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231〜240
231: 美濃から分かれた「戸木氏」について (4)
232: 幻の東濃市 (3)
233: 純粋な歴史研究 (3)
234: 系図 (6)
235: 伊自良の土岐伝説 (1)
236: リニューアル (1)
237: 古文書 (1)
238: 岐阜の地名 (2)
239: 徳川将軍家の中の土岐氏 (4)
240: 土岐頼香 (1)


美濃から分かれた「戸木氏」について

1 名前:沢源 投稿日: 2004/02/17(火) 17:16 
本日、習志野市の鈴木さん・岡田さん姉妹から入会の問合せがありました。
ご先祖が銚子にて住まわれ、武具や軍配などが伝わっていたがとのこと・・。
先祖が美濃から来て、故ありて土岐を戸木としたこと、さらに鈴木氏は桔梗紋で
一時期夷隅郡夷隅町の万木城にもいたとの事・・・。
千葉県庁の山口先生にも是非ご関心を頂戴致したく存じます。 


2 名前:総源 投稿日: 2004/02/18(水) 11:23 
鈴木さん・岡田さん姉妹の先祖の話、興味大です。詳細を知りたく思います。
沢源さんの仲介を是非お願いしたく思います。
土岐⇒戸木も面白いですね。しかも万木に関係があるとか。また、新たな「歴史発見」につながるかもしれません 


3 名前:沢源 投稿日: 2004/02/18(水) 15:37 
鈴木さんも、岡田さんも習志野市在住の姉妹で、早速昨晩全国戸木さん名簿を作成し、
本日鈴木さんへ発送したところです。ぜひ、万木土岐研究の山口先生のご指導を宜しく
お願い申し上げます。
 尚、鈴木さんもインターネットを始めたところで、このホームページの閲覧にて
事務局へ問合せがあり、そろそろ掲示板に書き込みが始まるかもしれません。
鈴木さん、岡田さん姉妹の投稿もお待ち申し上げます。
又、青森の高田さんも銀行業務の合間に是非お立寄りください。
それから、全国の土岐氏に関わる情報や伝説、又家に言い伝えられた話など
是非とも皆様、何でも良いから書いて頂けたら幸いに存じます。 


4 名前:沢源 投稿日: 2004/02/18(水) 15:40 
全国では、戸木さんが59軒ありました(2000.01.01現在)
全国調査が楽しみです 


幻の東濃市

1 名前:沢源 投稿日: 2004/01/26(月) 09:35 
土岐氏発祥地である旧土岐郡(多治見・瑞浪・土岐・笠原)の三市一町は
1月25日に合併の意向調査が行なわれ、笠原を除く三市で何れも反対が
6割前後又賛成が3割前後となり、平成16年1月11日新市誕生は幻に
終わった。尚、その際の市名については『東濃市』が最多投票となったが
これも【幻の東濃市】となり、白紙の状態から再出発を迎える事になった。
土岐氏が斎藤道三に国を盗られ、そして信長・光秀・秀吉と美濃は変遷し
その後の徳川幕府の細分地政策により土岐氏発祥地もリーダーが生れ難い
土壌を作られ、合併を繰り返しながらも旧自治体感覚から脱出せないでい
ることが、そして何より藩校がないままに長期ビジョンに理解ができずに
目先の事ばかりにとらわれ、要するに読書き算盤社会から脱出せない様な
そんな事がおきたのでは・・・。
 今後は、それぞれ単独の道を歩むのか、はたまた別の組合せが模索され
るのかわかりませんが、いずれにしても土岐郡から土岐市に変わった市名
が生き残りましたので、案外瑞浪市と土岐市と土岐郡笠原町の二市一町で
土岐郡市(ときごおりし)として残るのかも・・・。 


2 名前:ガス屋の親戚 投稿日: 2004/02/11(水) 13:45 
沢源さん、うまいこと言いますね。「…要するに読書き算盤社会から脱出せない様な
そんな事がおきたのでは…。」とは。
歴史的にどうだということは私はいえませんが、
今回の白紙撤回と昭和の大合併のときとは何が違っていたんでしょうか?
この諦めにも似た瑞浪市に漂う冷たくて重い気分は、次のどんなキッカケで新しい展開に向かっていくのでしょうか?
沢源さんの考えを聞きたいなあ。 


3 名前:沢源 投稿日: 2004/02/13(金) 10:05 
瑞浪市や土岐市の図書館に行けば、昭和28年から30年にかけて行なわれた合併の
「土岐市ができるまで」という文献がありますので、是非一度斜め読みをしてみて下さい。
その中には、28年合併促進法が成立してからの土岐市や瑞浪市が出来るまでの、要するに
旧土岐郡を分割して2市もしくは3市を創ろうとした苦労がしのばれますし、
多治見市が議会内に特別委員会を作り、鶴里村や曽木村を引き込もうとする場面、
瑞浪市にするか土岐市にするかでもめた後、議員の数と経済的基盤、何より国鉄瑞浪駅だった
故に瑞浪市になったことだとか、さらには土岐市の前には陶都市だとか美濃陶都市などの案も
でたけれども、結局下石村長と議会議長の辞職により、土岐市合併がまとまった事など
大変興味深い事柄が書かれています。
因みに、著者は土岐市初代議長で、旧駄知町議長の正村氏で、瑞浪市の正峰陶苑さんの実家です。
合併劇は、1552年土岐一族が何故滅んだか、そして600年前の一族繁栄の姿を考えさせてくれます。
血で血を洗う戦いが、分割や合併の度に繰り返されてきました、果たして今回の失敗の責任というものが
表面化しない間は、恐らく次のステージは見えてこないでしょう。 


純粋な歴史研究

1 名前:沢源 投稿日: 2004/02/12(木) 10:02 
どこのどなたか存ぜぬが、この世の憂さを晴らすべく、艶話が舞い込むとは
いつの世も歴史の陰には女人あり、土岐氏の正室と側室なども
今後の研究対象にはなりぬれど
今の世に再びこの身を現すことのみにウツツを抜かそうぞ 


2 名前:delete 投稿日: delete 
delete 


3 名前:HP管理者 投稿日: 2004/02/12(木) 22:05 
掲示板のメンテナンスが遅れて、皆様には不愉快な思いをさせて申し訳ありませんでした。 


系図

1 名前:無礼講 投稿日: 2003/05/23(金) 22:38 
土岐一族の名字分出系図掲載お待ちしています。 


2 名前:Ryuko 投稿日: 2003/05/24(土) 04:14 
系図は載せられように調理済みのようです。
近いうちにHPの先生が来てくれることになっていますので、
もうしばらくお待ちください。
何しろ先生はテニスだゴルフだと週末は多忙のようで・・・ 


3 名前:大島 投稿日: 2003/06/01(日) 08:18 
系図は続群書類従本がベースでしょうか?浅羽昌儀はこの系図をどこから探してきた
のでしょうか?また後で付け足した支族とかはないのでしょうか?土岐一族に間違い
ない、不明などの識別をしていただけると助かります。ちょっと虫がよすぎますか
ね? 


4 名前:無礼講 投稿日: 2003/12/22(月) 23:38 
余談ですが、
フォーラムにも過去に参加したことのある佐藤実氏も系図作成をされているようです。
この方の場合、各家をたずね、残っている資料等を探し出してきては丹念に作られているそうです。 


5 名前:無礼講 投稿日: 2003/12/22(月) 23:39 
余談ですが、
フォーラムに過去に参加した佐藤実氏も
系図作成をされることがあるようです。
この方の場合、各家をたずね、残っている資料等を探し出してきては
丹念に作られているそうです。
本当に余談でした。失礼! 


6 名前:沢源 投稿日: 2003/12/23(火) 13:34 
佐藤実さんが、瑞浪市歴史ボランティアガイド養成講座の講師の一人ですので、
そのあたり本人に直接聞いてみると面白いかも・・・。 


伊自良の土岐伝説

1 名前:沢源 投稿日: 2003/12/21(日) 12:04 
岐阜県山県市伊自良には、大桑城からの落武者伝説があります。
又、その近くの仙洞寺は桔梗紋で、山門から右側には五輪塔が数基あり、
その奥には寺跡もあります。
横山住雄氏は、土岐頼武の拠点は伊自良と推測されており、今後の解明が待たれます。 


リニューアル

1 名前:沢源 投稿日: 2003/12/18(木) 18:16 
りゅう関東事務局長のお骨折り、ホームページがすっかりリニューアルされ、
又内容が充実されて楽しいページとなりました。
ボランティアりゅうさんの御好意に添うべく、皆様の伝言をどうぞよろしく。
平成16年度の講座について、希望の講師ですとか、内容やイベントについて
希望を掲示板に記入して下さいませ。
 因みに、小板さんからは、建長寺の高井教学部長や三重大学の藤田先生が出て
います。 


古文書

1 名前:沢源 投稿日: 2003/10/06(月) 20:44 
建長寺でフォーラムが開催されるとの事、いよいよ中世文書に手が着くかもしれません
さて、その後の土岐氏は妙心寺派へと移行していますので、妙心寺の中世文書解明も期待されます
然し、その解読は同派に花園大学がありますので、そこの史学科へ人材を送る必要があり
その作業を始めなければなりません 


岐阜の地名

1 名前:沢源 投稿日: 2003/07/08(火) 00:01 
織田信長が名付けたと言われる『岐阜』の知名について、美濃守護八代土岐成頼画像が
岐阜市瑞龍寺にありますが、その画像の讃を東陽英朝和尚がしており、その中に『岐阜』が出てきます。
信長登場以前から、既に土岐氏の時代より『岐阜』は使われていた事になります。
岐阜市神田美一氏等のご尽力にて、その画像が岐阜市の指定文化財となりましたので、当然『岐阜』の文言も
認定された事となり、今後岐阜県の文化財に、ひいては国の重文になれば有り難いのですが。
とすると、[岐阜=土岐氏]との構図となり、当然「土岐氏の阜」と読むべきではないでしょうか。
室町幕府初代美濃守護土岐頼貞の後、二代土岐頼遠は東濃の土岐郡より1300年代前期に長森へ移りますが、その後変遷を経て
土岐氏の守護館が現在の岐阜市内に点在し、1400年後期では岐阜という地名が出来た事になります。
今後の研究にて、岐阜の発祥に土岐氏が関わっていたことが立証されるのを節に願っています。 


2 名前:沢源 投稿日: 2003/09/02(火) 22:57 
最近、岐阜県商工関係部にて中国交流の一貫で、「岐阜の名前は中国に由来」との解釈から
中国との間で歴史による交流が始まりかけましたが、このままでは大変と早い内に書簡を出しました。
岐阜市歴史博物館の関係者からも、やはり岐阜の地名は信長が来る以前からあったとの見解を頂き、
信長は、すでにあった岐阜の地名を選択したことであるとの意見が一致しました。
とすると、いつの頃からかが研究対象となりますが一つの可能性としては、やはり頼遠の守護所が
土岐の地から移ったことから、土岐の阜としたのではないか、これを研究してゆきたく思います。
皆さんのご意見を御知らせくださいませ。 


徳川将軍家の中の土岐氏

1 名前:臣道 投稿日: 2003/08/27(水) 21:53 
8月31日までです。江戸東京博物館
土岐豊前守朝旨が12代将軍家慶から頂いた杯が陳列されています。
12代将軍の陳列場所の前のガラスケースに飾られています。
この杯は家慶みづからが作ったもので、朝旨が御側御用取次のときに
頂き、明治時代に子孫がお返ししたものと言われています。
朝旨は江戸崎の土岐です。溜池の土岐頼旨の実の父になります。 


2 名前:臣道 投稿日: 2003/08/27(水) 21:57 
タイトルを間違えました訂正します、
徳川将軍家展の中の土岐氏「展」が抜けていました。 


3 名前:沢源 投稿日: 2003/08/28(木) 00:08 
この盃はやはり陶器でしょぅか、形状や色柄に興味がありますので
イメージが分かれば良いのですが・・・8月31日までには行けないと思いますから 


4 名前:臣道 投稿日: 2003/08/28(木) 21:20 
陶器です。直径6センチ、高さ3センチ位のものです。杯の内側の上部3箇所に、
等間隔で直径1センチ大の16紋菊ふうの模様があり、同じ模様のものが中央部
(上から見た場合真中の底の部分)に1個描かれており、それぞれの16紋菊ふうの
模様を縦18本位、横1本の自然な曲線で結ばれているような柄です。
生地の色は乳白色(無色の陶器の色)模様は紫系とグリーン系でした。
下手な説明ですいません、お分かりになるでしょうか。
カラー写真が手に入ったら、またご報告いたします。 


土岐頼香

1 名前:沢源 投稿日: 2003/07/07(月) 23:46 
岐阜県笠松町無動寺という所に土岐塚があります。土岐政房八男で、齋藤道三の娘婿であったが、
天文13年織田信秀の美濃攻めの拠点とした無動寺にて、道三の意を受けた松原源吾に討ち取られ、
近くの光得寺の竹薮の中に葬ったとの事から、その場所が[土岐塚]として現存していました。
その後、幼子は野洲郡波庄にて成長とのこと(美濃明細記)。岐阜市の南にて木曽川沿いにあります。 




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