関東土岐会の記事等

上山土岐会 土岐家の灯篭
土岐家上屋敷の灯篭、上山へ
                    土岐会名誉会長 土岐 實光 

 いくつかの偶然が重なって思いもよらないことが起きるものである。
そのいきさつを述べる前に、土岐家上屋敷の歴史を述べることとする。

土岐家は明暦3年(1657年)初めて幕府から上屋敷を拝領した。場所は赤坂門であった。
その時の城主は上山初代城主、土岐頼行である。

そして、2代城主土岐頼殷の時代に改めて、
江戸見坂(現在の港区虎ノ門)に4512坪の土地を土岐家上屋敷として拝領した。
土岐頼殷は延宝6年(1678年)家督を相続し、最初赤坂門の屋敷に入ったが、
元禄6年(1693年)江戸見坂の屋敷に移っている。

  その後、寛保2年(1742年)初代沼田城主土岐頼稔が引き続き拝領した。
更に、3回屋敷変えの後、宝暦12年(1762年)定経の時代に再び江戸見坂を拝領し、
以後明治30年まで住んでいた。

それ以後、所有者は何代も変わり、
最近では屋敷跡は日本鉱業、鹿島建設、旭化成など、大企業の寮となっていた。

上の写真は平成15年6月初めに撮影した旭化成の寮で、
この庭にこれから述べる灯篭が沢山立っていたのである。

このように350年近い年月と多数の所有者が変わったことで、
拝領時のものが残っているとは思ってもみなかったのである。

現に上屋敷跡の旭化成の邸宅や庭園には、土岐会の史蹟を訪ねる旅でも訪れたし、
私自身もたびたび足を運んだのだが、
これらの灯篭や七重の塔を寄付していただけるとは想像もしていなかった。 

 ところが、平成15年6月初め、この土地に高層マンションを建てる話が持ち上がってきたのである。
しかも、この土地の地上部は全部壊して更地にするということになったのである。

 この話はたまたま私の弟が旭化成に勤めていた関係で情報が入ってきた。
旭化成はこれらの灯篭が由緒あるものとは知る由もなく、捨てるつもりでいたのであろう。
噂によれば、由緒ある灯篭は1000万円で買う人もあるそうだ。

そこで、弟の紹介で、二人で同社の総務部長と面会し、
歴史を説明したところ、快く譲っていただけることになった。

 そこで、これらの灯篭や塔をどうするかと考えたが、
上山城主土岐頼殷がこの屋敷を拝領した時代のものなので、
上山市に寄付し長く守っていただくのが良いと判断した。

 早速、上山土岐会及び上山観光協会事務局長である三春氏にご相談した。
三春氏は直ちに上山市長及び上山土岐会のメンバーと打ち合わせたところ、
灯篭その他、できるだけ多くの物を頂戴したいということだった。

その後三春氏にもご同行いただき灯篭を詳しく調べたところ、
一番綺麗な、下の写真の灯篭に、貴重な文字が発見された。

 すなわち、この灯篭には延宝9年という文字がはっきり彫ってあったのである。

延宝9年といえば、前述のとおり、頼殷が家督を相続してから、3年後ということになる。
おそらく頼殷が江戸見坂に移る時に赤坂門から持っていったものと思われる。
いずれにせよ、この灯篭は頼殷と深い縁があるものといえよう。

 上山では灯篭7基や七重の塔のほか、大きな石橋や井戸などを持ち帰り、
土岐にゆかりの深い上山城のある月岡公園の一角に新たな名所を作ることとしている。
そのために上山ではプロジェクトチームを作り、
更に具体的な検討をして、新たな上山の名所にしたいと考えている。

 それにしても、350年の間震災や空襲の被害も受けずに今日まで残ったこと、
弟が旭化成に在職した縁で土岐家の貴重な遺跡が守られたのである。  



上山に建てられた「土岐灯籠」


上山城本丸

平成16年4月に立てられたばかりの案内標識    月岡城(上山城) 

【土岐灯籠と庭園の由来】

 寛永五年(1638)上山城主となった土岐頼行公は、
上山城本丸より蔵王連山を望むこの佳景の地に、紫衣事件に連座して
当地に謫居中の、京都大徳寺第153世住持であった沢庵禅師設計による、
奇岩怪石を配し、仏門の須弥山を模した室町時代風の庭園を築造し、
土岐氏二代60余年間、朝夕この築山に蔵王を眺め、花鳥風月を愛でながら過ごした。

 元禄五年(1692)、二代藩主で大阪城代の頼殷公が、現在の福井県今立町野岡に転封直後、
藩命によって上山城は廃却になり、
現在その庭園はこの一部だけが僅かに残り、土岐氏在城の往時を偲ばせている。

 元禄六年に頼殷公は、現在の東京都港区虎ノ門の江戸見坂に、
上屋敷(約1.5ヘクタール)を拝領され、その後、三度の屋敷替えもあったが、
明治三十一年(1898)まで代々の土岐氏が住居した。

 その屋敷跡の庭園が、昨年7月改造されることになり、土岐家19代当主實光氏のご厚意により、
上山土岐会にその庭園にあった石灯籠六基と七層石塔1基が寄贈された。

 この灯籠と層塔は、江戸時代中頃の風格を持つ貴重なものであり、
上山市とも協議のうえ、「土岐灯籠」と命名し、
上山市制施行並びに上山郷土史研究会発足五十周年記念事業として、
会員や有志の協賛と上山市の援助により、
嘗て土岐公が在城したこの本丸跡庭園に灯籠2基と層塔塔1基を建立したものである。
                              
平成16年4月15日
上 山 土 岐 会
上山郷土史研究会
春雨庵

【土岐灯籠の由来】
 寛永六年(1629)。上山城主土岐頼行公は、江戸幕府の厳しい宗教統制から紫衣事件に連座し、
上山に配流された京都大徳寺第153世住持であった沢庵禅師を、
この春雨庵に迎え厚遇し、三年間禅師を尊師として教導を仰ぎ、
上山藩政史上格別の治績を遺し、領民からも名君と慕われ、
二代藩主頼殷公は大阪城代にまで栄進した。

 元禄六年(1693)、頼殷公は東京都港区虎ノ門の江戸見坂にを上屋敷を拝領され、
その後、度の屋敷替えもあったが、明治三十一年(1898)まで代々の土岐氏が住居した。

 その屋敷跡の庭園が、昨年7月改造されることになり、
土岐家19代当主實光氏のご厚意により、
上山土岐会にその庭園にあった石灯籠六基と七層石塔1基が寄贈された。

 この灯籠と層塔は、江戸時代中頃の風格を持つ貴重なものであり、
上山市とも協議のうえ、「土岐灯籠」と命名し、
上山市制施行並びに上山郷土史研究会発足五十周年記念事業として、
会員や有志の協賛と上山市の援助により、土岐氏と縁の深い当春雨庵に灯籠1基を建立したものである。

平成16年4月15日
上 山 土 岐 会
上山郷土史研究会
土岐桜・沢庵桜

  土岐桜の由来

 土岐頼行公が上山藩主として入部したのは、
寛永五年(一六二八)の旧三月で、この上山
城はまさに桜花爛漫の時であったと思われる。
 翌年には、幕命により有名な京都大徳寺の
一五三世沢庵禅師が、紫衣事件に関わり当地
に配流され、三年間の配所生活を送った。
 頼行公は沢庵禅師に帰依し、父祖に孝養を
尽くす真心で処遇、上山城や城下町の整備、
温泉の利用拡大、寺社の創建、金山峠の改修
、領地の検地、水路の新設等に格別の地積を
上げ、元禄四年(一六九一)に大阪城代とな
った嗣子頼殷公と親子二代、福井県今立町に
転封になるまで六十五年の間、上山領発展の
礎を築かれ、領民からは名君として敬慕され
た。
 昨年五月、西紀二千年を記念して有志相は
かり、土岐氏の偉業を称え、土岐家十九代
土岐實光氏より桜の苗木(思川)の寄贈を受
け、これを「土岐桜」と命名して植樹し、
沢庵桜とともに後世に語り伝えようとするも
のである。

平成十三年三月二十二日
         沢庵桜・土岐桜保存会



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