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191〜200
191: (続)平成16年度事業スタート (2)
192: 美濃源氏フォーラム in 九州 (4)
193: 冬ソナ&韓流 (4)
194: 「念ずれば花ひらく」坂村真民さん (3)
195: 桔梗物語 (4)
196: ききょう屋 (2)
197: 『土岐頼兼公』 (13)
198: 1万回記念品プレゼント (26)
199: 板碑拝見 (17)
200: 昭和30年代 (6)


(続)平成16年度事業スタート

1 名前:宝善院 投稿日: 2004/10/02(土) 21:44 
6月の東濃会場の講習会に参加致しましたが、その際に、講師として出席された小説家の中川先生から、
7年かけて丹精して育てた月下美人の写真をいただきました。一枚の葉から育て上げたとの事ですが、
大変見事な大輪の花の写真でした。東京土岐探検隊として、次年度は、織田信長首塚と共に、先生の月下美人を見に行きたいものです。 


2 名前:澤源 投稿日: 2004/10/05(火) 16:08 
中川先生がお元気そうですね。写真だけでなく、本物でも良かったのに!?
「梶原景時」について先生の講座の折、機会があれば使用された写真を贈呈して欲しいと
依頼されていましたが、去る9月7日岐阜県庁知事室へ訪問し、
今後の鎌倉時代における歴史見直し事業の懇談を約40分させて頂きましたが
その際中川先生からの預り分を確かにお渡し致しました。
 そして、驚いた事に9月14日に全国知事会長である岐阜県知事梶原拓氏が電撃的引退発表をされ
正にサプライズでありましたが、10月5日中日新聞特別記事には引退を決意した時期が8月末と出でいますので
私たちとの話し合いは、特別であったものと推察しています。 

 
美濃源氏フォーラム in 九州

1 名前:Ryuko 投稿日: 2004/09/25(土) 16:21 
「美濃源氏フォーラム in 九州」では、福岡、大分の皆様、大変お世話になりありがとうございました。
岐阜のフォーラムの皆様方は台風接近で危機一髪の帰途となり、お疲れだったことでしょう。
また、翌日は皆様お揃いで県庁訪問、相変わらずのハードスケジュールをこなしていらっしゃいますこと頭が下がります。
楽しい旅をご一緒させていただき、ありがとうございました。
早く九州の報告を思いながら、大変遅くなって申し訳ありませんでした。
今日、ようやく更新しました。説明が少ないですが、写真から雰囲気を感じ取っていただければ幸いです。
もう少し追加したいと思っています。 


2 名前:澤源 投稿日: 2004/09/27(月) 22:41 
RYUKO様の下見と、お義兄様とお姉様などのご協力により、盛大に『第1回美濃源氏フォーラムin九州福岡大分』が
開催できました。心より御礼申し上げますと共に、帰路が台風の為一日遅れの遅れました事、お見舞い申し上げます。
特に、秋月の民宿「暮待巣」の人情味溢れる料理の数々、そして「かんぽの郷・宇佐」での大宴会は、凡そ始めて会った
ばかりと思えぬ打ち解けた雰囲気で、日頃コミュニケーションを大切にしてみえるRyuko様にとっても思いで深い史跡巡り
でなかったかと自負しています。
今後は、郷里福岡での土岐一族研究が地元の方々のお力により花開くと思いますので、楽しみにしております。 


3 名前:名無しの権兵衛 投稿日: 2004/09/28(火) 20:17 
in九州の報告書の最後の写真にある国東の富木の富木城と土岐氏の関係は・・・
そして下総中山の富木常忍との関連について何か新情報は・・・。
ひょっとすると富木常忍の新しい姿が見えてくるかもしれないと、ワクワクしております。 


4 名前:源臣 投稿日: 2004/09/28(火) 20:20 
すいません!メンテ後でした。名前を書き込むのを忘れました。
スレ3の権兵衛は源臣です。 


冬ソナ&韓流

1 名前:美濃林 投稿日: 2004/09/21(火) 09:42 
昨日、テレビの特集をやっていました。チェジウは、すごい別嬪さんですね。
こんなきれいな人は見たことありません。
古代、ヨン様やチェジウのような人達が先端技術を持って日本に来て先住日本人をリードしていたのかもしれません。
私の三年間住んでいた志木市は、もちろん武蔵国一帯が渡来人が開拓した土地のようです。
源頼義や新羅三郎義光などの伝説を信ずれば源氏の祖は新羅系の人であり
日本に移住した新羅の人々の協力を得て勢力があったのではと思われます。
平氏は百済系のようです。源氏の白旗は新羅のシラに通じているようにも思われます。
過去にも、どなたか忘れましたがこのような考えを述べておられる著名な方がありましたが。
卑弥呼は、チェジウのような人だったかもしれません。多数のご批判を期待しています。 


2 名前:美濃林 投稿日: 2004/09/22(水) 15:28 
八幡太郎義家は岩清水八幡宮で元服したようです。
新羅から来たであろう秦氏は宇佐八幡宮と関わりがあり八幡神は新羅の神とも考えられています。
「秦氏」を調べてみますとインターネット上でもいろいろ出てきます。 


3 名前:澤源 投稿日: 2004/09/23(木) 09:33 
美濃林様
積極的に伊予河野氏と土岐氏との関連を調査頂きましてありがとうこざいます。
又、源氏その者についてまで探求の御姿勢に頭が下がります。
尚、御陰様で11月21日にはご推薦の宝賀先生による、明智光秀のルーツについて
大変驚きの研究発表が頂けるようで、楽しみに待っている所です。 


4 名前:美濃林 投稿日: 2004/09/24(金) 08:51 
どなたもコメント頂けないので、皆様のお気にさわることを書いてしまったかなと心配していました。
奈良時代「地名は二字の佳名」にということで「林」は「拝志」となったようです。
「源」「平」は地名に由来するものではなく下賜された姓ですが、あらためて考えると珍しい姓だと思います。
細かい検証も大切だとは思いますが、その発展の基本を探ることもおもしろいと思います。 

 
「念ずれば花ひらく」坂村真民さん

1 名前:美濃林 投稿日: 2004/08/25(水) 10:52 
澤源様が社会教育関係者とは全く知りませんでした。
夏休みに愛媛に行って「念すれば花ひらく」という詩を知りました。
詩人坂村真民さんは今年95才になられるそうです。この「念ずれば花ひらく」という石碑が
全国に六百数十基も建立されているそうです。私だけが知らず皆様よくご存知かもしれませんが、心から感動しました。
まさに「真言」であると思います。子供達にも知ってもらいたいと思います。HP「坂村真民の世界」ご参考まで。 


2 名前:美濃林 投稿日: 2004/08/25(水) 15:11 
念ずれば花ひらく 苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを 
わたしもいつのころからか となえるようになった そうしてそのたび 
わたしの花がふしぎと ひとつひとつ ひらいていった(わたしも母の一途一念を身につけ
「念ずれば花ひらく」という母の願いを、わたしの詩の骨髄として励み八字十音の真言をタンポポの種(母の名を種といった)
のように飛ばして一人でも多くの人に念誦していただきタンポポの花ことばのように幸せの花を咲かせてもらいたいと
居をタンポポ堂と名づけ、わたしの大願である詩国賦算、詩集流布のため身命を惜しまないつもりである。
それが不幸愚昧のわたくしのただ一つの報恩行だと思うからである)坂村真民著「念ずれば花ひらく」随筆集より 


3 名前:澤源 投稿日: 2004/09/23(木) 09:50 
青森県から鹿児島県まで、有縁無縁の土岐氏の御霊が、
『復活のとき来れり、今時代は美濃源氏』の合言葉の元
時代を動かすことになりそうです。
来れ、首都機能移転候補地、東濃へ−−−「愛・地球博」は仮の姿なり
21世紀は、日本の真ん中(土岐氏は美濃・尾張・伊勢の三国守護)が再登場、
第五次全国総合整備計画では、唯一この地域にて国土軸が交わっており
念ずれば花開くものなり。 

   
桔梗物語

1 名前:Ryuko 投稿日: 2004/09/09(木) 15:38 
美濃の林様から「桔梗物語」の推薦を頂きました。
土岐氏の歴史が分かりやすくまとめられているHPです。是非ご覧ください。

   http://ooga.ktroad.ne.jp/ooga-k/kikyou1.htm

「桔梗物語」のHP作成者の方へ
美濃源氏フォーラムのHPにリンクさせていただきますので、ご了承ください。
差し支えなければ連絡先を教えていただけないでしょうか? 


2 名前:美濃林 投稿日: 2004/09/10(金) 13:33 
「大桑城ホ-ムペ-ジ」というHPがあり、その中に「桔梗物語」があります。
山県市(旧高富町教育委員会)のHPのようです。http://ooga.ktroad.ne.jp/index.htm 


3 名前:源臣 投稿日: 2004/09/10(金) 22:53 
美濃の林様有難うございます。
拝見しました。「桔梗物語」すごい!内容からして岐阜の方とお見受けします。
情報量から判断すると澤源様クラスの方、いや澤源様でないと書けないとも思いますが、
文章の色合いが澤源様ではない。美濃には素晴らしい方がいらっしゃるとただただあり難く、
感動というか、尊敬申し上げるのみです。脱帽、感謝感謝!もちろん谷口先生の名著、
「美濃・土岐一族」があったればこそですが・・・。 


4 名前:澤源 投稿日: 2004/09/23(木) 09:38 
この桔梗物語は、岐阜県内の行政関係者ではないでしょうかねぇ。 

   
ききょう屋

1 名前:美濃林 投稿日: 2004/09/02(木) 16:29 
見ましたけど、こんなの買う人いるんですか?
他では見られないような美濃源氏の本か土岐氏家譜資料などあれば販売されたらどうですか?
勉強したい方は購入されると思いますよ。 


2 名前:澤源 投稿日: 2004/09/23(木) 09:37 
「美濃源氏婆娑羅武者人形」、東濃では人気沸騰中です。
なにせ、限定発売ですので来年の「愛・地球博」までに、完売するかもしれません?!
その他、ご要望の品々も今後取り扱う予定ですが、その時は是非『美濃林様』も
一式御買上げくださいませ。 


『土岐頼兼公』

1 名前:源臣 投稿日: 2004/08/10(火) 22:00 
著者笹原侘介氏のこの本を神保町の至誠堂で見つけて以来3年くらい経ちます。
神保町へ行く度に背表紙を確認してはほっとしていました。
実に情けない話しですが、この古本の値が高くて手が出せません。
この本の執筆のお手伝いをされた土岐町の加藤氏によると、町の企画で出版された本で、
当時(昭和初期)一冊2円で町内全戸に配布されたそうです。
買うことができないので、図書館を探しましたら都立中央図書館にありました。
この図書館は本の貸し出しシステムがありませんので、『土岐頼兼公』に逢いに
しばらく時間をかけてせっせと通おうと思っています。
それにしても土岐町の方達は何と素晴らしいものを残してくださったのでしょう。
感謝申し上げます。 


2 名前:澤源 投稿日: 2004/08/11(水) 08:51 
源臣様
笹原侘介著『土岐頼兼公』の本は、今でも岐阜地区古本屋連合展示などに出てくる場合があり、
その都度、地図付きであったり、外箱なしであったり、シミがあったりで、売価も様々ですが
澤源は買い漁っております。そのうち欲しい方も出てみえるかと用意はしておりますので、
「ききょう屋」にも展示しましょうか? 因みに8千円から1万円が岐阜相場です。 


3 名前:源臣 投稿日: 2004/08/11(水) 09:54 
澤源様
有難うございます。やはり素直に何でも書き込んでみるものですねえ。
岐阜相場は神田と比較すると格安です。その価格なら僕にも買えそうです。
「ききょう屋」に出す前に僕に分けてください。 


4 名前:澤源 投稿日: 2004/08/11(水) 15:33 
源臣様
了解しました、外箱なし、地図付き、多少日焼けの特価品を送付します。
ビックリ価格をお楽しみに、但し送料を含めました。 


5 名前:源臣 投稿日: 2004/08/11(水) 22:34 
有難うございます。感謝、感謝、感謝です。
今日も都立図書館に「頼兼公」に逢いに行ってきました。
あの水色の表紙に桔梗のご紋、地図付きの意味もわかりました。
表紙を開くたびに、加藤先達の思いが伝わってきます。 


6 名前:澤源 投稿日: 2004/08/11(水) 23:45 
源臣様
加藤宏一氏は笹原侘介先生の書生として草稿に尽力した人です
また、親愛知新聞(現在の中日新聞)の募集した「土岐頼兼公」の作詞も手がけた人で
大正6年生まれとしては好奇心の強さは人一倍です
良ければ、加藤氏の著作も一緒に送りますので、お楽しみに。 


7 名前:源臣 投稿日: 2004/08/12(木) 15:46 
加藤様が頼兼公の歌の作詞者とは・・・。驚きです。素晴らしいですねえ。
歌詞は10番まであるそうですねえ。益々歌詞を知りたくなりました。
加藤様の著作の中には頼兼公の歌詞が入っているのでしょうか。楽しみにしています。
首を長くしてお待ちしております。
昨日は夜分に失礼致しました。 


8 名前:澤源 投稿日: 2004/08/12(木) 23:07 
源臣様
本日『土岐頼兼公』と加藤宏一著の自分史2冊と春日井梅鴬浪曲『土岐頼兼』の
マスターテープを一緒に送付しました。
又、土岐小学校で歌われた『土岐頼兼公』の歌詞は、10番まで自分史の中に出てきます。
著作権の問題があるかもしれませんが、CDにて『土岐頼兼』が平成の世に蘇えるのでしょうか? 


9 名前:源臣 投稿日: 2004/08/13(金) 11:22 
澤源様
お陰さまで長い間背表紙のみ眺めて来た「土岐頼兼公」を手にすることができました。
お支払方法について別途ご指示ください。
頼兼公の浪曲のCDに付いては市販商品としては、営業的に無理があると思いますが、ききょう屋の商材としてなら、
どうでしょうか?原盤権を所有しているポリドールさんに、昔の仕事仲間が未だ居りますので、
著作権の事も含めて確認しておきましょう。 


10 名前:澤源 投稿日: 2004/08/13(金) 15:26 
源臣様
流石音楽関係のプロですね。
ついでに、麗澤高校の教師二人が作詞作曲した『桔梗のまちに帰る』もあるのですが
これも一緒に全国発売が出来たら・・・!? 


11 名前:Ryuko 投稿日: 2004/08/16(月) 11:28 
昭和の初期には、町全体に『土岐頼兼公』が配布されるなど、「土岐氏発祥の地」としての啓蒙活動と研究が盛んだったのですね。
お手持ちの貴重な本、ぜひ「ききょう屋」で販売してください。
『桔梗のまちに帰る』は歌いやすくてしみじみとした、すてきなフォークソングです。
美濃源氏フォーラムの歌として、フォーラムの会場で歌ってほしいと思います。 


12 名前:源臣 投稿日: 2004/09/22(水) 16:15 
浪曲「土岐頼兼公」の音源について
コロナレコードからポリドール(現ユニヴァーサル)へ原盤の所有者の然るべき役職の方に
原盤管理台帳はもとより著作権等の資産台帳をあたってもらいましたが、
残念ながら「頼兼公」の原盤なり、音源は見つかりませんでした。どうした訳か現存していません。
コロナ時代を知っている先達を探しだし聞いてみるとは云ってくれていますが、
原盤が出てくる訳ではありません。現状では加藤先生の伯父様の所有されるレコード(現物)か、
加藤先生のところのカセットテープか澤源様の所有するカセットテープしか、この世に存在しないようです。
美濃源氏関係者にとっては大変貴重なものとなりました。もう一つありました源臣のところに澤源さまのテープから、
ダビングしたカセットテープがあります。関東地区の方ご希望があればいつでも「聞く会」を開きますから、
お申し付けください。 


13 名前:澤源 投稿日: 2004/09/23(木) 09:28 
源臣様
頼兼公の原音探し、ご苦労様でした。
1万回ヒットパレードが行なわれるときに、是非「聞く会」を催しましょう。 

 
1万回記念品プレゼント

1 名前:澤源 投稿日: 2004/08/12(木) 23:32 
Ryuko様のお陰で、この美濃源氏フォーラムのホームページも
もうすぐ1万回ヒットがやってきますので、ページを開いた人で丁度
1万回が出た方に、記念品を差し上げます。
その場面を携帯電話かデジタルカメラにて記録し、
管理者までメールを下さいませ。
さあ、後300回強となりましたので、皆様のチャレンジをお待ち致します。 


2 名前:源臣 投稿日: 2004/08/13(金) 11:29 
頑張ります。携帯電話かデジカメが当るのかと思いました・・・。
冗談言ってすいません。
関東地区では1万回ヒット記念の夕べを開いて、Ryukoさまを労いましょう。 


3 名前:澤源 投稿日: 2004/08/13(金) 15:22 
Ryuko様
妙高高原へ行ってお出でのうちに、上記のような催しが企画されました。
ついては、『ザ・ヒットパレード』と命名します。 


4 名前:Ryuko 投稿日: 2004/08/16(月) 11:23 
しばらく高原で浮世と離れておりましたら、美濃源氏の掲示板が賑やかで楽しい催しが企画されて・・・・楽しみですね。
先日の無礼講は残念ながら欠席でしたので、『ヒットの夕べ』を楽しみにしています。1万回ヒットの方も参加くださると嬉しいですね。 


5 名前:Ryuko 投稿日: 2004/08/20(金) 06:53 
美濃源氏フォーラムHPの10000回ヒットは、表紙を印刷して、美濃源氏フォーラムにFAXしてくださっても結構です。
あと150回、商品は誰の手に?
FAX:0572-68-3143 


6 名前:宝善院 投稿日: 2004/08/20(金) 21:54 
昨日午後9時頃開いたときは、9845回でした。今日は9876回目です。この勢いですと、4日後には、一万回目となります。
一万回記念会をしたいですね。 


7 名前:澤源 投稿日: 2004/08/21(土) 10:16 
本日8月21日土曜日、岐阜県未来会館において「鎌倉建長寺」館長吉田正道氏の講演会が開催されます。
鎌倉巡りを通算3回行い、特に昨年は鎌倉学フォーラムに共催し、いよいよ館長の講演となります。
この企画は、岐阜県知事梶原拓氏の発案で、鎌倉文化をいかに現代に活かすか、と言った主旨の元
鎌倉発として今後「鎌倉武士の生き様」が見直しされるスタートとなると思われます。
どうぞ、この掲示板を始め、美濃源氏フォーラムのホームページにご注目下さい。
 と、言う事で、皆様!!1万回ヒットに向けて頑張って下さいませ。
 尚、近々宮内庁へ参上致したくますので、祝賀会ヒットパレードと重なることを
期待しています。 


8 名前:澤源 投稿日: 2004/08/25(水) 15:33 
皆様
いよいよ後り少なく僅かとなりました。栄冠は誰の手に。 


9 名前:澤源 投稿日: 2004/08/25(水) 15:35 
皆様
1回閲覧したら、3時間以内のチェックは、今回のイベントだけは、ご容赦の程、何卒。 


10 名前:宝善院 投稿日: 2004/08/25(水) 20:00 
私は、なんと9999回目でした。残念。私の次に開いた方、おめでとうございます。 


11 名前:大島 投稿日: 2004/08/25(水) 20:30 
10000回をいただきました。 


12 名前:源臣 投稿日: 2004/08/25(水) 22:07 
宝善院さま残念でした。大島さんおめでとうございます。
澤源様の上京にあわせ、Ryukoさまのご都合とかんがみ、
10000回記念パーティを気持ちよく開催したく思います。
大島様おめでとうございます。パンパカパンパーン、パンパカパンパーン! 


13 名前:澤源 投稿日: 2004/08/26(木) 09:33 
大島様
おめでとうございます、私は10012回でした。
いつも土岐氏の情報を賜り感謝しています。
 尚、0572-68-3143までファクスをお願いしますが
商品をお楽しみしてください
 その他、本日11時30分より岐阜県教育長鬼頭善徳氏に面会し
今後の美濃源氏フォーラムや美濃中世史の展開について
お願いに参ります。 


14 名前:大島 投稿日: 2004/09/01(水) 20:48 
澤源様
本日1万回の記念品を頂きました。
誠にありがとうございます。 


15 名前:澤源 投稿日: 2004/09/01(水) 22:04 
大島様
おめでとうございました
美酒器で美酒に酔いしれて下さいませ
尚、隣にはもちろん美○のお酌で・・・。 


16 名前:宝善院 投稿日: 2004/09/16(木) 20:58 
最近、土岐探検隊の活動状況が、めっきり低下しており、寂しい限りでしたが、
9月末か10月初旬には澤源様も上京するとの事ですので、久々に楽しく賑やかに無礼講ができるかなあと期待しています。 


17 名前:源臣 投稿日: 2004/09/16(木) 21:43 
澤源様の来日じゃなくて上京を只管お待ち申し上げております。
ひとり探検隊の方は、頼兼公の位記探し、や「浪曲土岐頼兼公」の音源探し、
が今大きな壁にぶつかっています。めげずにがんばりまーす。 


18 名前:宝善院 投稿日: 2004/09/17(金) 20:58 
源臣様の熱心さには感服致します。さいたま市には、土岐氏に縁があるものは少ないようです。
市内緑区にある清泰寺には、武田信玄の娘で穴山梅雪の妻であった見性院という女性の墓が残されています。
梅雪死後、徳川家康に保護され、千代田城内で暮らし、化粧料として大牧(現在の緑区)に領地を貰っていました。
現在でも、清泰寺周辺には、家臣の有泉家一族が居住しています。
毎年5月の第二日曜日には、350年間以上、見性院の法要のため、会津から供養に来続けているそうです。
将来的には、会津若松市と緑区は見性院を通して、姉妹都市になることが検討され、
緑区の関係者は会津を訪問することになっています。
また、有泉家の一族の中にも、会津松平の家臣になった人もいるそうです。勿論有泉家のルーツは山梨県にあります。 


19 名前:源臣 投稿日: 2004/09/18(土) 11:18 
ただ散らかすだけで、なかなか纏まりません。手元に寛政重修諸家譜の武田家のコピー
がありましたので見てみますと、晴信(信玄)には勝頼を含めて男子は5人、女子5人の子供達が載っております。
その次女が「穴山入道梅雪が妻」となっております。早速「見性院・さいたま市緑区、清泰寺に墓碑あり」と
諸家譜のコピーに書き込んでおきました。貴重な情報を有難うございました。
「女 穴山入道梅雪が妻」諸家譜にはこれしか書かれておりません。この女性がどのように暮らしたか、過ごしたか
通常はわかりません。宝善院様の投稿によって、僕のコピーの中に加筆され見性院として甦りました。
宝善院様程ではありませんが、暇にまかせて一族に関する歴史を調べています。
ご存知かと思いますが埼玉県には、美濃源氏の祖であり清和源氏の始祖経基王の関東(武蔵)の館跡が、
鴻巣の駅から数分のところにあります。大きな石碑が当時林の中に建っていました。 


20 名前:宝善院 投稿日: 2004/09/18(土) 18:44 
源臣様、ありがとうございます。鴻巣にそのような史跡があるとは、恥ずかしながら知りませんでした。
鴻巣の隣に北本市がありますが、源範頼伝説で知られている町です。まだ史跡を見学には行っていません。
見性院は、千代田城内比丘尼屋敷と呼ばれていた所で暮らしていましたが、
2代将軍秀忠の側室おしずの保護者として、生まれてきた幸松丸の養母となりました。
幸松丸は保科家に養子に入りましたが、3代家光との兄弟としての対面を果たし、会津松平家の藩祖となりました。
そのため、400年近く前から、毎年見性院の法要には、会津から参加しているそうで、5月の第2日曜日との事です。
見性院の墓を守ってきたのが、有泉家です。 


21 名前:源臣 投稿日: 2004/09/18(土) 21:20 
歴史(系図)上の土岐一族の女性に関する少ない記録のなかで、会長夫人からの情報ですが、
初代美濃守護の頼貞の子で2代守護頼遠の兄頼清の子頼雄(3代守護頼康の弟)の末娘が、
今川了俊(貞世)に嫁いでいます。頼雄の末娘に関する記録はただそれだけなのですが、
貞世と言う人物は「弓馬の道に長じ、かつ和歌をよくす」と寛政重秀諸家譜にあります。
一族の女性のわずかな情報から、そのご主人がどのような人物であったかが偶然わかった例です。
日の当りにくい、文献の少ない女性の情報の中から、今までと違った歴史が見えてくるかもしれません。
重箱の隅の隅のことかも知れませんが、そのような所を調べては、ひとり楽しんでいます。 


22 名前:源臣 投稿日: 2004/09/18(土) 21:27 
スレッド21の4行目誤字です。すいません。
寛政重修諸家譜が寛政重秀諸家譜になってしまいました。 


23 名前:澤源 投稿日: 2004/09/18(土) 21:31 
今川了俊(貞世)に土岐頼雄の末娘が嫁いでいるとしたら、駿河の土岐氏と今川氏の関係が
俄にクローズアップされてきますね。
恐らく、美濃にいる事の出来ない庶流が分派したと想像していましたが、頼雄の関係者が
末娘との関係でとなると、頼雄の子供か、又その子供辺りか、いずれにしても
その今川氏については小和田哲男先生の範囲ですし、東海市の大島様、霞ヶ関の徳山様のご見解も
是非お伺い致したく存じます。
尚、会長夫人も是非今川貞世とその夫人について、お知らせくださいませ。 


24 名前:澤源 投稿日: 2004/09/18(土) 21:32 
今川了俊(貞世)に土岐頼雄の末娘が嫁いでいるとしたら、駿河の土岐氏と今川氏の関係が
俄にクローズアップされてきますね。
恐らく、美濃にいる事の出来ない庶流が分派したと想像していましたが、頼雄の関係者が
末娘との関係でとなると、頼雄の子供か、又その子供辺りか、いずれにしても
その今川氏については小和田哲男先生の範囲ですし、東海市の大島様、霞ヶ関の徳山様のご見解も
是非お伺い致したく存じます。
尚、会長夫人も是非今川貞世とその夫人について、お知らせくださいませ。 


25 名前:源臣 投稿日: 2004/09/19(日) 12:29 
今川貞世の父範国は青野ヶ原の戦いで北畠顯家と戦っています。あの「頼遠ひとり高名なり」
と言われた壮絶な戦いを戦った同じ北朝方の中に今川軍の大将範国がいたとしたら、
両雄のなかに深く感じるものがお互いに流れたとしても、なんら不自然ではありません。
頼清と範国の戦場での直接の出会いも考えられます。頼雄の末娘と了俊(貞世)の縁談はそのような、
両家の関係があってのことでしょう。
と思いますが、こんな夢を見てはいけないでしょうか? 


26 名前:澤源 投稿日: 2004/09/19(日) 23:46 
駿河の土岐氏について、今川氏を頼った者達がいたとしたら、頼雄の関係者の中で。
中川根の土岐の殿様の戒名は、瑞巌院殿長屋本光大禅定門(元亨2年7月16日没)であり
正に、頼雄の父である頼清を祀る瑞巌寺と関係ありそうであります。
又、その奥方の戒名は、池泉院殿古帆妙室大禅定尼(建武4年10月16日没)です。
1322年と1335年の頃亡くなった人達となりますが、頼清は建武5年6月摂津芥川で病死ですから
想定はできないのですが・・・。 

   
板碑拝見

1 名前:美濃の林 投稿日: 2004/05/28(金) 09:55 
源臣様、板碑拝見しました。大変貴重なものと思います。今まで見たことがありません。
巣南町史によれば光定−舟木頼重−頼春(正中の変)また、光定−頼貞−頼衡(舟木四郎と称し本巣郡十七条村に住す)あります。
谷口先生の講義資料によれば1369年(応安2年)養子の康行、侍所所司に就任(同年退任か)
1379年(康暦元年)頼康、伊勢守護に就任。1387年(嘉慶元年)12月土岐頼康没(70歳)
三国守護は養嗣子土岐康行が継ぐとされています。この間舟木氏が移住をよぎなくされる事件が生じたものと考えられます。
今後のご研究を期待申しあげております。 


2 名前:源臣 投稿日: 2004/05/28(金) 21:29 
小菅村の舟木一族探検隊の報告書を只今まとめています。今しばらくお待ちください。 


3 名前:沢源 投稿日: 2004/05/29(土) 21:55 
27日から29日にかけて出かけておりましたら、小菅村調査隊記録をアップして頂きまして
Ryuko様に源臣様、誠にありがとうございました。
すかさず、美濃の林様がおっかけ通信を賜り、上手に整理した問題提起に御礼申し上げます。
噂では、楠氏との関連を漏れ聞いておりますので、南朝系が異動したと思われ、
静岡方面は今川を頼ったのではないかとも、とすると小菅村あたりの展開はどうなるのでしょうか
源臣さまのレポートを楽しみにしています。 


4 名前:美濃の林 投稿日: 2004/06/04(金) 11:29 
船木探検隊報告書拝読致しました。この板碑は重要文化財に匹敵するものではないかと思います。
全国各地に楠氏流の伝承がありますがほとんどが定かではありません。しかし、全く否定もできないと思います。
今となっては探索も困難と思いますが南朝に拠り何百年も隠棲し静かな生活をしていた人々の前に
突如降って沸いたような探検隊の出現だったのではという印象です。
六百数十年も大切にされてきた板碑をきっかけに小菅村の方々も歴史を再検証されますよう期待しております。 


5 名前:源臣 投稿日: 2004/06/04(金) 21:54 
先日訪問の折、長老の田中氏にお聞きしましたが、小菅村では舟木氏や歴史のことについて話し合う機会は少ないようでした。
お若い方達もあまり興味を示されないようです。長老にご存知のことをすべて書き残されるよう、お願いはしてまいりました。
今ごろ手を付け始めていらっしゃることと思います。また今月も森林ボランティアで小菅村に行きますので、
村役場の方に歴史的にも貴重な所であることをお話ししてまいります。
奥日光の湯西川という平家の落人部落などでは、鶏は飼わない、かまどの煙を立てない、
等外部からなるべく目立たないように静かに暮らして居たと言う話しを
聞いたことがあります。昔は小菅村もそのような暮らしをしていたのでしょう。 


6 名前:沢源 投稿日: 2004/06/06(日) 21:18 
源臣様
小菅村レポートありがとうございました。
これで、舟木氏についての項目とRyukoさんにリンクして頂けたらありがたいです。
それにしても、恐らく村長老が早速記憶にある言い伝えを記録させるだろうとは
源臣様・秀様・Ryuko様の熱情の賜と思います。
是非、家系図から古文書を含めた再発見があることを祈っていますが
もう一つ、『全国舩木氏分布』との関連からも期待したいと思います。
望まれれば。舩木姓氏者名簿を作りましたので、小菅村へ送って頂いたら如何でしょう。 


7 名前:源臣 投稿日: 2004/06/07(月) 11:34 
沢源様「舟木の会」?等への動きまではもう少し時間がかかりそうです。
地元で長老を支えるような空気を感じることができたら、そのような時には
名簿をお預かりしたいと思います。もっとも名簿をお送りしてその流れを作り出すことの方が
先かもしれませんけれど・・・?。 


8 名前:沢源 投稿日: 2004/06/08(火) 08:49 
源臣さま
了解しました、早速『全国舩木姓氏者名簿』をお送り致しますので
良しなに。 


9 名前:美濃の林 投稿日: 2004/06/12(土) 14:32 
「武将系譜辞典」http://www1.odn.ne.jp/~cem89780/
のHPに「土岐家臣団」土岐一族のうち舟木(高松)氏(大覚寺統収録)とあります。
この「武将系譜辞典」は時々拝見させて頂きますが本当によく調べてあり、しかも内容が専門的です。
どのような方がHPを公開されているか知りませんが、すごいと思います。ご参考まで。 


10 名前:源臣 投稿日: 2004/06/13(日) 02:39 
美濃の林様貴重な情報をありがとうございます。ざっと見ました改めてじっくり、
拝見させて頂きます。 


11 名前:delete 投稿日: delete 
delete 


12 名前:Ryuko 投稿日: 2004/07/28(水) 02:08 
「板碑」について説明してあるHPを見つけましたので、小菅村の板碑を見ていただきました。
以下、貴重なご意見をいただきましたので、ご紹介致します。

★〜★〜★〜★
貴殿のHPを拝見しました。小菅村はそんな歴史があるとは全く知りません
でした。楠氏と繋がりがある舟木氏が落ちのびた村だとは、すごく歴史の
ロマンを感じますね。

HPで拝見した板碑は武蔵型の緑泥片岩のもののようですね。この型の
板碑は関東の武蔵国特有のものです。関東でも、南の神奈川や北の栃木
あたりまでいくと、この型の板碑はほとんど見られなくなります。
私の住んでいる川越市あたりでは、お寺の墓地に行けば板碑はいくらでも
見られますが、鎌倉市内でも板碑は珍しいくらいのものです。

素人ながら、私の意見を言わせていただけば、おそらく、境や岐阜県から
この板碑を持てきたというのは、無理があると思われます。関西にはこの
型の板碑はほとんど見られません。もし関西にこのような板碑があったと
すれば、逆に関東から持って行ったと考えた方が確率的には高いです。

1300年代は板碑の全盛の時代です。もともとこの地にあったものと
考えた方が宜しいのではないかと思います。でも岐阜県瑞穂市に板碑が
あるのならば是非、見比べてみるのも良いかも知れません。

以上が、私の感じたことです。
★〜★〜★〜★

板碑のページ

   http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/annai/itabi10/itabi55.html 


13 名前:澤源 投稿日: 2004/07/29(木) 08:58 
板碑については、土岐氏史跡巡りなどで関東地方を廻るたびに、よく眼にしてきました。
それに比べて、土岐氏発祥地の岐阜県東濃地方や岐阜西濃地方では殆んど見かけませんので
注目をしている所ではありました。
因みに、土岐船木氏の居城と言われた十七城付近の熊野神社前には、五輪塔と宝筐印塔の部分が
寄せ集められており、これが土岐船木に直接結び付くか、僅かな銘文しか残されておりませんので
分からない事ばかりではありますが、
ただ、舟木氏に関することは今まで余り研究もされておりませんので
この供養塔や遺跡から土岐舟木氏を偲んでおります。 


14 名前:源臣 投稿日: 2004/09/06(月) 21:57 
昨日小菅村から帰ってきました。早稲田の大学院生の方達が小菅村の石碑を長年にわたって
調査していることが判りました。村役場の方が紹介してくれましたので、阿弥陀堂の2枚の板碑について
話しをしましたところ、過去の調査資料から探してくれそうです。新情報が得られるかもしれません。
連絡を楽しみにしているところです。 


15 名前:源臣 投稿日: 2004/09/09(木) 16:05 
板碑の石そのものは、Ryukoさんの調べられたとおり関東のものでした。
埼玉の石のようです。秩父の長瀞辺りのものでしょうか。
時期についてはここで新たな問題が生じました。僕らの調査では板碑は応永5年(1398)でした。
3人で(六つの目)で応永5年を板碑に確認しています。大学院生の去年の調査ノートによると
慶安3年(1650)に先祖供養のために供えられたものとなっているそうです。
まあいずれにしても、残念ながら美濃の十七城付近のものでは無かったようです。
応永と慶安は僕らでも見間違わないと思うのですが、およそ350年〜600年前のことを確認するのは
とても大変なことだと実感させられました。 


16 名前:Ryuko 投稿日: 2004/09/09(木) 22:58 
あの板碑は言い伝えによると「武士が背負って持ってきた」とのことでした。先祖供養のために供えられたとの食い違いもありますね。
板碑については機会があったら再調査をしたいですね。大学院生が調べたものと同じ板碑なのかどうかも・・・・ 


17 名前:源臣 投稿日: 2004/09/10(金) 22:00 
普通板碑は現在の卒塔婆と一緒で法事などで供養のため供えるのが自然な解釈と思います。
武士が戦場を逃れるとき、また岐阜や河内辺りからあの重さ(自分で持ちました)
を背負って小菅村まで持ち込むのはちょっと無理なように思います。
あの緑泥片岩という材質と板碑という形態は、関東のものというのもRyukoさまが他のHPで確認されたように、
納得のゆくものです。また中沢地区中組の阿弥陀堂は一つしかありませんから、
大学院生の調べた板碑と同じものと思います。諦めた訳ではありませんが、現時点では疑問を残したままです。
新たな宿題です。 

 
昭和30年代

1 名前:名無しの権兵衛 投稿日: 2004/08/30(月) 22:58 
昨日、地元の劇場に「ハローグッバイ」と言う芝居を見に行きました。
主演女優が高校と大学の後輩になるため、チケットが回ってきました。
昭和30年代の平凡な生活をドラマ化した作品です。
テレビを買ってとせがむ子供、しかめ面をして新聞ばかり読む父親、時として大声で怒鳴る一見強そうな父親、
一番のカステラ、はにかみと恥じらいの中で淡く消えてしまう初恋、など、
昭和30年代を微かに記憶している世代にとっては懐かしい芝居でした。
今年のオリンピックは、メダル獲得に沸きましたが、昭和39年は東京オリンピックで、
日本中が、女子バレー、マラソン、体操のテレビ放送に釘付けになっていたように記憶しています。 


2 名前:名無しの権兵衛 投稿日: 2004/09/01(水) 09:08 
福沢諭吉先生の夫人が土岐源氏の出身とのことで、思い出しましたが、20年近く前に、担当した患者に、
当時98歳の老女がいました。彼女は呉服商の娘でしたが、子供の頃の思い出として、お正月に近所の子供たちと共に、
福沢諭吉先生の家に行くと、当時としては珍しかったバター付パンをくれたそうです。
その老女の10歳以上年上の姉は、勝海舟の家に奉公に出ていたそうです。
当時の商家の娘たちは、近所の勝家で家事一般の手伝いをし、華道、茶道、書道と和裁を仕込まれ後、お嫁に行ったそうです。
ちなみに給料は無く、年に数回白足袋が配られたそうです。
明治時代になって大奥が無くなってしまった為、東京の商家や裕福な農家の娘たちの花嫁修業をする場所が無くなってしまった為、
勝家に行ったそうです。 


3 名前:美濃林 投稿日: 2004/09/03(金) 14:41 
慶應義塾塾員ネットワ−クご存知でしょうか?http://keio-mitakai.sfc.keio.ac.jp/
投稿して頂ければOBの方々も喜ばれると思います。 


4 名前:宝善院 投稿日: 2004/09/03(金) 22:51 
「名無しの権兵衛」になってしまっていますが、記載者は、私です。
記載内容が、「美濃源氏」から大きく逸脱していたようです。 


5 名前:澤源 投稿日: 2004/09/03(金) 23:30 
明日から福岡県甘木市秋月そして大分県宇佐への史跡めぐりと九州フォーラムへ参ります。
ご存知中津の福澤諭吉記念館も入っていますので、慶応大学OBとOGの方は草葉の陰から
エールを送ってくださいまし。9月5日日曜日10時30分中津駅前出発し、中津城ー織部灯篭−
福澤諭吉記念館−記念館前で昼食ですので、12時30分頃まで、ひとつ大声にてエールを!!。
尚、中津市では買物は必ず1万円札を使わなければならない−−イエスかノーか・・お楽しみに。 


6 名前:美濃林 投稿日: 2004/09/04(土) 09:59 
まだ死んでいないので草葉の陰からという気持ちになれません。とにかく張り切りすぎて、
ぶっ倒れないよう気をつけて行ってきてください。また、この投稿は美濃源氏もなにも意識していません。
私は源氏平氏も関係ありません。伊予の海賊の末裔とされていますから。
海賊ですら付会したのだろうとする見方もあり鋭意研究中です。
大山祇神社の三島大祝系図に記載されていますが、これも疑わしい。
なにせ伊藤博文公が過去に越智姓河野支流林氏を称してしまっているので余計困ります。
だからデタラメだろうと言われる所以です。最近「文化財フォ−ラム愛媛」の方々のご協力も得られ勇気づけられています。 

 
            


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