美濃源氏フォーラムの歩み

C 美濃源氏フォーラム in 岐阜大野町 H15/9/27
  土岐頼芸シンポジウム

平成15年9月27日(土) 12:00開場 13:00〜17:00 
岐阜県揖斐郡大野町・町民センター ふれあいホール
 

頼芸公寄寓の足跡            基調報告者  山口 純男
 

去る9月27日「美濃源氏フォーラムIN岐阜大野町」~土岐頼芸シンポジウム~が開催され、
それぞれの地域からの土岐頼芸についての事跡、人物像が報告されました。
小生も基調報告「土岐頼芸の逃避行」を担当させて頂きましたので。
その一部を「美濃源氏フォーラム」の井澤康樹氏のご了解を頂きここに報告いたします。 

1 寄寓の経路

天文21年(1552)斎藤道三による三度目の大桑城攻めにより、
流浪の旅に就く頼芸公の足どりについては、諸説があり明らかでない。
そこで、諸説を参考にしながら30年間に及ぶ足跡の考証を試みる。

落城およびその後の頼芸公に関する資料は、多数見受けられるが、同一内容のものが多く、
「美濃明細記」、「土岐・斎藤軍記」が出典と思われる。
これらの資料にも疑問点があるが、寄寓先の環境等を加味し、
総合的に判断し、次のとおり考証する。


大桑⇒越前⇒常陸江戸崎⇒上総萬喜⇒甲斐⇒尾張⇒岐礼

2 常陸江戸崎にて

落城年にも諸説があるが、最近の資料により天文21年が妥当である。
落城時、山本数馬ほか6人の近臣に守られながら先ず従兄弟に当たる越前の朝倉義景を頼るが、
織田・斎藤同盟等諸般の事情により受け入れられず、
遥か500キロ離れた実弟の土岐治頼を常陸国江戸崎に尋ねる。

突然に起こった不幸な出来事もしばし忘れ、昔話に花が咲いた事であろう。
江戸崎寄寓についての資料は、確認できないが当地には根強い寄寓説が有り、
頼芸公の心情を考慮すると実弟を頼るのが自然であろう。

また、当地には、頼芸公に「鷹の図」を所望したと言う書簡も残されていると言う。
江戸崎にどの位寄寓したのだろうか。天文末期の状況をみると、
背後の小田氏及び佐竹氏との確執、また、弘治2年(1556)には、実弟治頼が病死し、
治英に代替わりするなど頼芸公にとって、江戸崎もまた、安住の地ではなかったのである。

江戸崎を出たのは、この頃と思われる。 

3 上総萬喜にて

江戸崎から南へ約50キロ、上総国萬喜の土岐氏を頼ることとなる。
上総土岐氏は、江戸崎土岐原氏の分脈である「時政」を始祖とし、東上総一帯を支配していた。

特に、当時の城主である「土岐為頼」は、累代の城主の中で最も傑出した武将で、
「甲陽軍鑑」には、当代日本を代表する17大将に数えられ、
武田信玄書簡では、「上総に萬喜在り、地勢小と雖も天下不世出之材也」と賞賛されている。
                                         (南泉寺秘書・土岐記)
 
土岐宗家11代守護・頼芸公を迎え、庇護するには格好の人物である。  
諸書には、江戸崎土岐氏の手引きで萬喜へ寄寓したとしているが、
小生は、頼芸公と為頼は従兄弟であると考証しているので、
この二人は以前から交流があったのではないかと考えている。

つまり、頼芸公は、従兄弟―実弟―従兄弟と頼ったのである。
よく「遠くの親戚より近くの他人」と言われているが、頼芸公の場合は、
「近くの他人」には、あまりに荷が重かったのであろう。

さて、頼芸公は、ここ萬喜の地で鄭重に饗応されるが、同時にひたすら仏門に入ったことが窺える。
久しぶりに安らぎを憶えたことであろう。
城下に現存する古刹、東頭山行元寺に、永禄8年8月5日に萬喜城内で書き写された
「金潅頂私記」が伝わっている。

この奥書には、「大乗坊豪秀」の署名があり、当寺の現住職、市原淳田氏は、
この「大乗坊豪秀」こそ頼芸公に他ならないと主張している。

同氏によれば、「○○坊」とは、寺を持たない修行僧のことで、
一介の修行僧が城内でこのような写経をする事はありえないことであり、
それ相当の身分を持った人物で無ければならないと言う。
 
また、この内容に、眼病治癒祈願も見え、諸書に見える頼芸公の眼病も裏づけられ、
この写経に悲願が込められていたことが窺える。

頼芸公寄寓中に子の頼次宛出された書簡「村山家文書」が何時、何処で書かれたのかが
寄寓先を特定する鍵となるが、残念ながら8月5日付のみで年、場所は不明である。

しかし、書簡内容から推察するに、美濃から遠方であること、鮎が珍しい土地であること、
江戸崎からの到来品を秀次に届けている事から、江戸崎以外の地である事が考えられる。

言うまでも無く、上総萬喜に他ならないのである。

この他、当地に伝わる、伝頼芸作「土岐の鷹」(夷隅町郷土資料館蔵)も興味深い。 
このように上総萬喜で月日を重ねている頃、故郷の美濃にも変動が起き、斎藤道三が没し、
甲州武田氏の東美濃への進出に伴い永禄4年(1561)には、
土岐氏ゆかりの高僧、快川和尚が武田家に厚遇され、甲斐国分寺である恵林寺に迎えられている。

このことは、当然、頼芸公にも伝わっていたのであろう。やがて、
心は快川和尚のもと甲州に向いていくのである。

また、平穏無事が続いた上総萬喜も変化が現れ、
永禄7年(1564)の第二次国府台合戦の前後から、
永年同盟関係にあった隣国安房里見氏と袂を分かち、相州小田原の北条氏と結んだ結果、
里見氏と戦いがはじまるのである。

重ねて、天正初期から、名将為頼も病いがちであったのであろう天正11年に没している。
このような環境から、頼芸公の甲州行きは天正初期であると考えられる。 

4 真里谷上総介頼高について

諸書によると頼芸公の最初の寄寓先を上総の国真里谷上総介頼高(尚)としているのが散見される。
これは、「美濃明細記」が出典と思われる。

真里谷氏は、甲州源氏武田氏の分脈で康正2年(1456)武田信長が上総に入部し、
その孫信興がさらに分家し、現在の木更津市真里谷(まりやつ)に城を構えている。

上総武田氏及び真里谷氏は、現在も子孫が多く存在し、
系図等の資料も残っておりその研究も進んでいる。
これらの研究から、「真里谷上総介頼高(尚)」なる人物は確認できず、
地元の武田氏研究家の言及もまったく見えない。

天文16年(1547)〜21年(1552)の真里谷城主は、
第7代の「信応」で上総介は名乗っておらず、その子に「上総介信高」が見えるが、
第8代に就いたのは、永禄7年末(1564)の事である。 

また、真里谷氏と上総土岐氏とは、当時、敵対関係にあった事から「美濃明細記」の記述は疑問であり、
今のところ誤伝と言わざるを得ない。 

5 甲斐甲府にて

温暖な地、上総萬喜で20年余り過ごしたであろう頼芸公は、
恐らく盲目状態の身を引きづって快川和尚のもと甲府へ旅立つのである。

しかし、和尚との安らぎの出会いもそう長くはなかった。
天正10年(1582)、先に斎藤義竜・竜興親子を滅ぼした織田信長が西国を平定し、
甲州武田攻めを行っている。

4月には、恵林寺に立てこもる快川和尚との面会を果たせず、放火によって焼死に至らしめてしまう。
この時の和尚の「心頭滅却すれば火も自ら涼し」の言葉はあまりにも有名である。 
そして運悪く甲府に居合わせた頼芸公は、信長に捕われ、
尾張の岩倉、犬山等の地に囲われの身となる。
                             (宮内卿法印宛信長書状) 

6 終焉の地「岐礼の郷」

破竹の勢いで天下布武に向かった信長は、同年6月「本能寺の変」にて没。
これを機に、頼芸公の身の上を誰よりも案じていたであろう旧臣稲葉一鉄が岐礼郷東春庵に迎え、
厚遇するが30年振りの美濃での安住もわずか4ヶ月余りで美濃国最後の守護頼芸公は、
82歳の波乱万丈の生涯を閉じる。 

大桑城を追われ、遥か彼方の片田舎にて過ごした心境はいかばかりであったのであろうか。
心境を察するに余りにも哀れさを禁じえない。

没年 天正10年(1582)12月4日。東春院殿文関宗芸大居士。
今、揖斐郡谷汲村の東春山法雲寺に近臣山本数馬、高橋宅正に守られながら静かに眠る。




     (参考)  「村山家文書」

     遠路飛脚到来、長良鮎之鮓、同送給故郷懐昔想出一入賞翫致候。

     我等事眼悪敷候故日々弱申事候、孫共無事成長之由珍重候。先度山本

     次郎左参候國之事聞悦候。此一種江戸崎到来候間、其方遣申候。

     8月5日

     土岐小次郎殿           宗芸   
                                      (※ は魚へんに逐です。)



   参考文献    
     美濃明細記      土岐・斎藤軍記      美濃盛衰録
     美濃国諸旧記      岐阜市史      江濃記
     土岐記      濃飛両国通史      国島家文書
     村山家文書      房総武田氏の興亡       房総里見氏の研究
     夷隅町の文化財
 


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