土岐氏調査・研究ノート

J 連載  「本能寺の変」の真実  5  明智光憲
(5)光秀と長宗我部元親は長年の盟友 

 谷口研語氏「美濃・土岐一族」(新人物往来社)によれば
土岐文書には寛正五年(1464年)に土岐石谷兵部少輔頼久、
大永二年(1522年)に土岐石谷兵部少輔の名が書かれた古文書が残っているとのことです。

「足利幕府奉行衆番帳」の長享番帳・東山番帳(1487年から1491年)には
石谷兵部少輔・大輔が登場します。

さらに「永禄六年(1563年)諸役人付」には光政が石谷兵部大輔と書かれていますし、
「元親記」には頼辰が石谷兵部少輔と書かれています。
つまり石谷氏は代々「兵部」の官位を与えられている家柄のようです。

 一方、土岐文書には文亀二年(1502年)に明智上総介頼尚が嫡子兵部少輔頼典を義絶し、
その弟頼明に家督を譲ることを記した譲状も残されています。

連載第1回にご紹介した通り「続群書類従」の「明智系図」によれば頼典は光秀の祖父です。
ということは、光秀の家柄も代々同じ「兵部」の官位を与えられてきた家柄だったとみられます。

このことは光秀が細川藤孝の部下であったというフロイス日本史や多聞院日記の記述からも裏付けられます。
というのは藤孝は「兵部太輔」だったからです。

この関係を見ても、光秀と頼辰の家系は古くから関係があり、本人達自身も身近な存在だったと考えられます。

 それでは光秀と頼辰、そして長宗我部元親はいつ頃から親交があったのでしょうか。

 「続群書類従」の「明智系図」によれば光秀の生年は享禄元年(1528年)です。
長宗我部元親が頼辰の妹と結婚したのが永禄六年(1563年)ですので、
このとき光秀35歳、元親25歳(生年1538年)です。
頼辰の生年がわからないのですが、
娘が元親の子供と結婚していることを考えると、おそらく元親とほぼ同年齢だったのではないでしょうか。
十歳ぐらいの年齢差の光秀と頼辰は若い頃から当然面識があったはずです。

 永禄九年(1566年)に元親が上洛した際
(「言継卿記」には「長宗我部氏」としか書いていないですが
当主の元親が言継邸を訪問したと見て間違いがないでしょう)
には光秀とも親交を結んだと考えるのが自然だと思います。

まだ土佐統一も果たせていない元親がわざわざ上洛したのですから、
朝廷の公家や足利幕府の役人とできるだけ多くの「つて」を作ったはずです。
同じ土岐氏・幕臣で親交のある光秀を頼辰が元親に会わせないはずがありません。
つまり、元親と光秀を結んだのは頼辰であり、その時期は遅くとも1566年と考えられます。

 このときに光秀と元親がどのような話をし、お互いをどのように意識したのかはもちろんわかりません。
ただ、その後の二人の中央と四国でのそれぞれの活躍と勢力拡大を見ると、
相手に対する価値観を次第に高め、相互に連携を強化していったことが容易に推測されます。
その過程での重要なイベントが1575年に光秀が取次いで結ばれた元親と信長との同盟だったわけです。
このときに信長は元親の嫡男に信親と名付けています。

 この後、光秀は信長政権で対長宗我部外交担当のお墨付きを得て、
ますます長宗我部氏との結びつきを強化していったわけです。
1580年には本願寺を降伏させた信長へ光秀を取り次ぎとして
元親から鷹や砂糖が贈られたことが「信長公記」に記録されています。

 光秀は信長政権下での新参者として不安定な自己の立場を強化するため、
土岐石谷氏との姻戚関係でも結ばれている元親との連携を深めて、
自分が領有する近畿一円と元親が支配しようとしている四国を核とする
近畿・四国同盟のような構想を抱いていたと私は推理しています。

 もちろん、この推理を裏付けるものは状況証拠だけですが、
「明智城落城後に諸国を放浪して朝倉家に仕えた」
という「明智軍記」の話よりもはるかに状況証拠は整っていると思います。

 順調に実現に向かっていたこの構想は1581年に信長が四国政策を転換したことにより暗転します。
信長と元親は敵対関係を深めていき、
1582年6月3日織田信孝率いる長宗我部征伐軍の渡海へと進んでいきます。

 農民を軍隊に編成した長宗我部軍では専門の戦闘集団である織田軍の前にひとたまりもないこと、
そして信長は敵対勢力をことごとく根絶やしにすることを光秀は十二分に知っていました。
光秀は頼りとしていた同盟者を間違いなく失おうとしていたのです。それだけでなく、
元親とともに20年近くかけて培ってきた労苦の成果が全て壊されようとしていると感じたと思います。
光秀はこれをただ黙って見ているわけにはいきませんでした。

 私はこれが本能寺の変の真実だと確信しています。

ただ、これが全てではありません。
失敗すれば自分だけでなく一族郎党が亡びることになる
謀叛という大事に踏み切ることは尋常の覚悟ではできないことです。
私は光秀にはさらに差し迫った破滅の危機が迫っていたとみています。

このお話については次回からに乞うご期待。


                                                       2005/12/4 
 


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