土岐氏調査・研究ノート

F 連載  「本能寺の変」の真実  1  明智光憲
(1)光秀はまぎれもない土岐明智氏
                  
 昨年6月の織田家ご子孫との和睦以来、
本能寺の変についての私の仮説の裏付け研究を本格的に行ってきました。
その結果、従来の歴史研究では見逃されてきた様々な事実の発見と
それに基づく推理の展開が自分の期待以上にありました。

この成果を本にまとめて広く世に問いたいと執筆を行ってきましたが、
何分サラリーマン生活の傍らでの活動のため出版に至るまでにはまだまだ時間がかかりそうな状況です。 

 そこで、土岐氏調査研究ノートのコーナーをお借りして、
少しづつ私の研究成果をお話して皆様からのご批判や関連する情報をいただきたいと思い立ちました。

 今回は私の推理の根幹を成すとも言える「光秀はまぎれもない土岐明智氏である」というお話です。

 これについては谷口研語先生が「美濃・土岐一族」(新人物往来社)や
「俊英明智光秀」(学習研究社)に書かれた研究成果が極めて明解に立証しています。

沼田藩に伝わる土岐文書及び続群書類従本明智系図がその裏付けとなっています。

 それによれば光秀の父は光隆、祖父は頼典で、頼典は父親の頼尚から義絶され、
家督は弟の頼明へ譲られています。

この頼明の孫の定政は明智姓を避けて母方の姓を名乗っていたが
家康の命により土岐姓に復姓して沼田藩主家につながったとのことです。

したがって現在土岐氏を名乗られている方の中には
本来明智姓を名乗るべき方がかなりおられるということになります。

 谷口先生の書だけでなく、当時の人が書いた日記にも光秀が土岐氏であったことを書いたものがあります。
立入宗継は日記に「光秀は美濃国住人ときの随分衆」と書いています。
つまり土岐氏のかなり身分の高い人ということです。

 ところが谷口先生はここで大きな問題を提起しています。
それは明智系図の明智氏の系統が明智と名の付く土地を領有した事実がない、ということです。
これは通説となっている「光秀は明智城の城主の子供であり、
明智城が落城した際に逃れて諸国を放浪した」という話と合わないからです。

したがって、明智系図は後世になって光秀の系統を継ぎ足したものではないかと谷口先生は推理しています。


 ここからは私のオリジナルの推理です。


 実は「光秀は明智城の城主の子供であり、
明智城が落城した際に逃れて諸国を放浪した」という話は
江戸中期に書かれた「明智軍記」という、はなはだいかがわしい書物が初めて書いた話です。

本能寺の変から120年もたって書かれた書物に新たな事実が書かれることがありえるでしょうか?

ましてや「明智軍記」を読んでいただければたちどころにわかりますが、
これは歴史的な事実を書こうとした歴史書ではなく良く言えば庶民受けする物語、悪く言えば与太話です。

最近話題の「信長の棺」で題材とされている太田牛一の書いた
「信長公記」のような歴史記録とは全くレベルの違うものです。

 つまり光秀が明智城に居たという話の信憑性は全く無く、
明智系図に書かれている通り
「光秀は明智荘を領有したことのない土岐明智氏の系統」
であることが真実と見るべきなのです。

 明智系図には光秀の生地は美濃多羅城であり、
谷口先生によればこの土地は土岐明智氏にはなんのゆかりもない土地であり、
親に義絶された頼典と光隆が美濃を流浪していたことを裏付けているのではないかとのことです。

 光秀は本能寺の変の前年(天正九年)に明智家中軍規を定めています。
この史料は丹波福知山の光秀を祀る御霊神社に伝わっていますが、
その書の最後に
「自分は石ころのように沈倫しているものから召し出された上に莫大な兵を預けられた。
武勇無功の族は国家の費えである。だから家中の軍法を定めた。」
と書かれています。

 この文章の意味するところは信長への感謝であり、忠誠心ですので、
本能寺の変の1年前には光秀に謀反の心がなかったことを示す重要な証拠といえます。

そして大事なことは自分が「沈倫しているもの」という表現です。
辞書をひくと「沈倫」とは「おちぶれはてること」です。

これは正に「父に義絶されて放浪した頼典の孫」という境遇に合致していると思いますが、いかがでしょうか。

 光秀が土岐明智氏であることが本能寺の変の重要な要素であったという
私の推理については今後のこの連載で少しづつご説明させていただきたいと思います。

                                                      2005/11/17


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