土岐氏調査・研究ノート

G 連載  「本能寺の変」の真実  2  明智光憲
  (2)光秀はもともと足利義昭に仕える幕臣

 連載の第1回目について早速、
「歴史研究では過去に大家と称する人達や小説家の間違った説が真実として又、
定説とされてきた事実が往々にしてあります。」というご意見をいただきましたが、
私が本格的に本能寺の変を研究して痛感したのが正にこのことであり、我意を得たりの思いです。

 彼らが間違った説を流している原因は
「信長公記」のような歴史記録と
後世に書かれた物語に過ぎない俗書の記述とを信憑性において同列に扱う
という誤りを犯してきたところにあります。
これまでの歴史研究が史料の信憑性の評価を明確にしないまま行われてきていることには、
企業人として「仕事においてはまず事実確認」ということを習性としてきた私には信じがたいことです。

 光秀研究において、この最大の誤りが「光秀は明智城落城後に諸国放浪し、越前朝倉家に仕えていた」
「信長の縁者である光秀が足利義昭の側近の細川藤孝と協力して信長と義昭を結びつけて上洛させた」
という通説にとらわれてきたことにある、というのが私の研究成果として、まず主張したい点です。

 この説は本能寺の変後120年もたって書かれた「明智軍記」が書いたもので、
さらにその40年後に書かれた「細川家記」(綿考輯録)が
「明智軍記」を引用しつつ話をふくらませたものに過ぎません。

 これが現代においても通説となっているのは、
正に日本の歴史学界の大家である高柳光壽氏が50年ほど前に書いた名著「明智光秀」の中で
「細川家記の書いていることは本当らしい」としてしまったことが大きく影響しているとみています。

 高柳氏は本能寺の変の原因として通説となっていた怨恨説を「後世の俗書の創作である」
と明確に否定した大きな功績のある方ですが、
ご自身が信憑性を否定した俗書の記述のある部分については
「本当らしい」という首尾一貫しない態度をとっています。

この姿勢がその後の歴史研究に引き継がれてしまい、
未だに日本の戦国史研究が「夜明け前」の状態をさ迷っている
と言っても過言でない状態を生んでいると思います。

 これに対して信憑性ある史料に依拠して研究・推理を展開されている方が
「美濃・土岐一族」を書かれた谷口研語氏であり、「本能寺の変の群像」を書かれた藤田達生氏であり、
軍事上の通説を覆す「信長の戦争」を書かれた藤本正行氏だと思います。

私もこれらの方々の姿勢を見習って研究してきました。 

 前置きが長くなってしまいましたが、
光秀の出自に関する私の研究結果は「室町幕府の幕臣であった土岐明智氏」であり、
「光秀自身、はじめから幕臣として細川藤孝を通じて足利義昭に仕えていた」というものです。

 これを裏付けるものとして、「足利幕府奉行衆番帳」に古くから明智氏の名前が書かれていること、
「永禄六年諸役人付」に御供衆として藤孝、足軽として明智が書かれていること、
当時日本で宣教していたイエズス会のフロイスの書いた日本史に
「光秀は公方様の邸の兵部太輔(藤孝のこと)に奉仕していた」と書かれていること、
大和にある多聞院の院主英俊の書いた日記である「多聞院日記」に
「光秀は細川兵部太夫の中間(ちゅうげん)だった」と書かれていることが直接的な証拠としてあげられます。

 状況証拠的なものとしては、「信長公記」に初めて光秀の名前が出てくるのが、
義昭が上洛後に京都本國寺で三好三人衆に攻められたときの防衛戦であること、
義昭上洛後の幕府の行政に光秀が関与したり、
義昭の申次の役をしていたこと(これに関する古文書が多く残っている)、
幕府軍としばしば行動をともにしていたこと(信長公記)、
義昭の側近宛の「退職願い」ともいえる光秀の書状が残っていること、
光秀と藤孝とは親交が深かったこと(子供同士の結婚、
藤孝が光秀の組下大名となる)など様々なものがあります。

 私は「光秀が土岐明智氏で元々幕臣であった」ということが、
本能寺の変につながる重要な要因であったと見ています。
この原点ともいえる事実を見誤った本能寺の変の原因推理は的をはずしていると思います。

 ここまでは私が確信としていることですが、さらに一歩踏み込んで推理しているのが、
『明智軍記と細川家記は、この事実を隠蔽するために、
あえて「明智城落城、越前朝倉仕官」の話を捏造したのではないか』、ということです。
このことは私の「本能寺の変」の推理にも大きく関わることですので、
今後の説明で順を追って書かせていただこうと思います。

                                                 2005/11/19
 


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