土岐氏調査・研究ノート

M 土岐氏美濃守護への道−源国房から土岐頼芸まで A
  【守護12代】土岐頼貞〜土岐頼芸

@ 土岐頼貞(1271〜1339)室町幕府初代美濃守護   

光定の七男。平宗頼の女を妻とし、母が北条氏であり幼少期より鎌倉にて数多の名僧と知己を得、
特に多治見市永保寺を開いた夢窓疎石との縁は深く、
頼貞の生涯に亘っても、又美濃国の禅宗隆盛の礎ともなりました。

 後醍醐天皇による鎌倉幕府北条執権打倒の令旨に参加を決意、
しかし失敗に終わります(正中の変)が10年後、足利尊氏と共に鎌倉を滅ぼして「建武の新政」となります。
その後、南北朝期を迎え土岐家は常に足利方として奮闘し、
「土岐氏絶えなば、足利絶ゆる・御一家の次」と重んじられました。

頼貞は美濃国一円に支流を配置し、その軍団は土岐氏の家紋である桔梗にちなみ、
「桔梗一揆」として恐れられました。
「歌人・弓馬上手」とも記録に残っていますので文武両道に長けた武将でした。

仏法では、定林寺(土岐市)や龍門寺(加茂郡七宗町神淵)をも開基し、
現在供養塔は光善寺跡に累代の墓所として整備されています。

土岐氏の居城は鶴ヶ城で、中世の遺構を大変良く残した山城です。
龍門寺には土岐頼貞木像が所蔵されています。


光善寺跡の累代供養塔群
(瑞浪市土岐町市原)
鶴ヶ城
瑞浪市土岐町鶴城 

昭和17年土岐会 於 鶴ヶ城址、土岐頼兼公御命日
        撮影:昭和17年(1942)11月19日
     定林寺
     土岐市泉町定林寺

 
龍門寺
加茂郡七宗町神淵
東林寺
三重県員弁市北勢町


A 土岐頼遠( ? 〜1342)室町幕府二代美濃守護

父頼貞の七男で、親子ともども数々の合戦に無類の活躍をしています。

特に、濃州青野ヶ原合戦では、
奥州北畠顕家軍50万騎(太平記は大げさで、十分の一程か)が上洛を目指すなか、
誰もが尻込みするも頼遠勢わずか一千騎で猛攻し、頼遠一人高名なりと称されました。

頼貞が亡くなり美濃守護を継承すると、館を土岐郡の大富から岐阜の長森へ移し、
室町幕府へ出仕することになります。
多くの武将が都へ集まり足利政権に参加しますが、その力を鼓舞した振舞は「婆娑羅大名」と呼ばれ、
頼遠もその代名詞の一人として有名です。

笠懸の帰り、光巌上皇の輿と行違う際、
院の御通り≠ニの先触れに対して、犬の御通り≠ネらと
弓矢を射掛けてしまう事件が東洞院でおきました。

幕府内で大問題となり夢窓疎石のとりなしも功を奏せず、断罪となりました。
加茂郡富加町の東香寺は、頼遠開基の禅宗寺院で、
後醍醐天皇・足利尊氏・夢窓国師と並んで土岐頼遠を供養する五輪塔が寺院の裏山に安置されています。 
 
頼遠供養塔
(加茂郡富加町東香寺内)


B 土岐頼康(1318〜1387)室町幕府三代美濃守護・並びに尾張守護及び伊勢守護

父頼清は頼貞の六男で、足利尊氏が九州へ落ち、
その後京へ攻め上がる時に赴任地であった伊予荏原郷より湊川へ駆けつけ戦勝、
そして上洛中に陣中にて病死、瑞巌寺(揖斐郡揖斐川町)に菩提が弔われました。

 若くして父頼清の後を継いだ頼康は、叔父頼遠と共に東奔西走し幾多の戦いに参陣し、
頼遠断罪後は三代美濃守護を継承します。

その後、46年間美濃守護として、37年間尾張守護として、
又二度の任命を合わせて16年間伊勢守護として君臨、正に東海地方全域の三国守護となりました。
幕府の中では、「侍所所司」して全国の武士を統率する五職三管領の要職となりましたが、
これも足利義詮が後光巌上皇を奉じて京を脱出し、
頼康の拠点であった揖斐郡小島への「美濃行幸」によるところが大きいようです。

 1354年からは評定衆となり着座次第南の第二座、
1358年には南の最上座で幕閣中一、二の重職にまで上り詰めたわけです。
頼康も文武に秀でており、勅撰和歌集に数多く選ばれ人柄が知れますが、
瑞巌寺では親子二人の遺徳を偲び土岐氏毎歳忌法要が行なわれていますし、
小島頓宮法楽連歌会も始まりました。

明徳元年(1390)三代将軍足利義満は瑞巌寺へ御教書を発して、
寺領をふくめ尾張の領地・地頭職・領家職など安堵しました。
瑞巌寺には、この御教書、土岐頼清画像と土岐頼康画像など所蔵されています。 

瑞巌寺 頼清・頼康の供養塔 瑞巌寺(岐阜県揖斐川町小島)


C 土岐康行( ? 〜1406)室町幕府四代美濃守護

頼康には実子がなく、弟の土岐頼雄の長男康行と二男満貞が養子となっており、
康行が土岐一族の総領となりました。

頼康の時代が土岐一族の全盛期であり、頼康が没すると、
美濃・尾張・伊勢の三国守護は康行に引継がれますが、安定期を迎えた幕府政策の中、
強大な守護家追い落としが、東海地方を牛耳る強大な土岐氏に始めて計られます。

 それは、弟満貞が兄康行の三国守護に不満を持ったことが原因で、
三代将軍義満に取り入り、「土岐康行、幕府への逆意あり」との讒言から「土岐氏の乱」となってしまいます。
戦後、康行は伊勢守護だけを再び任ずることが出来ましたが、
この時の戦いは土岐一族諸流をも二分するほどで、
美濃守護となった頼忠や伊勢守護に返り咲いた康行にもつかずに
足利将軍直属の奉公衆に組み入れられる者がたくさん表れています。

 墓は伝承として美濃加茂市伊深の龍安寺にあり、
又康行(義行ともいう)刻文の梵鐘(写真)に往時を偲ぶことができます。
康行の子孫は、康政〜持頼が北伊勢守護として続きますが、
現在でも北勢町・大安町には関連史跡も多く、員弁町石仏の五輪等が持頼の墓と伝えられています。



D 土岐頼忠( ? 〜1397)室町幕府五代美濃守護

頼清の六男で、頼貞の孫の一人であり、
そして康行からは叔父にあたりますが、妻は京極佐々木家の女です。

土岐康行の乱では幕府の追討軍の将として戦いましたが、甥とはいえ康行は本家筋であり、
また相対する敵は以前に協力しあった一族であり、
激しい攻撃もないまま揖斐の小島で戦いは対峙しました。 

頼忠の弟である雪渓支山の将軍義満へのとりなしもあり、
康行は頼忠に降伏、美濃守護は頼忠(西池田氏)に引継がれました。

 しかし、土岐一族を二分した戦いであったため、
残った一族のみで守護権力を維持することができず、土岐一族以外の武士団を取立てねばならず、
その中から関ヶ原に基盤を持っていた富島氏が守護代として台頭、
守護の京都在任が増すほど徐々に美濃における権力を持つようになります。

 頼忠は、「弓馬上手 鷹一流相伝」と言われ文武両道に長け、
中でも「隠し落款蒼鷹之図」を遺し、又名僧覚源禅師に帰依し禅宗を被護、
禅蔵寺(揖斐郡池田町)開基し、同寺境内墓所に母や妻弟の頼益と共に安らかに眠っています。

禅蔵寺には岐頼忠木像、蒼鷹之図、開基の雲版)、
覚源禅師行録と語録、佐々木京極家紋入り古鏡など所蔵されています。 

禅蔵寺(岐阜県揖斐郡池田町)


E 土岐頼益(1351〜1414)室町幕府六代美濃守護

頼忠の次男で、はじめ尾張の萱津にいましたが家督することになり池田二郎と号し、
頼益も禅宗に帰依し鵜沼に大安寺(各務原市)を創建しました。

 頼忠・頼益親子の頃の守護代は富島氏で、
南北朝合一以後は土岐守護家に対して美濃目代家の斎藤氏も従臣することとなりますが、
ここから斎藤氏台頭に繋がってゆきます。

又、「土岐氏の乱」から続いていた美濃国内の反池田勢力を鎮圧させたことで安泰を迎えます。
菩提寺は大安寺で、斎藤利永の供養塔と一緒に並び建っています。

 幕府での信頼も厚く、応永八年には筆頭の将として評定所衆に昇格、
同十年の着座次第では北の座首座将軍義持、に対して南の座首座侍所別当土岐頼益とあり、
幕府内で破格な待遇となりました。 
 
頼益・斉藤利永供養塔 
大安寺(岐阜県各務原市)


F 土岐持益(1406〜1474)室町幕府七代美濃守護

頼益の嫡男で、やはり池田二郎を号し、後将軍義持より片諱(名前の一字を賜る)を受け、
左京太夫に任ぜられ、9歳で土岐氏の総領となりました。
このため、守護代の権力が美濃一円に強化されてゆきます。

 特に、それまでの富島氏に対して斎藤氏が台頭し、両者並び立つ時代を過ぎた後、
富島氏一族の長江氏が養子となり守護代を継承するにあたって益々その争いは激化、
斎藤宗円は遂に富島・長江の両守護代家を放逐したため、それ以後は斎藤家の全盛期となっていきます。

 そして、晩年は土岐総領継承争いの中で、
持益は嫡男持兼が早世した為その子亀寿丸を推したのですが、
執権斎藤利永の推した土岐一族とも言われる一色氏の成頼との抗争に敗れて隠棲の身となり、
18年後69歳でなくなりました。

法名は、承国寺殿常祐大助大居士で、
開基した承国寺跡(各務原市鵜沼古市場)が発掘されるほどになりましたが、
付近の観音堂には持益関連といわれる宝筐印塔と五輪等が鎮座しています。 

承国寺跡観音堂
(各務原市鵜沼古市場) 


G 土岐成頼(1442〜1497)室町幕府八代美濃守護
 
守護代斎藤利永に推されて守護になったとき成頼は15歳で、
頼康の土岐揖斐系と頼忠の土岐西池田系は反目することとなり、
実質支配は利永亡き後の守護代斎藤妙椿となってしまいます。

 斎藤氏の台頭に対し、
前守護代富島・長江両氏は「応仁の乱」がおきると成頼の属する西軍山名宗善派とならず、
東軍の細川勝元派となり、土岐と斎藤の両氏と戦いますが、
守護派の圧倒的強さの前に敗れ美濃からのがれ、20年に及ぶ「美濃の錯乱」は妙椿によって収拾されました。

妙椿の勢力は、この「応仁の乱」にあって美濃だけでなく、
尾張・伊勢・近江・越前・飛騨までにも影響をもち守護を凌ぐほどに強大化し、
幕府内では「美濃の斎藤妙椿」といわれるほどとなります。

 文明9年より、成頼と妙椿は足利義政将軍の弟である義視と子の義材を11年に渡り美濃に奉じましたが、
3年後に妙椿が亡くなると、将軍義政は妙椿の弟利藤に命じ美濃斎藤氏内争を誘発させ、
妙椿の養子である利国との確執が始まりました。

利国はこれに勝利し、以後磐石の体制を敷きますが、
その勢いは延徳4年に九代守護後継をめぐり成頼と合戦(船田の戦)するほどで、
いよいよ守護代斎藤氏の実力が美濃守護を脅かす所まで差し迫ってきます。

 成頼も禅宗に帰依し、妙椿により金宝山瑞龍寺(岐阜市寺町)・瑞林寺(美濃加茂市蜂屋)
・正法寺(岐阜市五光山)を開基していますが、
瑞龍寺には成頼と妙椿の墓が今でも仲良く並んで安置されています。 

瑞龍寺 (岐阜市寺町) 成頼と斉藤妙椿墓 (瑞龍寺内)


H 土岐政房(1457〜1519)室町幕府九代美濃守護

成頼の嫡男で、はじめ美伊法師・頼継と名のりましたが、
足利将軍義政より片諱を受け政房と改名しました。

政房は、父成頼の推す四男元頼と小守護代石丸利光らの戦いを、
守護代斎藤利国と共に打ち勝ち九代守護になります。

その後、再挙をした元頼軍でしたが、再び「城田寺の戦」で敗北し、父成頼は隠棲させられました。
船田・城田寺合戦と苦境乗り越えた後、守護代利国とその子利親は亡くなり、
その後は幼い孫の斎藤利良が継ぎますので、小守護代の長井利隆が補佐をしました。

 政房は舞の名手で、「応仁の乱」の頃京を脱出して川手城に逗留した、
先の関白太政大臣一条兼良の旅日記「藤川の記」には、
能の老松や幼い美伊法師の舞が見事であったと記されています。

このように、将軍家に能を献じるほど舞上手であり、それは戦国武将にとって必須の教養であり、
社交の道具でもありました。

土岐氏の分裂原因は、家督継承問題で、祖父持益、父成頼、
そして政房までもが同様に、嫡男頼武と二男頼芸の兄弟争いに関わり、隠棲させられました。
墓は、岐阜市茜部神社のすぐ北側にあります。

政房は永保寺(多治見市)へ境内狼藉等の禁制を発行しています。
 
頼元終焉の地
(岐阜市城田寺) 


I 土岐頼武( ? 〜 ? )室町幕府十代美濃守護

政房の嫡男で、盛頼ともいいます。
政房は、総領後継に二男頼芸を推し小守護代長井利隆と共に盛頼擁立の守護代斎藤利良と対抗、
三度美濃国内を二分する戦いになります。

従来、盛頼は頼純といわれていましたが、永保寺への禁制をはじめとする文書や、
朝倉氏研究により十代守護は頼武といわれています。

成頼の守護代であった斎藤利国(妙純)は、娘を朝倉貞景に嫁がせ生れた嫡男が孝景で、
その孝景の妹が土岐頼武の室となり、出来た嫡男が土岐二郎(頼純)となります。

 小守護代の長井家に取り入った斎藤道三の父は、西村勘九郎から長井新左衛門尉と成り上がり、
美濃紙の集散地である大矢田あたりを所領化し、美濃紙の流通機構で基礎をなしたと考えられます。

新左衛門尉亡き後、長井新九郎規秀が現れますが、これが40歳になった後の斎藤道三です。

 守護頼武に抗し、二男の頼芸を擁立し抗争となり、
頼武は妻の里である越前朝倉氏の元へ幾度となく逃れますが、この頃すでに頼芸の守護文書が発給されています。

頼武は、最後の力を振り絞り天文4年岐阜に攻め込み、
戦火は美濃一円に拡がりますが、このあたりから頼武の消息が途絶えてしまいます。

 頼武の城館や墓とか、また菩提寺はまだ見つかってはいませんが、
越前朝倉と美濃を結んだ中で美濃への入り口となるあたり、
又高富大桑城よりは北側と推定すると伊自良付近での伝承を調査する必要があるでしょう。 
 
永保寺 (岐阜県多治見市)


J 土岐頼純( ? 〜1547)室町幕府第十二代美濃守護

父頼武と母朝倉孝景の妹の間に生れましたが、母は守護代の斎藤利良と従兄弟にあたり、
利良が頼武を擁立した一番の原因と考えられます。

 朝倉に寄寓していた頼武は美濃を奪還しますが、その後土岐頼芸・斎藤道三勢力に対抗するために、
頼純が拠点として大桑城を築かせたのではないかと現在では考えられています。

それは、越前堀や四国堀の形態がまさに朝倉氏の拠点である一乗谷と似通っており、
越前朝倉の介入が表れています。

 道三は稲葉山を築城し、激しい攻防が繰り返されるに及んで頼純も朝倉へ一時逃れますが、
幕府・織田氏・朝倉氏の仲介もあり、頼純と頼芸・道三は講和を結びましたが、
道三の娘を頼純に嫁がせることがその条件でありました。

然し、翌年頼純は亡くなり南泉寺(高富町大桑)に葬られ、
墓所は奥まった山際にあり、五輪塔が祠の中に安置されています。
 
頼純供養塔
   (南泉寺墓所)


K 土岐頼芸(1501〜1582)室町幕府第十一代・第十三代美濃守護

父政房の二男で、頼武の弟。鷹の絵を画くことに優れ、「土岐鷹」として有名です。

父政房の意により小守護代長井利隆に推されての家督相続には敗れましたが、
頼武の朝倉寄寓時代には一時期守護文書を発給ししています。

頼武が美濃へ返り、その子頼純が守護を継承しますが、再び母の里越前朝倉へ追われます。
頼純も美濃へ返りますが、講和条件であった斎藤道三の娘との婚姻の後、
翌年頼純が亡くなると、頼芸が待ちに待った美濃守護となりました。

 道三にしましても同様であり、傀儡政権の守護代として権勢を誇るようになります。
これ以後、道三の横領に抵抗する土岐一族が現れてきますが、ことごとく打ち負かされ、
遂に主君頼芸までもが急襲され、大桑城から尾張の織田信秀の元へ遁れていきます。

頼芸は、美濃国諸氏と謀り道三征伐の大合戦を仕掛けますが均衡し、再び織田家を頼り和睦します。
頼芸は、守護家としての体裁を保ちますが実権は全くない状況で、
天文20年には三度目の大桑城攻めを道三からうけ、遂に美濃国主の座から離れることとなります。

 頼芸はその後、尾張も朝倉にも頼ることができず、
常陸国江戸崎城(茨城県江戸崎町)の弟治頼の元に身を寄せ、
続いて江戸崎土岐氏の分流である万木城(千葉県夷隅町)にも寄寓しています。

さらに、甲斐の武田氏に身を寄せますが、奇しくもこの時期に武田氏の東濃攻めが起きています。
この、織田信長の武田氏征伐の折に頼芸は美濃へ送られ岩倉・犬山に囲われますが、
旧臣の稲葉一鉄の請いによって許され、
無二の忠臣であった山本数馬の長瀬岐礼(揖斐郡谷汲村)の東春庵を居寓として迎えられます。

盲目の頼芸にとって、何よりの安住地でしたでしょうが、
この年の12月に82年に及ぶ波乱万丈の生涯を閉じました。

墓は、僅かの間暮らした法雲寺(揖斐郡谷汲村)にあり、
その位牌は江戸崎土岐氏の子孫が供えたものでした。 

頼芸供養塔  (岐阜県谷汲村)




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