土岐氏調査・研究ノート
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鎌倉期執権北条高時がこよなく愛した田楽の能は、
その後室町幕府歴代将軍たちが大和猿楽座の財政保護をしたことで大きく発展し、
観阿弥やその子世阿弥は能の理論や技術に磨きをかけ、高度な芸術に昇華させ、
戦国武士の愛顧に応えてゆきました。応仁の乱(1467〜)では多くの文化人が京を脱出し、
土岐氏革手城に長期にわたり逗留することとなり、連歌、能、絵画、蹴鞠などが盛んに行なわれています。
この頃、美伊法師(十代守護となる政房の幼少名)が見事な舞を披露したとのことで、
京風公家文化の守護家嫡男への影響が想像できますし、
政房はその後も将軍家に能を献じるほど舞の名手となっています。
これは守護家ばかりではなく、家臣の武将達にも影響を及ぼし、
郡上の遠藤氏や安八の稲葉氏は能を供応に用いていますし、久瀬の高橋氏は自ら舞を演じています。
然し、土岐氏の衰退とともに美濃の戦国武将の間に花咲いた文化も多くが消え去り、
芸術品も四散してしまいましたが、能面や能装束、小道具類が集落の寺社にかろうじて残っており、
長滝白山神社の若宮家には土岐氏時代の能面(国重要文化財)が所蔵されています。
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