土岐氏調査・研究ノート
L 土岐氏美濃守護への道−源国房から土岐頼芸まで @ |
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【始祖七代】源国房〜土岐光定
(一代)源国房 (?〜1119)正四位下 信濃守 伊豆守 土佐守 伊予守
清和天皇の孫、経基王より四代後の国房は、大江山鬼退治で著名な源頼光孫です。
累代美濃守としてこの地に勢いを得る中で、鶉郷を私領地としながらも東大寺茜部荘の荘司となり、
更なる勢力拡大を進めながら、貴族社会末期における「在地武士の領主への移行」となる代表的人物ですが、
東濃地域旧土岐郡にはこの国房伝承が幾つかあります。
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茜部神社(岐阜市茜部) |
(二代)源光国 (1063〜1147)従五位下 検非違使 出羽守
父国房の美濃での活躍期には検非違使として在京しながらも、茜部荘の私領拡大を父と共に大いに進め、
これ以後の子孫繁栄のもとをつくったりしています。
大治3年(1128)4月光国は出羽守に任じられ大泉荘に下向、現地にて光政誕生。
光政は、その後乱を避け大谷に止まり田200町を領しましたが、
寛永年間に酒井入国後、家臣として仕えました=i土岐賢一氏情報提供)。
現在の山形県鶴岡市大谷の開祖と言われ、氏神の社には栄枯を偲ぶ木像があります。
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土岐氏神祠の木像
(山形県鶴岡市大谷) |
(三代)源光信 (1093〜1156)従五位下 出羽判官 検非違使 出羽守 土岐判官
父光国と同様に検非違使として在京、朝廷警護の活躍は「鳥羽院四天王の第一なり」と高名で、
僧兵の強訴を取り締まり、又罪人の追捕などにその名を留めていますし、
歴史上有名な「保元の乱」にも百騎を率いて戦功などが知られています。系図上、
土岐氏を誰が称したか諸説あり、国房や光信又光基や光衡がその該当者ではありますが、
光信あたりから土岐を号したとの説もあり、その本拠地の中央部大富に館が設けられていました。
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大富館跡
(土岐市泉町) |
(四代)源光基 ( ? 〜1163)従五位下 蔵人 検非違使 伊豆守 伊賀守
父光信を助け、同じく左衛門尉・検非違使として在京し活躍。
特に、武士が台頭するもとになった「保元の乱」や、その三年後の「平治の乱」にも高名で、
平治物語絵巻には騎馬武者姿で登場していますし、
その戦功により伊勢国の一部が与えられ伊賀守となっています。
然し、平治の乱で平清盛は源義朝を追討し、それ以後20余年は源氏雌伏の期間を迎えることになります。
滋賀県坂田郡伊吹町にある大楽寺は、光基を先祖とし、その墓は名水大清水≠ェ湧き出るすぐ前にあります。
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源光基供養塔
(滋賀県坂田郡伊吹町大清水) |
(五代)土岐光衡(1159〜1206)従五位下 郡戸判官代 美濃守 蔵人左衛門尉
父光基の弟光長の三男で、光基の養子となって家督を継ぎ、鎌倉幕府の御家人として活躍。
将軍源頼朝が富士の裾野で巻狩りを行なった時も、「吾妻鏡」に土岐三郎として出名。
光衡は、土岐郡に土着し始めて土岐を姓とし、
一日市場館(瑞浪市土岐町)を拠点にして一族は土岐郡に分派。
その後、南北朝期から室町時代にかけて岐阜県内全域に一族が配せられ、
凡そ120家の苗字の起立をたどると、殆どが光衡へ繋がります。
大分県宇佐市下乙女の長安寺には『太祖光衡公』の石門があり、
豪族宇佐土岐家の末裔にあたる土岐尊憲家では、盆と正月には必ず光衡公の掛軸が床の間に飾られます。
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一日市場館
(瑞浪市土岐町) |
(六代)土岐光行( ? 〜1249)従五位下 出羽守 検非違使 土岐判官
父光衡に劣らぬ器量人といわれ、若くして後鳥羽院西面の武士となり、土岐判官と号しました。
妻は、千葉氏である東胤頼の女で、鎌倉幕府の有力御家人筆頭との閨閥が、
その後の土岐氏の発展に大きく寄与しています。
光行は、「承久の変(1221)」に後鳥羽の京方として一軍を率いて参陣し大敗しますが、
断罪を免がれたのは千葉氏の有力さを表しています。その後浅野判官を号し、
現土岐市浅野の永松寺が菩提寺で、古木の傍らの宝筐印塔が光行の墓と伝えられています。
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伝 土岐光行墓(土岐市浅野 永松寺) |
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(七代)土岐光定( ? 〜1281)従五位下 隠岐守
光行の五男で、鎌倉幕府執権北条氏から妻を娶るほどとなりました。
当然鎌倉とのつながりが強かったものと思われますが、記録には余り表れていません。
その後、功あり伊予国浮穴郡地方(松山市・重信町・久万町)の地頭職となり、
悪党讃岐十郎を搦めとった功績で隠岐守に任ぜられました。法名は定光、
号興源寺にて松山市東方の寺跡に光定の墓といわれています。
又、近くの土岐神社・徳川城は、伊予土岐系図による四代守護康行の四代後裔頼政の史跡です。
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伝 光定供養塔
(愛媛県松山市東方町興源寺跡) |
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