過去ログ

トップへ
戻る
前へ
次へ

161〜170
161: 万里集九著『梅花無尽蔵』の世界 (1)
162: 土岐系図 (9)
163: 氏より育ち (2)
164: 新潟県蒲原郡の土岐氏一族 (2)
165: どなたかご記憶ありませんか? (2)
166: 雑談 (3)
167: 愛知万博、土岐プレミアムアウトレット (5)
168: 尾張藩・土岐氏 (15)
169: 戦国時代の恩賞 (1)
170: 土佐と美濃 (15)


万里集九著『梅花無尽蔵』の世界

1 名前:Ryuko 投稿日: 2005/02/12(土) 07:17:59 
美濃林様より、「万里集九著『梅花無尽蔵』の世界」が鵜沼歴史研究会(梅田薫代表)より出版された
とのご連絡を戴きましたので、「最近の話題」コーナーを新設し掲載致しました。
梅田薫氏は美濃源氏フォーラムの会員でもあり、来年度の美濃源氏歴史研究講座でご講演を戴く予定だそうです。
美濃源氏、土岐氏に関するHotな話題がありましたら、お寄せください。 


土岐系図

1 名前:澤源 投稿日: 2005/01/29(土) 16:44:35 
昨日、知人が訪ねてきましたが、その際「掛軸表装卸店」へ機械を納めていることから
是非掛軸として土岐氏系図を作成したい旨話した次第です。
一家に一本、土岐一族家系図を床の間に掛けて頂くのは・・・、需要はあるかしら?。 


2 名前:澤源 投稿日: 2005/01/30(日) 19:54:54 
早速Ryuko様のご主人より、土岐系図の原本原稿をアップして頂き、感謝申し上げます。 


3 名前:源秀 投稿日: 2005/01/30(日) 22:50:02 
以前から土岐系図はこれでいいのかと思っており、庶流一族名を追加させていただきました。
ただきました。間違いや、修正すべき点があるかと思います。簡単に修正できますので、
ますので、遠慮なくご連絡くださるようお願いいたします。 


4 名前:Ryuko 投稿日: 2005/01/30(日) 23:00:53 
澤源さん、掛軸を作るのでしたら、「美濃源氏土岐一族」の肖像画の複製がいいのではありませんか? 


5 名前:澤源 投稿日: 2005/01/31(月) 10:59:05 
源秀様ご出馬、痛み入ります。Ryuko様その手があったのですね、気がつきませんでした。残念!!。
お揃いで、これからも宜しくお願い申し上げます、然し今年は源義経ですので、
清和源氏系統に強くなると、皆さんの眼差しが光り輝くことでしょうネ。 


6 名前:源臣 投稿日: 2005/02/02(水) 13:45:22 
「美濃源氏土岐一族」の肖像画の複製、僕も大賛成です。価格にもよりますが、かなりの需要があると思います。
あの肖像画の中の多治見国長公の、見の字のところを上手く修正して頂ければなお結構と思います。 


7 名前:澤源 投稿日: 2005/02/02(水) 15:03:27 
複製画の許可がでるかどうかですが、それと著作権の問題から故人となられた林雲鳳(はやしうんぽう)作の絵画を
修正するにあたって、ご遺族からの了解が肝心かもしれません。 


8 名前:澤源 投稿日: 2005/02/06(日) 23:58:37 
昨日、系図他すっかり絵画の表装の卸屋さんから返事きましたが、とても格安で出来る様です。 


9 名前:Ryuko 投稿日: 2005/02/07(月) 08:34:00 
嬉しい情報ですね。「美濃源氏土岐一族」の肖像画はとてもきれいですので、是非作っていただきたいですね。
『土岐源氏の里』の目玉商品になるのではないでしょうか?土岐氏発祥の地のお土産品(?)として成長してくれるといいですね。
個人的には開元院の鷹の図の複製がほしいのですが・・・・ 

   
氏より育ち

1 名前:美濃林 投稿日: 2005/02/06(日) 13:34:23 
土岐一族の皆様には進言すべきことはすべて申し上げました。私の使命は終わったと思います。
「氏より育ち」という言葉もありますが、これからはそちらの方を大切にしていきたいと思います。
皆様方のご健勝とご活躍を祈念申し上げ失礼させて頂きます。 


2 名前:Ryuko 投稿日: 2005/02/07(月) 08:24:39 
美濃林様
いつも博学で貴重なご意見を楽しみにしております。
「私の使命は終わった」などと淋しいことはおっしゃらずに、これからも美濃源氏フォーラムを育ててください。
美濃林さんの本領はこれからだと思います。よろしくお願い致します。 


新潟県蒲原郡の土岐氏一族

1 名前:澤源 投稿日: 2005/01/20(木) 10:07 
霞ヶ浦の古老が語る「宍塚の歴史」のホームページ

   www.kasumigaura.net/ooike/rensai/rekishi/200211.html

応永十五(1408)年、足利持氏の被官となっていた土岐(原)入道師秀の子・左馬介秀成が、
上杉憲定の兄・越後守護職民部大輔房方(ふさとし)の被官となって、越後国蒲原郡弥彦庄に居住していたが、
関東公方足利持氏の要請によって、越後国から鎌倉に帰還し、土岐(原)秀成は釈迦堂奉行の要職に栄転、
常陸信太庄の郡家に補され般若寺釈迦如来の管理を託され、宍塚の地と縁を持つようになった。
現在、新潟県北蒲原郡・西蒲原郡には土岐一族が多くみられますので、土岐(原)秀成の胤が残ったものかどうか。
どなたか伝承で結構ですのでお知らせ下さいませ。 


2 名前:澤源 投稿日: 2005/02/07(月) 00:03:04 
西蒲原郡には、明智(めいち)一族がみえます。
尚、新発田市には猿子さんが群住してみえます。 

  
どなたかご記憶ありませんか?

1 名前:Ryuko 投稿日: 2005/01/26(水) 06:38:12 
今墨俣様、「トキの本」では勘違いをさせてしまって申し訳ありませんでした。
また、ネット通販アマゾンに「美濃・土岐一族」をリンクしたときには在庫があったのですが、売り切れてしまったようですね。
美濃源氏フォーラムに在庫がありますので、ご注文戴ければと思います。
さて、「トキの本」を紹介しましたら、土岐さんから下記のメールが届きましたので、ご紹介いたします。

昭和37年頃から昭和43年頃の間に、小説新潮・オール読物・小説現代・文芸春秋のいづれかに掲載された読み切り小説で、
どの雑誌に掲載されていたのか、タイトル、著者ともに忘れてしまったが、内容は覚えている。
私も若かった頃(20台後半〜30台前半)土岐の歴史に未だ興味も無かった時代、
とは言っても滅多と無い姓「土岐」が主人公とあって記憶していました。

「或る孤独な老人の死」で、身よりも無く今話題の「孤独な死」とソックリ!
 長屋に住んでいて「人嫌い・変人」大家さんが身元の確認をしようと住まいを点検したら、
キチント整理され生活道具は殆ど無いのに「リンゴ箱がドッサリ」中は英文の学術書でギッシリ!
上野動物園の園丁(今で言う飼育係)をやっていたらしいのだけど、職場の人ともツキアイが無く、
確か臨時雇いの様な雑用下働き・・・年齢もあったり人付き合いが悪く、やめてブラブラ状態・・・
その老人の名前が「土岐」だったのです。
リンゴ箱から出て来た学術書から判明したのは、ナント帝国大学の教授だったか動物学では世界的な学者だったと言うのです。
研究の成果を他の教授に奪い取られ、帝大を辞めてしまった・・・
特に鳥類学について専門分野、トキの発見者として世界的に名を残したにもかかわらず、世間から忘れ去られた哀れな人の話でした。
孤独死の後も身寄りが見つからず、無縁仏として当時の東京市で処理された「寂しい哀れな」男の人生でした。
トキの学名は「ニッポニア・ニッポン・トキ」と、発見者の名前が登録されている。と言うのでした。
学名「ニッポニア・ニッポン・トキ」の由来にコジツケテイル!

ちなみに、1823年に来日したフランツ・フォン・シーボルトが帰国にあたって採集、
持ち帰った多数の日本の動植物の中に朱鷺の標本もあり、大英博物館グレイらの研究により、
1871年近縁種をもたない1属1種であることが確認され、改めて学名を「Nipponia nippon」とされたそうですが、
この歴史の陰に土岐氏がからんでくるのでしょうか?この小説にご記憶のある方はご連絡ください。 


2 名前:澤源 投稿日: 2005/02/07(月) 00:00:51 
恐らく、源朝さんがテレビ局へ通われる頃、電車の中で見られたのではないのかと、推察しています。 

 
雑談

1 名前:木源 投稿日: 2005/02/05(土) 14:44:16 
暫くの冬眠もまもなく終わり、そろそろ美濃源氏9フォーラムの平成17年度の計画を検討する時期となりました。
本年もよろしくお願いします。
さて、ずいぶん前に購入して書棚に眠っていた岐阜県出身者で唯一の芥川賞作家(昭和30年第32回)、
小島信夫の 小説「美濃」(平凡社刊)を読んでいましたら、「嗚呼誠忠、土岐頼兼公」の本のことが出てきました。
この小説は昭和56年5月初版で、岐阜に関連のある名前をよく知っている人たちが多数登場しますが、
目次の「ルーツ前書(3)昭和53年3月1日」に中で以下ご紹介する文が出てきます。
・・・・私は最近各務原を訪れたときに市役所の係の人からもらった「各務原市史」というものを読み、
それから眠らせておいた「岐阜県史」(いま古本屋で買うと三十万円もする)をひろげてみたり、
それからいつだったか篠田賢作が岐阜の近鉄百貨店(もと丸物)の古書店(?古書市の間違い)
で四千五百円で買っておいてくれた「嗚呼誠忠、土岐頼兼公」(笹原侘介著)や、
これも賢作の紹介で自然に会員ということになってきた岐阜県郷土資料研究会の会報である、
「郷土研究・岐阜」というパンフレットを読みはじめたりするにしたがって・・・・・・・・
という文章が出てきます。私は平成11年8月新岐阜百貨店の古書市で「嗚呼誠忠、土岐頼兼公」を見つけ
地図とカバー無しで七千円で購入しました。
前に沢源さんがこの本を集めて、「ききょう屋」のサイトで頒布したいということを言っておられた様に思いますが。
いずれにしても、思わぬところで見つけ、金額も興味があったので、つい雑談となりました。 


2 名前:澤源 投稿日: 2005/02/05(土) 20:21:28 
木源様、ご体調が宜しいようで恐悦至極に存じます。
土岐頼兼公の本は、地図があったり、カバーがあったり、又汚れの良し悪しなので結構値段が様々ですが
以前源臣様が神田の古書店で2万円前後とのことでしたので、美濃で買い漁ろうとも思いました。
尚、今年古書市が2月11日10時からオープンですが、当日行けませんので木源様がお手隙なら
お願いできないでしょうか、 


3 名前:澤源 投稿日: 2005/02/06(日) 23:55:44 
虎渓山永保寺の鳥瞰図(昭和初期)が出るものですから。 


愛知万博、土岐プレミアムアウトレット

1 名前:美濃林 投稿日: 2005/02/01(火) 15:56:43 
愛知万博
    http://www.expo2005.0r.jp 

土岐プレミアムアウトレット

    http://www.premiumoutlets.co.jp     
 
花フェスタ記念公園春の公園まつり

    http://www.pref.gifu.jp/flower/index.htm 


2 名前:美濃林 投稿日: 2005/02/01(火) 15:58:57 
愛知万博、間違えました。     http://www.expo2005.or.jp 


3 名前:澤源 投稿日: 2005/02/02(水) 15:47:05 
7月23日土曜日「再考、美濃の中世社会−東西文化の結節点、蠢きまわるモノやヒトたち」
万博期間中です。尚、3月25日開会式、9月25日閉会式ともに、
暦の上では素晴らしい日が設定してありますので、美濃源氏フォーラムも7月23日という
これ以上ない良い日に開催することとしました。
尚、愛知万博の名誉総裁は浩宮皇太子殿下であり、
半年間の間に会場近郊へ幾度となく訪問されるかもしれません。 


4 名前:美濃林 投稿日: 2005/02/02(水) 17:28:40 
「(?)きまわるモノやヒト」(?)漢字が読めません。よみがなつけて下さい。意味もついでに。レベルが低いので申し訳ありませんが。 


5 名前:澤源 投稿日: 2005/02/02(水) 18:01:42 
蠢(うごめ)きまわるモノやヒトたち、でした。
尚、本企画の詳細をまもなく発表致しますので、ヨロシク。 


尾張藩・土岐氏

1 名前:大島 投稿日: 2005/01/05(水) 22:14 
頼芸−頼次−頼高(九左衛門、尾張藩土岐家初代、500石)−(以下略)
と続く土岐氏が尾張藩士の系図集である士林泝(しりんそかい)に
載っていました。 


2 名前:源臣 投稿日: 2005/01/06(木) 10:16 
大島様、頼高以下の名前がお判りになりましたらお教えください。頼次の嫡男頼勝と三男頼泰の家系は多くの文献に出てきますが、
頼高の家系は初めてです。これは貴重な情報になります。 


3 名前:澤源 投稿日: 2005/01/06(木) 20:03 
東海大島様
お久し振りですが、いつも貴重な情報を賜り感謝申し上げます。
今年は、11月に土岐頼芸の供養する企画を検討しています。
尚、1月2日テレビドラマ「国盗り物語」で土岐頼芸が久し振りの登場でしたが
ときよりよしと紹介されていましたし、その後明智光秀が名門土岐氏の出自と
幾度となく紹介されていましたので、これを見られた土岐一族関係者には
正月早々嬉しくもあり又歯がゆさもあり、と言った所でしたでしょう。 


4 名前:大島 投稿日: 2005/01/06(木) 20:58 
源臣様
頼高の子に2子あり
@頼辰━頼元━頼寛━頼憙
A頼要━頼里━頼喬┳頼有
         ┗頼般
となっています。 


5 名前:源臣 投稿日: 2005/01/06(木) 21:52 
大島様、早速有難うございました。手元の土岐大系図に頼高の子2流を書き加えておきます。
今年はお陰さまで幸先のよいスタートをきることが出来ました。有難うございます。
澤源様、1月2日のテレビドラマ「国盗られ物語」ビデオに撮りました。まだ1部しか見ておりませんが、
道三がかっこよすぎます。勝源さんと自棄酒ですねえ。 


6 名前:澤源 投稿日: 2005/01/08(土) 09:13 
名古屋市近郊には多くの土岐さんがみえますが、空襲などでお寺が無くなっているそうで
記録に現れる菩提寺名はとても役に立つと思われます。
東海大島様よろしくお願い申し上げます。 


7 名前:大島 投稿日: 2005/01/09(日) 18:08 
澤源様
1852年の藩士録から推測しますと、菩提寺は次のようです。
@頼辰の系統:常瑞寺(名古屋市中区錦2-12-33)
A頼要の系統:梅屋寺(名古屋市中区東桜2-16-51) 


8 名前:澤源 投稿日: 2005/01/09(日) 19:43 
東海大島様
感謝感激あれあられ
常瑞寺も梅屋寺も現存するお寺さんですので、早速訪問致します。
名古屋地区にたくさんの土岐さんがみえましたが、かなりの方達に朗報でしょう。 


9 名前:源臣 投稿日: 2005/01/09(日) 22:22 
名古屋地区のみではございません。関東にもひとり涙を流して喜んでおるものがここに居ります。
常端寺、梅屋寺に私めも近いうちに参上仕ります。大島様有難うございます。 


10 名前:大島 投稿日: 2005/01/10(月) 11:47 
澤源様、源臣様
反響の大きさに驚いています。過去帳が残っていると良いですね。
1852年の藩士録から関係者を挙げておきます。
・土岐定太郎  150石 寄合組  梅屋寺
・土岐市右衛門 100石 御書院番 梅屋寺
・土岐小太郎   39俵 留書頭並 常瑞寺
・土岐延三郎   30俵 御書院番 常瑞寺
・土岐文三郎      留役   父小太郎 


11 名前:澤源 投稿日: 2005/01/10(月) 21:04 
東海大島様ありがとうございます。
本日、成人式の息子と高校三年の娘が午後から名古屋へ行くとて、
ラッキーとばかりアッシー君にかこつけて、現場確認だけすることができました。
ついては、共に名古屋の中心街である東桜2丁目と花の飲食街錦3丁目の直ぐ隣でしたから
近代的なビル街に佇むお寺さんでありました。寺紋は、残念ながら桔梗は使用されておらず
改めて、電話にて事情を述べてから参詣致したく存じます。
然し、約30年飲んで歩いた東桜と錦2丁目とは、「ここならいつも酔っ払って・・・」
驚き、桃の木、山椒の木、てなものでした。 


12 名前:源臣 投稿日: 2005/01/10(月) 21:56 
澤源様スレ11の終わりの2行がなんとも羨ましい限りです。(ギリギリ・歯軋りの音)
すぐには飛んで行けそうもありません。 


13 名前:源臣 投稿日: 2005/02/01(火) 17:13:00 
大島様、1852年の藩士録とありますが、土岐市右衛門を調べている方が居ります。
尾張藩の藩士録の正式書名をお教えいただけますか、今までに判っております一族の中の土岐市右衛門は、
上の山の土岐の初代城主土岐頼行の末弟頼久(旗本)家が代々市右衛門を名乗っております。
尾張藩士に土岐市右衛門の名があるとは、貴重な情報を有難うございます。
話しは変わりますが、大島様は光時の流れの光吉(土岐大島)のご子孫でしょうか?
谷口先生の『美濃・土岐一族』の大島氏の系図のその先はご存知ありませんか? 


14 名前:大島 投稿日: 2005/02/01(火) 21:28:39 
源臣様
ブックショップマイタウンという出版社http://www.mytown-nagoya.com/
booklist/index.htmlが「尾張藩士録」という本を発行しています。これは
「家中いろは寄」(名古屋市鶴舞中央図書館蔵)の完全復刻版だそうです。
さて、谷口先生も引用されています『続群書類従』の土岐系図に大島氏が見
えますが、この系図の出所が私には全く分かりませんが、美濃出身の旗本・
大島氏がこれに連なるのではないかと想像しています。
私の江戸時代の先祖の名乗りが旗本・大島氏と共通点が多く、同じ系統かなと
推測していますが、残念ながら系図などは一切ありません。
船田合戦で負けた側にも大島氏がみえ、この時に美濃を退去したのではないか
と思っています
また、伊勢・北畠旧臣で山崎の合戦にて討死した人物に大島勘蔵頼通がみえる
ことは昨年の講演で三重大の藤田達生先生も指摘されているところですが、頼
の字を使っていることから土岐一族の可能性も考えられ、勘蔵は江戸時代の先祖
の名乗りでもありますので、我が家も美濃の系統かなあと思っている次第です。
何か関連情報がありましたらお教え願えれば幸いです。 


15 名前:源臣 投稿日: 2005/02/02(水) 13:29:49 
大島様早速のお返事有難うございます。市右衛門系のご子孫の方にお伝えしておきます。
江戸幕府の旗本大島氏を頭に入れておきます。関連情報に出会えた時にはご連絡します。
今後ともどうぞよろしくお願いします。 


戦国時代の恩賞

1 名前:美濃林 投稿日: 2005/02/01(火) 18:30:18 
静岡大学の小和田哲男氏は一貫はだいたい8万円と考えておられるそうです。
年間3000貫のコメがとれる土地をもらえば2億4千万円の年棒になります。
(東洋経済新報社 経済倶楽部講演録2005年1月号北見昌朗氏講演より)ご参考まで 

  
土佐と美濃

1 名前:美濃平 投稿日: 2005/01/20(木) 08:50 
土佐長曽我部と美濃との関係知りたいですね。
光秀と元親の密約あったかも知れません。
何方かそのあたりをお教え下さい。 


2 名前:澤源 投稿日: 2005/01/20(木) 09:36 
長宗我部元親氏との密約について、是非私も知りたいとは思いますが・・・。
そりぁ、四国征伐軍が港を発する間際に起きた訳ですから、動機は当然あるでしょう。
面白いのは、現在の電話帳登録では「明智姓」が四国に一番多いことですし、
光秀の後裔伝説も香川県には多くみられることもあります。
尚、そのあたりついては、明智三郎光憲様が石谷氏との関連に関心をお持ちですので
ご意見を伺えたらと存じます。 


3 名前:光憲 投稿日: 2005/01/21(金) 21:41 
 初めまして。明智三郎光憲です。今年の1月12日に「明智光秀桔梗盃」の
コーナーに初登場させていただき、途中で元服させていただいております。
(幼名は「戸塚明智」と名乗っていました。)
 最近になって、真面目に本能寺の変について研究をしております。俗説を
徹底的に排除して、残ったものだけから推理を組み立てていますが、現時点
で追っているのが、長宗我部征伐が光秀に与えるダメージが従来把握されて
いるものより、はるかに決定的なものであったのではないかという仮説です。
 斎藤利三・石谷頼辰と長宗我部との深い関係は史料で明らかですが、もっと
直接的に光秀と長宗我部あるいは伊予・阿波などとが本能寺の変以前に深い
関係にあったことを示す証拠がないものか、と探しているところです。
 私は「ロッキングチェア・ディテクティブ」ですので、出版されている誰でも
手に入る図書からの知識しかありません。未だ光の当たっていない古文書類に
何かヒントになることが書かれていないかと期待しているところです。
 たとえば、石谷光政の娘が、どういう経緯で元親に嫁いだのか、などは是非知り
たいテーマです。 


4 名前:遊行笑人 投稿日: 2005/01/22(土) 11:03 
美濃の方々お久し振りです。美濃平、光憲様始めまして。 
土岐氏の窓口で、土佐と美濃のお話を拝見するにつけ、美濃の稲葉氏の祖は伊予河野氏の縁者で有る事は史実成れど
其の家流は未だ確定されていない所以も伊予の国での七不思議の一つです。
偶々、土佐長宗我部氏と伊予河野氏の両勢力の狭間に中先代の乱以後、細川氏の御縁にて延命いたしました由縁の者です。
長宗我部国親、元親の時代まで、或ときには細川氏の家来衆として共に仕え、不幸にして対陣し夜襲に遭い悲しき哉落城、
細川京兆家の方々は土佐大津城から京都に退かれ、その際に同族十市細川殿は故ありて残り、
直系子孫が長宗我部元親殿の家中にて、細川備前入道宗兆殿に従し、土佐西部一条氏西方の郷にて、
先祖の地伊予と土佐の境の守り牽制の配陣を勤めたと記されています。
その関係深い由縁にて、土佐・美濃・伊予国の戦国時代の関連は不思議なほど、前後左右に繋がりが見え隠れして居り、
この間には笑人の心の中には、中央政権の変遷の中、足利幕府と管領細川氏の存在を考慮に入れて、
織田・斎藤・稲葉・明智の繋がりの解明の手懸りを探しております。
其の中に注目すべき人物が『於福さん、春日之局、墓石の家紋は河野氏の隅切り折敷三文字、
信長謀反の後元親のもとに頼り・石谷氏の女を娶った由縁にて難を逃れて緊急避難されていた事は周知の史実)』
不思議と江戸時代に徳川家康公に結びつき、三代将軍家光の乳母の重役を授かったのかと!
考えれば、白羽の矢が何故、美濃斎藤、稲葉(河野氏家流)、
益しては織田信長に謀判を企てた張本人の縁者の者を敢えて大事な後継ぎの乳のみ子の乳母に選らんだのか?
其の裏に潜む、歴史の史実・深意の存在を洞察し、現代に検証できれば歴史的大発見・表彰は間違い無し!。
笑人の家系はその解明に多少の接点を系図上に記されておるゆえ
(先日新しい情報を別のサイトの恩師から情報を頂き、更に思いを深くして居り、
其れは尾張の国の海部郡甚目寺町に在ります長生山妙勝寺四十二世住職を江戸時代終盤に尾張公の命を蒙り勤めた僧職の者有り、
この地甚目寺周辺の地は織田信長殿の母親の出られてお家の領地だったと教えてくださいました!)
是非努力研鑚をお互いに重ねましょう!今後共宜しくお付き合い下さい。 


5 名前:美濃林 投稿日: 2005/01/22(土) 11:58 
遊行笑人さまのご登場嬉しく思います。美濃平さまのご親戚は長宗我部盛親の子孫という家伝があるそうですね。
突然のことでよくわかりませんでしたが長宗我部氏と美濃斉藤、土岐石谷氏、明智氏残党を考慮すれば線で結ばれるような気がします。
あくまでも推測の範囲でなんの確証も今のところないのが残念です。
豊後臼杵稲葉氏の「御家系典」には春日局は徳川家光の実母と書かれています。
しかし、この「御家系典」そのものが比較的新しいものであり信頼に足る史料かどうかということもあります。
また、以前にも投稿しましたが明智御一族の方でご希望であれば、
昨年、宝賀寿男氏が解説された「明智一族宮城家相伝系図書」と「講義資料」をメールにて送信させて頂きますので
ご遠慮なくお申し出くださいますよう。 


6 名前:美濃林 投稿日: 2005/01/22(土) 13:30 
追伸 美濃平さま 今日の中日新聞ですが美濃加茂市太田本町の中仙道太田宿に残る国重要文化財
「脇本陣林家住宅」の保存工事が完成したとのことです。事業費約1億5千万円。2月20日には完成見学会が行われるそうです。
ご参考まで。 


7 名前:美濃平 投稿日: 2005/01/22(土) 14:11 

美濃林様 美濃での林の活躍伺える情報有難うございます。
ただどの林に属するかわからぬ今、如何に対処するか、難しいです。 


8 名前:美濃林 投稿日: 2005/01/22(土) 14:55 
美濃平さま 行動あるのみです。また、簡単にわかるはずもありません。
大垣市林町の林氏は林通村に関係していると思います。まずそれしか考えられません。
林通村から林駿河守系統の美濃の土岐、斉藤氏に属した人たちと林佐渡守系統の尾張の織田氏に属した人たちに別れます。
いろいろな方から情報を得られるような方法をお考えください。
まず「遊行笑人」さまとコンタクトされると道が開けてくるのではないかと思います。
以前お知らせした「蓬左文庫」の林八郎左衛門系図は、
織田信長を廃嫡しようと企てた弟の織田信行の家老であった林美作守通具家の系図です。
通具討ち死に後、数代不明となり仕官ののちは越智姓から藤原姓に変えています。
このような系図が存在することすら不思議です。なにごとも一足飛びには解明できないと思います。
いろいろな方からの情報が大切であると思います。 


9 名前:遊行笑人 投稿日: 2005/01/22(土) 16:58 
美濃平さん、湯築城ご訪問のあと続いて、山内家の窪川・宿毛方面の山内家は元は伊賀守と申す家柄なり。
その家老職に林傳左衛門勝吉と言う者有り。後に山内伊賀守一吉と改め初代とする家老職を勤めると言う。
この一吉殿は美濃国岐阜郷の出生と記す。初め傳助、左衛門と名乗り織田信長の重鎮であった林佐渡守道勝の三男とされ、
兄長左衛門、次兄喜兵太が秀吉に仕えた記す。大阪冬の陣にも二代山内忠義の時徳川方にて出陣し、
その際には二代右近勝久も出兵したと様であり、尚、山内一豊入国まで土佐を治めた長宗我部家の盛親は大坂方に味方し再び敗れ、
捕らわれの身になり斬首されて長宗我部氏は名実ともに滅亡したと記す。
この所以は湯築城サイトの伊豫・美濃・土佐の欄にて紹介差せて頂いておりますので、併せて見て下さい。
この林氏の家紋は別途探して見ますが、この末裔の林殿も家伝の書が手許に有る様です。
面識は無いのですが、別の会の方ですので、機会が有ればお尋ねして置きます。 


10 名前:美濃平 投稿日: 2005/01/22(土) 21:11 
遊行笑人様 早速の情報有難うございます。林通勝一族が土佐に行かれていた
のですね。湯築城サイト見せていただき、そちらでもご回答いただき有難うございます。 


11 名前:美濃平 投稿日: 2005/01/29(土) 12:21:03 
遊行笑人様 林佐渡守通勝の男子新三郎光時・佐介光之が姓氏家系大辞典ハャシ87
項にかかれています。土佐の山内家にお仕えしていたようですね。
美濃林様 林通勝の弟、美作守通具は織田信行の家老で信長に殺されています。
同じ兄弟の通康居たようで、林正成の兄権内の遺族あり、これらが林町の平系
林と結ばれた一族ではなかろうかと思います。
林正成の三番目の妻は山内家からと記憶してますが、もし土佐の山内の方と言
えば土佐との関連かまた出てきます。どなたかお教えください。
土岐のページお借りして申し分けありません。土岐領での出来事ですからお許
しください。 


12 名前:美濃林 投稿日: 2005/01/29(土) 15:10:38 
「寛政重修諸家譜」によれば稲葉正成が春日局と離婚したあとの妻は「山内修理亮康豊が女」と書かれています。
山内康豊は山内一豊の兄弟にあたり一豊に子供がいなかったため康豊の系統が土佐山内藩主家を継いでいるようです。
林美作守通具家の系図は先般ご紹介しました。林正成の兄弟関係は、はっきりわかりません。
安八郡西江崎の城主林権内通度が稲葉正成の兄であるとはどのような資料からでしょうか?
また林光時、光之については姓氏家系大辞典が手元にありませんので確認していませんがどのように記されていますか?
他系図では長島の合戦で討ち死にしたように書かれてもいますが? 


13 名前:美濃平 投稿日: 2005/01/29(土) 20:05:23 
美濃林様 矢張り土佐のお方でしたか有難うございます。
権内の件は姓氏家系大辞典ハヤシ欄88項4876ページに、厚見郡江崎城は林権内
(林惣兵衛の子、稲葉正成の兄)居城すと伝う。とあります。
光時光之の件 佐渡守信勝(通勝)は、もと美濃の人、織田信秀に仕へ、柴田勝家と
共に信長を廃して、信行をたてんとせしが成らず。
後信長につかえへて屡々功あり。その男に新三郎光時と佐介光之とあり。と書かれて
いました。 


14 名前:美濃平 投稿日: 2005/01/29(土) 20:06:04 
美濃林様 矢張り土佐のお方でしたか有難うございます。
権内の件は姓氏家系大辞典ハヤシ欄88項4876ページに、厚見郡江崎城は林権内
(林惣兵衛の子、稲葉正成の兄)居城すと伝う。とあります。
光時光之の件 佐渡守信勝(通勝)は、もと美濃の人、織田信秀に仕へ、柴田勝家と
共に信長を廃して、信行をたてんとせしが成らず。
後信長につかえへて屡々功あり。その男に新三郎光時と佐介光之とあり。と書かれて
いました。 


15 名前:遊行笑人 投稿日: 2005/01/29(土) 20:45:23 
美濃平さま、林さま只今土佐国ー宿毛・中村・大津の遊行を済ませ帰城。早速留守中の様、拝いたしました。
宿毛城も訪問致しました。林姓関連方々土佐山内家(宿毛とご縁)とは誠に興味有る話題ですね!
詳しい検証は未だして居りませんが、私もこの件は非常に嬉しく、美濃の方々とも情報を付き合わせ度、宜しくお願いします。
この度の旅は、恩師ご夫妻の道案内にて、有意義な二日間の古城跡の訪問の遊行でした。
先祖を尋ねる事はなかなか根気と努力が第一なれども、人生の心の原点かと思いを馳せます。
又、色々と情報を豊かに交換してください!。美濃林様個人情報提供(別添ファイル)感謝! 

   
  


トップへ
戻る
前へ
次へ