土岐氏調査・研究ノート

B 上総土岐氏末裔の墓石発見   山口純男
                    美濃源氏フォーラム講師
                            山口 純男

 1999年初秋の早朝、枕元のけたたましい電話のベルによって飛び起きた。
昨晩は、午前様の帰宅でまだ、真夜中のできごとのように思えた。
それも束の間、眠気も一瞬に吹き飛んだ。
 岐阜県大垣市からビッグニュースの知らせであり、心が弾んだ。

 上総土岐氏の歴史について平成11年の
『第5回土岐一族の集い』に講演する機会を与えられ、浅学非才を顧みず、お話をさせて頂いた。

 上総土岐氏は、上総の地において長い間栄華を極め、この地に中央文化を残したことは言うまでもない。
歴史に、もしも・・・・は無いと言われるが、
天正年間に小田原北條氏に与しなければ、我が郷土も様相が異なっていたかもしれない。

 天正18年7月北條氏の滅亡と共に上総萬喜城は落城、
時の城主・土岐頼春公は上総を離れるのであるが、その足跡は明らかでない。

 里伝によれば、僅かな家臣と共に常陸国の平潟へと漁船にて逃れ、その後、三河国に逃れたという。

 この足跡は、上総土岐氏研究の懸案となっていた。

 ただ一つ、有力な手ががりがあった。
『美濃明細記』と『美濃國諸舊記』にただ一行だけ記されている
『上総万喜道鐡の裔は、大垣戸田氏にあり』というものである。

 大垣戸田氏とは、戸田氏鉄公を初代とし11代にわたり美濃大垣藩10万石の藩主であり、
氏鉄公は、徳川家康の近習を勤め、関ヶ原の戦い後、摂津尼崎5万石から、
寛永12年8月大垣に栄転した徳川譜代の大名である。

 平成10年、大垣市の郷土史家の清水春一氏にお会いする機会を得た。

 大垣藩についてのご教示を頂いた上、著書『美濃大垣十万石太平記』を頂戴した。
この著書から得るものが多く、
小生の知りたかった上総土岐氏についても詳細な記載がある事に驚きと喜びを感じた。

 「戸田十万石を支えた人々」の中に、万喜姓の人物が三名、
同族として紹介されており、概要を引かせてもらうと次のとおりである。


○万喜道哲
 本姓は、土岐源氏。家紋は桔梗。
その先は清和源氏、美濃の守護職を歴任した土岐氏の支族である。
上総土岐氏の裔、天正18年萬喜城落城と共に浪々の身となった土岐頼春の子と思われる。
戸田氏鉄の客臣として、尼崎時代、三百俵の合力米を支給される。
官営12年大垣に移り小橋口門内に住む。
知行五百石、島原の乱に従軍、六百石となる。


○万喜左近右衛門廉直
 万喜道哲と同族。戸田氏鉄の客臣、知行三百石、城内竜の口門内に住む。
島原の乱に戦死。大垣三勇士と賞賛される。


○万喜治左衛門
 万喜左近右衛門廉直の継子。島原の乱に従軍、
戦後三百石で戸田氏鉄・氏信に仕え、万治三年に没し、荒尾の圓成寺に葬られた。

 さらに、その子孫に触れている。略系を示すと次のとおりである。


―道哲
  
―左近右衛門廉直 ― 治左衛門 ― 治左衛門為永(氏信・氏西家臣三百石) ― 

    ― 治左衛門平八郎(氏定・氏長家臣三百石) ― 忠右衛門為信(氏長・氏英家臣三百石) 



  このように万喜氏は五代にわたり、戸田藩に仕えているが、
屋敷も城内に与えられており、厚遇されていたことが窺える。

 五代の『忠右衛門為信』は、五代藩主戸田氏長・六代氏英に仕え、
寛保三年に没しているが、後継がなかったのかここで万喜氏は途絶えている。

 『忠右衛門為信』は、大垣荒尾の圓成寺に葬られたとされている。

 この『美濃大垣十万石太平記』の記述を元に、再三圓成寺を訪ね、
墓石の発見に努めたが、ご住職によれば、同寺は、先の大戦にて空襲を受け、
本堂、墓所ともに滅失したとのことであり、残念ながら確認できなかった。

 そして、冒頭の電話である。
小生の依頼にご住職・中村玄周氏が多数の無縁墓石の山の中から発見してくれたのである。
 正面に『仙性院錬體易休居士』右側面に没年『寛保三年庚亥十二月二十一日』
左側面に『万喜忠右衛門為信』とある。

 まさしく上総土岐氏末裔・万喜氏の墓石である。

 ご住職・中村玄周氏に深く感謝と敬意を表し、この発見を機にさらに、
調査を続け新しい発見に努めたく思っている。

 うずもれた歴史の事実は、我々の発見を待っているのではないだろうか?
 美濃源氏フォーラム、土岐会の皆様の歴史発見を期待しています。


    大垣藩主 初代 戸田氏鉄時代        千葉日報
    寛永13年(1636) 大垣城内図    2000年(平成12年)1月12日(水曜日)




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