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171〜180
171: 北斗の人 (5)
172: 土岐田原氏 (8)
173: 土岐一族4万軒調査−該当者連絡お待ち申し上げます (3)
174: 南北朝と土岐と地侍 (2)
175: トキの本 (5)
176: 明智光秀桔梗盃 (14)
177: 美濃林は源氏か平家か (18)
178: 初仕事 (3)
179: 今後とも (2)
180: 12月12日の忘年会 (4)


北斗の人

1 名前:美濃林 投稿日: 2005/01/28(金) 10:40:56 
司馬遼太郎の「北斗の人」は皆様ご存知の北辰一刀流千葉周作の小説ですが、文中沼田土岐家の剣術指南役の話も出てきます。
ご参考まで。 


2 名前:澤源 投稿日: 2005/01/28(金) 21:58:54 
美濃林様ありがとうございます、早速図書館にて読んでみますが
沼田土岐のお殿様はご存知なのでしょうかネェ。 源臣さん、如何ですか? 


3 名前:源臣 投稿日: 2005/01/29(土) 11:43:42 
冬眠中に澤源様にゆり起こされました。
澤源様にお声をかけられては、無視するわけには参りません。
会長はときどきこのHPもご覧になられているようですから、大丈夫かと思いますが、
念のためお目にかかれた折には、お話し申し上げます。
「小説の中の土岐一族」一覧をだいぶ以前に纏めようと思ったこともあったのですが、
多すぎて挫折しました。光秀・頼芸・ガラシャがベストスリーでしょうか、
小説「北斗の人」に出てくるような情報も、僕らにとっては大変ありがたいものです。
伝説か史実か物語かの問題は別にして、小説の中に出てくる美濃源氏についての情報交換もいいですねえ。 


4 名前:澤源 投稿日: 2005/01/29(土) 16:40:21 
流石の源臣様でございます。
以前、鎌倉文学館へ鎌倉学塾主宰の中川さんに連れて行ってもらいましたが、その際
歴史を活かしたまちづくり活動の一貫として文学との関わりについてご教示頂けました。
それ以来、瑞浪・土岐・多治見の旧土岐郡における文学をと思いを廻らせておりましたが
正に、本日「美濃林先生」と「源臣先生」の御陰により、美濃源氏土岐一族歴史研究に止まらず
土岐一族を取り上げた文学として資料収集し、それを展示公開する施設の必要性が纏まった様であります。
今まで、岐阜県に対して、又文化庁の三輪先生に『国立中世歴史博物館構想』を提言して参りましたが、
それ以外、旧土岐郡内に『美濃源氏土岐氏文学館構想』も提言して行く事と致します。
両先生に感謝申し上げます。 


5 名前:源臣 投稿日: 2005/01/29(土) 17:57:00 
冬眠を妨げた後、今度はくすぐるのですか?澤源様。
それはさておき、美濃源氏資料館とか記念館などは、遠い儚い夢のように思っていますが、
そんな夢を見るのもいいものですねえ。東京でも無礼講の席ではよく話しに出ます。
勝源さんに一肌脱いて貰ったあかつきには、源臣が下足番をやることになっております。 

   
土岐田原氏

1 名前:澤源 投稿日: 2005/01/09(日) 19:54 
本日午後2時から岐阜県加茂郡川辺町西栃井の禅原寺において、幣社取引先担当者
田原さんの御尊父告別式がありました。以前から土岐田原氏とはきいておりましたが
菩提寺の禅原寺さんにうかがいましたら、桔梗紋だらけで、あたり一帯が田原さんだらけ。
ましてや、墓地も群住一帯にありました。一番古そうな墓石を見さして頂きましたら
由緒因縁に、先祖土岐美濃守護後裔田原双六末孫・・・から始まっており
16代の方までが祭られているようですので、土岐田原氏について近々詳細に報告出来そうです。 


2 名前:源臣 投稿日: 2005/01/09(日) 22:15 
今年は大島様も澤源様も素晴らしい出足でワクワクさせられっぱなしです。
いつも澤源様が言われている「お導き」でしょうか。1月早々からこの調子ですと、
今年の美濃源氏はいったいこの先どうなるのでしょうか、嬉しい限りです。 


3 名前:澤源 投稿日: 2005/01/15(土) 21:35 
今晩墨俣の多治見さんから電話を頂きましたが、多治見さんが関市にたくさんみえますがその菩提寺は
大通寺と言われるそうですが、その大旦那は1396年土岐田原頼郷とのことで、
その後猿啄城主多治見修理の子孫が旦那寺とした・・・。
ただし、現在とは違うところにあったとのことで、多治見氏も落城後は近郊に逼塞とのことでした。
今後、多治見さんの掲示板ご登場に期待します。 


4 名前:今墨俣 投稿日: 2005/01/24(月) 21:31 
今晩は。私の事が書き込まれていることを今頃になって知り、慌てて返事の書き込みをしています。
澤源さんがこの「土岐田原氏」のスレッドに私のことを書かれたのは、我が家の出身地が関市の田原という地区だからです。
私の家は二代前まではその地に居ました。その田原地区からは、猿啄城のあつた勝山という山が近くに見えますが、
その城の城主に田原左衛門という者がおり、我が先祖多治見修理に謀反を起こされ、帰農したとされています。
帰農した場所も城から遠くなかったと思います。これが関市の田原の地名の由来ではないかと勝手に想像しています。
我が祖先は下克上の時代故に、自ら城主にと謀反を起こしたようですが、謀反ということで、
郷土史的書物には、余りいい書き方がされていないのが、ほろ苦いところです。
その後、斉藤道三なきあとの土岐美濃へ、信長の美濃攻めが繰り返され、
その一環として、土岐側であった猿啄城も信長に落とされ(1565)、その2年後の1567年に、
斉藤道三から美濃を取り返した土岐も信長に破れた、という事だと思います。
我が先祖に落とされた田原左衛門の末裔の所在は分かっているのだろうか、と前から思っておりました。
「土岐多治見」とか「猿啄城」とか云うスレッドがあればとも思いますが、私自身は大して書き込む情報もないものですから。
今後とも、よろしく。 


5 名前:澤源 投稿日: 2005/01/24(月) 22:13 
今墨俣様、ご出陣有り難き幸せに存じます。
そこで、このスレッドの頭に戻るのですが、多治見修理に終われた後、田原氏がどのように変遷するのか
ついては川辺の西栃井に群住される田原一族が、16代から17代といわれますので一代25年から30年として
450年程遡ると丁度その頃かと。尚、禅原寺さんも先代までは田原姓の住職だったようですが
現在は変わられたとのことです。
そして、多治見氏一族については正中の変(1324)に登場後、伊勢守護代として室町時代初期に活躍し、
そして舞台は再び美濃へとなりますので、何れにしましても多治見氏の菩提寺における1400年代から1500年代
までの動きが、近々はっきりしてくる者と期待しています。 


6 名前:今墨俣 投稿日: 2005/01/24(月) 22:28 
早速のご返事、ありがとうございます。「多治見氏一族については…、伊勢守護代として室町時代初期に活躍し、」
と云うのは初めて知りました。また「何れにしましても多治見氏の…の動きが、近々はっきりしてくる者と期待しています。」
 これも意外でした。正中の変以降の多治見の消息は、全く分からないものと思いこんでおりました。
その内容を知る方法があれば教えていただきたいのですが。やっぱこういう所に、出てこないといけないですね。 


7 名前:澤源 投稿日: 2005/01/25(火) 13:41 
多治見姓の方は、全国電話帳で2000.01.01現在195軒の登録ですし、その群住地域は
関市・武儀郡上之保村・加茂郡富加町ですので、この3地区の方達の菩提寺とその本家筋の調査、
それから全国の多治見さんに呼びかけられて「美濃源氏多治見氏研究会」を推進すれば良いでしょう。
因みに、1994年に第一回美濃源氏土岐氏サミットにて全国の2885軒の土岐姓へ連絡し、
1998年には第2回美濃源氏土岐一族サミットにて前回返信のあった約500軒の土岐姓と、
その他多治見姓・小里姓・猿子姓の方々へ呼びかけました。その際、関心を持たれた方がありますので
是非、「今墨俣」様が今度からは呼びかけられては如何でしょう。
その他、美濃源氏フォーラムには部会活動が会員の自主活動としてありますから、
会員になっていだき5名程で少数から始めるのも良いかも知れません。
兎に角、200軒程のことですし、北海道から九州まであっても100軒は東海地域ですから。
とりあえず、『全国多治見姓名簿』を作製しましたので、ご入用の方には澤源まで御連絡下さい。
尚、私のパソコンには『土岐一族に関する姓氏者約4万件』が入力されており、
ひとつの姓氏が3千軒ぐらいまでは取り込んでありますので、そのデータが生かされれば幸いです。
詳しくは、スレッドを一つ立ち上げますので、参考にして下さい。 


8 名前:美濃林 投稿日: 2005/01/28(金) 16:42:18 
宝賀寿男氏の講演資料のなかに「明智氏滅亡の際の家来衆」として
多治見修理国清(?〜1582。譜代衆。美濃時代からの家臣で山崎合戦で討死)が見られます。 

 
土岐一族4万軒調査−該当者連絡お待ち申し上げます

1 名前:澤源 投稿日: 2005/01/25(火) 15:26 
2000年1月1日現在全国電話帳データベースに登録されている土岐一族より抽出しました。
饗庭467.明智269.安食984.荒深135.五十川1286.池尻1737.石谷2232.
一色2375.板垣231.一原203.稲木966.揖斐衣斐(いび)319.今峰61.
宇都2341.梅戸74.衣斐(えび)163.大桑423.大須123.隠岐294.
小里尾里(おさと)42.乙部778.小里(おり)108.柿田1103.可児1722
萱津63.北方(きたがた)487.木和田154.郡戸10.肥田(こえた)129.小柿57.
小里(こざと)223.小弾正4.小長井142.小長谷515.西郷1347.下石144.
陶134.陶江4.墨俣1.須原811.瀬田1498.仙石1189.多治見194.月海6.
妻木235.陶(とう)14.陶器17.遠山67.土岐3067.土岐川9.土岐沢8.土岐田42.
徳山3325.戸崎1428.富木117.則松244.羽崎135.蜂屋蜂谷316.
肥田(ひだ)1736.深坂113.福光616.北方(ほっぽう)30.保母保々307.
本荘本庄3007.猿子(ましこ)100.万木萬木464.萬喜5.三栗72.美作53
溝尾180.明智(めいち)15.屋井23.山尻9.世保27.龍崎166.六井70.鷲巣515 


2 名前:美濃林 投稿日: 2005/01/25(火) 16:43 
書き込みおつかれさまです。冬は仕事がら忙しいのでは?そのわりに暇みたいですね。愛知万博どうなっていますか? 


3 名前:澤源 投稿日: 2005/01/25(火) 23:31:03 
すみません、多忙の中に多治見さんのような熱心に研究される方が出で見えましたので、
以前より調査した累計を発表した次第です。
尚、北海道から九州まで7枚のCDを挿入し、その中の例えば「饗庭」さんを1件づつクリックして
入力するものですから、この入力には膨大な時間が費やされたことは、マチガイない!!。
思えば5〜6年前の夜なべ仕事が懐かしいです。 


南北朝と土岐と地侍

1 名前:美濃平 投稿日: 2005/01/25(火) 19:13:37 
太平記〔金崎落城〕の項に、宮方で土岐阿波守の名がありますが。土岐は南
北朝で幕府方に組していますが。この方は美濃の方なのでしょうか。
伊予の河野も南北に分かれて戦っており、北国落ちで土岐出羽守頼直・
河野備守通治・備中守通綱が居ます。
なお、〔新田義貞,越前国府の城を落とす〕の項に河野七郎の名もあ
ります。越智氏から支配地にょり河野・河野拝志=林と名を変え、美濃
揖斐川では林七郎左衛門通兼と称したのではと考えられます。
応安3年美濃大井庄で中村弾正が年年貢未進をして、東大寺と対立したとき、
東大寺は土岐守護に訴えたが、〔正守護の所存はさらに等閑なしといえども、
家人ら弾正の語ひを得るによって罪科の沙汰厳密ならず〕と地侍を取り締り
できなかった。こんな中で揖斐川でも力を持った林一族を、家臣という形
で抱えこんで行ったようです。
幕府方の美濃で、敗残の宮方が生き残った状況を知りたいですね。 


2 名前:澤源 投稿日: 2005/01/25(火) 23:26:10 
美濃平様、南北朝の宮方についた土岐阿波守について、早速調べさせて頂きます。 

  
トキの本

1 名前:澤源 投稿日: 2005/01/17(月) 21:59 
RYUKOさんのお知りあいで絵本作家である水野淳子さんの本が「ききょう屋」で紹介されました。
トキの羽が三種の神器に何故か使われている、そんな高貴なトキの羽とは・・・。
気品あるトキについて、少し勉強してみたくなりました。美智子皇后様も喜ばれたとか。
是非又、感想文を書込みします。 


2 名前:Ryuko 投稿日: 2005/01/18(火) 09:07 
澤源さん、トキの本の書き込みをありがとうございました。
水野淳子さんは、1993年佐渡のトキ保護センターで、日本産最後のトキ「キン」の目の前で写生することを許されました。
2003年10月、折りしも銀座にて「桜と朱鷺と・・・水野淳子水彩画個展」を開催中「キン」が死亡し、
「ニッポニア・ニッポン」と美しい学名を付けられた日本のトキは絶滅しました。
水野さんは個展を見に来た小学生の「トキ色って知らなかったけれど、こんなにきれいな色なの!」と感嘆の声が忘れられず、
トキの美しさを伝えたいと描きためた絵を絵本にされました。
美智子皇后様も御遷宮に際し、御神宝の御刀を飾るトキの羽をご覧になって以来、
いつか羽を開いて飛ぶトキの姿をご覧になりたいとお思いになっており、剥製ではありましたが飛ぶ姿を新潟で御覧になり、
風切り羽の美しさに見入っておられたそうです。

多くの子供たちにこの本を読んでほしいと思って紹介させていただきました。 


3 名前:美濃林 投稿日: 2005/01/18(火) 16:05 
HPのプロフィールの最後が3004年になっていました。
何歳くらいが対象でしょうか?シルクスクーンのようなものがあり手軽に買えるとよいと思います。 


4 名前:今墨俣 投稿日: 2005/01/24(月) 22:16 
多治見です。「トキの本」を「土岐の本」のことだと勘違いしました。
というのも、谷口先生の「美濃・土岐一族」と云う本を注文したら、絶版と云われたので、その件のスレッドかと勘違いしたもんで。
この「美濃・土岐一族」は1冊は持っていましたが、いずれ絶版するだろうから、
保管用にあと少し持ってたほうがいいのでは思い、ネット通販で3〜4冊頼みました。
すると2冊入手できたものの、残りは「絶版」との返事メールが届きました。
そこで他のネット通販に注文したら、やはり「絶版」とのこと。探せばどこかの卸に残ってるかもしれませんが、
ご入り用の方はお早めにという感じでした。 


5 名前:澤源 投稿日: 2005/01/25(火) 13:46 
谷口研語著『美濃・土岐一族』定価3000円税別)は、美濃源氏フォーラムがまだまだ保持しています。
果して、追加出版があるかどうか谷口先生から伺っておりませんので、
残り20冊程が案外プレミアムがついたりするかもしれませんね。
と、言うわけには参りませんので、お早めに希望者はお申込みくださいませ。 


明智光秀桔梗盃

1 名前:澤源 投稿日: 2004/12/04(土) 08:25 
横浜市戸塚区の明智様から、光秀桔梗盃のご注文を頂きました。
「ときは今、青磁の花に、心酔し」
お正月の美酒に、皆様酔いしれてくださいませ。
《ききょう屋》で発売中です。 


2 名前:源臣 投稿日: 2004/12/06(月) 10:21 
戸塚区の明智様へ
私は土岐会の会員です。土岐明智の流の者ですが、明智姓の方は現在土岐会にはいらっしゃいません。
明智姓の方との情報交換を切望するものの一人です。
差し障りのない程度に明智家に伝わること等「書き込み」いただきお教え頂けたら有り難く思います。
また、もしご質問いただければ、当方で知る限りの情報を喜んでお伝えいたします。
と、申しますか一族のこと等、気楽にお話しをさせていただきたいというのが本音です。
どうぞよろしく。 


3 名前:美濃林 投稿日: 2004/12/06(月) 13:56 
「明智一族宮城家相伝系図書」の詳細をご覧頂きたいと思います。
美濃源氏フォーラム会員の方にはご希望であればメ-ルにて添付送信いたします。 


4 名前:澤源 投稿日: 2004/12/06(月) 22:53 
美濃林様
源臣様は添付希望ですので宜しくお願い申し上げます。

戸塚の明智三郎様(本名が分かりませんが)
是非コメントを仕事の合間にお手隙時に御寄せくださいませ。
お待ちしております。 


5 名前:delete 投稿日: delete 
delete 


6 名前:戸塚明智 投稿日: 2005/01/12(水) 15:54 
 戸塚の明智です。本日土岐会の方からご連絡をいただき、2月にお会いすることにいたしました。
(日程などはこれから調整いたします。)本日、初めて掲示板を見て、私宛のメッセージがあること
を知りました。
 昨年3月頃からYomiuriWeekly、TBS,テレビ朝日から子孫ということで取材を受
けて、6月には織田家との和議を本能寺で取り行いました。もともと本能寺の変についての私の仮説
を広く知っていただきたいという思いで取材に応じたのですが、予想外の展開となりました。これも
ご先祖のお導きと考え、現在私の仮説、及び子孫として伝承されていることの内容などを思い切って
きちっと整理しておこうとしております。少し整理がつきましたら、内容をお知らせしたいと思って
います。(2月中にはまとめたいと考えております。)
 なお、長宗我部家と齋藤利三、石谷頼辰などとの関係は知られているところですが、本能寺の変
以前に、長宗我部家と土岐氏の関係はもっと広く深いものがあったのではないか、と推測しており
ます。これに関して情報があれば、教えていただけると幸いです。 


7 名前:源臣 投稿日: 2005/01/12(水) 21:19 
戸塚の明智様本日お電話を差し上げました土岐会のものです。掲示板への書き込み
有難うございます。2月にお目にかかれますことを今から楽しみにしております。
どうぞよろしくお願いいたします。本能寺の変の仮説など是非お聞かせくださいませ。
明智様との面談の日程については、確定いたしましたら「土岐探検隊」のメンバーにはこの掲示板を通じて、
ご案内いたします。スレ1の明智様が今日お電話を差し上げた明智様とはなんと言うご縁でしょうか、
ただただ驚くばかりです。重ねてよろしくお願いいたします。 


8 名前:澤源 投稿日: 2005/01/12(水) 22:19 
土岐明智氏の急展開は、年当初の慶事なり。尚、土岐石谷氏研究については、平成11年度土岐氏研究講座に登壇して頂いた
古田憲司先生の「奉公衆石谷氏の興亡」が注目であります。尚、近日会員向けに講義録発刊予定です。 


9 名前:戸塚明智 投稿日: 2005/01/13(木) 17:40 
 織田さんから土岐会と美濃源氏フォーラムの存在についてご連絡をいただき、フォーラムの
フォーラムのホームページを見たのがきっかけで明智光秀桔梗盃を購入した次第です。祖先から
伝わっていた、わずかな品も関東大震災で全て失っておりますので、桔梗盃を家宝の如くに
していきたいと思っております。
 なお、私も土岐会に会員登録いたしますので、古田先生の講義録を入手させていただきたいと
思います。よろしくお願いいたします。 


10 名前:澤源 投稿日: 2005/01/13(木) 22:44 
戸塚明智様、陶器産地の我が意匠を、家宝とまで言って頂けたら、正に作った甲斐がありました。
因みに、手紙の封緘にでも使える『桔梗シール』もありまして、これは1994年の土岐氏サミット開催の折
こしらえたものが今でも残っているのですが、次回東京で『土岐氏探検隊』が行なわれたときには
参加者プレゼントといたしましょうか?
尚、現在古田憲司氏講義録準備中ですので、暫しの猶予を願います。 


11 名前:光憲 投稿日: 2005/01/14(金) 21:35 
 戸塚の明智です。「戸塚明智」というハンドルネームではいささか体裁が悪いので、本日から「光憲」と
改名させていただきます。正式名は「明智三郎光憲」とでもしておきます。いかにも土岐明智の武将らしい
名前だと大いに気に入っております。
 明智光秀桔梗盃は青磁のとても美しい盃だと思いました。「桔梗」もあらためて美しい紋所だと、しば
し見とれてしまいました。桔梗シールも期待しております。桔梗紋をインターネットからカット&ペー
ストして利用したいのですが、よいデザインのものがあれば教えていただけると幸いです。
 本能寺の変の原因として未だに「日本の常識」となってしまっている怨恨説を一掃するために微力を尽く
すことが、子孫としての勤めと思い、昨年六月の織田家との和睦を天与の機会ととらえて、歴史の事実を
捜査しております。私のこれまでの捜査では、本能寺の変は光秀を核とした「土岐一揆」ではないかと推理
しております。これに関連する証拠がありましたら是非お知らせください。俗書・俗説を廃して、信憑性ある
歴史的な物的証拠を探しております。 


12 名前:澤源 投稿日: 2005/01/14(金) 22:26 
光憲様、御出世街道まっしぐら、誠におめでとうございます。
さて、『本能寺の変』が「桔梗一揆」の仕業との解釈、なかなかと存じます。
現在、歴史的な物的証拠に乏しく、推論の粋を出ないのが残念ですが、
朝廷正親町天皇の綸旨による、土岐一族の桔梗一揆を私も支持したいと思いますが。
古くは、1221年後鳥羽上皇の承久の変において宮方に組し、
1324年の正中の変には後醍醐天皇に組し、平安時代末期より北面の武士として
宮中警護の身分そのままの政変劇の準主役であったと思います。
信長が、安土城に天主の間を設け、その一階下の部屋には正親町天皇を迎え入れるという
正にゼウスとして日本に君臨するという、また暦を改変し、関白でもなく征夷大将軍でもなく
ゼウスとして、勅旨門まで設けた安土城に足を踏み入れるばかりであったわけですが
果して、綸旨があったものかどうか・・・。
現在の、私のテーマのひとつです。 


13 名前:光憲 投稿日: 2005/01/21(金) 21:50 
 ところで、「明智光秀桔梗盃」はどこでどう作られているのでしょうか。
作られた経緯なども教えていただけると、「桔梗盃」を誰かに見せびらかせ
る時の話題作りになるのですが。 


14 名前:澤源 投稿日: 2005/01/22(土) 14:53 
美濃源氏土岐一族の発祥地である旧土岐郡は、岐阜県東濃地方で現在の瑞浪市・土岐市・多治見市・土岐郡笠原町で
ここは平安時代より続く陶磁器生産地です。そんなことから、野外で若手行政マンとの意見交換会の懇親会の折に、
独創性の酒盃が必要となり、ついては美濃源氏土岐一族に因む「モノ」を創ろうとした訳です。
とすれば、土岐一族の桔梗紋を浮き上がらせ、ましてや水色桔梗とも言いますので
陶器の中でも高級食器てである【青磁】で創れば、正に理に適うとして考案しました。
それから、清酒美濃源氏が出来た折にも、桔梗盃が当然必要となりまして、見なさまから好評でありました。
ついては、明智光秀関係者からも当然土岐一族に因み、桔梗紋とくれば、美濃源氏土岐一族明智光秀も同属であるので
昨年から、明智光秀桔梗盃として、グランドオープンとなった次第です。
結婚式等の式を挙行されますときは是非引き出物に、又酒席での酒盃としてしようして頂けたらと願っております。 


美濃林は源氏か平家か

1 名前:美濃平 投稿日: 2005/01/10(月) 17:22 
美濃の林は様々の、所から来ているようで、父の生まれた大垣市三塚
町の隣町は林町で、ここの林さんはその菩提寺の由来記によると、
平景清の四代目景顕が北条経時に使え、薬を調合しその功により、
東大寺大井荘内の荒野をもらい、開墾して林町とした。
墨俣のあたりでは幕府から恩賞でもらった河野の一族がおり、
揖斐川の川上には、新田義貞と行を共にた伊予の河野一族が在り、
林は源氏か平家か物部か分からなくなります。
父は竹中から最初の嫁を取って居ます。明治の初め美濃を出ていますので、
何がなんだか分かりませんが、解明して死にたいですね。美濃在住の皆様ご解明下さい。、 


2 名前:澤源 投稿日: 2005/01/10(月) 20:56 
美濃平様ご登場ありがとうございます。
いよいよ美濃林様の出番ですので、ご解答を楽しみにお待ち申し上げます。 


3 名前:美濃平 投稿日: 2005/01/11(火) 21:13 
早速お取あげいただき有難うございます。景顕は平景清の三代目でした、
母方の伊勢員弁郡志知郷の林を名乗っていた由です。
話は変わりますが、土岐氏は伊予久万山郷に所領を持っていたと、
大野文書に書いてあるようです。 


4 名前:澤源 投稿日: 2005/01/11(火) 22:05 
美濃平様、度々とありがとうございます。
土岐氏の所領は伊予久万郷にあり、現在美川村の山頂にある赤蔵ケ池(あぞがいけ)付近を中心として
いたようです。今でも、山頂への道すがらには土岐さんがお住まいですし、頼政のヌエ退治伝説が
ここにも残っているのは驚きです。又、ここから松山へ下る麓には、土岐一族土岐光定ゆかりの興善寺跡や
新張城、又徳川城など、関連史跡を見る事ができます。
その一端が、このホームページの全国の土岐氏情報で御覧いただけます。 


5 名前:源臣 投稿日: 2005/01/12(水) 10:17 
タイトルから外れた話しですいません。HP「伊予国安芸めぐり」じっくり読みました。
あのHPの中に出てくる「土岐金山家系図」澤源様コピー等お持ちではないでしょうか、
是非拝見いたしたく思います。あのHPはよく読むと「今年は土岐会で四国ツアーでも・・・」と思わせるような内容ですね。
検討してみます。 


6 名前:澤源 投稿日: 2005/01/12(水) 11:11 
源臣様、土岐一族気金山氏系図、確かに保存してありますので、引き出してみます。
伊予も面白いでっせぇー、そして高知は坂本竜馬に板垣退助出身土岐乾氏(山内家家老職)、又香川には明智左馬之介光春後裔等
何より、四国が明智姓の宝庫でありますので、幹事代行としては辣腕が発揮できる事でしょう。
尚、3月25日から9月25日までは愛知万博でして、その間毎月勿論美濃源氏フォーラムは
開店中です。 


7 名前:美濃林 投稿日: 2005/01/12(水) 11:41 
美濃平様 「古代氏族系譜集成」著者宝賀寿男先生のHP
「古樹紀之房間」の掲示板に「美濃の稲葉、林氏」についての記述がありますのでご参考まで。

       http://shushen.hp.infoseek.co.jp/

また竹中氏は美濃国諸家系譜によれば林氏から出ており同族です。
九枚笹の紋は加賀藤原姓林氏の紋ではなく一遍上人の誕生地宝巌寺の扉にあり、
一説には上人の母大江氏からのものとされていますが不明です。この紋は、林氏も使用しています。
拙宅は丸に花オモダカで早矢仕氏の紋と同じです。早矢仕氏は越智姓であり丸善の創始者早矢仕有的氏が有名です。
ハヤシライスの発明者でもあります。「稲葉九枚笹」として稲葉氏使用の紋でもありますが、
もともとは林氏から稲葉氏も分かれたのではないかと考えています。
土岐氏には北条経時女が嫁いでおりご先祖が随伴されて来られた可能性もあります。
加賀野々市には上林、中林、下林という地区もあり加賀藤原姓林氏についての詳細は
「中世加賀の群像」林六郎光明殿のHPをご覧になればと思います。
美濃の稲葉、林氏は春日局のおかげで命脈を保ったと思います。今後のご研究を期待申し上げております。 


8 名前:源臣 投稿日: 2005/01/12(水) 12:11 
美濃林様、何故丸善のハヤシライスが美味しいのかこれで判りました。
違うところで感動しているようでスイマセン。 


9 名前:美濃林 投稿日: 2005/01/12(水) 16:00 
ハヤシライスは共食いになるような感じがしてなるべく食べないようにしています。
美濃守護初代土岐頼貞は、宝賀寿男先生が昨年解説された東大史料編纂所蔵の「明智一族宮城家相伝系図書」によれば
(1264生1339卒)母北条武蔵守経時女、或は又北条相模守貞時女共云々是誤也とあります。
鎌倉から北条氏の姫君に随伴して来た河野氏など諸氏が美濃に所領を与えられ土着していったのであろうと推測されます。
瑞応寺には景清伝説もあり三代目であれば年代的にも符合し真実であろうと思われます。
また改易、断絶となった家系は改姓したはずであり母方の名字を名乗ることは、ごく自然であると思います。
平景清の子孫が北条氏に近侍していてもなんの不思議もありません。 


10 名前:美濃平 投稿日: 2005/01/12(水) 18:48 
美濃林様沢源様いろいろご教授有難うございます。
景清後裔説は大垣市林町顕性寺の由来書と系図で調べました。
三塚町は林・勝江・江崎・貝曽根・加賀野・今宿などの町に囲まれた、
東大寺大井荘内にあり、古代壬申の乱の本部拠点西端でもあるようです。
古代から岐阜と伊予はなにか関係があったようです。
我が家は江州浪人で、元禄4年以前に赤坂宿に居付いた高野某の、
三塚にあった子孫の家が絶え、高野家から嫁にきて生んだ次男が、
林姓で高野の家を継いだようで、元の長男の林がどの林か、
林姓が大垣には多くてわかりません。
家紋は高野家の者と思われる丸に梅鉢です。
小生が幼児のころ、父は亡くなり、父方とは疎遠なってしまいました。
面白いことに、子供に正三、正夫・秀夫・平八郎・小松などと名づけています。
十七条とも関係ありそうですし、東大寺年貢算用帳に平八郎と言うな名もあります。
こまつなどは、伊予の一柳等稲葉・林等も考えられますし、困っています。
美濃林様美濃の林の相関関係図がわかればいいですね。
私の祖父は貝曽根から養子できていますが、この親戚には曽根の林から
嫁が来ていますし、岐阜の人々はどっかで血縁関係があるのでしょう。
この親戚にはとんでもない、家伝があり、明治以来何人かが証拠探しに奔走してい
ますが、いまだ立証できません。長曽我部盛親の子孫と言うことです。
証拠らしきものは、表副本兼宗と無名刀。それに京都連光寺の長曽我部盛親と、                     
同じ墓石が何も刻まれず、貝曽根の畑中にあります。
まったく岐阜はこんがらがってわからないところですね。
林の解明美濃林様がんばってください。 


11 名前:美濃林 投稿日: 2005/01/13(木) 10:12 
美濃平様 確か東大寺文書に大井荘の藤原姓林氏についての記述があったような覚えがあり、
よくわかりませんでしたが美濃平様のご指摘で解明できたようで御礼申し上げます。
長宗我部盛親は1615卒。子として盛恒、盛高、盛信、盛定、某、女があったようです。
蓮光寺及び長浜の霊蹊寺(高知市)所蔵の牌子には蓮国一栄大禅定門とありそのあたりの調査ができれば
もう少し解明できるのではないかと思います。有り得る事と思います。
また質問ですが「揖斐川の川上には新田義貞と行を共にした伊予河野一族が在り・・」とはどのような資料からのものでしょうか?
ご教示頂ければ幸甚に存じます。大井荘の林氏については、その後林通村の記述があります。
(蓬左文庫「藩士名寄」整理番号141〜1〜15)持高四00石 
林八郎左衛門寛福系図 稲葉七郎左衛門通兼二男 
越智通村−永正四年卯年義澄公依命上京細川右近太夫政元臣香西次郎戸倉次郎兵衛逆ス
此節通村有軍功依テ義澄公預軍賞美濃国大野本巣両郡賜之 
一.濃州安八郡林村ニ住故林ニ改 一.永正八末年舟岡山合戦之節軍功御座候 
一.同十二年亥九月十一日山城国白川ニ而死年五拾八歳 妻織田藤左衛門信清女
−通忠左近太夫 初名新三郎 永正五辰年濃州十七条ニ移本巣郡十七条ニ而高千六百石土岐郡下石村ニ而高千八百弐拾石
安八郡高田村ニ而高八百石 同郡林村ニ而高千五百石尾州之内ニ而高 八千余石領知仕 一.天文十八年酉五月七日死 ご参考まで。 


12 名前:美濃平 投稿日: 2005/01/13(木) 12:29 
美濃林様 色々と情報いただき有難うございます。
東大寺文書の平八郎記載は正確には、石包名年年貢算用帳に〔三津賀・平八郎〕と
あるようです。長曽我部と美濃の関係、盛親の孫盛胤養育先秦刑部宛の書簡と兼定
の太刀を残しています。果たして孫は一人だったか。同じような書簡があればわか
りますが、兼宗の刀だけではわかりませんね。あとはDNA・ミトコンドリア鑑定に
なりますかね。
新田味方の河野一族の件、揖斐川町史に歴応2年〔1339〕加賀から林七郎左衛門
通兼が戦いに敗れ一族50騎と本巣樽見へ来たとありました。
新田と共に戦った伊予河野も、1338年七月藤島の戦いで新田義貞が戦死し、
新田軍は解体し、河野も土着したり、義貞の弟と共に山越えで美濃へ、海路伊予
へと帰っている。その河野一族が海への基点である揖斐川に残り、得意の海運で
生き延び土岐に使えたものと考えています。 


13 名前:美濃平 投稿日: 2005/01/13(木) 12:41 
追伸 伊予の黒川文書でしたかに、壬生川某、美濃で2000貫でしたかの禄を、
土岐からもらった。とあるようですが、年代を合わせてみないとわかりませんが、
この辺りが稲葉・林の祖で、あるような気がします。沢源様いかがでしょうか。 


14 名前:澤源 投稿日: 2005/01/13(木) 14:30 
美濃平様、ありがとうございます。
貴方はすごい、是非ともお名前を・・・。
Eメールを待ってます。 


15 名前:美濃林 投稿日: 2005/01/13(木) 14:31 
美濃平様 ありがとうございます。「揖斐郡志」の文面には、「敗れて当国に来たり」とされ、
はっきりと書かれていなかったものですから。私も脇屋義助とともに根尾谷に逃れてきたのであろうと推測しております。
池田町宮地の河野家は訪問したことがありますが系図は見せてもらえず不明です。
分家が古川、瀬古村にあり月桂院の檀家にもなっています。
他方面からですが河野宗賢坊から続く系図と河野通清−通員−通興(号壬生川、河内守)
−通光(壬生川孫右衛門)−*宗賢坊−弘兼(桑原氏祖)−通國(号桑原、遠江守)−某(号壬生川摂津守)があり非常に難解です。
また一本には河野宗賢越智通政など記載。
別本には天正五年本国伊予国之住人越智姓河野氏先祖代々記録帳(越智通真河野六郎左衛門天正五年二月宮地村ヨリ瀬古村ニ移ル)
などあります。系図は「他見を許さず」という旧来の慣習もあり解明は困難です。
清水太郎河野六郎修理亮嫡男から始まる系図には
江州難波出生御供ニテ濃州池田郡始テ来此時本家六十代塩塵公者幼年出家成諸国通行或時伊勢大神宮ニ参詣シ・・などの記述もあります。
断片的ではなく一堂に会して美濃における河野氏の足跡を解明するような機会ができればと思います。 


16 名前:美濃林 投稿日: 2005/01/13(木) 15:09 
追伸 河野四郎通信の孫政氏流は河野墨俣氏として存在、岐南町近辺の河野十八門徒も河野四郎通信の後裔との伝承を持つ、
大野郡清水(揖斐川町)は伊予河野党の人々の流寓して居れる処(大日本地名辞書吉田東伍著)、
椿洞の河野氏「系図纂要第十五}記載(河野伊予守通村建立の了義寺有り)は南朝系河野氏の拠点であろうと思います。
椿洞河野氏の先祖は二十八町歩所有。池田町宮地の河野家は代々帰農しており土岐氏の軍団とは一線を画していたと思います。 


17 名前:美濃平 投稿日: 2005/01/13(木) 18:15 
美濃林様 矢張り壬生川美濃にありましたか、通信孫以来何波にかわかれて、美濃の同族を頼
ってきたのですね。美濃林様のご調査研究感激しました。
今後ともよろしくご指導ください。
沢源様 掲示板お借りして申し訳ありません。横浜に住む老人です。よろしくお願いします。 


18 名前:澤源 投稿日: 2005/01/13(木) 22:37 
美濃平様、早速メールを差し上げますが、横浜にお住まいなら、この掲示板によく投稿される『源臣』様が
大田区ですし、今回戸塚区の明智様もご参加のようですので、機会が許せば是非おめもじを願います。 

   
初仕事

1 名前:澤源 投稿日: 2005/01/03(月) 23:47 
平成17年の初仕事をRyuko様に早速して頂き感謝申し上げます。
今年は、15周年を迎える記念年でありますので、色々と広報活動が重要となりますので
お手数をおかけする事が多くなりそうですが、何卒宜しくお願い申し上げます。
つきましては、東濃瑞浪会場は7月23日〜24日となりましたので、
まず皆様のご予定を入れ込むようにご案内し、お願い申し上げます。 


2 名前:Ryuko 投稿日: 2005/01/04(火) 07:48 
新年早々、HPを見られた土岐様から、以下のメールを頂きました。
さっそく澤源さんに転送し返信をお願いしましたが、土岐姓と家紋について、皆様のご意見をお聞かせください。
『私の姓も「土岐」なのですが、家紋が「桔梗」ではなく「梅鉢」なのです。
家紋が違うということは、美濃源氏の「土岐家」とは別の家系になるのでしょうか?
美濃源氏フォーラムの皆さんが研究されている「土岐家」とは別に「土岐」という姓があるのでしょうか?』 


3 名前:源臣 投稿日: 2005/01/04(火) 11:34 
以前土岐会で会員の方の家紋を調べたことがあります。
70人程度の回答数でしたが、6割くらいの方が土岐桔梗や丸に桔梗と答えていました。
土岐姓で桔梗以外の家紋では、
丸に五三の桐、剣かたばみ、丸に剣梅鉢、州浜、九曜、抱茗荷、違い鷹の羽、丸に橘、等の方がいました。
梅鉢の家紋の方も二人いました。
他にも「違い丁子」の土岐家の方もいます。その他の家紋の土岐さんもいることでしょう。
桔梗紋ではなくても土岐さんはすべて「美濃源氏」に繋がる一族だとおもいます。
梅鉢紋の土岐さんは千葉の万木土岐の流に関係があるように思っているのですが如何でしょうか、
蛇足ですが万木土岐も沼田土岐も江戸崎土岐も龍ヶ崎の土岐もみんな!みんな!美濃源氏の土岐一族です。
どうぞ今年もよろしくお願い致します。 

 
今後とも

1 名前:Ryuko 投稿日: 2004/12/26(日) 13:25 
パソコンの故障により、長い間ホームページの更新ができず、訪問していただいた方々にはご迷惑やご心配をおかけ致しました。
パソコンを新しくし、ホームページの更新環境を整えましたので、今後ともよろしくお願い致します。
美濃源氏フォーラムに関する話題、土岐氏史跡発見等がありましたら、記事をお寄せください。
多くの皆様にお立ち寄り頂けるようホームページを充実させていただきたいと思っています。 


2 名前:澤源 投稿日: 2004/12/27(月) 15:32 
RYUKO様 たくさんのお仕事をして頂いたものですから、パソコンもお疲れになったのでしょうね。
一年間のホームページ管理ご苦労様でした。御陰で、多くの方から、「ききょぅ屋」関係から著者出版物の
お問合せを頂いております。
今後更なる伸展を目指して参りますので、来年も宜しくお願い申し上げます。 

 
12月12日の忘年会

1 名前:美濃林 投稿日: 2004/12/14(火) 14:28 
12月12日の美濃源氏フォーラム岐阜事務局忘年会の写真をご希望の方は私宛ご請求ください。
但し当日出席され写真に写っている方のみです。 


2 名前:澤源 投稿日: 2004/12/14(火) 19:29 
岐阜会場での忘年会に際し、会場の豆腐料理『万福』の手配から、又最新鋭のデジタルカメラの撮影から
大変お世話になりました。
林様の御陰で、充実した一年となり、心より御礼申し上げます。
さて、RYUKO様のパソコンが現在工事中ですので、掲示板等での公開が送れそうです。
ついては、澤源にも御送り下さいませ。 


3 名前:宝善院 投稿日: 2004/12/24(金) 21:47 
12月12日の今年度最後の講座と忘年会に出席致しました。
東京駅を8時33分発の新幹線で名古屋に向かい、乗り換えて、岐阜に着いたのは10時45分頃でした。
岐阜林様に、斉藤道三縁の寺や金華山を案内していただきました。金華山は高さ400m足らずですが、岩石の多い険しい山です。
生憎、霞が立ちこめ視界が良いとは言えませんでしたが、岐阜を囲む周辺の地形が手に取るように見えます。
恐らく、450年ほど前に織田信長は、野心に燃える眼差しで、ここから西の京都の空を仰ぎ見ていたのかと思うと、感慨無量でした。
講座は加納宏幸先生の「鵜飼の歴史」と谷口先生の「藤孝と光秀の関係」でした。
702年の戸籍に、美濃の国における最も古い鵜飼の記載があるとの事です。
それ以来、鮎は貴人の接待や献上品としてもてはやされ、鵜匠は時代の権力者から保護されていたそうです。
忘年会は美濃林様のご尽力で盛大に行われました。澤源様、美濃林様、岐阜林様、大変お世話になりました。
今年の土岐探検隊で印象に残ったのは、2人の織田さんです。
総見寺系織田さんは、信長公首塚と信長公廟を守りたいと熱く語り、
柏原織田家当主織田さんは織田家廟などの遺産を保存していくご苦労を、静かに語られました。
鳥取池田家の初代光仲公正室茶々姫の墓(池上本文寺の万両塚)の発掘のための法要に出席したことも、印象深いものでした。
10月13日の一万回ヒットパーティでの、源新さんと谷口先生のバリトンも圧巻でした。
と、言うわけで、今年は、歴史を楽しむことができた一年でした。ありがとうございました。 


4 名前:澤源 投稿日: 2004/12/24(金) 23:47 
私は、高校二年生の時に受験科目に日本史と世界史を選択せず、何と倫社政経でしたので
凡そ20年間歴史から遠ざかっていましたが、38歳の青年会議所理事長の折、
地元の重要な歴史である、美濃源氏土岐一族の検証を提案し、以来まだまだ14年間でありますので
この美濃源氏フォーラムの掲示板へ来て下さる精通者に比べれば、まだ青二才であります。
ただ、面白いのは土岐一族の歴史は深く、又広いので謎が多すぎるため、
誰でも何年か探求しつづけると新しい発見を見出すかもしれない、ということで
そんな、皆さんの歴史観好上のために、来年も頑張りましょう。 

    
 


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