土岐氏調査・研究ノート

E 駿河徳山土岐氏調査隊
1. はじめに 

 平成15年6月7−8日の2日間、静岡県榛原郡中川根町徳山の土岐氏について調査を行いました。

中川根町徳山は東海道線の金谷駅から大井川鉄道で約1時間。人口1400人余、
川根すじでは大きくまとまった集落で古い歴史を持っています。

徳山はその昔、駿河国大津庄徳山郷堀之内村といい、
南北朝の時代に鴾(土岐)氏を称する豪族が集落中心部の「森ん段」に居館を構え、
東方の無双連山(むそれやま)の山頂(標高約1100m)に徳山城を築いて勢いをふるっていました。

ただ、美濃の土岐一族との関係など、多くは解明されておりません。 

 今回は「美濃源氏フォーラム」の井澤さん、大島さん、および私の息子の4名で
「美濃源氏駿河土岐氏調査隊」と称しての現地調査です。

私にとっては、全国に8ヵ所ある「徳山」の地名の一つという興味もあっての調査です。 

2.     第1日目の調査 

 6月7日の調査は、まず「徳山神社」。「森ん段」の南に位置しています。

創建は古く、仁和4年(888年)とも伝えられ、もと須賀社と称え、
後に牛頭天王社と改められ(地元ではお天王さんという)、さらに明治3年、徳山神社と改称されました。

今回の調査で、手水鉢に桔梗の紋を発見しました。
当地の土岐氏が美濃源氏に連なる印かもしれません。
毎年10月10日の夜には静岡県指定無形民族文化財の「徳山神楽」が演じられます。 

 次は「浅間神社」。こちらは「森ん段」の北になります。

ここで毎年8月15日に行われる「徳山の盆踊」は国指定の重要無形民族文化財。
この境内で中川根町史編纂委員の長濱寛二郎氏からお話を伺いました。
 
 昼食は大井川鉄道の駿河徳山駅前の食堂で。
大井川鉄道はSLが走る鉄道としても有名で、この日もC11型のSLに出くわしました。
駿河徳山駅は昔なつかしいスタイルののどかな駅でした。 

 午後は「土岐氏屋敷跡」を探索。徳山の歴史と文化財に詳しい桜井勇氏にご案内いただきました。
氏は徳山の文化財を紹介する絵図を作っておられます。
土岐氏屋敷跡といわれているところが、いわゆる「森ん段」で、徳山の中心の小高いところです。

いかにも中世の館跡といった風情。
西側には堀の跡とも伝えられる池があり、「ときどんの池」と呼ばれています。

地名の「堀之内」もここからとった名前でしょう。
また、付近には「ときどんの足跡」と呼ばれる、ちょうど足の形のように窪んだ大石があったりします。
「森ん段」の中腹には小さな祠があって、位牌などが祀られていました。

土岐一族の位牌なのかもしれませんが、
年月を経て文字も読みとることができず、無造作に置かれていました。
諸行無常という趣です。
無双連山を望む小高い場所で、中世の土岐氏の栄華を偲びました 

 当日はさらに川根智満寺を訪問したほか、
町史編纂委員の長塚誠氏や郷土史研究家の小沢節子氏にもお話を伺って
ハードなスケジュールを終えました。

翌日はいよいよ無双連山に登って徳山城址を調査することになります。 

3.     第2日目の調査

「美濃源氏駿河土岐氏調査隊」の第2日目です。

前日、中川根町の野口旅館に一泊した井澤隊長以下4名は早朝から、
本調査のハイライト徳山城址を目指しました。

  徳山城址は徳山集落の東方、南アルプスの深南部、
無双連山(むそれやま)の尾根筋に築かれた中世の山城です。

後世の城郭のような豪華さはありませんが、山頂付近の殿屋敷(本丸)を中心に、
南に陣屋平、鍛冶屋敷、蔵屋敷と呼ばれる出丸があり、正面(北)には大手門跡、
さらにその北は犬戻りと呼ばれる痩せ尾根となっており、近づきがたく作られています。

また、城が単独で存在するのでなく、
尾根に沿っていくつもの砦や塁、段を配し、広域に及ぶ防衛線を構成していたようです。 

 徳山城址に登るには、まず、登山道入口まで車で林道を走ることになります。
ところがこの林道がなかなか難物で、道がわかりにくい上、各所に路肩の崩れや土砂の堆積があり、
慣れない人はちょっと引いてしまいそう。

ところが、我らが井澤隊長はこれをものともせず、すごい運転で四駆を走らせ、
見事に登山道入口に着けてしまいました。
登山道そのものは標識も整備された比較的歩きやすい縦走路でしたので、
実は林道の走破のほうがスリリングな体験でした。 

 登山道入口で記念写真の後、登山開始。
日頃運動不足の隊員たちにはきつい登りが続きます。

が、それも30分程度で、城址手前の清水砦跡に到着。
そこからは比較的平坦な縦走路が続きます。
次に迎えてくれるのが、徳山城正面の犬戻り。
犬も怖じけて戻るという命名でしょう。

実際、大井川と安倍川の分水嶺をなす両側絶壁の痩せ尾根(最狭部約60cm)なのですが、
現在は両側に木が生い茂っているので怖さは感じません。 

 犬戻りを抜けると大手口。
その先が殿屋敷と呼ばれる本丸です。
とはいっても、現在は杉の木が生えているばかりで、
往時を偲ぶものは人の手が加えられたことがわかる土塁や堀などの地形のみ。

それも、知識がなければ気づかない程度のもので、
当日もすれ違った何人かの登山者には無縁のものだったに違いありません。 

 我々調査隊は、さらに本丸南側の陣屋平へ向かいます。
ここは比較的広く水の手も近いことから、居館やその他の建物があったと思われます。

現在は中部電力の電波反射板があり、見晴らしの良いところです。
その先は鍛冶屋敷と呼ばれ、鍛冶の設備があり武具の修理などをしたと推測されています。

南端は蔵屋敷と言い、見張りの矢倉があったところでしょうか。
その南はナゲと称する目もくらむ絶壁で、現在も雨のたびに崩壊しているようでした。
このあたりは、昔、土岐山城守が寄せ手の軍勢に向かって遠矢をかけたところと伝えられています。

ここで往時を偲びつつ、弁当にし、帰路につきました。 

 徳山城は南北朝時代の14世紀半ばに、鴾(土岐)彦太郎が城主であったことが記録に残っています。
即ち、文和2年(1353年)2月、鴾彦太郎が足利直義派に属したため、
足利尊氏は今川範氏に徳山凶徒鴾彦太郎の討伐を命じ、
2月25日に徳山城は陥落したと「伊達景宗軍忠状」(京都大学蔵)に伝えています。

4. おわりに 

 駿河土岐氏と、徳山の地名という2つの興味から行った「美濃源氏駿河土岐氏調査隊」。
徳山神社や土岐氏居館跡など多くの史跡と郷土史家の方々のお話、
そしてハイライトは無双連山の徳山城址調査と、なかなか盛りだくさんの内容でした。 

 今回の調査で、徳山神社の手水鉢に桔梗の紋を発見しましたし、
土岐氏の菩提寺である大泉院(森ん段の北、浅間神社の近くにある)の屋根には、
同じく桔梗紋が光っていました。

また、大泉院でお見せいただいた土岐氏の位牌にも桔梗紋がついておりました。
美濃の土岐氏とのつながりを示す手がかりかもしれません。 

 また、地名の由来ですが、古文書には、「駿河国 徳山鴾郷」とか、
「徳山」「徳」「徳郷」「徳之内」などの表現が出てきます。

当地の地名「徳山」は、どうやら「土岐の山」からきたとするのが有力のようです。

なお、当地の徳山とは関係ありませんが、岐阜県徳山村に発祥する徳山氏は、土岐頼忠の子、
頼長につながる土岐氏族で、私の家もこの流れです。土岐氏族の徳山氏があったり、
土岐の名から地名の徳山が生まれたり、なにやら妙な因縁ではあります。 

当地の近くには、紅葉と露天風呂で有名な
(そしてご年輩の方には「金喜老事件」で有名なというほうが通りが良いかもしれませんが)
寸又峡温泉もあります。

ご興味のある方は一度お出かけになってみてはいかがでしょうか。 
 この調査でお世話になった皆様に厚く御礼申し上げます。 




 この調査の顛末については、
「徳山ネットワーク」( http://www.tokuyama.net/ )の中で、
写真18枚を使ってご紹介していますので、
ご興味がおありの方はそちらにもおいでくださると幸いです。

   (「徳山姓の研究」−「徳山姓取材ノート」でどうぞ)



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