土岐氏調査・研究ノート

K 美濃源氏土岐氏と無礼講
  美濃源氏土岐氏一族は清和源氏です。
清和天皇の皇孫経基王が皇籍をはなれ、臣籍降下したことに清和源氏は始まります。
この系統には、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を創った足利尊氏、
又甲斐の武田信玄など歴史上著名な人物がたくさん現れていますので、
源氏といえばすぐ清和源氏と言われるほどです。

 源経基より代々美濃守として関わりを持っていましたが、
四代後の国房は、厚見郡の鶉郷に土着して私領とし、
茜部荘の荘司ともなって更に所領と勢力を拡大しますが、
荘園の入組んでいた厚見郡から美濃の東部土岐郡に着目し、
進出していきました。

その後は、源光国・光信・光基は土岐郡との関係は持つものの、
検非違使として京の治安維持や、又「西面や北面の武士」として宮中警護の信任を得ています。
鎌倉幕府の源頼朝には、土岐光衡が御家人として仕え、美濃守となり神戸館を構え、
東濃あたりから美濃一円に迄庶子が配置されてゆきます。

土岐氏の分流は120家以上になりますが、
中世に分派した家系を遡ると殆どが光衡へ繋がりますので、光衡が土岐氏の祖と言えます。

 その後、光行・光定も「西面や北面の武士」として活躍しますので、
後鳥羽上皇が起こした「承久の変」でも土岐氏は宮方へ組しますが、
北条氏と婚姻関係のつながりも深く、敗れても大事には到りませんでした。

 鎌倉末期、後醍醐天皇は北条執権打倒の令旨を土岐氏に下され、
無礼講と称して遊宴し土岐十郎頼兼と多治見国長は討幕の相談をし、
その決起の日を待ったのでした。

土岐頼兼墓所(瑞浪市土岐町段) 多治見国長邸(多治見市新町) 



 正中の変(1324年)

後醍醐天皇の密使、
日野資朝や日野俊基より鎌倉幕府北条執権追討の令旨が土岐頼貞の元へ届きます。

土岐家は清和源氏であり、累代「西面や北面の武士」として朝廷警護の家柄でした。
然し、父光定も、又頼貞も執権北条氏より妻を娶っていましたので、正に運命の岐路となります。

頼貞は大いに悩み、永保寺の夢窓疎石に相談、ついては直接自分が動く事を避け、
十男頼兼と庶家の多治見国長を派遣します。勿論、これほどの企みが外へ漏れてはかないませんから、
無礼講と称して酒宴をおこない討幕の下相談がおこなわれました。九月二十三日は北野神社の祭礼日で、
この日の雑踏にまぎれて六波羅探題を襲う手はずのようでした。

 しかし、一族の舟木頼春の妻は攻める六波羅探題奉行斎藤利行の娘で、
父と夫のことを想う彼女の急報から、三条堀川の土岐館と六条錦小路の高倉館が急襲され、
土岐十郎頼兼と多治見国長は戦死を遂げました。

この時、頼貞に嫌疑がかかり鎌倉唐笠辻子の宿所が調べられたと言われます。
 土岐頼兼の遺骨は家臣の手により土岐の地へ運ばれ、頼兼に殉じたことから、
ここは自仭洞と言われています。

こうして、後醍醐天皇親政への第1次企ては失敗に終わりますが、
7年後に楠正成が赤坂城に決起、この第2次挙兵も成功はしませんが、
その3年後に足利尊氏や土岐頼貞の力により『建武の中興』が実現します。

明治38年天皇行幸のおり、土岐頼兼と多治見国長に正四位が下されました。

日野俊基墓所(鎌倉市)  俊基を祀る葛原岡神社(鎌倉市)  俊基終焉の地(葛原岡神社境内)

 


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