は港区にありましたが、その別邸が墨田区にあり、土岐頼知の娘や御殿医などはそこに
住んでいたのです。志保子は父は沼田藩の御殿医村松玄庵、母は江戸詰家老中村家の娘和歌子との長女として
土岐家の別邸に生まれました。先にご紹介した山田寅次郎とはいとこになります。墨田区では明治時代の最初
慈善活動家として、また博愛の産医として高く評価されています。 


2 名前:源臣 投稿日: 2005/04/08(金) 22:20:57 
今日、横網町へ行って参りました。2年前に行ったときには頼知公のお屋敷はこの辺りなのだと、
徘徊しただけでしたが、今回は秋光園の一角に志保子の解説板がしっかり立っていました。
そこには土岐頼知公の2000坪の屋敷があったこと、妹の教育や一族の病気・治療のそのお礼のために、
志保子に半分の1000坪を譲ったこと等が書かれています。
この墨田の地には、江戸崎土岐朝昌の下屋敷があったり、土岐徳山の神社が残っていたりと、土岐一族ゆかりの地
でもあります。散策ご希望の方は源臣までお声をかけてください。 


日本の苗字七千傑

1 名前:Ryuko 投稿日: 2005/04/06(水) 19:53:25 
『日本の苗字七千傑』のWebサイトからリンクの申し入れを受けましたので、
美濃源氏フォーラムも相互リンクとしました。たいへん参考になるWebサイトですので、
ご活用ください。

   http://www.myouji7000.com/ 


2 名前:澤源 投稿日: 2005/04/07(木) 09:51:40 
Ryuko様、リンクでの更新ありがとうございました。早速拝見し、どの部分かを確認しましたら、
《氏族》のところで紹介されていましたので、皆様も是非御覧下さいませ。
尚、『日本の苗字七千傑』の管理者の方、まことにありがとうございました。 


「山田寅次郎」TV放映 

1 名前:源臣 投稿日: 2005/03/09(水) 18:13:09 
幕末の沼田藩主11代土岐頼之、12代頼知(ヨリオキ)に仕えたご家老中村雄左衛門(莞爾)、
その次男山田寅次郎(15歳で茶道宗偏流7世山田宗寿の養子になる)
は日本とトルコを結んだ明治の快男児と呼ばれた人です。この寅次郎の物語が
BSハイビジョン 3/21(月)20:00〜21:50まで放映されます。
寅次郎は慶応2年に沼田藩主土岐家上屋敷(江戸見坂)で父莞爾、母島の次男として生まれたそうです。
興味のあるお方はどうぞご覧になってください。 


2 名前:Ryuko 投稿日: 2005/03/10(木) 01:33:36 
上記の寅次郎については、實光様から「土岐を巡る最近の話題」として寄稿いただいた中に詳しい説明がなされていますので、
HPの「最近の話題」のページをお読み下さい。この番組は、ゴールデンウィークに短縮版が地上波でも放送される予定だそうです。
『明治の寅次郎 トルコを行く』という題名です。お見逃しなく! 


3 名前:Ryuko 投稿日: 2005/04/02(土) 00:51:03 
『明治の寅次郎トルコを行く』のビデオを友達に送ってもらいました。
寅次郎がトルコ皇帝にに献上した鎧兜がトプカプ宮殿に展示されているそうです。
兜は金色に輝く桔梗がデザインされています。TV画面から兜を写したものを上記ページに追加しましたので、ご覧下さい。
なお、このビデオをご覧になりたい方は、貸出しますのでメールでお知らせ下さい。 


4 名前:澤源 投稿日: 2005/04/03(日) 10:59:47 
早速拝見しましたが、やはり桔梗が兜には良く似合いますね。
沼田のお殿様からオンエア―の連絡を頂きまして、チャンネルを合わせようとしましたが、
残念ながらBSハイビジョンを引いておりませんので、次回のゴールデンウィークを楽しみにしています。 


5 名前:Ryuko 投稿日: 2005/04/03(日) 18:17:12 
澤源様
寅次郎の兜が美濃源氏フォーラムのバサラ武者人形の兜とそっくりなので驚きました。
こういう兜を土岐氏が使っていたのをご存知だったのですか? 


6 名前:澤源 投稿日: 2005/04/04(月) 09:53:28 
幾らなんでも、そこまでは私でもしりませんでした。
しかし、ぱっと見は正に、バサラ武者人形を彷彿させるようで、同感でありました。 


7 名前:delete 投稿日: delete 
delete 


8 名前:美濃平 投稿日: 2005/04/06(水) 10:32:21 
 神佛や天皇の権威に反した、婆沙羅大名高師直、土岐頼遠等の出で立ち、権威の
兜までど派手に成り、それが寅次郎まで続いたのですか。
 岐阜は伝統と進歩が、混在した土地だったのですね。 

  
 


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