土岐氏調査・研究ノート

I 連載  「本能寺の変」の真実  4  明智光憲
(4)重要な役割を果たした土岐石谷氏

 石谷頼辰(いしがい・よりとき)がどのような人物であったかは
山本大編「長宗我部元親のすべて」(新人物往来社)の中で
朝倉慶景氏が書いた「長宗我部元親の縁辺について」と題した章で詳しく書かれています。

 それによると足利義輝時代の
「永禄六年(1563年)諸役人付」に「外様詰衆石谷孫九郎頼辰」と書かれています。

頼辰の父親の石谷光政も御小袖御番衆(おんこそでごばんしゅう)として書かれており、
代々幕府奉行衆の家柄であったことがうかがえます。

 光政は父親と言っても正確には養父であり、頼辰は齋藤家から石谷家に養子として入っています。
頼辰の実父は齋藤伊豆守利賢、つまり齋藤利三の父親です。頼辰は利三の実兄ということになります。
 この永禄六年に長宗我部元親は石谷光政の娘(頼辰の妹、利三の義理の妹)と結婚しています。

元親が土佐を統一したのが天正三年(1575年)ですから
永禄六年当時はまだまだ土佐も群雄割拠の時代でした。
そのような状況の土佐の一豪族に過ぎない長宗我部氏が
土岐一族の幕府奉行衆と姻戚関係を結んだわけです。

明らかに長宗我部氏が四国制覇に向かうための布石として、
中央との太いパイプ作りの狙いがあったと考えられます。

 これを裏付ける史実もあります。

石谷頼辰は公家の山科言継(やましな・ときつぐ)と親交があり、
彼の書いた「言継卿記」にも永禄九年(1566年)からしばしば登場しています。
その年の八月に頼辰が長宗我部氏と一緒に言継邸を訪問したことが書かれています。
元親は頼辰を仲介者として京都での人脈作りを行っていたものと思われます。

 足利義昭が信長に京都を追われた後の1574年に
旧幕臣衆の多くが光秀の家臣として召抱えられていますが、頼辰もこのときに光秀の家臣となったようです。

このことを示すのが「元親記」に書かれている
「重ねて明智家からも、齋藤内蔵介(利三)の兄の石谷兵部少輔(頼辰)を使者として、
信長の意向を伝えてきたが、これも突っぱねてしまった。
そこで信長は、火急に四国征伐の手配をした」という記述です。

 この記述は信長が元親に一旦与えた四国切り取り自由の約定を反故にして、
「伊予・讃岐は辞退せよ」と命令したのに対して元親が拒否した際の話です。

光秀は長宗我部氏の信長からの離反を食い止めるために、最後の切り札として頼辰を派遣しており、
光秀が頼辰を対長宗我部外交のキーマンとして活用していたことがわかります。

 頼辰が長宗我部氏といかに縁が深かったかを示すのが光秀滅亡後の史実です。
頼辰は子供達とともに元親を頼って土佐に逃れています。
そして元親の嫡男信親と頼辰の娘が結婚しています。

長宗我部氏は二代続けて土岐石谷氏から正室を迎えたわけです。
ところが天正十四年(1586年)に豊後戸次川(へつぎがわ)の合戦で土佐勢が島津軍と戦った際に、
信親と頼辰は戦死してしまいます。

このため長宗我部氏の家督は信親の弟の盛親が継ぐことになりますが、
盛親は信親の娘を正室としていますので、
元親がどれほど頼辰とのつながりを大切にしていたかがうかがわれると思います。


 ここからは私のオリジナルの推理となります。


 まず、これだけ元親が頼辰とのつながりを大切にしたということは、
もともと中央とのパイプとしての姻戚関係だけではなく、
長宗我部氏を滅亡から救ってくれた恩人に対する強い恩義の念だったのではないかということです。
これをもって本能寺の変の原因は長宗我部征伐阻止にあると言い切れるわけではありませんが、
裏付け証拠のひとつとは言えるのではないでしょうか。

 そしてさらに重要なことは土岐石谷氏と土岐明智氏は同じ土岐一族として、
また同じ幕府奉行衆として代々親しい関係にあり、
光秀と頼辰も若い頃からの親しい間柄だったろうということです。

これを裏付けるものとして谷口研語氏が「美濃・土岐一族」の中で取り上げている
足利幕府奉行衆番帳の記録があります。

この記録は幕府奉行衆の部隊編成名簿であり、
その中に明智・石谷両氏の名前がしばしば登場します。

特に長享番帳では同じ四番に石谷兵部大輔・明智兵庫助・明智左馬助政宣、
東山番帳では四番に石谷兵部大輔・明智兵庫助、外様に明智中務少輔が書かれています。

 また谷口氏は別の本(「俊英明智光秀」(学習研究社))の中で
「上野沼田藩主となった土岐家に伝わる土岐文書の中には
土岐明智氏・土岐石谷氏についてのまとまった古文書群がある」と書いています。
これも両氏の関係の深さを示しています。

 このことがどのような推理に展開されるのかは次回ご説明いたします。

                                                           2005/11/28 

   


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