土岐氏調査・研究ノート

H 連載  「本能寺の変」の真実  3  明智光憲
(3)無視されてきた光秀と長宗我部氏との深いつながり 

 本能寺の変の原因を先入観なく推理しようとしたら、
ほとんどの人が「長宗我部氏の征伐を阻止するため」という結論に至るのではないでしょうか。

 本能寺の変の発生した天正十年(1582年)六月二日の翌日に
織田信孝率いる長宗我部征伐軍が大阪から出港する予定になっていました。
変の発生により征伐軍は自壊し、これにより長宗我部氏は滅亡から救われたのです。
この因果関係を虚心坦懐に見れば、
本能寺の変の原因は長宗我部征伐阻止にあったと考えるのが当然のように思います。

 では何故、本能寺の変の原因として長い間「怨恨説」が通説となってきたのでしょうか。
そして「長宗我部征伐阻止説」は現代においても正当な地位が得られていないのでしょうか。
 その原因は2つあるとみています。

 ひとつは江戸時代に書かれた俗書(甫庵信長記、川角太閤記、明智軍記など)が、
そのようには書いていないことです。

そしてさらに本能寺の変の首謀者として活躍した光秀家臣齋藤利三の記述も
極めて目立たない書き方になっていることです。
私は長宗我部氏や利三に脚光が当らないように作為が働いていると思っているのですが、
そのことについてはおいおい説明させていただきます。

とにかく人々に広く読まれた物語の中では
長宗我部も利三も無視された存在であり、ずっと忘れ去られてきたのです。

 ふたつめの原因は現代の研究が
「齋藤利三を追っていくと長宗我部氏にたどりつく」という史実をつかんでいるのに、そこで追跡をやめてしまい、
光秀と長宗我部氏とのつながりがそれ程深いものではなかったと見てしまっていることです。

 利三が光秀と並んで本能寺の変の首謀者とみられていたことは様々な記録が明確に物語っています。

公家の勧修寺晴豊は利三が捕まって京都市中引き回しになるのを見て日記に
「彼は信長打ちを談合した衆だ」と書き、
同じく公家の山科言経は「日向守の内、彼は謀反の随一」と書いています。

長宗我部元親の家臣の書いた「元親記」には本能寺の変の前に
「四国の儀を心配し利三は謀叛を差し急いだ」と書かれています。

 つまり本能寺の変直後からしばらくは、
利三が長宗我部を救うために謀叛を首謀したと考えらていたものとみられます。

これを裏付ける話として、
光秀滅亡後に利三の妻子(娘の福は後の春日局)が長宗我部氏を頼って
土佐に逃れていたという話も伝わっています。

 現代になって、これらの史実が「再発見」されたのはよいのですが、
ここでも通説が真実の追求を邪魔してしまっています。

その通説は「利三の妹が長宗我部元親の正室であり、利三が元親と光秀を結びつけた」というものです。
1575年に元親は光秀の取次ぎで信長と同盟を形成していますが、
このときに利三が光秀と元親をつないだという説です。

 この説に従うと光秀と元親の関係は本能寺の変の7年前から始まったということになり、
そのせいか両者の関係はそれほど深いものではなかっただろうと見られてきたようです。

 ところが利三が光秀に仕えている記録は1579年以降しかなく、
1575年に光秀の家臣であったかどうかははなはだ疑問があります。
また元親の正室は利三の妹ではなく、石谷頼辰(いしがいよりとき)の妹だということも判明しています。

 この石谷頼辰は土岐石谷氏であり、もともと幕臣でしたが、
足利義昭が信長に京都を追われた後の1574年には光秀の家臣となったとみられています。
私は、これまで脚光の当っていない頼辰こそが光秀と元親を結びつけた張本人であり、
かつその時期は1575年よりもはるかに早かったと推理しました。
この推理については次回ご説明させていただきます。

                                                           2005/11/25 
 


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