土岐氏調査・研究ノート

A 甦った土岐家三代の石灯籠   源 臣
                  2005年4月8日      源 臣 
                      
かつて徳川将軍家の広大な墓所が港区芝の増上寺にありました。
2代将軍秀忠をはじめ代々の将軍の霊屋や供養塔に通じる参道付近に、
大名から寄進された数多くの石灯籠が立ち並んでいました。

昭和20年3月の東京大空襲で増上寺の建物は一部を残しほぼ焼失しましたが、
石灯籠は残りました。

昭和35年にこの地は西武鉄道に買収され、
その後東京プリンスホテルが建設されます。諸大名が献納した石灯籠は、
所沢の上山口に移され、その数は千基に及んだと言われています。

焼け残った一部の建物と53基の石灯籠はユネスコ村の日本庭園の一部に設置され、
やがてその地は「狭山山不動寺」となります。昭和52年西武球場の建設に伴い、
放置されていたその他の石灯籠は、所沢を中心に関東周辺の寺院に寄贈されました。

港区の教育委員会では2000年から石灯籠の本格的な追跡調査を開始、
西部側に寄進先を再三尋ねますが、何故か回答が得られなかったようです。

その後各地の文化財担当者に連絡をとり、
移設場所を確認、石灯籠の形状や銘文などを記録する作業を続けました。

現在では460基の所在が明らかになっております。

また地元の東村山市の伊藤友己氏は独自で調査され、すでに510基以上の所在を確認しているようです。

 さてその調査によりますと、土岐家が寄進した石灯籠は現在、
所沢市上山口の「狭山山不動寺」に2基、
秩父郡横瀬町の「法長寺」に1基、
入間市中神の「豊泉寺」に1基、
計4基の所在が明らかになっています。

       頼行の石灯籠  

  【銘文】

  上笠には

  奉拜進

  台徳院殿 尊前

  寛永九年壬申七月二十四日
  下笠には

  土岐山城守 源義行 敬白


土岐頼行(上山藩土岐家初代藩主)が
台徳院(2代将軍秀忠・家康の3男)のために寛永9年(1632)増上寺に献納したものです。

下笠の名前の義行は、頼行の系図を確認しますと「従五位下山城守幼名内膳初義行」とあり、
義行と名乗っていたことがわかります。

 「狭山山不動寺」は真言宗豊山派のお寺で、西武ドーム球場の向かいの小高い丘の上にあります。
境内には3代将軍家光公が増上寺に建立した日光陽明門の縮小版のような山門や、
関西地方から移築した多宝塔など国指定の文化財が幾つかあります。

 頼行公の石灯籠は本堂左手奥の書院「清明閣」の玄関に向かう道の左手にあります。
移設先が清和源氏土岐明智家の「清」と「明」を名とする書院の庭とは、
全くの偶然ですがこれも何かのご縁でしょうか?1基泰然と立つその姿には風格が感じられます。

 
        頼殷の石灯籠  

  【銘文】

  奉獻上   石灯籠 二基
      
     (磨耗)
  清揚院殿 尊前

  寳永七庚寅年九月十四日

  従四位下伊予守 源姓 土岐頼殷

 
頼殷の石灯籠は本堂正面右手の2番目に設置されております。
頼行の嫡子頼殷(上山藩土岐家2代藩主)が清揚院(3代将軍家光の3男であり、
6代将軍家宣の父で、甲府宰相と言われた綱重、)に宝永7年(1710)に献納したものです。
銘文がかなり見難くなっております。


  §「狭山山不動寺」 真言宗豊山派 
住所 埼玉県所沢市上山口2214
最寄駅 西武狭山線(西武池袋線西所沢乗換え)西武球場駅徒歩2分

 
         頼稔の石灯籠(1) 

  【銘文】
  
  獻上石灯籠 一基

  増上寺
  文昭院殿 尊前

  正徳二壬辰年十月十四日

  従五位下丹後守
         源姓土岐頼稔


秩父郡横瀬町の法長寺に移設された頼稔の石灯籠は、
文昭院殿(6代将軍家継)のために正徳2年(1712)に献納したものです。


  §「法長寺」曹洞宗(秩父観音札所7番寺)
住所 秩父郡横瀬町横瀬1508
最寄駅 西武秩父線横瀬駅徒歩15分 
 
     頼稔の石灯籠(2) 

  【銘文】

  獻上石灯籠 一基

  増上寺
  有章院殿 尊前

  正徳六丙申年四月晦日

  従五位下丹後守源姓 

  土岐頼稔

 
頼稔(頼殷の嫡男)の石灯籠は、入間市中神の「豊泉寺」(ふせんじ)にあります。
土岐頼稔(沼田藩土岐家初代藩主)が有章院(7代将軍家宣)のために正徳6年(1716)に献納したものです。
銘文が最もはっきりしている石灯籠です。

  §「豊泉寺」 曹洞宗
住所 入間市中神681
最寄駅 西武池袋線仏子駅 徒歩30分  

 武蔵野音大を右手に見ながら通過します。
さらに道なりに入間台団地(戸建)を左手に見て直進、団地の最深部辺りの右手に小さな坂があり、
坂を道なりに下りすぐ右折、また右折すると寺の正面に出ます。

 研究者の努力により、現在合計4基の石灯籠の所在が判って居りますが、
実は頼殷の献納した石灯籠の銘文には「奉獻上 石灯籠 二基」と彫られており、
2基献納されていることが判ります。残る1基は何処にあるのか不明です。

全体では未確認の石灯籠が500弱あると言われています。土岐家の献納した石灯籠の数は、
今後更に増える可能性も残されております。港区教委と伊藤友己氏の今後の調査を待つのみではなく、
何らかの形で応援したいものと思っております。




トップへ
戻る
前へ
次へ